めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

男女の違いが幸せを生み未来を創る

2019-02-12 21:44:34 | 日本人

男女其々にとって、最愛の人に巡り合う事は難しく
この人こそはと思っても、しばらくすれば、思いとは
裏腹に、熱い気持ちは次第に冷え、またもや、辛い
孤独の日々を噛みしめる事となる場合も少なくありません。
人生に於いて、様々な人とのめぐり逢いは、自分の生き方や
考え方を大きく変えるものであり、巡り合う人によって
自分の未来が決まると言っても過言では有りません。

更に進んで、人生の伴侶と成ると、更なる深い関わりが
お互いの絆をより深いものとし、男女共に自分の一生の
生き方や色合いを大きく変えて行くと言えます。
とは言っても、男女は、お互いにお相手の事は理解できても
本質的に違った生き物とも言え、理屈では片付かない様々な
理解を超えた違いがあり、二人の頭を悩ませます。

男女を水と油の様に、相反するものに例える事がある程
生物学的な違い以上に、心から違った生き物として
長い時間を掛けても、中々お互いに理解をしあう事は
難しい存在とも言えるのです。
当初、本能的な欲望をもって繋がるも、月日が経つに連れ
自分とは異質の存在に、様々な誤解を生むことも多く
次第に、お互いを理解できない事から、諍いの時を
多くする人達も少なくありません。

しかし、全く異質の存在と言え、男女が同じ屋根の下で
生活を共にし、お互いの違いを感じあう事は、
様々な問題を生むことが有るとは言え、それ以上に
大きなメリットを生むことが出来るのです。
私達は本来、同質の人間に対しては気を許し、安心感を
抱きやすいものですが、同じ感覚同士での生活は
一見安心の様に思えて、実は、お互いが同じ部分を
認め合う安心感の一方、どちらも見逃してしまう問題も
多く生まれ、様々な変化に対応できず、その結果
二人の関係が破綻してしまう事も多いのです。

男女の違いが顕著であると言う事は、二人の考え方は
少なくとも倍あると言う事であり、様々な懸案を考え
チェックする力も倍増すると言えるのです。
また、同性同士では解りえない異性の考え方を知る事で
幅広い豊かな知識や考え方を身に付けることが出来るのです。

異性と言うのは、最も身近で強力なアドバイザーと
言えるのです。
間違った道を進もうとすれば、全く違う意見をもって
方向修正を行い、互いに求める道を選ぶときは、相互の
持ち味を生かした力が成功の実現性を高めます。
本来、人は、其々の個性の違いが有ったからこそ
これ程にも進化したのであり、男女の大きな違いが
有った事に因って、生物としての種を長く繋いで
これたと言えるのです。

今や、地球は、人類によって支配され究極の進化を
見せています。
コンピューターの開発は世界中の情報を一手に集め
例え個人であっても、欲しい情報は何でも手に入れられ
メディアの発達交通機関の発達は、人間同士の交流を
広く深く、いとも容易く出来るようにしたのです。
この事は、人類の豊かで便利な生活を急速に高め
人々は、思いのままの生活が出来るようになりました。

しかしながら、これ程にも豊かで便利になったものの
人々の心は幸せに成ったかと言えば、かえって多くの
苦しみが生まれ、いつまで経っても満足を得られない
悶々とした生活を送る人が多くなっているのです。
溢れる情報は、常に、自分の価値観を決め、日々変わる
世の中の流れに翻弄される人々が増えているのです。
メディアは、世界の中の情報から、その時人々が目指す
方向や考え方を示し、個人的な価値観を社会的な
価値観に変えてしまします。

人々の生活や考え方はメディアによって簡単に変えられ
個人的な考えを持つことが難しくなります。
流行に左右される様に、人々の生活は管理者に操られ
日々の生活も生きる価値観も決められ、人としての
個人の考えや価値観を感じることが出来なくなって
いつも心の中が満たされない事で、心から生きる喜びや
幸せを感じられなくなってしまうのです。

そんな中で、自分の一番身近な異性は、自分自身の考えと
お相手の考えの違いを知らせてくれるだけでなく、世の中の
考えと個人の考え方の違いを知る事の重要性を教えてくれる
事もあり、間違った方向に進まないようなアドバイスも
してくれる存在と成るのです。

今やネットの発達もあって、人々の好みや考え方が統一され
物事の価値観や人間の価値観が社会によって決めれれる事が
とても多くなっています。
異性に対しても、常に理想像が掲げられ、自分の好みや
求めるべき人の基準を定められます。

ところが、人間の個性は、一つにまとめられるほど単純でなく
十人十色と言われる程違っているのが普通であり、違っていて
お互いの能力を高め合えることも、より正しい判断をすることも
出来るのです。
そもそも、男女がの特性が、水と油ほど違っていると言われるのは
其々が同じ思いを抱く事への理解の難しさと言うマイナスの
イメージだけでは無く、、考え方の違いを認め合い協力し合う事で
個人ではなしえない事や物事の考え方を持つことが出来、人間として
より豊かな生活が出来る大きなメリットがある事にあるのです。

支配者たちの利益の為に、メディアを通して方向付けされる生活から
人間として本当に正しい生き方を検証できる最も身近な体制として
男女の繋がりが有ると言えるのです。
しかしながら、今や、多くの男女が巡り合い結びつくことが難しい
この男と女の力が生かされない時代と成っているのです。

メディアは、常に、理想の異性を発信し、人々は自分の求める異性を
社会的価値によって判断しがちです。
その為、自分の好みと言うより、社会の求める異性像が基準と成って
益々結びつきが困難と成っているのです。
また、たとえ、男女が一緒に暮らすようになっても、相変わらず、
お互いの頭には、男女の理想がメディアによって産み付けられ
自分のお相手と比較することで、生活を難しくしているのです。

私たち人間は、あらゆる個性をもって生まれてきているだけでなく
誰もが未熟で未完成の状態なのです。
いつか完成すると言うのではなく、一生修復を繰り返し様々な努力を
重ねて行く事で、より完成度の高い人間に成長していくのです。
この過程で大切なのは、自分の成長を助ける周囲の人達であり
その影響を最も与えるのが異性と言えるのです。

異性を求めると言う事は、単なる本能だけでなく、自分をいさめ
育てる存在として最も素晴らしい立場に在るのが、最も身近に
存在する異性と言えるのです。
つまり、自分の思い通りになる理想のお相手と言うよりも、自分とは
全く違った考えを持った、自分の理想とは違っている異性であることが
ある意味、二人の人生にとっては最も適していると言えるのです。

そして、その存在を見つけるのは、ほかならぬ自身のセンスなのです。
メディアが勝手に決めるものではなく、それこそ、本能に従うように
自分自身の感性を信じて求めるものなのです。
しかしながら、現代の多くの若者は、自分自身が信じられず、常に
ネットやメディアの情報を基準にしている事から、いつまで経っても
自分に最も相応しいお相手を見つけられないのです。

自分の好みであり、自分にとって喜びと成る肯定的なお相手を基準に
探し求めたとて、それは、メディアの中の偶像に過ぎません。
例え、理想のお相手に巡り合ったとしても、会った時と同じ状態が
その後も続くようであれば、どんなに理想的な人であっても、
人はすぐ飽きてしまうように出来ているのです。

俗に、美人は三日一緒に居れば飽きる、という諺にもあるように、
人間は、単純な繰り返しや同じ環境に浸り続ける事は苦痛と成るのです。
例えどんなお相手であっても、日々、お互いの事を考え、其々の違った
考えを主張できる関係で無ければ、二人の関係は継続しないのです。

人は、安定安心を求めがちですが、大きな波や変化の中での安定であり
安心でないと心は病んでしまうのが人間の特性でもあるのです。
努力をして苦難に打ち勝ったり、より厳しい環境に身を置く事を求める
と言うのも、人間の持っている本性であり、より豊かな喜びを得るための
人の生き方でもあるのです。
人類は、他の生き物にない高い英知をもって進化して来たのではなく、
様々な苦難を乗り越える事を喜びとして生きてきたことから進化できた
ともいえるのです。そのため、例え、平穏な時が訪れようとも、すぐに
次なる波乱の時を求めるのも歴史が示す通りなのです。

 

 

 


本当の自分と生きる

2019-02-12 14:04:12 | 人生

誰もが思う事、それは、いつまでも若くありたいと思うものです。
洋の東西と言わず、この世に生まれたものは誰でも、永遠の命を
望むものです。
しかし、この世に生まれたからには、死ぬことが人の運命です。
とは言え、歴代の支配者たちも、いかに死から逃れられるか
様々な延命措置を考えますが、運命からは逃れません。

地球に存在する生き物全てが生まれて死ぬ運命にあるのです。
にもかかわらず、人類は、生き物の定めから逃れようとするのです。
人の寿命は100年に満たない事が多いとはいえ、若い頃は、
運命を考えることなく、同じ時が永遠に続いて行くかの様に思え
やがて自分の身体が衰え老化していくとは考えません。

所が、人生も半ばを超える事と成ると、誰もが身体の衰えを感じ
それまで考えもしなかった末期を考えるようになります。
あと何年生きられるかと言う、若い頃には思いもしなかった
不安感が心の底から湧き上がって来るのです。

この時期ともなると、多くの人が如何に健康を保つか、そして
一日でも長くこの世に存在するかを考えるようになります。
自然に取り組むこと、それは食生活の改善と体力維持のための
日々の運動です。
誰もが関心を強く抱くため、テレビなどのメディアは、連日
健康長寿のための食事と運動の番組を流します。

人々は言われるがまま、健康と言う名の呪縛に囚われます。
食べ物が紹介されれば、翌日は、使われた素材が、店頭から
たちまち消えてしまう程です。
更には、健康になる若返るとする運動が紹介されると
猫も杓子もと言う程、全国的に同じ運動に興じる姿が見られ
いかに多くの人が、自分の身体の行く末に関心が有るかが
理解できます。

しかしながら、メディアから得られる情報が、本当に自分にとって
健康に長生きできるかは未定です。
有名な医師が行っているから、著名なスポーツ評論家が言った事だから
間違いないとして言われるがままに従っている人が少なくありません。
所が、これまで多くの説が、その後ことごとく覆されたり否定されたり
自分達が信じて疑わなかった、健康のための努力が無駄であったことは
数多くあります。

医者や健康評論家たちの言い訳は、決まって新情報とか新技術と
声を大にして言いますが、かつて自分たちが力説した情報が
間違っていたと謝罪することは有りません。
常に自分たちの立場を正当化し、多くの国民を欺いている事に
反省の言葉すらありません。
しかし、この事は、消費経済社会の実態であり、より社会的に
地位が高い人の言葉や行動は絶対であると言う影の認識がさせている
と言えるのです。

それ故、私たち国民は、本当に自分の健康や老化を考えるならば
何が自分にとって大切であるかを考える必要があるのです。
人の身体は誰もが同じとは言えず、様々な環境で育っている
事もあり、一人として同じコンディションとは言えないのです。
それ故、健康の為に行う事は、一人一人の条件に合った方法で
行わなければならないのです。

多くの方が、健康の判断を誰かと比較して考える傾向が有ります。
自分自身を気持ちや健康状態を考えると言うより、与えられた
健康条件を満たそうとすることで、常に自分の身体とは違った
社会的に認められる姿を理想としてしまうのです。
その為、社会が示す健康条件が変われば、自分の思いや健康判断が
次々に変わってしまい、本当に自分が欲する健康を得られないのです。

自分自身の基準を持っていない国民の多くは、健康と言うワードを
メディアから示されると、簡単に考えを変え、結局は、起業家たちや
専門家たちに利益を与えるだけで、本当の自分の健康が得られないのです。
高齢者たちの健康状態を調査すると、より薬の投与をしていない人が
より健康で若さを保っていると言うデーターもあり、健康だとする情報が
実は、人々の健康を損なっている事実もあるのです。

今や、国民すべてが健康であること、一日でも長く生き長らえる事を
人生の目標とする社会と成って、まるでファッションの様に、次々と
メディアが与える情報に敏感に反応し、より最新の知識を得る事で
健康で楽しい未来を得られると考えます。
社会が求める生き方が、人にとっての幸せであると考え、より豊かで
経済的な生活を行う事を求めます。
おなじく、メディアが紹介する健康法が、自分にとって健康な未来を
保障するとあって、より若く健康に生きている人達を目標として
常に自分に足りない分を補足しようと毎日努力するのです。
この事は、今に始まった事ではなく、消費経済社会の特性とも言え
仕事で有れ遊びで有れ、はたまた健康に関しても、全てが、自分と
社会を比較することで一喜一憂するのです。

確かに、社会に同調し、人と比較して生きて行けば間違いない様に
思えるかもしれませんが、外見的に豊かになったとしても、心から
満足できるかと言えば、そうとも言えません。
自分自身に基準を持てない生活は、自分とは関係ない他人や社会から
心の満足度を決められ、例え、自分にとっては相応しいと思えても
周囲の変化で簡単に自分の喜びが消え失せてしまう事もあるのです。

その為、多くの方が、人の眼や社会の流れを常に気にする生活に追われ
片時も心休まる時は有りません。
消費経済社会は、常に人々の関心を引くために、次々に新しい製品を
生み出すだけでなく、以前の物を否定するように出来ています。
その為、せっかく手に入れた物も、一瞬にして過去の遺物となる事も
少なくなくて、誰もが、自分の生活に満足できないのです。
その為、恒久的な幸せを得ると言うのは難しく、一時の満足ですぐ
次なるものを求めなければならないのです。

より豊かな社会を目指すと言うコンセプトとしては良いのかも
知れませんが、消費経済社会で多大なる利益を得ている人は
良いとしても、多くの消費者は、消費することでしか得られない
一時の満足に、いつも心は満たされず、何時まで経っても、
本当に自分が求めているものが何なのか、解らずして不安のみが
付きまとう人生を送らざるを得なくなっているのです。

自分の身の回りにある必要であると思えるものの殆どが、もし
無くなったとしても十分に生活出来るという日本社会は、
如何に見た目の豊かさで国民の幸せが失われているかが解ります。
私達人類は、地球を支配し、他に類を見ない程の文明社会を築き
地球上のあらゆる食料や資源を手にしました。
しかし、自分の外見を着飾り欲しいものを何でも手に入れたと言え
実際の自分自身の心と身体は全く進化していないのです。

生き物としては、むしろ退化している部分も多く、どんなに豊かで
進歩的な生活を送れるとは言え、身体も心も脆弱である事には
何だ変わっていないのです。
あらゆる手を尽くしたとて、殆どの人は100年生きる事さえできず
近年、寿命が延びたと言っても、医療技術が進んで生かされている
だけの高齢者もとても多く、健康に死ぬまで元気であると言う人は
本当にまれと言えるのです。

この世に唯一無二の存在として生まれてきたはずなのに、
生まれた途端、心も身体も社会に都合がいい様に作り変えられ、
常に人の考えと同調し、社会的に認められる存在となる事を強いられ
本当の自分ではない肩書で自分の存在価値を認められる事に、どれ程
満足の行ける人生が送れると言えるのでしょう。

消費経済社会で生きて行くためには仕方の無い事とは言え、一生に渡り
本当の自分ではない姿で生きて行く事に、心からの満足は得られない
と言う事に気が付かなければなりません。
人生、長くとも100年足らず、どうせ誰もが死んでいくのであれば、
この短い自分自身を意識できる時期だけでも、本当の自分の気持ちを
常に心に失わず、他人としてしっかりと差別して自覚して生きる事が
本当の意味で幸せであると言えるのではないでしょうか。

 


肩書き外見が自らの道を閉ざす

2019-02-02 12:35:44 | 社会

私達は日常的に外見を気にし、社会的な地位を気にしがちです。
自分が如何に他人から見られているか、自分はこの世でどの様に
位置づけられているかを、無意識のうちに感じ続けています。
特に外見的に自分自身を見る事は難しく、周囲の環境における
反応をもって自分の存在を確認する事に留まりがちと言えます。

その為、自分自身の判断は、自らが考え出したというよりも、
周囲の状況によって生み出された考えや行動と成る事が多く、
思っている事と現実の行動や考え方が違っている事は珍しくなく
ややもすると、社会の流れに押し流されて、思いもしない
状況に陥ってしまう事も有るのです。

しかしながら、誰もが常に、自分の意思をもって行動し、
自分が思うが儘の人生を送りたいと考えているのです。
その為、誰一人として同じ感性を持っているとは言えず、
十人十色と言われる様に、人は、其々の個性が生れるのです。
自らが持つ思いが達成された時、本当に心が癒され、人生が
豊かに感じられるのですが、現実は、思い通りにならないで
苦しみもがく事も少なくないのです。

この事は、人其々の思いが違っている事から、集団生活を
行う事を常とする人類は、社会性を持って生きる為に
自らの考えを社会に合わせ修正する事が要求されるのです。
しかし、時に、思いと裏腹の言動や行動をしなければいけない事に依り
様々なストレスが生れて来ます。
現代社会は豊かで便利に成ったとは言え、人々の心が一向に休まらず
常に癒されない不満のたまった状態に成りやすいのが問題です。

外見的には、世界的な先進国家として豊かな社会生活を見せながら
日常的にストレスに晒され、心はいつも満たされないで苦しんでいる
と言うのが現代人の真意とも言えます。
人は、視覚的に情報が80%以上入って来るとも言われ、ネット社会は
ますますこの傾向が強まっています。
世界中からあらゆる情報が手に入る一方、情報によって自分の考えや
行動が変えられる事は常で有り、自分自身は、自らの考えで行動している
と考えていても、実際は、情報によっていつの間にか動かされている事が
とても多いのです。

多くの情報が手に入ると言う事は、より正しい考えや判断が出来るとあって
とても喜ばしい事とも考えられるのですが、情報によって簡単に自分の考えが
変えられると言う事は、現代社会における最大の問題を生む事にもなるのです。
便利であるはずの情報によって、多くの人達が簡単に管理される社会が
現代社会と言っても良いのです。
膨大なる数の人々が、より豊かな生活を目指してお互いの考えを共にする
と言う事は、巨大社会を関連付ける為にも、非常に素晴らしいと言えますが、
この情報を、一部の人達が管理するとなると大きな問題と成るのです。

民主主義は、多くの民意が反映されるはずなのですが、ネットを利用した
情報管理社会は、ややもすると、情報によって国民が管理され、一部の人達の
思うが儘に動かされる危険性が高く成るのです。
現実問題として、ネット社会になる前も、テレビなどを使った情報操作は、
商業活動に多く利用されて来たのですが、国民の生活すべてに関わる管理が
国によって行われる様に成ると、便利に成った様に思える反面、国民生活が
全て丸裸にされ、リーダー達の、より独裁制を助長する事になっているのです。

戦後、全てを失った生活から、高度成長期を経て世界的な経済大国へと
成長したのですが、この近代国家への道は、国民が望んだものではなく、
時のリーダーや経済界のトップの人々が、自分達の理想とする社会を
作ったものです。
私達一般の国民は、便利で経済的に豊かな生活が出来れば、自分達は
幸せな人生を送れるとしたのですが、この経済社会の仕組みは、
決して国民一人一人を本当に豊かにするものではなかったのです。
その証拠に、経済発展と共に、多くの負の遺産を生み、自然だけでなく
多くの国民を傷つけるだけでなく、いまだに、解決される事無く
未来までその後遺症が続いているのです。

便利で豊かと思える私達の環境は、衣食住すべてに、便利さと豊かさに
隠された危険性が存在していて、身近な食品を見ても、その裏に記された
食品添加物は年々種類を増し、常に私達日本人の体内に取り込まれて
いる事を忘れてはならないのです。
国と企業は、経済発展を前提としている事から、その安全性を口にしますが
日本国内で許されている添加物で有っても、欧米諸国では危険な薬品として
ずっと以前から禁止されている物も有り、かつてのサッカリンやタール色素
を使った食品と同じく、これから先、その危険性が表沙汰になる事も
充分に考えられるのです。

私達は、便利で豊かと言う言葉に従って、疑うことなく与えられるがままの
日本経済社会で生きていますが、日本人だけでなく、日本国土全体が
世界的に見て、数多くの危険物質に汚染されている事を知らなければ
なりません。

農耕地ののみならず、都会の緑地帯の土、更には、一般住居の庭の土に至っても
諸外国の土壌とは比べ物にならない程化学物質が存在している事実を、殆どの
国民は知る事無く、生きる全ての環境が汚染された中で生活しているという
驚くべき実態が黙認されたままである事を知って欲しいです。

海や川が汚れているとメディアは伝えますが、本当は、私達の住む環境自体が
多くの化学物質によって汚染されているのです。
問題は、この全ての原因が、消費経済社会をもって豊かに成ろうとする人達の
勝手な思惑で生じていると言う事です。
経済的に豊かな暮らしが出来ると言う事で、国民の健康と日本の美しい自然が
犠牲に成って来たという事実を多くの人達が感じていない事が問題です。

日本は世界的に見てもトップクラスの長寿国として知られていますが、
実際は、健康で長寿であるかと言えばそうとも言えないのです。
戦後、高度成長と共に生活は便利に成ったと言え、国民の疾病率は急上昇し
特にかつてなかったような難病が数多く出現し、多くの国民が、死ぬまで
様々な病で苦しんでいるのです。

多くの人の死因が、悪性腫瘍、つまり癌である事が知られている様に、
個人的な問題と言うより、生活環境で有ったり、それまで摂取して来た
様々な食品が問題である事が解っています。
病に伏すと、更なる化学薬品を投与され、日本人は、人生の全てを、
経済社会の発展に利用されているとも言えるのです。
まるで、日本人全体が経済社会を発展させる為のモルモットの様に
利用され、心も身体も傷つきながら生きて行かなければならないのです。

私達人間は、一人では生きてはいけません。
多くの人達と助け合い、様々な生きる糧を与え合って豊かな人生を
送れるのです。
しかし、他人と関わり合う重要性は、自分自身の心と身体が、他人との
関わり合いで生まれるからであって、その関わり合いで傷つけられては
成りません。
一見便利で豊かな様に思われる消費経済社会が、実は、自分達の心と
身体を、そして美しい日本の自然を傷つけている事を知らなければ、
成りません。
本当に自分自身が幸せになる為に、更には、日本の美しい大自然が
未来永劫続いて行く為には、一体どうしたら良いのかを常に考える
必要が有るのです。
膨大なる知識だけでなく、日常的に溢れる食品や便利グッズが
本当に自分にとって必要な物であるかを、しっかりと判断できる力が
必要であると言えるのです。