めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

マニュアルで生きる安心と自分を信じる勇気と不安

2019-07-07 09:33:09 | 日本人

梅雨の真っただ中の日本列島は、連日報じられる各地の大雨被害と
苦悩する日本外交が、多くの日本人の心に将来に対する不安を抱かせ
もうすぐ訪れる猛暑の日々と共に来年に迫ったオリンピックすら
忘れさせる程憂鬱な毎日と成っています。

今回行われた参議員議院選に、どれだけ多くの国民が期待していると
言えるでしょうか。確かに、日本の将来を決める大切な選挙とは言え
今回に限らずこれまで多くの国政選挙が行われて来ましたが、果たして
選挙の結果日本国民の多くが納得できた選挙であったと言えるでしょうか。

若者たちの選挙だけでなく多くの高齢者でさえ、国政への不満と不信を
募らせていているものの、選挙によって自分たちの思いが政治に反映され
より豊かな生活が出来たと言う記憶がなく、選挙の重要性は解っていても
会場への足取りはいつも重くなりがちなのです。

それにしても選挙になった途端、多くの政治家は満面の笑みを称えながら
出来もしない公約を並べるのでしょうか。
それまで国民に背を向けていたのに、選挙となった途端に、まるで救世主
であるかのような言動と振舞いで、まるで親族であるかのようです。

しかしながらこの様な歯の浮くような弁舌も、当選するまでの試練
我慢と言うのか、政界に入った途端、あの演説とは程遠い国民の為と
目を輝かせ主張していたのと同じ人なのかと目を疑うような変貌振りを
数多く見てきました。国民に対する最大の仕事は選挙とばかりに、
当選すればあっという間に踵を返してわが欲望にまっしぐらと言う輩が
珍しくないのです。

彼らの特性は、満面の笑みを浮かべ応対をしても国民の思いは後回し、
自分達の利益を最優先という政治活動が見え見えです。
戦後の日本社会における彼ら政治家の活動を冷静に見て行くと
高度成長期もその後のバブル崩壊まで、更には現代の苦悩の日々まで
国民の期待に応えると言うより、常に膨大なる利益が第一の目的と
成っていて、国民の疑問には、平気で居直ったり想定外を口にする
あくどい詐欺師のような方々が如何に目に付いたか、毎回の選挙で
口にした国民を煙に巻く饒舌が腹立たしくさえ思えます。

とは言うものの、この日本社会の現実は伝統であるとも言えますが
かといって私達庶民は、彼らの横暴を野放しにする気は有りません。
誰もが多くの不満を持っているのは明らかなのですが、その怒りを
如何に国政に反映させていくかの力を失いつつあるのが問題です。

私達の生活は便利で豊かに成っていると思いがちですが、
この豊かさは、一部の富裕層の方々を豊かにするた為のもので有り
経済的に豊かに成ったように見えて、多くの国民は常に消費を
求められ、余裕のないぎりぎりの生活を強いられているのです。

他人と比較する事で幸せの価値観を感じられる様に教育された
日本人の多くは、どんなに働き多くの所得を得ても、満足を
他人の基準に委ねる事でいつも欲求不満の状態にあり、
いつまで経っても自分が本当に求めている幸せを得られません。

経済の活性化の為と言うより、日本社会を動かしている層の
思い入れにまんまと利用されていると言っても良いのです。
必要でないものを多く求め無駄に消費していく生活は、
まるでゴミ屋敷の様に多くの生活物資で溢れかえった生活を
強いられる事と成っているのです。

また、そんな国民を常にコントロールする為に、国民の意識や
行動をガラス張りにすることも忘れません。
国民総番号制度、つまりマイナンバーは便利なようで、国民が
全て番号入りの囚人服を着せられたのと何だ変わりません。
支配する側とされる側が益々顕著になり、される側は、どんなに
頑張ったとて本当の幸せは得られない様になっているのです。

今や世界経済も世界人口のほんの数パーセントの人々が牛耳り
戦争も飢餓も環境異変も彼らが起こしていると言っても良いのです。
この事は、決して現代社会の問題と言う事ではなく、これまで
人類が築き上げてきた歴史の全ての根源もここに有ります。
人間の欲望が生み出した不幸であり、この社会構造が多くの諍い
戦争を生んできた事も事実なのです。

動物はお腹がいっぱいに成ればそれ以上獲物を殺したりはしません。
常に食物連鎖のバランスを保ちながら種を長らえて来たのです。
そんな地球の摂理に有って、人類だけが自分の欲望のみで生き
地球資源全てを搾取しようとして来たのです。

この我儘で横暴な人類の歴史が今後も繰り返される事は避けられない
とは言え、今やそんな横暴が許されない新たなる時代と成っています。
異常気象のみならず私達が生きて行くための命の糧が世界的に激減し
人間のあらゆる英知を使っても、未来に全く光が見いだせないのです。

問題は、この非常事態を人類の殆どが理解していない事です。
世界的な経済大国であり近代国家と言える日本社会で有っても
殆どの人がその切迫している危険性を感じていないのです。
と言うものの、それは日本人が無知で有ると言うのではなく、
現代社会がそのような危機を感じさせない様に出来ているからです。

あらゆるメディアを通して、いかに日本社会が安全で有り
世界でも有数の近代国家であり、欲しいものは何でも手に入ると
言う考えを植え付ける情報操作を行っていると言えます。

何でも開示されているとするテレビや新聞週刊誌であっても
シッカリと情報操作が行われている現実を国民は知りません。
日本社会を支え豊かな経済力を得ている方々は、自分達の
権力経済力を維持する為に、国民に不信不安を与えないよう
政治家をも利用して国民を思うが儘に利用していると言えます。

人間社会の在り方は、太古の昔も現在も基本的には変わっていなくて
より豊かな生活が出来て我儘が出来る人達が世の中を支配できる
と言うのが歴史的事実と言えるのです。
選挙で世の中が国民の思い通り変わらないのは当たり前で有り、
社会的地位を持った人たちが不正をしたり想定外と言ってうそぶく
のは当然と言えるのです。

つまり選挙は社会を変える力は無いと言うのが正解です。
何故なら、選挙演説をするこ時、彼らの中に在る社会観は
日本人が多く持つ社会観と変わらないからです。
たまたま、国民の中から同じ考えの人達が政治を志している
と言う事ですから、誰が立候補し政治家に成ったとしても
基本的に社会は変わらないのです。

ならば、選挙など意味がなく、自分達の生活はどんなに頑張っても
思い通りならないと言うのではなく、本当の選挙は、自分の心に
在るのです。
何故世の中が変わらないかと言うより、自分自身が世の中の
システムにいつの間にか迎合しているのが問題があるのです。

日本人の考え方の多くが、自分の答えが常に他人や社会に有り
自分が本当に思っている事考えている事を自覚できないのです。
幸せの基準も自分自身と言うより社会的な価値観で決められ
経済的社会的に世の中の人々が認める幸せを自分の幸せに
置き換えてしまう事です。

多くの方が何をするにしてもその答えを自分自身に持って
いません。教育を通してメディアを通して、自分自身の
答えを自分の答えにできない日本人が実に多いのです。
しかもその答えは、メディアの情報が変わったり社会の
流行が変わればあっという間に価値を失ってしまいます。
正しいと思う事も本当に確信を持つことが出来ず、常に
自分の考えは不安に満ちているのです。

自分自身も他人を信じられず、人からも信じてもらえず
誰もが不安不信の気持ちが払しょくできないのです。
ただ便利だから、世界的に経済が豊かな国だからと言って
自分達が本当に幸せでない事を自覚出来なければなりません。

アジア諸国の中でトップクラスの生活をしているから
と言って本当に心から幸せを感じている日本人が
どれだけいるでしょう。
ただ人と比べて経済的に豊かな生活をしているから
学歴が高いからと言った比較する事でしか自分の価値を
感じられなくなっていないでしょうか。

まず大切な事は、自分自身が自分の思いを大切にする事が
出来る事が大切です。これは我儘と言うのではなく、自分の
思いと気持ちを周囲の人に知らせる為でもあるのです。
どんなに些細な事でも、自分の心から生まれた考えや行動は
唯一無二であり、他人からも信頼を得られる基本なのです。

社会的に協力し合い生活する事が大切ですが、誰もが同じ
考えや行動をする事ではなく、一人一人の考えの違いが
尊重され、お互いに理解し合った結果、全体の思いと力に
発展して行く事が重要なのです。

一人一人が自分の存在価値を認められている社会が有ってこそ
国や地域の繋がりが生まれ本当の幸せが得られるのです。
選挙に行っても自分の生活が良くなると思えず、自分一人が
何を言っても世の中は変わらないとする方々が多いのです。

私達日本人は、自分達の未来を政治家に託してはならないのです。
日常的にも、何をする時も自分の考えで行動し、しかも
出来るだけ時間を置かず、すぐに実行する習慣を付ける事です。
日々誰もが一日の内何十回となく様々な事を考え決定している
はずなのですが、多くの方が、その自分の考えや決定を先送りにし
誰かに託しているのが現実です。

そして思いを決定する条件は、社会的地位や経済力だと思い込み
自らは誰かが世の中を変えてくれると思うだけです。
しかし、社会的な望み以上に問題なのは、自分自身の生活が
全く進展しない事です。
実は自分自身の生活が選挙に於いても期待を持てない原因と
成っているともいえるのです。

日本は世界的に見て優柔不断で自分の意志を主張できない国
と言われています。常にアメリカの傘に身を委ね、日本外交は
国内外から批判の矢面に立たされる結果を生んでいるのです。
日本人の持つ幸せを誰かに託すような生き方が、現実には
自分だけでなく多くの人達の不安と不信を生むことに成って
日本人の立場を悪くしているのです。
社会や他人に幸せを託するのではなく、まず自らの思いを
はっきりと現実のものと成るように努力する事が
一番大切と言えるのです。

 

 

 

 

 

 

 



 


巨大な時代の渦に巻き込まれて行く日本人

2019-05-29 11:17:20 | 日本人

大学を卒業してから、数十年の自営業を経てから初めてサラリーマンと成り
早くも5か月と成りました。
早朝のラッシュアワーの凄さに驚き、こんな毎日を多くの日本人が送っている
と思うと頭が下がる思いでした。
しかしながら、最近では慣れてきたとはいえ、両足を上げても立っていられる
のではと思われる程の車内で、誰もが何の不満を行く事無く静かに耐えている
姿を見ると、これこそ日本経済が支えられているパワーの源の様に感じました。

とは言え、そんな彼らの心の内は、様々な問題がひしめいていて、不満や怒り
怖れや不安が常に付きまとっているのではと思われます。
高度成長期に誰もが自らの夢に向かって前向きに生きていた日本人が、いまや
何処に向かって行けば良いか、何を求めて生きて行けば良いか、心の中の不安が
尽きないのです。

その大きな原因は、自由平等の社会とは言え、国民間における経済格差が著しく
ほんの一部の人達が日本経済を支配し、殆どの国民が日々の生活に苦慮している
と言う現実が有るのです。
富裕層によってコントロールされている社会は、殆どの国民は彼らの敷いた
レールの上で生活する事を強いられ、生活所得を得られるものの、その殆どを
吸い上げられる生活を送らなければならないのです。

どんなに働いても、生活が楽にならない国民が多く、蟻の様に働き続け
富裕層が作り上げた社会に貢献する様に働く様は、正に、満員電車で
ジッと我慢しているサラリーマンの姿と言えます。
豊かさとは、如何に多くの消費が出来るかと言う事になり、他人よりも
より消費経済社会に貢献できる事とするリーダー達の思惑に在るのです。

確かに国民は高度成長期より経済的豊かな生活が出来る様に成りました。
しかし、誰もが満足しているかと言えば、殆どの国民が、豊かな生活を
送れば送る程、生活が苦しく成り、不安不信の心が膨らんでくるのです。
豊かな資本を持たない国民は、如何に国に将来を保障されるかで
本当の満足が得られるかどうかが決まります。
特に、衣食住に加え、医療保障が安心して得られる事が有って初めて
充実した幸せな人生が送れるのです。

現代日本は、あらゆる場で消費を求められ、常に散在する事を前提に
社会が作られています。つまり、お金がなければ、安心の生活は送れない
と言うのが実情なのです。
多くの所得を得て、豊かな消費生活を行ったとしても、生きて行く為の
安心安全の保障が得られず、日本人の将来に対する安心が無いのです。
働いたら働いただけ社会に消費と言う形で還元する事は良いのですが、
その一方、基本的人権が守られ、将来に渡って生活保障が成されなれば
成りません。

日本社会の問題は、一部の富裕層の為の社会で有って、国民一人一人の
豊かな生活を前提にしていない事です。と言うより、国民は、富裕層の
生活を維持するために存在していると言っても良いのです。
仕事を頑張り多くの所得を得て、欲しいものを手に入れると言うのは
一見幸せな生活と思いがちですが、消費する一方、自分の未来に対する
生活保障を自らが設定して行かなければならないのです。

揺りかごから墓場まで、と言う夢が、国が国民生活を守る事が出来ず
多くの国民に不安を抱えているのが日本社会と言えるのです。
日本人の家庭には、溢れんばかりの買い求めた商品が山積し、その多くが
今は使われず部屋を狭くしていくばかりです。

欲しいものを買い求める事が、本当に自分の幸せに繋がっているのかを
日本人は考えなおす事がとても大切と言えるのです。
メディアの情報などから、幸せになる為の消費を促され、まんまと散財を
してしまっているのが現状と言えます。
殆どの人達が、自らの行動を、自分の考えと考えがちですが、実際は
その多くが何だかのメディアからの情報によってコントロールされています。

日本人はいつの間にかに、自分自身の生活を自分自身の考えで行っている
とは言えず、流行と言う名の元であったり、日々降り注ぐ情報の雨に踊らされ
いつの間にか同じ商品を買い求める様に成っているのです。
より消費経済を推進するために、常に比較させ、より新しく高価なものを
買い求める様に洗脳されて行きます。
テレビから流れるコマーシャルは、言わば国民への洗脳番組と言え、いつの間にか
人々の生活は、リーダー達や富裕層の思うが儘になっているのです。

しかしながら、日本人の経済的な問題も有りますが、もっと大きな問題は
日本人のメンタル、つまり心の在り方が時代と共に大きく変わって来て
経済的に豊かな生活を得る為に、日本人が本来持っている豊かな感性が失われ
様々な価値観が経済力を中心に回っている事が問題です。

人と人が、心のやり取りで行われた時代は遠い昔と成り、経済性を伴った
利益を常に考えた人間関係が基準と成って来ている事が気になります。
子供から大人まで、あらゆる行動言動が損得で判断され、人間的な価値観が
経済性や経済力で判断される社会と成っているのが問題なのです。

いつの間にかに作られて行った格差社会は、あらゆる人間関係を社会的地位や
財産でしか判断する事が出来ず、人々が、お互いに、より多くの利益を追求し
対人的な心のやり取りが出来ない日本人が非常に増えているのです。
日常生活から社会生活まで、全ての場合に於いて、経済的豊かさで判断される
傾向が強い事から、経済力さえあれば、多少人間性が貧しくとも許されるとする
人々の判断が多く見られるのが大きな問題と言えます。

この事は、明日の日本を担う子供達の成長に大きな影響を与え、学校生活の
多くの部分が子供達の心と身体を育てる為と言いながら、結局は、日本経済社会を
維持する為の歯車の1つを創り上げているとも言えるのです。

現代社会では、物よりも心を大切にすると言う傾向が強くなる一方、
企業の目論見は、この極めて人間的な取り組みを利用し、逆に生産性を増し
経済力をより高める為の隠れ蓑に使われている事が多いのです。
あらゆる商品がネイチャー指向に傾き、人々の心の安心を得る事に依って
更なる利益を得る戦略で人々の心を引き付けようとしているのが明らかです。

その為安心安全を前面に出すも、その陰で、国民の期待を裏切る商品を生んだり
いつの間にかに大量に購入させられたりと、相変わらず消費者は、企業成長に
利用されている事実は隠せません。
しかし、その事実は、暗黙の元、多くの国民の心に、不安と不信を抱かせていて
自分達が決して中心ではなく、上手く利用されている事実に気が付いているのです。
ただ、その事実を暴露したり、社会を更生する力がない為、満員電車のララリーマン
の様にひたすら我慢していると言えるのです。

とは言え、欧米の社会福祉が進んでいる国家に於いては、日本とは比べ物にならない
国民中心の政治が行われているのです。
多くの税金を支払う事になっているとは言え、その支出額に応じた社会的貢献を
国が率先して行っている事から、国民の中に不信不満は余り生まれず、むしろ
世界に胸を張って幸せを訴える人々を多くしているのです。

豊かな社会とは、経済的に発展しているだけでは、決して国民を幸せに出来ず、
むしろ一部の富裕層や独裁的な支配者によって、限られた人たちの支配する
格差社会を作ってしまうのです。
日本政府は、いまだ、経済成長を国民の幸せと考えていて、その陰で疎かになった
国民一人一人の不安不信が消えないのです。

経済的に豊かな生活を基準としている人達によって運営されている国家政策は
一部の人達をより豊かにする事は有っても、殆どの国民の幸せを保証する事は出来ず
ただ、必要以上の物に溢れた部屋で、より狭くなった余裕のない生活を強いられる
心貧しき国民を多くするだけなのです。

当然、多くの人達の不満が募るのですが、全ての国民を管理する為に様々な規制を
行うだけでなく、国民一人一人をコンピューター管理する事に依って、この社会を
変えようとする分子の目を摘む事も忘れません。
あらゆる日常生活をカード化する事は、一見便利なように見えて、支配者にとって
最も管理しやすく、自分達の社会を継続する大きな力と成っているのです。

国民は、便利さと引き換えに、全てのプライバシーが丸裸にされ、最も相応しい
方法で、国に従う様に全てを管理される様に成って来ているのです。
日本中何処にいても、一人一人の行動と考えが手に取る様に知られてしまう社会は
もはや国民が幸せを夢見る社会では有りません。
日本のみならず、世界は、一部の支配者によって動かされていると言っても過言でなく
食糧危機、地球汚染、戦争と、人々を苦しみに追い立てる事は全てが、この一部の
支配者層によって仕組まれたものであり、世界中の人々の幸不幸は、彼らの手中に
有るのです。

日々戦争に明け暮れる国々と日本は全く違っていると考えがちですが、その違いは
本質的には全く変わらず、経済力によって支配しているのか軍事力によって
人々を支配しているのかの違いに過ぎません。
人類の歴史を紐解いても、この傾向は数千年前から何だ変わらず、
人々が生きて行く過程で、いかなる支配者の元で管理されているかで
幸不幸が決まってしまうのです。

日本における幸せは、適度に餌を与えられて、狭い池の中で飼われている
金魚達の様なもので、食糧を与えられ生きて行けるのですが、池の中からは
出る事を許されず、和を乱すものは、簡単に管理者によって排除されるのです。
日本に於いて、如何に勝ち組に成るかが、多くの若者の夢でもあるのです。
つまり、支配されれば一生、自分の思い通りの生活は出来ず、更には
管理者に生活の全てを覗かれる事になるのです。

ネット社会が便利さを増すにつれて、人々は、自由になれないと言う事に成ります。
衣食住だけでなく、心まで全て管理される社会は、時代が違うとはいえ、かつての
奴隷制社会と変わらないのです。
目先の幸せに心を奪われ、本当の幸せを目指せない社会が存在しているのです。

人類が未来永劫本当に幸せな生活を送れるのは、自由平等の世界であり
管理者の思うが儘に動かされない社会と言えます。
現代社会は、ほんの一部の人達によって動かされ、殆どの富が
その人達に集まっています。
しかし、ネットの発展は、その管理者を機械に委ねる可能性が
出てきているのです。これまで、自分達の英知で社会を支配できた
と過信している世界のリーダー達は、一瞬にして、自分達が見下していた
大多数の人々と同等に扱われる時代が迫っている事を信じません。
決してSF映画の世界ではなく、もっと早いスピードで、機械が人間を
管理する時代が迫っているのです。

便利であるはずの未来社会が、自分達の意思ではどうにもならない社会に
変えられようとしている事実を知らなければ成りません。
マイナンバーが国から発行されるのではなく、冷たい機械から有無を言わさず
告げられる日々が来た時、人類は、地球の支配者ではなく、物と同じく
簡単に捨てられる運命と成る可能性があるのです。

 



 

 

 



 

 

 

 

 

 


人生棄てたもんじゃない

2019-05-15 11:23:15 | 日本人

三十年以上も続けて来た仕事を辞め、新たな道を選択して五か月に成ろうとしています。
大学を卒業して以来、自分の趣味としていた事を仕事として、還暦を過ぎるまで頑張るも
遂に仕事を続けることが出来ず、多くの人が現役引退して残りの人生を悠々自適に楽しもう
とするも、そのあても糧も無く、裸一貫で社会に投げ出されるとは思ってもみませんでした。
バブルが崩壊しても10年程は、社会の不況下の影響を受ける事も無く、比較的自由で豊かな
生活を行えたものの、個人で社会の流れと戦っていくには余りにもひ弱であり、次第に
生活も貧窮し、遂には自力で仕事を維持して行く事が出来なくなってしまいました。

新年早々、私達家族は、現実社会に投げ出され、社会の厳しさを身をもって味わう事と成りました。
しかしながら、主婦として社会の中で生きていた妻は、その現実を素直に受け入れ、それまでの
生き方を簡単に捨て、新た成る道を選択しました。この点は、やはり女性の強さと言うか、如何に
男子が無能であるかをまざまざと見せつけられました。
職人の様な生活を30年以上も続けてきて、社会とは一線を引いていたことが、私に与えた影響は
まさにカルチャーショックであり、如何に自分が進化していないかが解りました。

何しろ、今年になっての初体験が、銀行、官庁、役所、更には、公的手続きであった為、まるで、
海外から数十年ぶりに日本に帰って来たような、まるで浦島太郎の状態でした。
更に身近な所では、家事に関する事、公共手続きに関する事がほとんどできず、仕事に於いては
そこそこ高いレベルに見られていたものの、その後ろ盾を失ってしまうと、殆ど無知無能の幼児
と何だ変わりません。
妻が早々と仕事を見つけた事から、妻が結婚してから行って来たごく当たり前の家事を全て代行し
これまで通り進めて行かねばならず、家事を同じように行おうとするだけでも一苦労でした。

更に、遅ればせながら、私も新しい仕事に就くと、そこは、それまで経験したことの無い、
時間とスピードが要求される世界であり、私の子供達と同じぐらいの年齢の社員に付いて行く事で
四苦八苦の状態でした。しかも、見る物聞く物が殆ど初めてであり、会社業務も手取り足取りの
無能状態であり、あまりの酷さに怒るよりも呆れている上司が殆どでした。

そんな大変な日々も少しづつ慣れ、ようやく研修期間の3か月を負えようとし、家事も仕事も
流れに沿って何とかやって行けるようになりました。
人生初体験の朝のラッシュアワーの凄さは、客観的に知っていた頃とは比べ物にもならない
過酷さと厳しさで、こんな厳しい環境で日本のサラリーマンは頑張っているのだと、
感心するばかりでした。猛スピードで列車を乗り換える乗客の流れに沿って歩くのは
まるでアスリートの中に紛れ込んだようで、会社に就く前にかなりのダメージを感じました。

とは言え、人は、どんな環境にも慣れて行くものだと肌で感じる様に成りました。
数十年も、特定の人としか仕事を行ってこなかった為、他人との接触にかなりの勇気を
必要としていましたが、毎日様々な人と面会し、一期一会の人の数に戸惑っている場合でなく
自ら接触する大切さを学び、そこから得る新たなる喜びと未来がある事を知りました。
自分の技術が将来を決めて行くような仕事を行っていた時から、周囲の人達が自分の人生を
変えていく事を知り、その厳しさと楽しさを知るにつれ、新たなる人生の喜びを感じ
ある意味、毎日がワクワクドキドキのカンフル剤を飲んでいる様に躍動的と成りました。

多くの人に囲まれて次々に新しい体験をしていくと、理屈では解っていても実際に感じる
私達は他人によって生かされれているのだと言いう事を実感する事と成りました。
良し悪しに関わらず、自らが動けば周囲が動き、そして自らに新たなるチャンスを与え
思いもしない方向に人生が向かっていく事を生で感じる日々を送れる様に成って来ました。
つまり、自分の生き方が周囲を変え周囲の反応で自分の生き方も変わって行くのです。
この事は、以前の仕事をしている時も人生の生き方の基準として良く解っていたのですが、
多くの人達との関わり合いが、如何に自分の力と成って返って来るかを身をもって感じる為
明日は何が起こるのだろうか、どんな新しい事が待っているのだろうかと言う胸の高鳴りが
日々の生き甲斐を生んでいます。

この新しい人生は、当初お先真っ暗とも思われましたが、現実には、次から次へと新たなる
発見をする事が出来、多くの人との出会いが自分自身の考えを大きく変えていく事に
成ったのです。
研修期間が終わり来月からは新たなるプロジェクトが始まります。
これまで、望む様な仕事は出来ないのではと言う不安と不信が有ったのですが、諦めず
自分自身の心と身体の準備を怠らなければ、新たなるチャンスが巡って来る事が解って
更なる想像もしない人生が待っているのではと、期待に胸膨らむ毎日が送れる様に成りました。

とかく、定年退職したり、現役を引退したりとすると、もう自分の人生の主要部分は終わって
残りの人生を健康に生きる事だけを目指しがちですが、例え社会的にリタイアしても、自分が
引退したと思っていなければ、それなりにダイナミックな人生を送る事が出来るのです。
この事は、決して高齢者に対してではなく、若者であっても子供達であっても、生きている上で
自分の人生を諦めたり思いを消し去る必要はないのです。

自らの心を信じ、新たなる環境と目的を目指せば、不思議とそれに応じて環境が変わって来て
思いを達成する様に周囲が変わって来るのです。
人生は人其々であり、誰一人同じ思いで生きているのではありません。
社会的に都合よく生きて行く為にチームワークやルールを守り、同じような行動言動を行うも
本質的な欲求は一人一人違っていて当たり前と言えるのです。
社会のマニュアルを守りつつも、自分自身のオリジナルの気持ちを失わないで生きて行く事が
いつまでも心と身体が元気で居られる方法と言えます。

ただ、一人一人思いが違うと言う事は、自分の喜びと他人の喜びは違っていて、誰もが自分自身を
満足すべく、自らの思いを大切に思っているのです。
自分の満足を考えるも、身の回りの人の満足が有ってこそ、自分の満足も叶えられる物であり
出来るだけ、関わる人達の思いを感じ助けてあげる気持ちが有れば、同じように自分の周囲から
楽しい思いを与えられる事を知る事が大切です。

今の日本社会は様々なパワハラの嵐が吹き荒れていて、如何に加害者や被害者にならないかで
多くの日本人が必要以上に神経質になっています。
確かに、人の心や身体を傷つけてはならないのですが、熱粥に懲りて膾を吹く、と言う諺に在る様に
身勝手な想像と行動は返って不自然と成って社会生活をギスギスとしたものにしてしまいます。
社会生活を送るにあたって、沢山のスキルを持ち自分の能力を高める事は大切ですが、その力は
多くの人に認められてこそ生きて来るのです。つまり、自分の言動行動が周囲の人達の心や身体を
癒す事で初めて自分の能力が認められるのです。

しかしながら、この他人に対する思いやりや気遣いまでがマニュアル化されたり、ただ丁寧に
優しく在れば周りの人は喜ぶと思って、必要以上の丁寧さや気遣いが慇懃無礼と成って、かえって
人の心を気づ付ける事も多いのです。
社会に出て、様々な方と関わって来ると、その個性の多様性に驚くばかりですが、対人的に良い
関係を築けるかどうかは、面と向かってやり取りした時に解ります。
まず目は心の窓と言う様に、しっかりと目を見て話せない方は、深く関われない方が多く、
立派な事を言っていても、全く心には響かず、お互いの信頼関係は生まれて来ません。

与えられた言葉や仕事を淡々とこなすだけで、目が上の空で有ったり死んでいる人が結構多く
発せられる言葉も、自分の頭の中のマニュアルを読んでいる様にしか聞こえて来ません。
街角でも、多くの人が他人とは関わらない様にしているのか、目を合わせる事は無く、直接
言葉を交わしても、表情は上の空の人が多いです。また、しっかりと応答してくれても、
その言葉は、仕事上のマニュアルであり、その背後に利益の期待が見え隠れする人も多いです。

様々な人が蠢いているのが社会なのですが、自分の仕事を発展させるのも、自分の思いを達成
させるのも、決して自分一人の力では無く、関わった人達からの多くのお力添えによって
思いが達成されるのです。その為には、まず、信頼関係が築けなければ成りません。
それが有って初めて、仕事が成り立ち交友関係が成り立つと言えます。
様々なタイプの人がいるにせよ、まず、お相手を心から信頼する所から始まらないと
自分自身の思いが達成でないと言えます。多くの人が自分の欲求や利益を求めるあまり
信頼関係を築けず、思い通りの人生が送れて無いと言えます。

人は、こちらが拳を上げれば同じく拳で対抗して来ます。
赤ちゃんを見ると、誰もが笑顔となります。それは、赤ちゃんが心からの自然な笑みで
私達に語りかけるからです。
誰もが幸せな人生を送りたいと思っています。幸せな人生が送れると、周囲の人達にも
幸せになって欲しいと願うものです。
自分が望む事は他人も望んでいると言えるのです。ならば、その望みを出来るだけ叶え
助けてあげられる様な人生を送る事が、自分の人生を幸せにすると言えるのです。
現代人の多くが、対人的にまず損得を考えがちであり、常に比較する事で満足度を
決めがちと言えます。

つまり、他人はともかく、まずは、自分が満足し幸せになる事を考えがちなのです。
この思いを誰もが抱いているのが、ギスギスした現代社会と言えます。
本当に、自分の思いが達成したいと思うなら、他人に対してその人の思いを
損得や比較を考えずに考えられる様に成る事が、最も楽しい人生を送れる秘訣とも
言えるのです。

 

 


男女の違いが幸せを生み未来を創る

2019-02-12 21:44:34 | 日本人

男女其々にとって、最愛の人に巡り合う事は難しく
この人こそはと思っても、しばらくすれば、思いとは
裏腹に、熱い気持ちは次第に冷え、またもや、辛い
孤独の日々を噛みしめる事となる場合も少なくありません。
人生に於いて、様々な人とのめぐり逢いは、自分の生き方や
考え方を大きく変えるものであり、巡り合う人によって
自分の未来が決まると言っても過言では有りません。

更に進んで、人生の伴侶と成ると、更なる深い関わりが
お互いの絆をより深いものとし、男女共に自分の一生の
生き方や色合いを大きく変えて行くと言えます。
とは言っても、男女は、お互いにお相手の事は理解できても
本質的に違った生き物とも言え、理屈では片付かない様々な
理解を超えた違いがあり、二人の頭を悩ませます。

男女を水と油の様に、相反するものに例える事がある程
生物学的な違い以上に、心から違った生き物として
長い時間を掛けても、中々お互いに理解をしあう事は
難しい存在とも言えるのです。
当初、本能的な欲望をもって繋がるも、月日が経つに連れ
自分とは異質の存在に、様々な誤解を生むことも多く
次第に、お互いを理解できない事から、諍いの時を
多くする人達も少なくありません。

しかし、全く異質の存在と言え、男女が同じ屋根の下で
生活を共にし、お互いの違いを感じあう事は、
様々な問題を生むことが有るとは言え、それ以上に
大きなメリットを生むことが出来るのです。
私達は本来、同質の人間に対しては気を許し、安心感を
抱きやすいものですが、同じ感覚同士での生活は
一見安心の様に思えて、実は、お互いが同じ部分を
認め合う安心感の一方、どちらも見逃してしまう問題も
多く生まれ、様々な変化に対応できず、その結果
二人の関係が破綻してしまう事も多いのです。

男女の違いが顕著であると言う事は、二人の考え方は
少なくとも倍あると言う事であり、様々な懸案を考え
チェックする力も倍増すると言えるのです。
また、同性同士では解りえない異性の考え方を知る事で
幅広い豊かな知識や考え方を身に付けることが出来るのです。

異性と言うのは、最も身近で強力なアドバイザーと
言えるのです。
間違った道を進もうとすれば、全く違う意見をもって
方向修正を行い、互いに求める道を選ぶときは、相互の
持ち味を生かした力が成功の実現性を高めます。
本来、人は、其々の個性の違いが有ったからこそ
これ程にも進化したのであり、男女の大きな違いが
有った事に因って、生物としての種を長く繋いで
これたと言えるのです。

今や、地球は、人類によって支配され究極の進化を
見せています。
コンピューターの開発は世界中の情報を一手に集め
例え個人であっても、欲しい情報は何でも手に入れられ
メディアの発達交通機関の発達は、人間同士の交流を
広く深く、いとも容易く出来るようにしたのです。
この事は、人類の豊かで便利な生活を急速に高め
人々は、思いのままの生活が出来るようになりました。

しかしながら、これ程にも豊かで便利になったものの
人々の心は幸せに成ったかと言えば、かえって多くの
苦しみが生まれ、いつまで経っても満足を得られない
悶々とした生活を送る人が多くなっているのです。
溢れる情報は、常に、自分の価値観を決め、日々変わる
世の中の流れに翻弄される人々が増えているのです。
メディアは、世界の中の情報から、その時人々が目指す
方向や考え方を示し、個人的な価値観を社会的な
価値観に変えてしまします。

人々の生活や考え方はメディアによって簡単に変えられ
個人的な考えを持つことが難しくなります。
流行に左右される様に、人々の生活は管理者に操られ
日々の生活も生きる価値観も決められ、人としての
個人の考えや価値観を感じることが出来なくなって
いつも心の中が満たされない事で、心から生きる喜びや
幸せを感じられなくなってしまうのです。

そんな中で、自分の一番身近な異性は、自分自身の考えと
お相手の考えの違いを知らせてくれるだけでなく、世の中の
考えと個人の考え方の違いを知る事の重要性を教えてくれる
事もあり、間違った方向に進まないようなアドバイスも
してくれる存在と成るのです。

今やネットの発達もあって、人々の好みや考え方が統一され
物事の価値観や人間の価値観が社会によって決めれれる事が
とても多くなっています。
異性に対しても、常に理想像が掲げられ、自分の好みや
求めるべき人の基準を定められます。

ところが、人間の個性は、一つにまとめられるほど単純でなく
十人十色と言われる程違っているのが普通であり、違っていて
お互いの能力を高め合えることも、より正しい判断をすることも
出来るのです。
そもそも、男女がの特性が、水と油ほど違っていると言われるのは
其々が同じ思いを抱く事への理解の難しさと言うマイナスの
イメージだけでは無く、、考え方の違いを認め合い協力し合う事で
個人ではなしえない事や物事の考え方を持つことが出来、人間として
より豊かな生活が出来る大きなメリットがある事にあるのです。

支配者たちの利益の為に、メディアを通して方向付けされる生活から
人間として本当に正しい生き方を検証できる最も身近な体制として
男女の繋がりが有ると言えるのです。
しかしながら、今や、多くの男女が巡り合い結びつくことが難しい
この男と女の力が生かされない時代と成っているのです。

メディアは、常に、理想の異性を発信し、人々は自分の求める異性を
社会的価値によって判断しがちです。
その為、自分の好みと言うより、社会の求める異性像が基準と成って
益々結びつきが困難と成っているのです。
また、たとえ、男女が一緒に暮らすようになっても、相変わらず、
お互いの頭には、男女の理想がメディアによって産み付けられ
自分のお相手と比較することで、生活を難しくしているのです。

私たち人間は、あらゆる個性をもって生まれてきているだけでなく
誰もが未熟で未完成の状態なのです。
いつか完成すると言うのではなく、一生修復を繰り返し様々な努力を
重ねて行く事で、より完成度の高い人間に成長していくのです。
この過程で大切なのは、自分の成長を助ける周囲の人達であり
その影響を最も与えるのが異性と言えるのです。

異性を求めると言う事は、単なる本能だけでなく、自分をいさめ
育てる存在として最も素晴らしい立場に在るのが、最も身近に
存在する異性と言えるのです。
つまり、自分の思い通りになる理想のお相手と言うよりも、自分とは
全く違った考えを持った、自分の理想とは違っている異性であることが
ある意味、二人の人生にとっては最も適していると言えるのです。

そして、その存在を見つけるのは、ほかならぬ自身のセンスなのです。
メディアが勝手に決めるものではなく、それこそ、本能に従うように
自分自身の感性を信じて求めるものなのです。
しかしながら、現代の多くの若者は、自分自身が信じられず、常に
ネットやメディアの情報を基準にしている事から、いつまで経っても
自分に最も相応しいお相手を見つけられないのです。

自分の好みであり、自分にとって喜びと成る肯定的なお相手を基準に
探し求めたとて、それは、メディアの中の偶像に過ぎません。
例え、理想のお相手に巡り合ったとしても、会った時と同じ状態が
その後も続くようであれば、どんなに理想的な人であっても、
人はすぐ飽きてしまうように出来ているのです。

俗に、美人は三日一緒に居れば飽きる、という諺にもあるように、
人間は、単純な繰り返しや同じ環境に浸り続ける事は苦痛と成るのです。
例えどんなお相手であっても、日々、お互いの事を考え、其々の違った
考えを主張できる関係で無ければ、二人の関係は継続しないのです。

人は、安定安心を求めがちですが、大きな波や変化の中での安定であり
安心でないと心は病んでしまうのが人間の特性でもあるのです。
努力をして苦難に打ち勝ったり、より厳しい環境に身を置く事を求める
と言うのも、人間の持っている本性であり、より豊かな喜びを得るための
人の生き方でもあるのです。
人類は、他の生き物にない高い英知をもって進化して来たのではなく、
様々な苦難を乗り越える事を喜びとして生きてきたことから進化できた
ともいえるのです。そのため、例え、平穏な時が訪れようとも、すぐに
次なる波乱の時を求めるのも歴史が示す通りなのです。

 

 

 


断捨離されない様、本当の幸せを考える

2019-01-29 16:56:11 | 日本人

私達は、いつも、自分の考えで思い通りの生活を行っていると
思いがちですが、実際は、社会の流れに大きく翻弄されている
と言っても過言では有りません。
自分で考え、自分自身が決定して日常生活を行ていると思っていても
その判断を下す情報は、多くの場合、環境であり、日々降り注ぐ
メディアを通した限られたものである事が多いのです。

現代社会は、正にネットを中心とした情報社会である事も有って、
私達は、常に、情報によって簡単に感化され、多くの人達が
社会の流れに有無を言わさず従わされているのです。
子供達が学校に行くのも、大人に成って社会で働く事も、私達の行動は
組み込まれた社会システムの中で操られていると言っても良いのです。

しかしながら、自分達の考えや行動が、誰かによって支配されているとは
誰も思っていなくて、この自由主義社会に在って、何でも自分の考えで
決定していると信じて疑いません。
所が、現代社会に限らず、私達人類の歴史は全て、その時々の支配者に
思うが儘に作られていて、多くの一般の民衆は、その考えに従わざるを
得ないのが事実なのです。

その為、支配者によって、大衆は幸福にも不幸にもなってしまい、
これまで幾度となく、支配者たちの横暴で、人々は苦しい思いを
強いられて来ました。
最も過酷な時代は、やはり、戦争が続いている時であり、国民の多くは
お互いに憎み合い殺し合うと言う、人間として最も不幸な日々を
耐え続けなければなりません。

日本に於いて、近世には幾度となく大戦を重ねて来ましたが、犠牲と成るのは
常に何の罪もない国民であり、国の為に戦うと言うのはあくまで口実であり
実際は、一部の人達の利益の為に多くの国民が犠牲になっていると言えるのです。
多くの指導者たちは、平和であろうと戦争中であろうと、自分達の利益の為に
戦争を行っているのであって、正義の為に戦っているというのは、あくまで
国民に対するパフォーマンスに過ぎません。

膨大なる利益を得る為には、国民を挑発し、他国民を憎ませる様に仕向ける事は
現代社会に於いても、多くの国のリーダー達が行っている事です。
彼らにとって、平和で有ろうが戦争で有ろうと、どちらであっても良いのです。
平和である方が利益を得られるとすれば平和を選択し、戦った方が利益が多く
得られるとすれば、戦争を選ぶのがこれまでの歴史なのです。

多くの国民に支持を得る為に様々な口実を設けますが、言い訳の裏には必ず
膨大なる利益が存在しているのです。
大国アメリカが、世界中に派兵しているのも、戦争に興じて、それらの国々から
多大なる利益を得る為であり、世界のポリスと言って、世界平和を願っての
海外進出では有りません。

戦争をする事に良い悪いという判断は無く、利益が得られるか得られないかと
言うのが世の権力者たちの考えと言えるのです。
国内政策で有っても、国民に豊かな生活を新たなる保障する為にと、消費経済社会を
遵守すると言っても、それは方便で有って、現実は、国民から膨大なる利益を
得る為の社会機構を創り上げる為なのです。

国のリーダー達は、国民の代表と成って国民の豊かな生活を作る為に努力する
と言うのはあくまでリップサービスに過ぎず、心の中は、常に、算術が働き
この事が、政治家の贈収賄事件が一向に無くならない理由でも有るのです。
ネットやメディアを通じて流れる様々な素敵な情報は、魚を釣る為の撒き餌と
同じであり、私達はまんまと釣り上げられていると言っても良いのです。

確かに、沢山の消費が出来る事は、人々にとって快感でも有るのですが、
次から次に与えられたものを消費する事が、果たして幸せに繋がるかと言えば
振り返って冷静に考えれば、単なるカモに成っているに過ぎないのが解ります。
身に付けた地位や財産によってしか自分の価値を見いだせなく成れば、その欲望は
果てしなく、どんなに欲しい物を手に入れようと、本当の満足と幸せは得られず
環境によって自分の心が翻弄される毎日に、心が休まる事は無いのです。

この何でも亭主手に入る時代の於いて大切な事は、本当に自分にとって必要であり
大切であると思える事や物を選択できる事です。
見渡せば、部屋の中一杯に溢れる消費物資、そのどれもが、買った時から色あせ
それ以上の喜びを得るには、更に買い足さなければ満足は得られません。

今や、国民の間で、断捨離という考え方が流行しています。
自分の持っている物を思い切って捨て去る事で、本当の幸せを感じるのです。
必要だと思われる物を次々に買い求めて、使うことなく部屋を占拠している物品を
思い切って捨て去った時の快感は、多くの人達を虜にしています。

この快感を、社会に対して抱かなければ成りません。
多くの情報の中から、本当に自分にとって大切なものだけを選択する力を持つ事
それこそが、この消費社会に於いて本当に幸せに成れる道と言えるのです。
どの家庭に於いても、絶対必要と思えるものが如何に少ないかが解ります。

ネット社会は、世界中から膨大なる情報を与えてくれます。
この社会で本当に幸せに成るには、多くの情報を取り込まないと言う事も大切です。
自分の心と身体にとって本当に必要な物なのか、一時の流行で有ったり、メディアの
商業的な誘いで有るのか、しっかりと見極める事が重要なのです。

人間が一人生きて行く為に必要な物は、それ程多くは有りません。
多くしているのは、自分自身の心を見つめないで、社会の多くの人々と比較するからです。
より多くの便利な物手、高価なものを手に入れる事が幸せであるかのような社会風潮に乗って
何でも手に入れようとすれば、あっと言う間に心も身体も押しつぶされてしまうのです。

人の価値は、その人だけが持っているものであり、唯一無二の存在です。
生きる為の付加価値に自分の価値を見出そうとすれば、その膨大さに心も身体も
疲弊してしまいます。
人は、一人一人心も身体も違っているからこそ、自分を満足させるものも他人と違うのです。
本当に自分が欲しているものは何なのか、自分自身にしかない満足を得る事が大切です。

人其々が自分を大切にして、更には、自分とは違う周囲の人を理解する事が出来れば
本当の意味で争いは無くなるのです。
メディアやネットの情報は、全ての人の喜びを一括して商業的利益を得ようとする事から
どんなに欲しい物を手に入れても人々の心は満足できないのです。
様々な便利な品物は、自分の気持ちを一時的に喜ばす事は出来ても、そのものが自分の
本当に求める物では無い事を知らなければ成りません。

どんなに高価な物であっても、それは社会的な価値で有って、自分の心に置き換わる程
価値のあるものではないのです。
この心の価値観は、一人一人が違っていて、その心の価値を認め合う時初めて、本当の
喜びを知る事が出来、心から幸せと感じるのです。
今や、多くの人が、人の心を感じる事が出来ず、更には、自分自身が一体何を求め
何に向かっているのかが解らなくなっています。

与えられた魅力的な品物をもって心を満たそうとするも、新たなる物が出てくれば
それまで心酔していた物は、あっと言う間に色あせて、幸せな気持ちは消え去ってしまいます。
この様な社会生活に於いて、本当に喜んでいるのは、そんな社会を創り上げている、一部の
商業的利益を常に考えている人達に過ぎません。

そう、残念ながら、消費経済社会に於いては、全ての国民が心を満たせず幸せを感じられず
常に、新たなる魅力的な商品を買い求める事で成り立っていると言えるのです。
その結果が、どんどん家の中に溜まって行く消費物資であり、社会的に豊かと思わせる
豊かな生活なのです。

私達は、自由に生きている様で、実は、そんな物達に支配され、振り回されているのです。
そんな集めに集めた消費物資を捨て去る断捨離が流行るのは、明かに、人々の心を解放させ
幸せを見つめ直す事になっているからと言えるのです。
しかしながら、この断捨離で、一番捨て去りたいのは、世の亭主だと言う主婦たちの声もあり
私達男も、単に消費経済国家における物の1つと言えるのかも知れません。
かつて、亭主元気で留守がいい、という言葉が流行したことが有りました。
まさに、留守でいいというのは、いなくていいと言う事なのかも知れず、いつの間にかに
断捨離されない様に、世の亭主たちは心しなければならない時代なのかも知れません。