国と東電に賠償命令が下りました。
福島の住民ら約3800人が、国と東電に、生活環境の
回復や慰謝料など、総額約160億円の賠償を求めた訴訟で
福島地裁は、国の責任を認め、国と東電に賠償を命じる
判決が言い渡されれました。
しかし、この判決は、この事で、被災者の生活が元通りに
戻ると言う訳でなく、この後、更に上告が行われれば、
結審までに更なる長い道のりが続くと言えます。
また、例え賠償が行われたとしても、心と身体に残された
深い傷跡と悲しい思い出は、誰の心からも消えないのです。
所で、福島の住民が、原発被害を訴えている様に、
アメリカの空母、ドナルドレーガンの隊員も、原発被害を
訴えている事を知っていなければなりません。
東日本大震災の後、東北の被災地に、オトモダチ作戦として
被災者救済に向かったのですが、福島沖を北上中、
福島第二原発のメルトダウンに依る放射能を浴びたのです。
当時、風向きにより、殆どの危険な放射能を大量に含んだ
放射性プルームは、北東海上に流れたのですが、その時
救援活動に向かうロナルドレーガンは、この中に在って
多くの隊員が放射能被害を受けたのです。
既に、9名の死者が確認され、400名を超える訴訟が
近々東京電力を相手取って行われると言われています。
今回の原発事故で、空母の隊員がどれ程大きな被害を受けたか、
様々な資料と隊員たちの証言で明らかになって行くと
思われますが、この事について、日本政府も東電側も
メディアの中で取り上げる事はほとんど無く、多くの国民が
ドキュメンタリー番組で知って、初めてその事態の深刻さに
驚いたのです。
この事は、福島で原発事故の放射能汚染を受けた人達も、
被害の実態を公表される事無く、これまで、泣き寝入りの
苦しい生活を強いられて来たのです。
街の復興や原発処理と言ったハードな部分は、政府や東電の
成果として発表されるも、人々が受けた心と身体については
殆どの場合補償の対象とされず、新たなる街が完成しても
人々の心は癒されない状態であったのです。
それにしても、この手の、大手企業や政府が関わった災害は
被災者たちの気持ちを逆なでにする方向で処理されようとする
昔からの弱い者いじめの様な対策が多かったものです。
高度成長期に日本中で発生した公害に対しても、企業や政府は
一貫して自分達の過失を認めない方向で戦い、長い裁判の間
多くの被害者たちの命が奪われ、更には、月日の流れと共に
健康被害を訴える人たちの数が増えて行ったものです。
表向きの経済成長ばかりを優先して、国民の安全安心の生活を
蔑ろにして来た国の政策は、今も昔も、多くの人々の心と身体を
傷つけ続けているのです。
復興と言う名の企業利益、国民の為の政治と言うパフォーマンスと
当選後の裏切り、見た目の経済成長に隠された国民の苦痛を、
今のリーダー達、そして、新たなる席を獲得する人々は、どれ程
真摯に考えているでしょう。
一部の人達の豊かな生活に、多くの国民が犠牲に成って行く社会を
誰が求めているのでしょう。
自由主義社会で、国民の代表として政治を任された人々の本当の目的は
地位と名誉と有り余る財産にあるのではないかと疑いたくなる様な
不祥事や不義、失言、言い訳三昧、国民は、彼らの言葉を信じられない
と言うのが本音なのです。
遂に、日本中で、選挙戦が始まりました。
幾度となく繰り返される選挙の意味を、国民も立候補者も見失って
ただ、惰性の様に行っているのではないでしょうか。
この人に国の未来を託そうと思っても裏切られ、選んだ国民は
選挙によってどれだけの利益が有ると言うのでしょうか、
新たなる政策は、政治家にとって便利であっても、国民いとっては
真綿で首を絞められる様に、じわじわと生活を締め付けて来る物が多く
多くの法案が、新政府を強固なものにする為であっても、国民の生活を
豊かにすると言うのは有りません。
経済的に豊かにすると言う口実で、あらゆる生活物資が高騰し、
国民が吸い上げられる税金は、様々な品物に加算されて行きます。
日常生活を豊かにすると言う事で、消費経済を促す事に依り
国民の財産を取り上げる様々なシステムは、全ての点に於いて
確実に国民を疲弊化させ、国民の未来を奪って行きます。
国の政策を左右する経済界の要請が、政府の方針に成る事は
珍しい事ではなく、国民の意向と言うより、まずは、経済的に
豊かな人達を潤してから、国策を考えると言うのが定番です。
政府と企業や政財界の太いパイプが、お互いの利益を生み、
日本社会を作り上げていると言っても過言ではありません。
当然企業家たちの利益が優先されますから、国民からの搾取は
大きなウェイトを占めていて、生活物資が次々に値上げされ、
消費税が高くなって行くのは当たり前と言えるのです。
国の財政赤字は年々酷くなると言われていますが、
その原因は、国民にあるのではなく、無駄な公共投資や
国民生活に関係ない、自分達の利益を増す為の投資である事が
様々な巨大資本の投入に見られます。
その中の1つが、原子力発電所でもあるのです。
確かに、水力火力発電に比べ、大きなエネルギーが得られる事から
電力事業には打って付けと思われがちですが、現在稼働していない
殆どの原発を維持して行くだけでも膨大な費用が掛かり、もし、
福島の様な災害に見舞われたら、どれ程の被害と成るか、それこそ
想定外では済まされません。
日本が戦後行って来た社会事業が問題なのは、目先の利益の囚われた
国民の未来を見据えたものでなかったことです。
公害を生んだのも、負の遺産を多く生んだのも、一見自然災害と
思われる地滑り、山津波と言った災害も、その原因の多くは、
その時代を牛耳っていた政府と経済界の思惑と私的欲望がもたらしたのです。
その姿勢は今だ変わらず、日本の経済発展は、国民と自然をないがしろにし
一部の富裕層がより豊かになる事を目論んだ結果でもあるのです。
国民は、あらゆる施設を利用する時も、日常生活を送るだけで有っても
常に散財する様に社会が仕組まれている事が、最大の不幸と言えます。
一見、近代的で豊かな生活を送っているように見えて、何をするにしても
身を削らなければならないシステムに置かれているのです。
その為、どんなに利益を得ても、その呪縛から逃れる事は出来ず、
より多くの収入を得て、より多くの支出をする事が、日本で生きて行く
絶対条件となってしまっているのです。
私たち人間は、生きるために様々な努力をしなければなりません。
しかし、この努力は、自分達の生活を豊かに幸せにするための努力で
無ければなりません。
どんなに努力しても、心が満たされず、幸せと感じられれない社会は、
欲望と憎しみと悲しみしか生みません。
人々の価値観が、常に消費される日常品と多くの人が羨む社会的に高価な
品物を含む財産と成れば、物と金を求める事が生きる目的と成って
人々の心は、お互いの気持ちを察する事無く、欲望と憎しみが渦巻く
殺伐としたものと成ってしまうのです。
日本人の心が、いつまで経っても満足せず、いつも、対人的に不安であり
外見的な物でしか価値が見いだせなくなって来ているのは、今の政策が
如何に国民にとってマイナスであり、一部の人達の事だけを考えた
政治家の利益に通ずるものである事が解ります。
今や、国民の半分以上は高齢者と成っています。
ただでさえ人生の末路が間近に成った人たちが、残り少ない人生を
心から有意義に過ごすために、経済的な豊かさのみを求めたところで
直ぐに、飽きてしまい、自分が長生きしている意味を見失ってしまうのです。
例え、経済的に豊かな老後を迎えた人達であっても、本当に心の底から
人生を楽しんでいる方は少ないのです。
財力を利用して、様々な興味を満たす事は出来ても、自分がこの世に生きている
心の底からの満足を感じている人は非常に少ないのです。
少しでも多くの財を成し、周りを蹴落としても地位財産を稼いだところで
満足できたのは、外見的に豊かな生活を求めていた若い頃だけだり、
どんなに資産が多くとも、資産を羨んでも、持ち主を称える人が少ない
と言うより妬むに人が多い中で人生を心から楽しむ事は出来ないのです。
高齢者にしても、災害で被災した人でも、放射能で人生を狂わされた人達も
自分達が今後生きて行く為の生活保障を求めてはいるのですが、
一番の要求は、加害者や政府による、誠意を持った対応なのです。
責任逃れは明らかに、少しでも補償による出費を減らす為であり、
被害に遭った一人一人の心の苦しみを感じての事ではないのです。
福島の放射能被害者にしても、ロナルドレーガンの乗組員にしても、
被害を受けた事に依る補償以上に、被災者に対する心の籠った、人としての
暖かい対応が欲しかったのです。
まずは言い逃れを行い、更には、被害補償を下げる事に終始している対応は
例え政府で有っても、企業であっても、人の心を踏みにじるものであり、
そこには、不信感と苛立ち怒りしか生まれないのです。
政治家と言うのは、国民の思いを政治に反映して実現する事が仕事ですが、
様々な懸案に対し、誠意を持って対応し、国民の心と身体に安心と安全を
もたらすようにしなければなりません。
国民が傷つけば、一日も早く傷を癒し、心安らぐ生活に戻す事が先決です。
しかし、傷ついた心も身体も無視して、外見的な取り繕いをしているのが
近年の政治家たちの動向です。
如何に、出費を抑え、出来るだけ、政治家として働いたかを強調するあまり、
無駄な苦しみを人々に与えている事を解っていません。
人の痛みや苦しみを感じられない政治家が実に多く、保身作業には迅速な
態度で臨む姿は、怒りを通り越して情けなさを感じます。
突然記憶が無くなったり、責任逃れをするのが、政治家の常套手段となっては
国民を幸せに出来るなんて、選挙で口に出す事は謹んで欲しいものです。
今や日本中で、老い先短い高齢者が生きる意味を失い、働き盛りの若者が
存在価値を見失い、一生懸命毎日働いているのに、一向に楽にならない生活に
未来を失っている人々が溢れています。
更には、毎年の事ながら、頻発する災害で、生活を奪われる人たちが
路頭に迷っています。
この現実を、本当に踏まえて政治家に成ろうとしているのか、また政治家を
しているのか、日本社会を担う人たちに問いたい。そして、覚悟を見せた
政治活動を示して欲しいものです。