めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

断捨離されない様、本当の幸せを考える

2019-01-29 16:56:11 | 日本人

私達は、いつも、自分の考えで思い通りの生活を行っていると
思いがちですが、実際は、社会の流れに大きく翻弄されている
と言っても過言では有りません。
自分で考え、自分自身が決定して日常生活を行ていると思っていても
その判断を下す情報は、多くの場合、環境であり、日々降り注ぐ
メディアを通した限られたものである事が多いのです。

現代社会は、正にネットを中心とした情報社会である事も有って、
私達は、常に、情報によって簡単に感化され、多くの人達が
社会の流れに有無を言わさず従わされているのです。
子供達が学校に行くのも、大人に成って社会で働く事も、私達の行動は
組み込まれた社会システムの中で操られていると言っても良いのです。

しかしながら、自分達の考えや行動が、誰かによって支配されているとは
誰も思っていなくて、この自由主義社会に在って、何でも自分の考えで
決定していると信じて疑いません。
所が、現代社会に限らず、私達人類の歴史は全て、その時々の支配者に
思うが儘に作られていて、多くの一般の民衆は、その考えに従わざるを
得ないのが事実なのです。

その為、支配者によって、大衆は幸福にも不幸にもなってしまい、
これまで幾度となく、支配者たちの横暴で、人々は苦しい思いを
強いられて来ました。
最も過酷な時代は、やはり、戦争が続いている時であり、国民の多くは
お互いに憎み合い殺し合うと言う、人間として最も不幸な日々を
耐え続けなければなりません。

日本に於いて、近世には幾度となく大戦を重ねて来ましたが、犠牲と成るのは
常に何の罪もない国民であり、国の為に戦うと言うのはあくまで口実であり
実際は、一部の人達の利益の為に多くの国民が犠牲になっていると言えるのです。
多くの指導者たちは、平和であろうと戦争中であろうと、自分達の利益の為に
戦争を行っているのであって、正義の為に戦っているというのは、あくまで
国民に対するパフォーマンスに過ぎません。

膨大なる利益を得る為には、国民を挑発し、他国民を憎ませる様に仕向ける事は
現代社会に於いても、多くの国のリーダー達が行っている事です。
彼らにとって、平和で有ろうが戦争で有ろうと、どちらであっても良いのです。
平和である方が利益を得られるとすれば平和を選択し、戦った方が利益が多く
得られるとすれば、戦争を選ぶのがこれまでの歴史なのです。

多くの国民に支持を得る為に様々な口実を設けますが、言い訳の裏には必ず
膨大なる利益が存在しているのです。
大国アメリカが、世界中に派兵しているのも、戦争に興じて、それらの国々から
多大なる利益を得る為であり、世界のポリスと言って、世界平和を願っての
海外進出では有りません。

戦争をする事に良い悪いという判断は無く、利益が得られるか得られないかと
言うのが世の権力者たちの考えと言えるのです。
国内政策で有っても、国民に豊かな生活を新たなる保障する為にと、消費経済社会を
遵守すると言っても、それは方便で有って、現実は、国民から膨大なる利益を
得る為の社会機構を創り上げる為なのです。

国のリーダー達は、国民の代表と成って国民の豊かな生活を作る為に努力する
と言うのはあくまでリップサービスに過ぎず、心の中は、常に、算術が働き
この事が、政治家の贈収賄事件が一向に無くならない理由でも有るのです。
ネットやメディアを通じて流れる様々な素敵な情報は、魚を釣る為の撒き餌と
同じであり、私達はまんまと釣り上げられていると言っても良いのです。

確かに、沢山の消費が出来る事は、人々にとって快感でも有るのですが、
次から次に与えられたものを消費する事が、果たして幸せに繋がるかと言えば
振り返って冷静に考えれば、単なるカモに成っているに過ぎないのが解ります。
身に付けた地位や財産によってしか自分の価値を見いだせなく成れば、その欲望は
果てしなく、どんなに欲しい物を手に入れようと、本当の満足と幸せは得られず
環境によって自分の心が翻弄される毎日に、心が休まる事は無いのです。

この何でも亭主手に入る時代の於いて大切な事は、本当に自分にとって必要であり
大切であると思える事や物を選択できる事です。
見渡せば、部屋の中一杯に溢れる消費物資、そのどれもが、買った時から色あせ
それ以上の喜びを得るには、更に買い足さなければ満足は得られません。

今や、国民の間で、断捨離という考え方が流行しています。
自分の持っている物を思い切って捨て去る事で、本当の幸せを感じるのです。
必要だと思われる物を次々に買い求めて、使うことなく部屋を占拠している物品を
思い切って捨て去った時の快感は、多くの人達を虜にしています。

この快感を、社会に対して抱かなければ成りません。
多くの情報の中から、本当に自分にとって大切なものだけを選択する力を持つ事
それこそが、この消費社会に於いて本当に幸せに成れる道と言えるのです。
どの家庭に於いても、絶対必要と思えるものが如何に少ないかが解ります。

ネット社会は、世界中から膨大なる情報を与えてくれます。
この社会で本当に幸せに成るには、多くの情報を取り込まないと言う事も大切です。
自分の心と身体にとって本当に必要な物なのか、一時の流行で有ったり、メディアの
商業的な誘いで有るのか、しっかりと見極める事が重要なのです。

人間が一人生きて行く為に必要な物は、それ程多くは有りません。
多くしているのは、自分自身の心を見つめないで、社会の多くの人々と比較するからです。
より多くの便利な物手、高価なものを手に入れる事が幸せであるかのような社会風潮に乗って
何でも手に入れようとすれば、あっと言う間に心も身体も押しつぶされてしまうのです。

人の価値は、その人だけが持っているものであり、唯一無二の存在です。
生きる為の付加価値に自分の価値を見出そうとすれば、その膨大さに心も身体も
疲弊してしまいます。
人は、一人一人心も身体も違っているからこそ、自分を満足させるものも他人と違うのです。
本当に自分が欲しているものは何なのか、自分自身にしかない満足を得る事が大切です。

人其々が自分を大切にして、更には、自分とは違う周囲の人を理解する事が出来れば
本当の意味で争いは無くなるのです。
メディアやネットの情報は、全ての人の喜びを一括して商業的利益を得ようとする事から
どんなに欲しい物を手に入れても人々の心は満足できないのです。
様々な便利な品物は、自分の気持ちを一時的に喜ばす事は出来ても、そのものが自分の
本当に求める物では無い事を知らなければ成りません。

どんなに高価な物であっても、それは社会的な価値で有って、自分の心に置き換わる程
価値のあるものではないのです。
この心の価値観は、一人一人が違っていて、その心の価値を認め合う時初めて、本当の
喜びを知る事が出来、心から幸せと感じるのです。
今や、多くの人が、人の心を感じる事が出来ず、更には、自分自身が一体何を求め
何に向かっているのかが解らなくなっています。

与えられた魅力的な品物をもって心を満たそうとするも、新たなる物が出てくれば
それまで心酔していた物は、あっと言う間に色あせて、幸せな気持ちは消え去ってしまいます。
この様な社会生活に於いて、本当に喜んでいるのは、そんな社会を創り上げている、一部の
商業的利益を常に考えている人達に過ぎません。

そう、残念ながら、消費経済社会に於いては、全ての国民が心を満たせず幸せを感じられず
常に、新たなる魅力的な商品を買い求める事で成り立っていると言えるのです。
その結果が、どんどん家の中に溜まって行く消費物資であり、社会的に豊かと思わせる
豊かな生活なのです。

私達は、自由に生きている様で、実は、そんな物達に支配され、振り回されているのです。
そんな集めに集めた消費物資を捨て去る断捨離が流行るのは、明かに、人々の心を解放させ
幸せを見つめ直す事になっているからと言えるのです。
しかしながら、この断捨離で、一番捨て去りたいのは、世の亭主だと言う主婦たちの声もあり
私達男も、単に消費経済国家における物の1つと言えるのかも知れません。
かつて、亭主元気で留守がいい、という言葉が流行したことが有りました。
まさに、留守でいいというのは、いなくていいと言う事なのかも知れず、いつの間にかに
断捨離されない様に、世の亭主たちは心しなければならない時代なのかも知れません。

 


便利なネット社会に隠された恐怖

2019-01-22 10:38:48 | 社会

ネットの発達によって、今や世界は、あらゆる情報が
手に入るだけでなく、自分から世界に発信できる世の中
と成って来ました。
その為、自分が求めるものは、何でも、居ながらに知る事も
手にすることもでき、私たちの暮らしは、急速に変わると共に
この変化にいかに付いて行くかが重要と成りました。

確かに便利な世界と成ってきたのですが、この急速な変化に
誰もが付いて行けている訳では有りません。
特に高齢者にとって、これまで縦社会に生きてきたことも有り
全ての事を同次元で考える事は至難の業と言えるのです。
物事のみならず、社会的な事に関しても、その道筋を考え
段取りを踏んで行動する習慣は、瞬時に物事を解決していく
現代のネット社会は、多くの高齢者にとって苦痛とも言えます。

何とか生活に関わる事は、その便利さを利用して理解しようも
仕事と成ったり対人的に利用するとなると、途端に、難解な
未知の機械に変わってしまいます。
高齢者のネット利用とは、生活に必要な極めて表面的な部分であり
生活全てをネットによって運営していくと言う事は至難の業と言えます。

しかしながら、公共の手続きから日常生活までも、次第にネットにより
繋がるようになってくると、たとえ高齢者といえ、理解できなければ
生活自体が成り立っていかないのです。
ネットが生まれた時からあった世代は良いのですが、人生の途中から
全く違った社会に投げ出された旧世代は、まるで荒波の大海に漕ぎ出た
小舟の様で、日々社会の動きに翻弄されていると言えるのです。

とは言うものの、本当に、ネット社会は、我々人間にとって
幸せをもたらしたと言えるのでしょうか。
一瞬にして世界を繋ぎ、流通だけでなく社会機構を変えてしまった為
便利になった反面、人々の心が付いて行っていないのが問題です。
高齢者のみならず、社会を動かす多くの人達も、便利さには同調しても
機械がもたらす社会トラブルまで意識が向かいません。

特に、対人関係は、便利さが先行することで、人と人との関わり合いが
極めて事務的で、お互いの繋がりが利益の享受を基準としていて
人として心のやり取りが出来ない人が多くなっています。
自分の要求を得る事には夢中になっても、目の前の人の思いが感じられず
お互いに傷つけあったりハラスメントを生じたりしています。

深い信頼関係の元、豊かな感情で繋がっていると言うのではなく、いかに
多くの利益を得るかが中心と成っている人間関係は、希薄で脆弱です。
簡単に他人を傷つけたり、差別したりと、便利で豊かな生活を叶えても
常に対人的に心休まることなく、何でも手に入れられる社会になった
とは言え、孤独に苦しむ人が多くなっているのです。

人は人によって育てられ認められてこそ、生きている証と安心が得られます。
自分の生活手段や社会的豊かさをもって自分の価値とされれば、いつまでも
心は休まらず、安心で幸せな生活を得るためには、より豊かで便利な生活を
求め続けなければならないと思ってしまうのです。
しかし、社会的価値は流動的であり、社会の流れで簡単に変わってしまい
いつまでも目的を達成することは有りません。
その一方、対人的には、お互いに認め合う事も癒し合う事もなくなれば
益々、自分の心は孤独にさいなまれ、外見とは裏腹の、寂しい人生を
送る事と成るのです。

ネットの発達は、あらゆることをマニュアル化し、誰もが、決められた
社会システムに則って生活するようになっています。
人間が、コンピューターによって作られた社会システムに組み込まれ
様々な仕事をよりスピーディに行う事が出来るようになって来ましたが
多くの人がより便利な社会に成ってきたと思うものの、実際は、作られた
社会法則に組み込まれて行っている事に気が付いていません。

今や、誰もが、自分の生活のすべてをネットにより管理されていて、
個人情報も簡単に流出する状態と成っているのです。
社会を動かす管理者たちにとっては、非常に都合のいいシステムと言えますが
その一方、国民が全て奴隷化すると言う危険性もはらんでいるのです。
ネットによって管理された社会は、人々の横のつながりを断裂させ、
どんなに不都合なことがっても、その思いを共有する人同士の繋がりを
持つことが出来ない、一部の人達の欲望が、大多数の人達の自由を
奪ってしまう可能性すらあるのです。

メディアを通じて連日流される情報は、多くの人が共有する事が出来
その事が、大量消費に繋がり、より社会発展を促す事と成ります。
社会を牛耳る人達が思い描くままの、自分達にとって理想的な社会は
常に利益が一点に集中し、さらなる一極集中型の社会と成ります。
誰もが自由で平等な世界と言うのは考えられず、何でも自由に出来そうで
それら全ては、支配者や管理者達によって作られて行く事を知らなければ
いつの間にかに、私達は、全ての自由を失ってしまうかも知れません。

戦後の高度成長期は、少しでも所得を上げて、消費経済を高めていく事が
幸せへの道と多くの国民は信じていましたが、その結果は、国民がお互いに
社会的経済的地位を競い合うだけで、自分の幸せは、他人よりも経済的に
優るとした考えが、本当に自分が求める物を見失い、必要でない物の
大量消費を生んだに過ぎません。
自分自身の価値観は、他人と比較する事でしか感じられず、より経済的に
豊かな物を身に着け、社会的な地位を上げる事が人間の価値とする考えが
多くの国民に根付き、常に心休まらない、果てしない欲望を満たす事しか
喜びを感じられない人々を増やす結果と成ってしまったのです。

特に、対人的な成長を怠った事が、自分自身の行いや考え方が、他人を
傷つけたり苦しめたりする事が解らず、地位が上がる事で他人より勝るとし
時に、様々なハラスメントを生んでしまうのです。
世界的に豊かと成った経済大国に日本の最大の汚点は、日本人としての
豊かな人間性を失い、経済的な価値に幸せの基準を定めてしまった事です。
どんなに我儘な事であっても、社会的地位を成せば許されるとする考えが
たとえ国のリーダーであっても、常識を逸脱した振る舞いを行っても
許されるとする空気を生んだのです。

経済成長と共に、まるで常に新しいオモチャを与えられて満足している様な
大人に成長できない多くの日本人を育ててしまったのです。
特に、日本のリーダーと成って社会を動かして来た方々が残した物は、
国民の共通の財産である美しい大自然を破壊し、様々な化学物質や汚染物質で
国民の健康を損ねました。
自分達の利益を得る為に、大切な日本の自然を破壊し、国民の健康を損ねた罪は
戦争によって国民を地獄に陥れた時に匹敵します。

消費経済社会は、著しい進歩と共に、人々の生活を豊かに幸せにすると思われがちですが、
その陰で、大切な物を多く失っているという事実を知らなければ成りません。
見た目だけの豊かさは、人々に真実を隠し、より豊かな生活をもって人々を翻弄します。
一見ゴミが無くなって綺麗に成ったとする海や川は、その水底部や海底を覗けば、
高度成長期から捨てられて来た多くの汚染物質や危険な化学物質で溢れています。

何故、透明度が高く成って綺麗に成った海や川に、一向に水生生物が復活しないのか
その理由はひた隠しにされ、いつの日か、負の遺産として告発されるまで、深い水の底で
まるで時限爆弾の様に眠っているのです。
情報開示と言う社会風潮から、食品パックの裏を覗けば、使われている様々な化学薬品が
驚く程多く並んでいますが、その聞いた事の無い様な薬品が次々に増え、しかも、消費者が
その危険性を知る事無く、表示してあるから安全と言うがごとく、日本人の全ての人の身体に
日夜取り込まれています。

見た目美しく美味しそうに見せる為、より長く商品価値を有する為、様々な添加物が使用され
その危険性を感じているものの、殆どの消費者は、商品の裏を覗く事も無く、見た目の綺麗さ
新鮮さを見て、信じて購入している状態です。
国からすれば、様々な安全基準を通過している薬品の為、人間に影響は無いと豪語しますが
これまで、それらの安心は、時間と共にことごとく覆されているのです。

今日本で使用されている食品添加物の中には、既に欧米では禁止されている薬品も有って、
本当に国民の事を考えているのか、というより、利益をもたらしてくれる人達の事だけを
考えているのが日本のリーダーであるとも言えるのです。
今や、日本人は、ネットの発達によって、あらゆる情報を手に入れているように思えますが
実際は、その情報の多くは、一部の人達の都合によって作られている事を知らなければ
成りません。
必ずや真実は有るのですが、世の中に在る真実の多くは、より多くの利益を目論む人達によって
改ざんされている事も多いのです。

テレビの健康番組を見ていると、出演する著名な医師たちの茶番が目立ちます。
数年前まで、健康に成る為の常識と豪語していたことが、今や簡単にひるがえり
当時、多くの国民が必至に行っていた健康対策が全く間違っていたり、かえって
健康を損ねていたことが解ると、その間違った情報を力説する事を誤る事無く
新情報として堂々と居直る姿は、正に、医は算術としか言いようが有りません。

この様に、世の中の中心と成る私たち国民の健康を守ったり政を行ったりする人達が
自分達の欲望の為に国民を利用したり、更には、ネットを使って管理している事実は
どんなに国民が努力しても幸せに成れない理由であると言えます。
法治国家であり、全ての国民は法の下に平等に裁かれるはずとは言え、より豊かで
社会的に地位のある人達がルールを無視して私欲に走る現実は、日本社会が如何に
外見的に豊かに見えて、実際は心寂しい国民を生んでいると言えるのです。

ただでさえ、食糧も資源も枯渇してきているのに、本当に国民が幸せに成らない
現代の消費経済国家を推奨して行く事は、如何に無駄で、意味の無い事ともいえます。
より消費を高め、経済的に豊かに成れば国民は幸せに成るとするリーダーの考えは
明かに国民に背を向けた自分達の豊かさを堅持する為のものと言えるのです。
全ての国民が本当に幸せを感じられるには、少なくともリーダー達が、本当の
国民の心の声を知り、一部の人達の幸せではなく、大多数の国民が幸せに成る為の
全く新しい社会を創り上げる努力を行う事が肝心と言えるのです。

 

 


世界の支配者が変わる

2019-01-20 12:01:49 | 社会

今やネットの拡大は、かつての世界の勢力図を変えてしまいました。
ほんの少し前まで、世界は軍事力で支配され、軍事力の強さが
世界の富を自由に出来るものと信じられていましたが、
軍事力すら支配してしまう、新たなるネットの世界が急速に
広がっています。

軍隊のみならず、国の経済、更には国家間の関りすら全て
ネットによりコントロールされる時代と成ってきたのです。
瞬時に世界の情報を集め配信できるネットの世界は、もはや
国境の存在すら無くし、ネットを屈指すれば、世界経済だけでなく
軍事力すら支配することが出来る、これまでの人類の歴史では
考えられないような世界が始まっているのです。

ある意味、本当に国境のない世界が始まっていて、支配者は
世界中を網羅する巨大なネット網をコントロール出来る者であり
それは、国々のリーダーでも国民でもないのです。
AIを頂点とした全ての人類を支配する社会が始まっていて
これまでの世界の支配者すら脅威に思う程の勢いです。

世界の指導者たちは、国の経済や軍事力をネットの力を持って
支配しようとしましたが、いつの間にかにネットによって
自分達が支配されるようになって来たのです。
今や世界の指導者たちは、自国のネット力が世界を支配するとして
如何に世界の覇者となるべく、軍事力以上に注目しています。

中国とアメリカの摩擦も、かつての軍事力での戦いと言うより
軍事力すら支配してしまうネットの力を、いかに優位にするかで
揉めていると言えるのです。
国境を超えるネット支配は、自国のネット圏を他国に支配される
と言う、敵対国に自国の経済、軍事等、全ての機密を知られる
可能性もあり、ネットの覇者と成れるかがこれからの世界を
支配できるかどうかと言えるのです。

国境を越えて世界中の人が繋がり平和な世界と成ればいいと
かつて人々は願ったものですが、国境を越えた繋がりが
持てるような世界と言っても、世界中の人が平等と言うのでなく
世界中の人が支配される巨大ネットの世界と成るとは、誰もが
想像すらできなかったと言えます。

この巨大ネット社会を司る人間が、次の世界を牛耳るとあって
今や、世界中のリーダー達は、その存在に注目し、いかに自分の
国に取り込むかを目論んでいます。
新たなる年を迎えて、いかなる世界が待っているのかと思うと
昨年までの事を考えれば、今年はどれ程の災害に苦しめ
られるのだろうかと心配するも、自然災害よりはるかに
人類の未来を左右するAIが創り出す社会が心配と言えます。

今や中国を中心とした巨大ネット網とアメリカを中心とした
これまで世界を支配してきたネット網がしのぎを削っています。
既に民間に於いては、お互いのネット網が深く関わり合い、
国のリーダーたちの不安を他所に、お互いにいかに巨大利益を得るかで
目に見えない所で争っています。

しかしながら問題は、日本の立場と言えます。
これまでアメリカと東アジアの軍事力のせめぎ合いの盾となって
何とか存在意味を示してきましたが、両国の間に入って、いかに
国益を得るかネット社会における日本の立場は非常に複雑です
軍事的にアメリカのしもべとなる事で、様々な利益を得て来たと
言えるのですが、アメリカが中国の勢いに押されている事から
今後どのような立場を取っていけば良いか、これまで以上に難しい
選択を迫られています。

しかしながら、すでに民間に於いては、中国のネット会社と関わり
深く繋がり合っている会社も少なくなく、アメリカとの関りを
重視する日本政府の不安をあおっています。
ネットは世界中の情報を瞬時に入手できる一方、あらゆる情報を
持ち出される可能性が有り、ネット社会は、個人のみならず
国家に於いても重要機密事項が漏洩する可能性が高いのす。

この便利さの反面、自分の生活のすべてを監視されたり
情報を奪われたりする可能性があるのが、ネット社会に於ける
両刃の剣と言えるのです。
しかし、この便利さと危うさを人間がコントロール出来る間は
まだしも、更なるネットの発達が、支配者を人間から機械に
変える可能性があるのです。
映画の世界の様な、人類が機械に支配される時代が来るかも
知れません。
異常気象や天変地異によって人類が滅びるかもとする以前に
私達は、思いがけない支配者の登場によって、これまでにない
新たなる人類の歴史を刻むことになるかも知れません。

 



 


誰もが唯一無二であり、尊い存在

2019-01-18 09:53:02 | 人生

私達は、生まれて死ぬまでの時代に生きている為、
生活の基準が、その時の時代背景や自分の生活環境に
支配されています。
未来でも過去でもない、現実の日々の暮らしが基準と成って
生きている間中、自分自身の生き方の証と成っているのです。

人類の長い歴史の中で、誰もが自分の生きている時代を基準として
未来と過去に思いを巡らせるのですが、現実に生きている事で
現在を自分にとって最も良い時代と考えがちです。
その為、多くの高齢者は、自分が長く生きて来た過去を正当化し
現実に生きる現代に否定がちと成ります。
いわゆる、高齢者が口にする、昔は良かった、と言う言葉には
今の時代は昔より悪くなったという考えが有るのです。

しかしながら、そういって嘆く高齢者達の先達は、かつて同じ様に
嘆いていたのです。
確かに、人間として生物として健康に生きる為には、公害も無く
自然に恵まれた過去の方が良いのかもしれませんが、人間は
環境によって感化され、その時の社会によって生かされるため
自分自身に大きな影響を与えた自分が生きて来た時代が、最も
生き易くて考え方の基準と成りやすいのです。

その為、人間にとって、素晴らしい時代と言えば、自分の生きた
生まれてから死ぬまでの時代であると言えるのです。
この環境に左右される人間の特性は、同じ時代に生きる人達にも
様々な影響を与え、世界中に散らばった人類は、其々の環境によって
多種多様の文化を築き、様々な考え方を持つ様に成ったのです。
単に顔かたちが違うだけでなく、其々が生きた地球環境によって
独特の嗜好や習慣が発達したのです。

この人類は、誰しも環境によって支配され、唯一無二の人間として
生きていると言う事が、実は最も大切な事であり、他人は、自分とは
違っているというのを前提として生きて行く事が重要なのです。
人間の進化は、優れた知能と、自分の思いを実現して行く力が
地球上のあらゆる生き物に優っていたのですが、この能力が
お互いの生き方を否定する事に因って、様々なトラブルが生じ
人類の歴史は、争いの歴史でもありました。
自分の思いを達成する為に、他の人の考えを否定し、更には
自分の考えを押し付ける事で、諍いが無くなる事は無く、
現代にいたるまで、人類の進化と反し、醜い争いが絶える事は
無いのです。

この素晴らしい人類の英知は、その一方で争いを生む結果となり
地球上で起こる殆どのトラブルの原因は、人間の持つ欲望から
発する我儘な自己主張によると言えるのです。
現在、日本を含め世界中で起こっている様々な争いは、
例え国家間と言えど、お互いの考えを認めない事から
一向に解決しないのです。
自分たちの考えを正当化することが幸せの道とする指導者が
世界中の人々を苦しめる結果と成っているのです。

資本主義社会や消費経済社会を貫いてきた国々にとって
如何に多くの食料と資源を手に入れるかが国策と成って
他国の利益を考える事が無くなっているのが、現代社会の
国際的な問題の主因と言えるのです。
特に大国の横暴は、世界中の人々の未来を不安に陥れ
常に戦争の危険性をはらんでいます。

アメリカファーストの考え方が、まさに現代社会の
問題を浮き彫りにしていると言え、同じく中国や
ロシアと言った大国が、自国の主張を繰り返すことで
益々世界の情勢は深刻さを増しているのです。
無限と考えられていた地球の資源と食料が、地球温暖化や
乱獲大量消費と言った先を考えない人類の暴挙により
急激に失われた事で、人類すべてに危機感を事となったのです。

しかいながら、この事態を如何に回避して、未来の地球を
人類のみならず地球上に住むあらゆる生き物にとって相応しい
環境に戻そうとする人達がいる一方、残された資源や食料を
独占的に消費しようとする人達もいて、私達人類の未来は
明るいものとなると言うより、破滅への道を転がり落ちて
行くのではないかと言われています。

中でも、食糧問題は深刻さを増していて、すでに世界の多くの
発展途上国の中には、国民全体が飢餓に喘いでいる国もあり
日本の様に、大量の輸入で食を賄っている国にとっても、
異常気象や乱獲による食料不足は、次第に大きな問題として
国民生活を圧迫してくると考えられます。
毎年値上げされる食品に、国民の多くは生活を圧迫されて
いますが、これは、国内事情と言うより、国際的な問題が
家計を圧迫していると言えます。

私達の生活は、欲しいものは何でも手に入ると言えますが
実際は、世界中から生活の糧をかき集めた結果に過ぎず
一度輸入が途絶えれば、たちどころに戦時中の日本に
舞い戻っていしまう可能性があるのです。
しかし、現代社会は当時とは比べ物にならない程
日本社会は世界中の国々に依存しています。
もし、これ以上食料自給率が下がり続ければ、日本人は
これまで経験したことない苦難を体験する事と成ります。

日本人は、世界に追いつくため、消費経済国家として
自国の成長の為に、先進国を見据えて自国の利益を求め
必至に頑張って来ました。国民も、先進国の生活を求め
常に経済的豊かな生活を実践して来ました。
しかしながら、国内外ともに、経済的に発展したと言え
対人関係や国際関係にトラブルが生じやすく、自分たちの
利益のみを求めてきた結果、国民も国も孤立する結果と
成っているのです。

経済的に豊かになりさえすれば幸せに成るとした考えが
国民の中にも国際的な立場であっても揺らいでいるのです。
いまだ近隣諸国から戦後補償を迫られたり、対人的に憎まれ
心から信頼関係を築けないのも、自分の事自国の利益しか
考えることなく生きて来た結果と言えいます。
しかしながら、ネットの発達によって世界中が繋がると
一国のエゴで利益を独占したり、多くの人々を支配することは
不可能の時代となって来ているのです。

地球温暖化に伴う異常気象は、人類のみならず全ての生き物の
生存を危うくしていて、今やすべての国々が協力し合って
この難局を乗り越えなければ人類の未来は危ういのです。
私達日本国民の間で有っても、一部の人の豊かさをもって
国の豊かさを図るのではなく、全ての国民が一様に安心で
未来を夢見られる生活を目指さなければならないのです。

今や世界も日本国内も、一部の人達が富を独占するような
一極集中型の社会が支配しています。
経済的な豊かさを幸せと思っている人達は良いのですが、
そうでもない大半の人達にとっては常に不満が募ります。
人は一人では生きて行けない様に、一部の人だけの豊かさでは
社会は成り立って行かないのです。
現実の世界情勢も、このアンバランスな経済体制が様々な
諍いを起こし、世界の至る所に頻発するテロの原因の多くも
人々の不安が創り出していると言えるのです。

 

 

 

 


社会が求める求人と高齢者の思う求人

2019-01-15 08:19:26 | 日本人

時代が進むにつれて、社会が大きく変わって行くのは常なのですが、
時代の中に生きている時と、時代に遅れまいと必死に生きている時では
その対応に大きな違いが生れて来ます。
現代の日本社会は、空前の高齢者社会と成っていて、年々若者達が
減って行くだけでなく、社会における生産性のある人間が少なくなって
高齢者を始めとする非生産性の人々を支える人口が減っています。

若者達の負担は増える一方であり、生産性の無い高齢者の増加は
日本社会の発展に大きなブレーキと成っています。
その為、政府は、現役を引退した高齢者に対して、更なる雇用を増やし
一生涯労働者として経済に貢献できる様に日本社会を変えようとしています。
確かに、仕事からリタイアしても高齢者達には出費が多く、食べて行くだけでも
やっとの方々も少なく無くて、出来るならば、収入の道を得られれば、
生活だけでなく、仕事をする事で健康面のメリットも考えられます。

しかしながら、唯でさえ高齢化している身体がこなせる仕事は限られ
高齢者の再雇用によって、国の経済が上向きになるとは言えません。
しかも更なる問題は、高齢者の仕事に対する感覚が、多くの場合
バブルのころの日本社会と同じで有って、現代社会のネットを中心とした
多目的な労働とは異なっている事で、一つの仕事に固執して来た高齢者の
仕事に対する感覚と大きくづれているのです。

今の若者達の仕事に対する感覚は、多くの選択肢の中から、自分の現在の
条件や要求する支払状況によって自由に職種を選び、今の自分を生かせる
経済的に豊かに出来るものを優先します。
つまり、昔の人の様に、仕事と心中するかの様な執着心は全く無く
いかに効率よく利益を得るかしか考えていないのです。

この事は、雇用主側も同じような考えであり、労働者達に、仕事に
命を掛けてくれとは考えず、とりあえず、会社の利益を上げる様に
努力してくれればよく、出来なければ、他の人を選択するのです。
その為、個人的な能力に執着すると言うのではなく、能力の有る者を
常に選択し、必要でない者は、何の躊躇いもなく辞めさせるのです。

それ故、労働者と雇用主は、経済的な部分でしか繋がりが無く、
ネット時代を反映する様に、お互いに、利益享受が出来なければ
簡単に他を探すのが普通なのです。
しかしながら、高度成長期やバブルを経験して来た高齢者達にとって
仕事とは、他人との関わり合いであり、労働者と雇用者が協力し合って
会社を運営して行くという感覚が強く有ります。
その為、一度就職するとなったら、お互いに納得した上で、出来るだけ
長く居つく事を前提とします。

会社への忠義を求められて働いて来た世代にとって、就職も退社も
何のためらいもなく出来る現代社会に生きる事は、非常に心苦しく
仕事があるからと言って、直ぐに飛びつく事も出来ないのです。
簡単に言えば、高齢者達は、仕事にも生き甲斐を求め、働く事に
意義を求めてしまうのです。

若者達にとって、この感覚はむしろ不自然であり、どうしてそれ程にも
面倒くさく考えるのかと思う様ですが、その若者と高齢者のギャップが
如何に埋められるかが、高齢者が新たに社会の一員と成って働けるかに
掛かっているのです。
仕事が無いというより、自分の主義主張に合った仕事が無いというのが
高齢者達の言い分と成るのです。

特に、かつて会社や組織を牽引する立場にあった人達にとって、多くの人を
導いて来た考えが基本から否定されるとあって、中々新たなる職種に手を
伸ばせないのです。
ただ、女性に関して言えば、新しい時代の簡単に馴染んで行くのは
女、子供と言われます。

主婦として長い人生を送って来ると、日常的に、次から次へと家事をこなし
何からすると考えている暇は有りません。
ともかく一日のノルマを果たす事で精一杯の毎日を繰り返して来た事から
ネット時代になっても、多くの種類の仕事に対しても、何のためらいもなく
生きる為には簡単に乗り換えて行く事が出来るのです。

問題は、高齢者と言うより、高齢の男子と言えるでしょう。
日本社会を担って来たと自負する人達は、現代社会に付いて行く事さえ難しく
増して、新たに仕事を選択する事は至難の業と言えるのです。
しかしながら時代の変遷とは、常に新しい波に乗れるかに掛かているのです。
本人の理屈はともかく、高齢者であっても、現代社会の波に乗れ無ければ、
この時代は生きて行けないのです。
ただ、国の援助で残り少ない人生を生かされているだけでは、本人だけでなく
日本の経済も苦しい状態が続いてしまうのです。

今や、世界中から日本で働きたいとする海外の人達が増えています。
彼らは、日本人が求めない低賃金で重労働の仕事に対しても愚痴をこぼさず
一生懸命働きます。
最近のコンビニや飲食店は、多くの海外就労者で溢れています。
日本産業の底辺を担いつつあるのは、こういった特に発展途上国からの労働者が
主体と成っているのです。

産業構造は、底辺から変革して行くのが常なのです。
近い将来、日本の中小企業や一般職の下請けの多くは、海外就労者で占められるでしょう。
この時、あらゆる仕事から生活の糧を得られなくなった日本の高齢者達は、いったい
どうやって生きて行けば良いというのでしょう。
国からの補助は益々難しくなると思われ、日本人は高齢に成れば、悠々自適の生活を
遅れると言うのは夢物語であり、それこそ本当に、厄介者として日本社会の隅に
追いやられる運命と成るかもしれないのです。