子供の頃、嘘を言ってその場を取り繕った後、更なる嘘を重ねた時、
心の中に、言いようのない重苦しさと罪悪感が有ったのを覚えています。
黙って兄弟のオヤツを盗ってしまい、母に見つかった時、食べていないと
言い張り、兄弟から問い詰められると、自分の非を認めるどころか、
寄りによって、飼っていた猫が食べていたと嘘を言いました。
昔の猫にしては珍しく、日頃から、子供たちの食べる駄菓子を口にしていて
その可能性も考えられるのです。
しかし、猫にとっては、とんだ濡れ衣と言えます。
両親は、私が食べてしまった事には気が付いていたのですが、それ以上は咎めず
しばらくすれば何事も無かったように、月日が経って行きました。
しかし、その時の気まずさと後ろめたさは、いまだに心の隅に残されています。
大した事ではないのかもしれませんが、家族を騙し裏切ったと言う事に対する
十字架は、今に至るまで、決して、その様な、人を裏切るようなことはしては
いけないと言う心を育てました。
大人になるにつれて、様々な対人関係を経験し、世の中には、様々な人がいる事を
学ぶことが出来ました。
聖人君主の様な人がいれば、犯罪を平気でするような人もいました。
外見ではとても判断しかねない人間の心の闇に、多くの人が苦しんでいる事も
長い人生で知る事が出来ました。
とは言うものの、何が一番大事かと言えば、やはり、お互いの信頼関係を無くさず
常に、相手の思いを感じ続ける事と言えます。
親子関係であろうと、友達関係、会社仲間、地域の人々と、対人的なやり取りが
どれだけお互いの信頼関係で気づかれているかが重要と言えます。
この事は、私達国民と、日本の政治を司る人達との関係も同じと言えます。
当然、国を、国民を、豊かに幸せにする為に政治家は有るはずなのですが、
国民との関係は、不信感でしか有りません。
私達の未来を託し、国民の代表として、人々の幸せに繋がる政治を行う事を
使命としているはずなのですが、その行動は、余りにも保身的で、国民を
平気で欺き、嘘を更なる嘘で固める、国民の代表とは言えない見苦しさです。
情けないと言うより、そこは国政の場であり、私欲を満たす場ではないのです。
小学生でもわかるような下手な言い訳をし、問い詰められると知らぬ存ぜぬ
誰かに罪を擦り付け、トカゲに尻尾切どころか、トカゲを踏みつぶそうとする
余りにも見苦しい悪態ぶりです。
誰が見ても黒い物を突きつけれれても、公衆の面前で白と言い張る図々しさ
こんな政治家の風上に於けない様な人を、私達日本国民が選んだことに
改めて、深い後悔を感じざるを得ません。
民主主義の国で在り、それぞれ言い分を戦わせることは大切とは言えますが、
対等の理由が有るならまだしも、まるで、駄々っ子の様な言い訳三昧は、
政治家というより人間として余りにも恥ずかしいと言わざるを得ません。
例え、何人もの証人を喚問したとしても、それは、単に、言い訳を並べさせ
都合の悪い所は知らぬ存ぜぬを突き通す事は明らかです。
まるで、ディベートを見ている様で、議論をする楽しさは有るかもしれませんが、
真実を見つける為の話し合いであり、無駄な言い訳を聞く場ではないのです。
公文書偽造と言うのは、国家の重要な文書を、勝手に書き換えると言う重罪であり
その関係者は、どんな地位であっても、しっかりと裁かれなければなりません。
これまで、様々な政界疑惑が有りましたが、正しく裁かれる事は珍しく、
多くの場合は、様々な力が働き、疑惑の真相がうやむやにされて来ました。
まるで、ドラマや映画の様な世界が、今現実に起こっているのです。
たまたま、マスコミにより、国民にその不正が暴露されたのですが、
被疑者達は、様々な手を使って、自分達の行動の隠匿を図っています。
国民の手によって暴かれ裁かれると言う事になる前に、内内で
事件を終息に向かわせようとする意図が、幹部たちの言葉に感じられます。
政治家は、確かに、政のプロとも言えますが、誤魔化しのプロとも言えます。
自分達を常に正当化させる事に依って、その地位を築き上げて来たと言っても
過言ではなく、例え、公表できない卑劣の事であっても、何も咎められず、
自分達の思い通りの展開を行って来た歴史が有ります。
日本社会が、階級化され、一部の富裕層を中心に動かされている様に、
政治は、国民から選ばれた代表によって成されていると言うのは嘘であり、
政治家という特別な階級が、自分達の都合の良い様に政を行っている
と言うのが現実に思えます。
私達庶民の世界では、当然、犯罪と成って罪を問われる事であっても、
この世界は、黒を白にかえられる、治外法権の様な場と言えます。
選挙で選ばれたと言う隠れ蓑で、あたかも、国民の為に政治を行っている
と見せかけて、着実に、私欲を肥やしている方々がいるのです。
たまたま、その氷山の一角が暴露されたのですが、問い詰められても
それは、私が幼い頃、猫のせいにした様に、犯人を仕立て上げました。
やっている事があまりにも短絡的で、私欲しか考えない、見るからに
裸の王様ばかりです。
彼らには当然罪の意識は無いのでしょう。自分達が正義なのですから。
しかしながら、戦後70年を過ぎたとはいえ、日本人は、一向に
幸せには成れていません。
外見的な豊かさで誤魔化され、多くの国民が疲弊して青色吐息です。
学校も社会も家庭も、唯、生きてくだけで、つま先立ちの生活を求められ
心から休まらないのが、現在の日本の実態と言えます。
経済的に豊かで、何でも手に入る事が幸せであると思わせる教育を経て、
人々は、与えられる様々な消費物資に飛びつきます。
国民には、常に散財を求め、基本的な人権は満たされず、一部の人を
より豊かにする為の社会に生きて行かなければならない日本人が、
本当に、心から、この国に生まれて良かったと思える日が来るのでしょうか。
日本国民の夢から、経済性を取ったら、一体何が残るでしょう。
手に入れたものは、常に、誰かと比較して、一喜一憂する生活に
本当の幸せが来るはずは無いのです。
何故なら、自分自身の心が本当に欲するものを知らない人が多いからです。
社会的に素晴らしい魅力的だとするものを、自分の求める物と書き換えられ
常に、出費を強いられる生活は、国民が安心して生きる事が出来る社会に
なる訳は無いのです。
今回は、国の取り組みを記述する公文書まで書き換えた事に、どれだけ
罪の意識が有るのでしょう。いや、全く無い、と言って良いでしょう。
何度も聞かされた、保身に次ぐ保身の弁解の答弁は、はっきり言って
嘘の上塗りをしていたと言っても良いのです。
罪の意識がある人が行うのならまだしも、自分の利益の為には、どんな
卑劣な事でも犯罪でもいとわないとする我欲の塊の様な方々は、
まるで、どこ吹く風化と言う様な、飄々とした表情で、まるで他人事
の様に自分達は関係無いと言わんがばかりです。
しかし、この様な光景は、様々な場面で見て来ました。
東日本大震災の時の、政府や電力会社の責任を問われた時も、
自分達の非を認めない、様々な言い訳が、連日テレビで放映され
挙句の果ては、想定外という玉虫色の言葉で逃げました。
多かれ少なかれ、日本で発生するこの手の疑惑の弁解は、
責任逃れとしか言えない言葉を発する責任者達が珍しく有りません。
少なからず、日本人の心の中が見える様で、世界に誇る美しい日本人の心は
一体どこに行ってしまったのか、私たち日本人が選んだ経済政策が
少なくとも、人間の心を変えてしまい、人々の心が常に不安で満たさず
高度成長という言葉がしらじらしく思える程、日本国民は退歩してしまったと
言わざるを得ません。
様々な日本社会で、罪に問われる人たちがカメラの前で謝罪する場面を
見る事が多いです。
一様に頭を垂れて、国民に謝罪し、刑に服する態度を示すのですが、
それらの多くは、やはり、ほんの氷山の一角と言え、政界であろうと
日本社会であろうと、日本は、経済的に豊かになる事には、モラルも常識も
入らない事が解ります。
先進国と言うのは、単なる経済的に豊かな国で在ると言うだけであって
日本人は、人間として、決して進歩したとはいえず、かえって、
人として、レベルが落ちてしまったと言わざるを得ません。
まるで、麻薬の常習者の様に、欲望から逃れられない政治家が、
多少国民から咎められても、のど元過ぎれば、いつの間にかに
政界の裏で糸を引いている事は珍しく有りません
何か事を起こしても、しばらく、ほとぼりが冷めるまで大人しくしていれば
また欲望に任せた生活が送れるとする社会の甘さが繰り返される
政治家の犯罪や背徳行為が無くならない原因とも言えます。
今回の問題も、今や、政治家の頭の中は、どの様に落としどころを作るかで
躍起となっています。
トカゲの尻尾切とまでいかないものの、事を収拾するために、様々な実力者が
陰で動いているのは明らかです。
その為には、自分達にとって不都合な他人に対しては、陰で葬る事も考えられ
まるで映画の様な世界が現実に起こっているのです。
これ程にも荒れている政界が、数か月たったら、何事も無かったかのように
以前と変わらず政が行われ、国民の中でも、遠い過去の事の様に
感じられる様に成ったら、日本は、永久に、この様な我欲を求める人から
国民を守ることは出来ず、国民が幸せに成る事は夢の夢と言えます。