めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

桜を愛でる日本人の心

2018-03-23 16:07:25 | 日本人

梅は咲いたか、桜はまだかいな ♪ と言うのは、江戸の端唄なのですが、
寒さに震えた今年の冬を忘れてしまう程、ここ数日、都内の桜は、蕾を
大きく膨らませ、日当たりの良い所では、既に、3分咲き以上と成りました。
毎年の事とはいえ、桜は、日本人の心を揺さぶる花であり、数多くの
春に咲く花の中では、断トツで、日本人の魂を熱くします。

私の住む目黒河畔は、昔から桜の名所として知られていますが、ここ10年程で
その光景は驚く程の変わりようです。
息子がまだ幼かった30年程前は、護岸はまだ多くが土で覆われ、春ともなると
真っ黄色に色づいた菜の花と可愛い土筆の群落が桜の花と素晴らしい春模様を描き
摘み取った土筆を卵とじや土筆ご飯で頂くと、ほのかな苦みに、春が来たことを
感じたものです。

しかしながら、数十年の年月は、目黒川の風情を大きく変えてしまいました。
美しく護岸が整備され、遊歩道には、多くの人達が行き交います。
特に今の時期とも成りますと、全国から多くの観光客が押し寄せ、更には、
ネットで世界に紹介されると、今では、半分は海外からの観光客と言えます。
その為、いつもなら静かな遊歩道は、まるで、渋谷の繁華街を歩くようです。

行き交う人と肩をぶつけない様に気遣い、桜の花だけでなく、何処に行っても
歩道を行き交う人の顔を見続ける事と成ります。
殆どの人が頭の上の桜に気が向きますが、足元にも様々な工夫がされていて
歩道に幾つも有るマンホールには、この地域をアピールする観光施設の絵が
描かれていて、中には、桜を模したものも有り、人が少ない時は、写真を撮って
SNSに投稿する人も多い様です。

とは言え、桜は、本当に日本人の気質に合っている花と言えます。
パッと咲いてパッと散る、というその姿に、潔さや意気の良さを感じる人も多く
寒い冬をじっと耐え、空を覆い尽くすほど咲き誇る姿は、日本人に夢を与えます。
昔から、春夏秋冬に於ける様々な自然が私達日本人の目を楽しませるのですが、
一年の間に次々に変わって行く大自然の美しさは、少なからず、日本人の心に
大きな影響を与え、日本人気質を生んで来たと言えます。

今でこそ、一年を通じて、日本人は自然に左右されない生活が出来るのですが、
数千年の間、日本人は、四季の移り変わりと共に自分達の生活を営んで来ました。
大自然のダイナミックな移り変りは、日本人に豊かな糧を与えたと共に、
自然の脅威や厳しさを教えました。

自然を克服し利用する事を常とした欧米人に対し、自然と共に生き自然に生かされ
人生を歩んできたのが日本人と言えます。
その為、私達は、自然の移り方に極めて敏感であり、たとえ、一日の初めであっても
先ず、お天気から気になるのです。
現代人の生活は、お天気に左右される事は滅多に無いにせよ、自然の移り変りを
天気を通じて感じる事に依り、日本人が太古の昔から身に付けて来た、自然に対する
繊細で労りの有る思いが対人的にも反映していると言えるのです。

しかしながら、日本社会が明治からの欧米化に伴い、日本人の自然との関わり合いに
大きな溝が出来て来た事は否めません。
自然を利用して、人間の利益のみを考えて日本を工業化した事に依り、日本の大自然は
ことごとく破壊され、私達が肌で感じて来た美しい日本の自然は、いつの間にかに、
人間の廃棄物で汚され、多くの生き物達は絶滅したり激減したりしました。

大自然に生かされていた日本人が、大自然を失うにつれて、便利で豊かな生活が出来る様に
なった引き替えに、心と身体の健康を損なう様に成ったのです。
暖かい心で通じあっていた人々は、お互いに競い合いいがみ合い争い、人間としての
優劣を作る事に依り、多くの人々が、常に、心休まる事無く、いつも不安を感じ、
未来に夢を抱くことが出来なくなってしまいました。

どんなに多くの利益を得ても、地位や財産を築いても、安心感は有りません。
他人の上に立つ事は、他人から妬まれ憎まれ、更には、傷つけられる可能性も出て来たのです。
まるでアメリカ社会の様に、銃を持って自らと家族、そして財産を守らなければならない
他人を信ずることが出来ない社会が広がっているのです。

豊かな生活をするには、他人を差し置き、蹴落とさねばならず、ちょっとでも油断すると
同じように自分が嫌な思いをしなければならない、心休まらない社会と成っているのです。
日本人が、自分達の生きる目的喜びの目的を、経済的な豊かさとした時点で、
自分達の未来を見失ったと言えるのです。

何千年もの間、生きる意味や価値を、大自然と共に感じ考え、更には、自然の中に
絶対的な物として様々な神の存在を感じました。
日本人が、生き物全てを愛おしく感じたり、大自然の営みに自分の人生を感じたりするのは
少なくとも、自然と共に生き自然に生かされてきた長い歴史が成せるものなのです。

美しく咲き誇る桜を見て、唯、桜の美しい姿に感動するだけでなく、その姿に自らの人生を
当てはめたり、そこに集う多くの人々との心の交流に、桜を愛でる気持ちと人を尊ぶ気持ちが
大きく重なって来ると言えるのです。

とは言え、桜が美しく咲こうも、ほんの二週間ほどで散ってしまうのには、感動と共に
大きな寂しさを感じるものです。
あれ程咲き誇っていたのに、いつの間にかに消えてしまう、この劇的な変化は、少なからず
日本人の心にも大きな影響を与えているのです。

俗に言う、熱しやすく冷めやすいと例えられる日本人の気質は、いい意味でも悪い意味でも
多くの場で知られています。
例え、大自然の脅威に晒されても、時が経てば、必ず元の幸せが戻って来ると言う希望にも
繋がるのですが、何度も同じ失敗を繰り返すと言う、マイナスのイメージも有ります。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、と言われる様に、直ぐに教訓を忘れてしまったり、同じ間違いを
繰り返す事が多いのです。

桜の花が散った頃、一体国会で何の審議が有ったのか、思い出せない様に成ってしまわないか
これまで何度も繰り返す政治疑獄を思い出すたび、政治の世界は、一時の記憶で終わらせない様
如何に後世に伝え、二度と同じ事が起こらない様に国民一人一人が心に留めておかなければ
またもや、ほとぼりが冷めた頃、我欲に満ちた方々が、同じ間違いを繰り返す可能性が有るのです。

桜が散った後、今度は、緑の爽やかなトンネルが目黒河畔に現れます。
秋に成って、錦の紅葉となるまで、遊歩道を歩く人々を強い太陽の光から守り、川面を伝う
気持ちの良い風の通り道となります。
多くの方が、春の花の時期に集中してこの地を訪れますが、桜は、一年を通して、周囲の人々に
憩いの時間を与えてくれるのです。

本来、日本の自然は、春夏秋冬、日本人の心と身体を癒し、日本人の美しい心を育てて来たのです。
日本人が本当に幸せを感じるのは、この、大自然が復活した時と言えます。
決して、経済的に豊かになれば日本人は幸せに成ると言えないのです。
生活は豊かになっても、心が荒んで、寂しさが募る様では、私達日本人は、生きて行けないのです。
日本人が本当に幸せな人生を送る事が出来るには、太古の昔から培われた日本人の心が癒され
自然に育てられ、自然と共に心と身体を育てられるようになった時と言えるのです。

 

 

 

 

 


富裕層を守るために作られる日本社会

2018-03-22 15:04:04 | 日本人

自分達に都合の良い様に規則や制度を決めてしまえば、
その通り遂行すれば、どんな不平不満も受け付けず、例え理不尽と
訴えられても、平然としていられる、そんな、社会が横行しています。
確かに、世の中を、スムーズに動かしていく為には、一番有効な方法で
全てを統率して動かして行けば、目的の利益は得られるかも知れません。

現代日本における社会の在り方は、一見、人々が幸せに生きて行けるために
様々な法律や制度が有る様に思えますが、この社会を円滑に動かしていると
思われる決まりごとが、多くの人々を苦しめているのも事実です。
法律に則っているから、決められた事だから、間違っていないとすることで
国民が苦しい生活から逃れられないと言う現実も有るのです。

何故、社会を良くして、人々を幸せにする為に造られた様々な決まりごとが
実際には、人々を苦しめるのか、それは、その決まりごとによって利益を得るのが
仕組みを作った方々が、国民の一部の、極めて恵まれている人達だからなのです。
彼らの目的は、一般の国民の生活を豊かにすると言うのではなく、基本的には
自分達の生活をより豊かにする為に、様々な社会の決まり事を作ったと言えるのです。

法律や社会の決まりごとは、本来、国民を幸せにしなけらばなりません。
しかしながら、現実には、多くの国民が、その決まりごとによって、生活が苦しく
生きることに苦慮しているのです。
一度決められた事を守る事は大切と言えますが、その決まりごとは、世の中の移り変りや
社会の価値観、人々の心の変遷によって、柔軟性を持って変わって行かなければなりません。
法律も規律も守る事で、人々が幸せに成る事が前提なのです。


しかし、現代は、基本的人権ですら守られず、日本国民が、日本に住むにあたって、
国家に守られているとは言い難いのです。
国民生活は、国の仕組みや制度を守る事に依って、一部の人への恩恵は有っても、
殆どの人への見返りは無く、ただ、税金の様に、あらゆる場面で出費のみを要求され
国民は、常に、目減りする資産に苦しんでいるのです。
つまり、相変わらず、多くの日本国民は、働けど働けど楽にならず、と言った日々を
繰り返しているのです。

つい先日、高名な物理学者、ホーキング博士が帰らぬ人と成りました。
アインシュタインに匹敵する程、人類に大きな足跡を残したと言える人でしたが、
彼の遺稿に、人類を愁う言葉が残っています。
現在の資本主義社会が如何に人類の未来を危うくしているかと言う事で、
世界の人々の経済状態を説明しています。
2017年に世界で生まれた富の82%が、世界人口の、たった1%の富裕層に集まり、
37億人の貧困層には、その1%しか与えられなかったとしています。

 

余りにも極端なこの数字は、決して他山の石ではなく、日本においても
日本の国内総生産の殆どが、数パーセントの富裕層によって生み出され
膨大なる利益は、国民に還元される事無く、極端な経済格差となって
多くの人を苦しめている事実が有ります。
しかも、この日本社会の在り方は、多くの日本国民の為に作られたと言う
ものでは無く、国民の消費を促し、利益が一部の富裕層に流れる様に作られた
社会構造なのです。

つまり、どんなに働いても、私たち庶民は、自分達を本当に豊かにすることは出来ず
常に、年貢の様に、御上に貢ぎ続ける様に世の中の精度やシステムが作られている
と言えるのです。
これこそ、消費経済国家の実情とも言えますが、自由平等の民主主義を謳った
日本国憲法からは程遠く、法律を上手く使った、独占的な商法に踊らせられる
哀れな日本国民を生んでいると言えるのです。

消費する事が美徳であり幸せとする国家方針は、明らかに、富裕層優先の政策であり、
国民の消費を多くして、国内生産を上げれれば、人々は幸せに成るとする詭弁です。
これまで、日本中が歓喜したバブルの頃であっても、本当に潤ったのは、その火付け役の
大企業であり、日本を動かしている方達に他なりません。
国民一人当たりの所得が急上昇して、人々の暮らしが楽になったとするのは、あくまで
国民を安心させるためのマスコミを利用した隠れ蓑であり、一般庶民が得た利益より
遥かに莫大なる報酬を得たのが、陰の多くの富裕層の方々である事は言うまでも
有りません。

社会が、好景気に成ろうと不景気に成ろうと、国を動かしている方々にとっては
それ程関心が有る事では有りません。
社会の変動で、自分達の資産が極端に減って、生活が困ると言う事にはならず、
莫大なる資産が目減りしない様に、新たなる制度を設けたり、社会の流れや流行を
生み出して行けば良い事なのですから。

しかし、問題となるのは、自分達を守っている社会システム、つまり、階級社会を
維持する事が出来なくなる事です。
この事は、世界の数パーセントに当たる、超セレブ達にも言える事であり、
世界中に貧困でい苦しむ人が増えようと、様々な地でテロや戦争が起ころうと、
自分達の地位が無くならなければ、何の問題も無いのです。

富裕層にとって、殆どの国民の生活は、豊かであろうが不幸であろうが
自分達の生活が今まで通り維持できればいいのです。
つまり、これまでの法律規律が守られ、自分達の生活が守られる事です。
しかしながら、この、富裕層にとって快適な社会規律や法律が、殆どの国民を
追い詰めている現状が有るのです。

今や、消費税を払う事すら苦慮している国民は多く、更なる増税となると、
より一層生活が苦しくなるのは明らかです。
様々な国民の日常生活に対して課税する事で、膨大なる国家予算を生んでいますが、
それらの血税が、本当に国民の為に使われているかと言えば、非常に怪しい物であり
これまでも、どれほど多くの無駄な公共事業に血税が使われたか、負の遺産をどれ程
多く生んだか、過去の事実を見ても、国政が、決して国民の為に行われていない事が
良く解ります。

にもかかわらず、相変わらずの不祥事や不義、そして疑惑の答弁が新聞紙面を占めて
国民が目じりを下げる記事は、一向に載る事は有りません。
冬季オリンピックで、辛うじて、国民を熱くする記事をマスコミが取り上げたものの
メディアを賑わす記事は、人間の情けなさ、人々を導く人達の不祥事や疑惑行為ばかりです。
しかし、それらのつまらない事件が一時の関心に過ぎない事も事実です。
何故なら、それらの事件や不祥事を生み出す温床である日本社会のシステムが全く変わらず
ただ、その様な問題が起こらない様にと、システム内で改革が行われるだけであり、
本質は全く変わっていないからです。

これまで、戦後の政治がらみの事件や企業社会での様々な不正行為を見ても、月日が経てば
マスコミが取り上げない様に内部で仕組みを変えただけで、本質的な問題は何も変わらず、
国民が忘れた頃に、また同じ事を繰り返しているのです。
政治家が繰り返す贈収賄、企業との癒着は、現代社会の仕組みそのものが変わっていない事から
常に、水面下で行われていると言っても過言ではなく、偶然、ほころびが出た時に、時の
マスコミや国民に突っ込まれるに過ぎないのです。

日本における、国民平等、男女平等、国民主権、自由主義社会というのは、世界に対する
仮の姿であり、実態は、国民は全く平等ではなく、男尊女卑であり、国民不在であり、
全く自由を認められない監視社会なのです。
一部の人達が如何に自由で幸せに生きる事が出来るかと考えれば、これまでに日本社会を
見れば納得がいくと言えます。
なまじ、国民が主体であり、自由で平等と思っている事から、現実を疑う事無く、
まるで、池の鯉達の様に、餌を与えられれば、幸せだと思ってしまうのです。
美味しい餌を食べられても、広い池で泳げたとしても、海はもっと広く、美味しい物は
いくらでも在るのです。

私たち日本人は、適度に豊かさを与えられる事に依り、爪を研ぐことなく、優しい羊と成って
気が付いたときは、食料とされているのです。
経済的に豊かというのは、富裕層が豊かであって、殆どの国民は、多くの支出を強いられ、
本当に豊かな生活をしていないのです。

適度な餌を与えられて満足している間は、日本国民は、本当の幸せは掴めないのです。
海外に於いては、直ぐに国家テロにも結び付く様な政治家の不義や裏切りも、
なまじ、発展途上国よりも経済的豊かな環境に有る事から、黙って見逃す傾向が有るのです。
いつの間にかに、日本人は、支配者たちの言い成りになっていると言っても良いのです。

既に、囚人番号も付けられていますし、行動はいつも監視できる法律も作られました。
国民は、個人の自由が守られ、幸せな人生が送れると言うのは真っ赤な嘘である事を
知らなければなりません。
新宿の繁華街を歩くと、ものすごい数の監視カメラが、街の至る所で目を光らせています。
これは、悪徳な客引き行為を無くしたり、暴力問題を未然に防いだりと、街を健全にして
多くの観光客を呼び込みたいとする商店街の意向が有るのですが、何処を歩いても、
レンズを向けられていて、余り良い気持ちとは言えません。

しかし、現実の日本国民は、様々な方法で、この監視カメラの様に、常に国から監視され
全ての行動を見られていると言っても過言ではないのです。
この事は、実際にカメラを向けられている以上に腹立たしい事なのですが、多くの国民が
社会システムをスムーズにする為に、番号をを付けられ、監視される事に不満を感じません。
日本に於いて、自由平等と言う言葉は、既に無くなっていると言う事なのです。

確かに、国民に被害を与えるかもしれない者達を監視する事は重要かもしれません。
しかし、その事を拡大解釈して、国民の生活を全て監視するようなシステム、一部の人が
管理する事は、ある意味、独裁社会の始まりと言っても過言では有りません。
今や、国が、家庭の中に土足で入って来ている様な状態と言えるのです。
これが、さらにエスカレートすれば、国民生活が、完全に管理され、私達の生活の自由が
失われる可能性も有るのです。

この件に関して、異議を唱えれば、リーダー達は、必ず、国民生活をより豊かに安全に
する為と言います。
しかし、国民を自由に動かしかねないこのシステムを、正しい考えを持った人達が常に
管理して行くとは限りません。
既に、様々な情報が奪われる事件が頻発し、膨大なる個人情報が、流出している事件は
頻繁に起こっています。

完全に管理され、機密情報として決して流出しないとした当初の政府の発言は、これまで
幾度となく否定されている事を、一体、どの様に国民に説明するのでしょうか。
国民を番号で管理する事は、国政に於いて非常に便利であり国民生活を守る上では
とても素晴らしいシステムとリーダーは言いましたが、この便利なシステムを一番期待したのは
他ならぬ大手企業であり財界である事は明らかなのです。

日本人が豊かで幸せに成るとした消費経済システム、それに基づいた国家政策が
ことごとく、一部の富裕層を豊かにしても、国民を幸せにはしなかった事実を
ひた隠しにし、自分達の悪行を暴露されると、一生懸命保身を図る姿に、
日本を守る能力も存在価値も有りません。
しかし、今の日本社会の根本が変わらない限り、もうすぐ、喉元過ぎる事になり
疑惑を持たれた人たちがホッと息をつく事が出来ると思うと、この繰り返しの日本政治に
怒りというより諦めしか生まれて行きません。

 

 

 

 

 




少しでも傷を軽く、将来の地位を考える工作

2018-03-21 14:18:16 | 日本人

誰からも賛美され、求められて登場した時は、華やかさと共に多くの期待感が
みなぎっていたのですが、末路と言うのは、いつも、みじめで、見苦しさを
感じさせるものです。
様々な政権やリーダー達の末期は、それまでの活躍が華やかであれば有る程、
色あせ、脆弱さを感じさせます。

正に、今のリーダー達の姿は、国民の期待を担うには、余りにもひ弱としか言えません。
しかし、人間の一生と同じく、どんなに力強い政権であっても、リーダーであっても、
時代と共にその役割を果たせなくなって、次なる新しい人達にバトンを渡す時期が
やって来るのです。
しかし、この、次なるリーダーを求める理由が、現リーダー達の
姑息な政治活動であり、私欲に満ちた、国民の気持ちを逆なでするような背徳行為で
有るとしたら、
彼らのこれまでの功績は、全て、犯罪とも言える程の悪徳と言えるのです。


人間の本性として、欲望を抱く事は間違いとは言えず、人類の進化は、すべからく人類の
飽くなき欲望の結果とも言えます。
しかし、多くの人々に同様の満足と安心を与える為には、人々の生活を管理し、欲望や私欲を
コントロールし、誰もが幸せな生活が得られるる様にするリーダーが必要となります。
文化の発達と共に、国や地域の人々全体を統率する人達が生れたのは、当然とも言えます。

究極に文化が発展して来た現代社会に於いて、人々の欲望を管理し、国民全てを幸せにするには
如何に国民が望んでいるかを常に理解し、その思いに即した実現を目指す事が求められます。
問題は、リーダー達の不義や、贈収賄、個人的な欲望の実態ではないのです。
彼らが、国民に対して果たすべき義務を怠っている事が最大の問題なのです。

国民の目を盗んで、私欲を肥やしていようと、国民が幸せで豊かであれば問題ないのです。
世界にには、目もくらむような御殿に住み、莫大なる利益を得ているリーダーも居るのです。
しかし、その膨大なる資産や利益を妬むことなく、幸せを感じている国民も居ます。
生きる為の基本的生活を守られ、将来を不安視しないで生きられるからです。

日本は、世界でも有数の経済大国と言われ、何でも手に入る豊かな国と位置づけられている
にもかかわらず、多くの国民が、日々の生活に苦しんでいるのです。
発展途上国に比べ、遥かに高額な収入を得て、近代的な日常生活を送っているのに、
心から幸せを感じている人が少なく、社会の流れに付いて行くだけで精一杯の人々が
実に多いのです。
近代的消費経済国家というものの、各家庭の必要経費は、豊かな生活を送るには程遠い
多くの支出と返済に追われている人が増えているのです。

そんな中で、国民の税金を使い、国民の為に働いているはずの公僕が、陰で身銭を稼ぎ
知らぬ存ぜぬのタヌキ芝居に、国民は、怒り心頭と成っているのです。
税金から高額の所得を得、更には、様々な優遇を受けて、国民とは程遠い豊かな生活を
送っているにもかかわらず、姑息な方法で私欲を満たしている事実は、政治家とは程遠い
詐欺師と言わざるを得ません。

国会が空転し、何日も審議が行われない事で、何憶何十億もの国費が無駄になっている
事実を差し置いて、自分達が如何に生き残るかの策を考えている心の狭さは、とても
日本を代表する方々とは言えません。
国民の怒りを外に、如何に事態を収拾しようかと頭を使っているのがありありと見えて、
キツネとタヌキの化かし合いを見ている国民は、蚊帳の外で、何の利益も有りません。

この不祥事に、彼らの頭の中は、今後の自分の地位の事しか考えて居ません。
如何に自分の不始末を隠し通し、責任を転嫁し、次なる美味しい地位を狙います。
国民の力を利用して築いた地位を、自分達のステイタスの為に使い、我欲を満たす
基盤として利用しているのがありありと見えて、既に頭の中は、次の選挙であり、
如何なる地位を確保するかで一杯であり、現実の問題を如何に解決するかという
一般の国民が思っている事とは程遠い所に視点を向けています。

リーダーが変われば、次なる体制で、如何に自分の地位を確保するかが最大の問題で、
週刊誌が騒ぎ立てる一連の問題等、既に眼中には有りません。
一日も早く事態の収拾を図り、いかに最小限の傷で留めるかが最大の懸案と言えます。
こんな人たちが、国民の幸せを考えられる訳が有りません。
地位や財産名誉を己の価値として生きて来た人達は、しょせん、人を導いたり
国民のリーダーとして、私達を幸せに導く事は出来ないのです。

私たちが住む資本主義経済社会は、外見的比較社会とも言え、多くの人々が、自分以外の
人々の生活と自分を比較して、人生の指針を決めがちです。
より豊かで幸せと思える人の生活を望み、同じような身なりをし生活を行えば幸せに成ると
思い込んでしまいます。
世の中も、常に、新製品を生み出し、国民に消費を促します。

他人よりも常に新しい物、高価な物を手に入れる事が、人生の喜びであるような教育を
小さい頃から受け、幸せとは、多くの所得を得て欲しい物を手に入れる事と思うのです。
しかし、これこそ、本当に豊かで何不自由なく生活できる人達の目的であり、常に、
庶民の資産が、富裕層に集まる仕掛けでも有るのです。

とは言え、このからくりが間違っていると言うのでは有りません。
消費経済国家というのは、こういう社会体形を持つものであり、社会の成り立ちとして
世界中で存在しているのです。
問題は、この膨大なる利益を得られるのが、国民の一部の人達に特化している事です。
つまり、豊かさの分配が成されず、貧富の差が著しくなっている事です。

消費を行い、資産を使う国民にが得られる利益が少ない事が問題を生んでいるのです。
どんなに所得を得ても、それを超える支出が有れば、豊かな生活は出来ないのです。
しかも、その支出は、衣食住に関わり健康に関わる事が多いのです。
殆どの収入を、月々の必要経費に持って行かれ、残された限りある残金で、如何に生活するかに
苦慮している家族が、日本中に存在しているのです。

数字の上での経済性や所得高をもって、日本国民は幸せであると言うのは早計であり、
日本人よりも遥かに低い年間所得しかない発展途上国の国民の方が、幸せな毎日を送っている
と言うのは珍しくは無いのです。
正に、日本国民は、外見だけ取り繕い、顔で笑って、心で泣いている国民と言えるのです。

日本経済社会に付いて行く為に、見た目裕福に見せ、余裕ある生活をしている様に見せているも
現実では厳しい日常を送っている日本人は、非常に多いのです。
立派なお屋敷に住み、いつも美しい高価な衣類を身に纏い、見るからにセレブの様な生活を
送っている様に見えて、しばらく顔を見なかったら、屋敷の中で餓死していたと言うニュースが
珍しくないのです。

特に、高齢者となると、外出しなかったり、周囲の人達と交流が無かったりして、現実の
生活をする事が出来ず、最後まで、バブルの頃の様な見た目を取り繕い、寂しく最期を遂げる
いわゆる独居老人のニュースは、珍しく有りません。

高齢の方々だけでなく、若い働き盛りの人達も生活苦で苦しみ、外見とは裏腹に、日々の食事
すらろくに摂れず、現代社会から取り残されてしまっている場合も非常に多いのです。
リーダー達は、たとえ、地方を視察しても、自分と同じような仕事の人や地方の有力者たちと
面談しても、その地で、社会の陰で苦しんでいる人達と会う事は有りません。

統計や数字を見せられ、外見的な地方経済を知るくらいで、そこに住む人達の本当の姿を
正しく知る事はほとんどできないのです。
もちろん、国会議員として国政に携わっていても、国民の真の姿に触れる事は無く、知識は、
幾つかの伝達経路を経て、殆ど資料としてしか知る事が出来ません。

つまり、国政は、国会の議事堂の中でしか判断できないと言っても良いのです。
事実は小説より奇なり、と言いますが、現実の国民の生活は、議員たちが考えているより
遥かに厳しく、訴えることも出来ない程深刻さを増しているのです。

そんな中で、日本人でもトップクラスの豊かな生活をし、国民経済を握り、国費を自由に出来る
選ばれた政治家たちが行うべき義務は、その生活に似合った国民への還元なのです。
その義務を果たさず、私欲に走って、更には、弁解と保身を図ると言う事は、如何に狡猾であり
犯罪ともいえるサギ行為なのです。

消費経済大国になったとは言え、日本人は、経済的に豊かになったかも知れませんが、
人間的には、一向に進歩せず、むしろ、より我欲を増して、他人の事を考えられない
我儘な人種と成ってしまったと言えます。
本当の幸せは、自分だけの欲望を叶える事では有りません。
どんなに高価で豊かな物を手に入れたとて、その事で、周囲の人が幸せに成らなければ
手に入れた物の価値というより、自身の価値が低くなると言えるのです。

人が持っていない物、新しい物、高価な物を手に入れる事が自分の目的であり価値とする風潮は
日本人を、決して幸せにはしないのです。
人も羨む経済的に豊かな生活を出来る人も、日々の暮らしにあくせくしている人も、
本当の幸せは何なのかを、日本人として、もう一度熟考する必要が有ると思えます。

 


支配者達のおごりと狡猾さ

2018-03-20 10:20:38 | 日本人

私達人類は、地球上の生き物の頂点となりました。
あらゆる分野に於いて、長足の進歩を遂げ、
何事においてもパーフェクトであると思えるほどの
存在となりました。
支配者となる事で、地球上の全ての食料資源を独占し
自分たちが思うが儘に生きることが出来るようになりました。

この事は、誰もが、支配者になれる可能性を示し、より高い
地位や身分になる事が、自分の思い通りの生活を送れる方法と
考える様に成ったのです。
今や、世界の動きを支配する人類の基本的感覚は、より経済的に
豊かな生活を行い、社会的に高い地位や財産を得る事であり、
幸せに成る方法と信じて疑わない人が多いのです。

しかし、誰もがその様な生活を求めれば、争いが起こるのは当然で
個人の争いから国家の争いまで、その原因の根底には、この人類の
葉てしない欲望が有ると言えるのです。
とは言え、この強い願望は、人類の限りない進歩を生む事になり、
私達が、地球の支配者に成れた理由でも有ったのです。

所が、幸せに成りたいとすると、逆に、トラブルが多く生まれたり
不幸になってしまう事が多いのです。
人類の歴史を見れば一目瞭然で、欲望の果てに争いが有り、多くの人が
苦しみ悲しみに打ちひしがれるのです。
勝者となれば、自分達の欲望を満たす事が出来ても、敗者となれば、
辛い日々を送る事に成るのです。

私たち人類は、協力し合って歴史を創り上げて来ただけでなく、
争いながら、お互いのテリトリーを広げ、略奪を繰り返し、
相反する歴史を続けて来たのです。
この事は、人間の持つ二面性を表していて、本能ともいえる行動は
人々を幸せにするだけでなく不幸にする事も避けられないのです。

出来る事なら、いつも幸せでありたいと思うのが人の常であり、
不幸にならない為の、様々なルールを作り、お互いに監視し合いながら
間違った道に進まない様に作られているのが現代社会と言えます。
しかしながら、全ての人が幸せに成る為には、幸を平等に分け与え
同じ価値観を生んでいかなければなりません。

しかし、人間は、集団で生きるも個の生き物と言えます。
一人一人の感覚は違っていて、当然、価値観や思いも違っています。
更に、協力し合う一方、望む物を少しでも多く手に入れ、更には、
多くの人々からの信頼も勝ち得たいと思うものです。
この、欲望を如何に満たすかで、世の中が楽しくなるか苦しくなるかが
決まって来るのです。

出来る事なら、思う事は何でも叶う豊かな人生を望むものです。
その可能性を多く秘めているのが、現在の、消費経済社会であり、
自由主義社会と言えるのです。
子供の頃からの競争社会、社会人となっても、より豊かな生活を目指し
少しでも多くの所得を目指します。

国民全体が、自らの生活向上を望み、所得上昇の為に頑張って仕事をすれば
当然、国内総総生産も増え、経済は発展して、人々の暮らしは豊かになります。
この社会機構が、明治以来の日本社会の姿と言えます。
世界的な経済大国となり、世界の物流の中心ともなり、欲しい物は何でも
手に入れられる国と成りました。

しかし、日本人は、豊かな生活をする様に成って、幸せな生活を手に入れた
と言えるのでしょうか。
より経済的に豊かな生活が出来るようになった日本人は、本当に心から
幸せであると感じているのでしょうか。
いや、欲しい物が手に入る様に成ったから、幸せに成ったと言えるのでは
と思う方も多い事でしょう。

では、経済的に豊かとなった方々の心の声を聞いたとき、本音はどうなのか、
同じ日本人として知る事は大切と言えます。
先ず、日本人というだけでなく、人間として、幸せと思う項目の中に
衣食住が満たされると言うのが有るでしょう。
当然、生きて行く為の基本であり、誰もが、生活に健康に不安がない事が
一番大切と思う事です。

当然、所得が高ければ、これらを満たしている事が多いでしょう。
では、社会的な満足度はというと、地位が高く身分が高ければ、それ相応に
満足と言え、この事も、幸せの条件に入って来ると言えます。
そして、最大の目的である、有り余る資産が有る事です。

これらの条件を満たしている日本人は、今や、履いて捨てる程いると思われます。
もちろん、絶対的に、毎日生きる事に精いっぱいの国民が多い事は事実ですが。
しかしながら、この豊かな条件を満たしている人達が、日々、心にゆとりを持ち
満足した生活をしているかと言えば、そうとも言えないのが問題と言えます。

他人よりも豊かな生活を行い、一生不安を抱く事の無い生活が出来るにも関わらず、
一向に心が満たされない方々が多いのは何故でしょう。
では、もう少し、この不安な心を覗いてみましょう。
一体何に対して不安を抱き不満を感じているのでしょう。

その原因は、自分自身の心の在り方に有ると言えます。
つまり、満足の基準が自分の心に無い事が最大の問題と言えるのです。
この豊かな消費経済社会に於いて、次々に手に入れる物は全て、一時しのぎに過ぎず
常に新しい価値のあるものを求めなければ満足できないとする心が問題です。

日本人の心の中に存在する、社会的価値が、自らの価値にすり替わっているのが
多くの不安や苦しみを生み、更には、満たそうとする気持ちが、人を傷つけたり
自らの心を苦しめたりするのです。
日本社会は、国民の幸せを作るとしながら、経済発展により、より国民の消費を促し
常に、求める幸せを個人の基準ではなく、経済社会からの提案によって生み出して
いるのです。

つまり、幸せの基準は、経済社会を担う人達によって作られているのです。
常に、新商品や流行という名で、新たなる幸せの基準が生み出され、
従来の基準を破棄させる事で、消費経済国家を創り上げているのです。
簡単に言えば、次々に幸せの基準を乗り換えさせる事に依って、
日本経済を回していると言って良いのです。

つまり、昨日の幸せは、今日の幸せとはならず、新たなる喜びの基準を
手に入れる事がステータスであり、幸せに繋がるとするのです。
国民は、まんまと、企業の戦略にはまっていると言っても良いでしょう。
日々流れるコマーシャルは、常に新しい商品を国民に提案し、国民の
夢と幸せは、その商品を購入する事に依って得られると洗脳します。

どんなに素晴らしいと思っていたものであっても、次の日には、
色あせ捨てざるを得なくなる生活を強いられているのです。
経済社会を発展させるための教育を幼い頃から受け、自分の喜びは
社会的な地位であり財産で有り、膨大なる消費であるとして育つことで
日本人誰もが、自分自身の価値観を持つのではなく、社会的に認められた
多くの人が求める物に幸せの価値感を抱くようになったことが、
日本人が、いつまで経っても、幸せに成れない大きな原因と言えるのです。

では、何でも手に入る様に成った人の価値観はと言えば、自分自身が
本当に求める個人の心を満たすものであり、それは決して高価な、
多くの人が羨望するものでは無いのです。
本当に豊かな人は、極めて質素であったり、多くの人が求める物に
余り興味が無い事が多いのも、何不自由ない生活が出来る様に成って
初めて、本当に求めるものを知るからです。

しかし、これは、金持ちであろうと貧乏人であろうと、心は同じであり
日本人としての根本的な感覚は同じなのです。
お金が無いから不幸だとか、お金が有るから幸せと言えないのです。
一番の不幸は、社会的な価値観に振り回せれて、自分自身を見失い
本当に必要な物が見えなくなってしまう事です。

問題は、個人にとって一番大切な事を見つけられない様に社会が作られ
その事で、多くの国民が苦しむ事です。
経済社会を維持し、消費経済国家として現在の社会機構を維持するために
国民の興味を常に消費に向ける様に社会が作られている事です。

小さい頃から競争させる事も、より豊かな消費経済社会を作る為のものであり、
国民一人一人の幸せを願ってと言う物ではないのです。
しかし、より豊かな生活を求める為、自分の地位や財産、名誉、テリトリーを
守るための諍いが絶えません。
より豊かな生活をする者が我儘出来るとする社会は、パワハラ、セクハラ、暴力を
生み出す事と成るのです。

角界の様に、番付けが一つ違えば天獄と地獄と言われる様に、単に地位や階級だけで
下に居る者を自由にしたり圧力を加えたりできるとする風潮が多くの問題を生みます。
例え、国のリーダー達であろうと、経済至上社会が生み出した驕りの感覚は、
自分達の置かれている地位の責任を忘れ、欲望のままに、恥ずかしい問題を起こす
原因となっているのです。

例え経済的に豊かな国になったとは言え、国民として、我儘で身勝手な人達を
多く生む結果となった事は、日本人として退歩としか言いようが有りません。
社会的に地位のある人たちの不祥事は、メディアが取り上げ問題視されますが
これとて、氷山の一角である事は言うまでも無く、日本中の会社企業に於いて
日常的に起こっている問題である事は否めません。
経済発展によって豊かな生活をしているはずの日本人が、益々不幸になっている
と言う目に見えない事実を、時のリーダー達は全く解っていなのが、日本人にとって
最大の不幸と言えます。

 

 

 

 



 


心の闇を持つ日本人

2018-03-19 14:07:46 | 日本人

メディアから次々に流される各界の不祥事、政界、角界、スポーツ界、財界と
止まる事を知りません。
日本を創り上げている世界が全て、疑惑の対象と言ってもよく、たまたま発覚した
氷山の一角が取り上げられているに過ぎません。
知名度の高い、国民が憧れたり目指したりする社会であるからこそ、問題となる
と言えるのでしょうが、パワハラ、セクハラ、贈収賄等、犯罪紛いの事は、
現代の日本社会に於いては、当たり前に存在していると言えます。
ただ、様々な理由で、表沙汰に成らないだけであって、例え、子供たちの間でも
日常茶飯事と言えるのです。

消費経済社会に於いて、より地位が有り、財を成している人が、絶対的権力を
荷っているのは今も昔も変わらず、自由平等な社会というのは、現実には有り得ません。
角界の不祥事が続き、力士は、番付により格差が生じ、一つ番付が違えば天と地の差
が有ると言うのは、単に地位や収益的な物だけでなく、精神的肉体的にも優位であり
上に立つ人間には、様々な我儘が許されるのです。
簡単に言えば、日本社会に於いてパワハラは日常的であり、泣き寝入りも当たり前
と言えるのです。

法治国家であり、精神的にも肉体的にも暴力は許されないとしていますが、
裁きの場に明るみにされる暴力は、万に一つも有りません。
日本社会で働くと言う事は、このあらゆる暴力に耐えなければならないと言う事です。
番付の様に、一般社会に於いても、少し地位が高ければ、その下の者に対して、
高圧的態度を取ったり、マウンティングをしたり、直接間接的に圧力を加える事は
珍しく有りません。

社会的に、地位や学歴、経済力などが優れば、自分より下とみなされる人に対しては
横柄な態度を取っても、理不尽な要求をしても許されるとする風潮が有って、
建前とし、社会人としての大人の態度を取っていたとしても、陰で、パワハラや
セクハラをしている人は少なくないのです。
しかしながら、人を蹴落としても、社会的地位を築いて来た人達にとっては、
その様な場面を見ても、黙認したり、力のある側を認めたりと、常に、利益を伴った
自己中心的な判断をする事が多く、例え、理不尽さやハラスメントを訴えたとて
かえって、自らの生活を失う事にもなりかねないのが日本社会の実情です。

政界の不祥事、角界、スポーツ界の暴力、社会に蔓延するパワハラ、セクハラは、
問題視する方々の中にも、加害者と成り得る環境や経験がある事が少なく有りません。
つまり、問題が発覚した時点で、善悪を決めたとて、どちらにも悪の要素が有り、
訴える側にも、すねに傷が有る場合が多いのです。
その為、社会全体の自浄作用が無く、単に、同じような社会で育って来た日本人が
内輪揉めしているに過ぎないのです。

しかしながら、少しでも、日本社会に内在する人の心の醜さと狡さを公にする事で
誰もが、自分の心に潜む善と悪を知る事が大切です。
車の運転と同じく、誰もが、加害者にも被害者にもなるのです。
今、日本社会で最も欠けているものは、モラル、つまり道徳と言えるでしょう。
単に、社会生活を円滑に行う為の方法というだけでなく、他人に対する深い理解と
尊厳を如何に考えるかの、一生を通じた学び舎が無いのが問題です。

自分自身の欲望を満たす術は多く学べても、人と如何に関わるか、自分とは違う
他人の心をどれだけ深く理解できるかの教育が有りません。
自由平等と言うのは、誰もが、同じレベルに有ると言うのではなく、人は、誰しも
全く平等な立場にあるのではなく、其々の与えられた環境で、個人としての判断で
社会を生きているのです。

一人として同じ考えの人は居なくて、周囲の人とうまくやって行く為に妥協をしたり
協力をしたりしているのです。
自分が思う事と同じ行動や考え方を示してくれているとはいえ、それが本心とは言えず、
人によって、心の中は様々に違っているのが事実です。
しかし、自分の事しか考えられないと、他人が自分に示す態度がその人の本心と思い
外見的態度をそのまま受け入れてしまいます。

その為、何でも自分の思い通りになると、ますます横柄で高圧的に成り易く、時に
パワハラや、暴力を平気で行う様になってしまうのです。
自分の言動や行動が如何に受け取られているかが、相手の心を知る力が有れば解るのです。
日本人は、昔から本音と建て前で生きている民族と言えます。
これは、本音で語らない動かないと言う事から、失礼な事と思われるかも知れませんが、
この建前とは、相手に不快に感じられない様、快く思われる様にする言葉の術であって、
お互いに、相手の気持ちを安らげる為に行います。

しかし、現代社会には、本来の本音と建前が存在せず、常に、利益を前提とした
駆け引きであり、トラップである事が少なく有りません。
自分の利益を増やしたり、相手の富を奪う為に、テクニックとしての媚び諂いが多く
どんなに丁寧な言葉であっても、その裏では、舌を出している事が珍しくないのです。

私達人類は、太古の昔から、一人で生きて行く事は出来ず、集団で協力し合って
進化してきました。
様々なトラブルに、多くの人々の知性が集まる事に依って、より的確な判断が成され
人類の発展に大きく貢献して来たのです。

しかし、地球の支配者となった現代に於いて、人々の欲望は留まる事を知らず、
お互いに協力すると言うより、個人的な利益を目指す社会と成りました。
限られた資源や食料を得る為にも、少しでも地位の高い経済力の高い事を望み
人類社会に、独占という、争いのシステムが生れました。

競争社会が作られ、より、多くの富を得る事を人生の目的とする人達が増え
世界的に貧富の差が大きくなりました。
日本社会に於いて、この格差社会は年々酷くなり、今では、日本人でありながら
様々な合い入れない社会が生まれています。

学校に於いても、企業に於いても、其々が独立した競争社会を生み出し、
利益の為に関わる以外は合い入れる事は有りません。
特に、富裕層と一般所得者層とは、別の国の様な存在となっています。
現代社会は、一部の富裕層の方々の作り上げた社会と言え、しかも、
富裕層の方々にお金が流れる様に成っています。

つまり、一生働き続けなければならない庶民と、思い通りい生きられる
一部の方々に分けられる社会と成っているのです。
問題は、多くの人々が、お互いに競い合い、傷つけ合わなければ
生きて行けない仕組みが現代社会に在る事です。

果てしない競争社会は、留まる事を知らず、自分以外の人を排除し、
より多くの利益を獲得する事でこの社会での自由が効くのです。
人の気持ちを感じるより、自分の欲望を満たす事が前提となり、
己の地位と財産をより多く得られた人間を認める社会と成っているのが
日本社会を歪め、人々を苦しめる結果となっているのです。

頻発するセクハラもパワハラも、暴力問題も、一部の人達にとっては
高みの見物に過ぎず、トラブルが起こる社会であっても、自分達の
利益が損なわれなければ、何の問題にもなりません。
例え、政治家であっても、頭を挿げ替えればいいだけの事であって、
日本中の利益が、自分達に流れる体制が無くならなければ良いのです。

競わせ、生産性を上げる、つまり、経済力を高めれば国民は幸せ異なる
と言うのは、真っ赤な嘘であり、その利益が自分達に回って来ることが
解っているからこその経済力強化なのです。
人々は日々の生活で大きなストレスを担う事と成り、そのうっ憤は
弱い物に向かいます。
人の気持ちを感じられないが故の事件が増えるのは当たり前と言えます。

パワハラ、セクハラ、暴力、イジメ、差別等、それらの根っこには
日本人の心が満たされず、苦しみが癒されない日常が有るのです。
結果しか求められない社会で生きて行くには、いかなる手段を使おうと
誰が苦しもうと悲しもうと関係ないのです。

日本社会が見失っているものは何か。日本人が本当に求めているのは
常に他人よりも優れる事ではない事を、リーダー達は知らなければ
なりません。
利益を伴わない事には関心を持たず、自分より地位や財産が上の人には
媚び諂う人が、人の上に立っても世の中の役には立ちません。

人としての道が世の中を動かす方々に見られなければ、国民や周囲の人々が
付いて来る事は有りません。
地位や財産と言った社会的な力でしか人間の価値を決められない人が多く、
人々の生活を殺伐としたものにしているのです。

人は、自らの人間としての価値を認められなければ、心安らかに生きる事は出来ず
例え、地位や財産やが多くとも、不安な毎日を送っている人は少なく有りません。
一体、自分は、何なのか、人間として認められていない事を感じた時、
人をおとしめたり、傷つけたりして、自分の存在を誇示する事が有ります。

また、より、経済的豊かな生活をして、人々に、自分の価値を感じさせようとします。
しかし、どちらも、自分の心が傷つき、より、寂しさが募るだけなのです。
セクハラ、パワハラ、更に暴力問題も、自分自身の存在価値を高めたいが為の行為
と言えます。
その事で、どれだけ相手が傷つくかが解らないのが問題です。

事件と成らないまでも、同じような行為が日常的に日本社会では起こっているのです。
国民の気持ちを考えられない、周りの人の気持ちを考えられない社会的地位の有る方が
問題を起こしているのです。
著名人の行為はメディアに登場しますが、一般社会の同じような事件は、殆どが
闇に葬られている事を知らなければなりません。
日本人が、個人的にも、国民としても、幸せになるには、少なくとも
経済的に豊かになるだけでは無い事を誰もが知り、自分が関わる人との関係を
もう一度考えてみる事が大切と言えます。