めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

戦争の恐怖を忘れない!

2016-01-30 15:59:41 | 戦争

戦争から半世紀以上の月日が経つと、世代も大きく変わり
人々の記憶の中に、記憶と言うより、過去の歴史中の一つとして
滅多に開けられない本の様に忘れ去られて行ってしまうのが
忘れてはならないと言われる体験です。
史実として、また体験者による事実として語られるものの、
月日と言うのは、それ程にも衝撃的な出来事を、まるで
何事も無かったかのように消してしまうのです。

実際に戦ったことの無い私の世代も、両親からの体験で

多少なりとも、その計り知れない恐怖と不安を知らされて、
客観的では有るにせよ、戦争は、決して行ってはならないと
心に記するものですが、世代が若くなるにつれ、増々、
その印象は薄く、日本が連合国と地獄の戦いをした事を
想像する事すら難しいのです。

先ごろ、フィリピンを訪れた、天皇皇后両陛下が、数十年ぶりに

戦火に見舞われた現地で生き残った方々と対面したニュースが
流れましたが、半世紀以上たった今でも、当時の辛い記憶を
背負い続けて生きて来た方々の思いに、戦争が、いかに
人々の心と身体を傷つけ、人生を締め付けるものかと、
息が詰まる思いと成りました。

フィリピンの戦いで、どれ程の数の人が亡くなり傷付いたか

今回の報道以前は全く知りませんでした。
太平洋戦争で、多くの島が激戦地と成り、日米両国の兵隊のみならず
現地の人々がどれ程多く亡くなったか、改めて驚き震えました。
我が国の戦争犠牲者だけでなく、この戦いに関わった多くの国々の
驚くべき数の一般市民も亡くなっているのです。

終戦間際、日本中の街が爆弾で焼き払われ、多くの一般の国民が

傷付き殺されました。
私達は、日本国民として、多くの同胞を失い、大きな犠牲を負ったと
思いがちですが、実際の戦争は、戦火を交えたと互いの国や地域で
同じ様な悲惨な状況が有った事を忘れては成りません。

戦争は、勝っても負けても、人々の心に大きな傷を残します。

勝ち負けをとやかく言うのは、戦争に国民を導いた人たちの考えであり
どちらにしても、多くの国民は、多大なるストレスと、悲しみの負の記憶を
いつまでも背負う事と成るのです。

私達の日本を守る為戦った多くの日本人が、現地で今だそのまま

供養もされず大地に眠っている事実も有りますが、同じ地で、敵となった
その地の多くの人々も無念の死を遂げて眠っている事を忘れては
成りません。
いつの世も、戦争は、人々の心と身体を傷つけ、何代にもわたって、
辛い思いを背負い続けなければならないのです。

歴史的に、人類は、戦争を回避する事は中々できません。

平和とは、戦争と戦争の間の休戦期間であるとも言われます。
人間の欲は果てしなく、戦う事が遺伝子に組み込まれていると思われる程
世界で戦いが無くなった時は有りません。

しかし、戦えばそれ程にも、苦しく辛い思いを体験しなければなりません。

ならば、少しでも長く、平和な時を保つ努力をする事が、人間として
前の戦争から学ぶべきことなのです。
戦争は、決して突然何の原因も前触れも無く起こるものでは有りません。
必ず、人為的な原因から生まれているのです。
その原因となるもの、行いを平気で行う様になって来ると、世の中は
次第にキナ臭くなって来るものなのです。

戦争が起こる前は、いつの世も、国民を安心させるべく平和を保障する様な

様々なプロパガンダが流れます。
しかし、陰では着実に戦火の足音が迫ってきます。
戦争は、言いようのない不安の中、絶対安心を唱える指導者たちの言葉が
頻繁に聞こえる様になると、突然私達の足元をすくう様に始まります。

リーダーたちの、国内的にも対外的にも積極的な行動や行為が、一見

世の中を豊かに平和にして行く様に感じられた時、私達は、あっという間に
戦火の中に引きずり込まれて行くのです。
私達庶民が、戦争の不安を感じている時は、滅多に戦争にはなりません。
絶対に戦う事は無いと過信している時、その時はやって来るのです。

太平洋戦争が終わって、国民すべてが二度と戦争はしたくないと心に誓い

誰もが平和に向かって進んでいた時、私達は空前の高度成長を得たのです。
今や、その戦争の恐怖、不安が国民の多くに有りません。
歴史は繰り返すと言われます。
二度と繰り返さないと誓った日本人が、いつの間にか、また、あの苦悩の日々に
引きずり込まれる日が来ないとも限らないのが、実は、今の日本なのです。
                   


スキャンダルは、人のおごり

2016-01-29 16:28:41 | 社会

政界も芸能界も、スキャンダルが絶えません。
今に始まった事では有りませんが、聖人君子と言われる人とか
世の中をリードしている人、社会的に地位のある人々の
有ってははならない行ないが、国民の気持ちを苛立たせ
呆れさせ、落胆させています。

過去の政治の世界を振り返っても、時の首相自らの汚職に始まり
政治家が起こす事件は数知れず、医者、弁護士、教師と言った
社会的に崇められる人々の犯罪事件は推挙に値しません。

これ等の方々が目立つのは、もちろん社会的に存在感のある地位で
働いている事も有りますが、メディアに取り上げやすい事も有り、
マスコミがこぞって掲載する傾向が有ります。
更に、芸能人のスキャンダルは、絶好のメディアネタであり、
内容が、イメージとかけ離れれば離れる程、ニュースソースと成ります。

とは言うものの、こういった地位のある有名な方々が、様々な事件を起こし
社会を混乱させたり、驚愕させたりしているのでは有りません。
たまたま目立つ地位にある人達だから取り上げられるのであって、
日本に起こる様々な事件のほんの氷山の一角、いや、それ以上に
微々たるものなのです。

つまり、表には出ないものの、実際は、私達の知らないところで、
この、何十倍も何百倍もの事件が起こっていて、私達は、単に
知らされていないだけなのです。

では、全てを表沙汰にすべきと思うのが私達庶民の考え方であり、
何故、出てこないかと言うと、出さない方が、世の中が上手く回るからです。
悪く言えば、良くない行いが蔓延しているのが現代社会であり、
その中の、ほんの一部が表ざたになって、私達の目に届いているのです。

どんな地位のある人であっても、社会的に認められている憧れの仕事を
行なっていても、人間の本質は、差ほど高尚でも潔白でもないのです。
どんな人でも、自分の欲に向き合った時は、社会的な地位も名誉も
瞬時に忘れてしまう程弱いものなのです。
それを、完璧な人とイメージしてしまう大衆の方が問題なのです。

では、スキャンダルを生む事は良い事かと言えば、それは個人の問題で
良いか悪いかは、その時の様々な条件で変わって来るのです。
一番の問題は、私達が、一人で生きているのではなく、多くの人と共に
生きていて生かされている事を忘れてしまう事です。

ニュースに取り上げられない多くの事件は、その影響が社会的に
極めて小さく、多くの人々に伝えるニュースソースとならないのです。
社会的に地位のある人や有名人のスキャンダルは、本人の問題より
その人に関わる多くの人々に多大な影響を与える事となるため
ニュースとして取り上げられるのです。

時の大臣が行なった金銭授受は、金額的にも内容的にも、一般社会で
多く行われている事であり、その事に関しては、大したことではありません。
しかし、その行為の、政治的、社会的な影響は多大であり、日本丸の
航行にも様々な問題を生んでいます。
大臣の首を挿げ替えるだけで済む物ではなく、影響を受けた方々は
多大な損出を強いられ、多くの国民は精神的な不信感を強めたのです。

この事は、芸能人のスキャンダルにしても同じ事であり、ことの重大さは
本人の問題よりも、そこに関わった多くの人々に生じる膨大なる損出なのです。

しかし、この事は、どの社会でも、常に想定していなければなりません。
特に、膨大なる利益を得ていたり、多くの関わり合いを持っている場合は
それが突然無になる可能性が有るという事です。
スキャンダルにより裏切られたからと言って、その損出を悔やみ後悔する
のではなく、その時点までは、非常に良い状態で、パートナーシップを
築けていたのです。


人は、それ程にも弱く、簡単に志を変え、欲に負けてしまうものなのです。
それ故、多くの人々と繋がり、御互いに助け合い、道を間違わない様に
気づかう事が大切なのです。
人との関わり合いが弱くなれば、人々の中での自分の存在理由や価値が
解からなくなり、欲に任せた行動に走ってしまうのです。

社会的地位が高くなったり、人々から崇められる様になると、いつの間にか
自分が周囲の人々から浮いてしまう事が解からなくなります。
その為、昔から、リーダーは孤独と言われるのです。
増して、国のトップを任される様になるという事は、国民から離れてしまい
自分の立場を見失い、欲に駆られてしまう事が有る可能性があるのです。

それ故、私達国民は、リーダーを選ぶと共に、常に、その人達を見失わない様
同じ庶民の一人として助けて行かなければならないのです。
逸脱した地位の高い存在としたり、国政を任せたままで放置していては
国民の中に居るという事を忘れ、私欲に走ってしまうのです。

どんな職業であろうと、人より秀でる事は、社会的にも地位が上がり、
生活も豊かになるものです。
しかし、人の上に立つという事は、決して人間的に上になったと言うのではなく
多くの人々の中心で意見を聞ける立場になったという事です。
社会的に地位を成すという事は、自分の幸せは、周囲の人々と共に在り
人々の幸せが自分の幸せで有る、と言う事を常に心にしていなければ
ならないのです。


悪魔の製品、マイクロビーズ

2016-01-28 18:09:29 | 環境問題

私達の生活が便利で豊かになるにつれ、私達を取り巻く環境は
多くの生物達にとって、非常に危険で生き辛い状態と成っています。
科学の進歩の元、文明が発達するにつれ、問題と成るのは、
自然環境の悪化です。

太古の昔から、私達人類が作り上げてきた自然界への悪影響は

近代と成って、増々その規模は大きく、生態系に与える様々な問題を
浮き彫りにしています。

中でも、石油化学製品が開発されるにつれ、急速に広がって行ったのが

工場や一般家庭から排出される有害物質です。
特に、日本に於いては、高度成長期に公害の元凶として取り上げられ
その処理に苦悩したものです。

日本中の海や川が汚染され、人々の生活にも大きな影響が出る様になり

公害対策が、国の政策の中心に掲げられる程でした。
しかしながら、多く人々や自然を傷付けた公害も、様々な対策により
かなりの改善が見られ、近ごろでは、海や川が次第に蘇り、水生生物が
復活したニュースも多くなりました。

人々の努力も有り、海や川のゴミも次第に姿を消し、今では、見た目は

綺麗な海や川が見られる様になりました。
ところが、私達の目に見えないところで、更に酷い公害が増えていたのです。
外見的な汚れは減ったものの、目に見えない部分で、様々な公害が
世界規模で進んでいるのです。

その中でも、ようやく世界の人々に知られてきたのが、水の中に溶け込んだ

化学薬品や化学製品による汚染です。
ここ数十年に渡って、石油化学製品で有るプラスチック類の海洋汚染が
問題と成り、ビニールの袋やプラスチック製品を食べて死んだ魚や
海洋生物が知られていましたが、最近問題なのは、非常に小さな、一見
確認が出来ない様なプラスチックのビーズ類による汚染です。

その大きさも0.5ミリ以下と極端に小さく、多くの魚介類が簡単に

体内に取り込んでしまう大きさです。
マイクロビーズと呼ばれるこれらのプラスチック粒子は、私達の生活に
深くかかわっていて、化粧品、歯磨き粉、洗顔料等、様々な日常製品に使われ
そのまま下水を通って環境にばらまかれます。

余りにも小さい事から、下水処理施設のフィルターも通過してしまい、

私達の生活から直接自然界に垂れ流し状態となっています。
このプラスチック粒子がいかに危険であるかと言うのは、簡単に動物の
身体の中に取り込まれ、そのまま食物連鎖のサイクルに組み込まれる事です。

プラスチック類に共通の問題は、長く自然界に放置されると、大量の有害物質を

吸着し、生き物の中に留まる事です。
例えば、非常に有毒なPCBが大量に吸着されたマイクロビーズを体内に持った
魚が多く発見されていて、食物連鎖における大きな問題と成っています。

私達の生活を豊かにするために生まれた石油製品が、回り回って食物と共に

有害な物質を私達にもたらす危険性が非常に大きいのです。
今や、北太平洋の海を調査すると、水面近くを引くネットの中に集まる収拾物の
7割がゴミで占められ、その量は、プランクトンの6倍にも達すると言われます。
東京湾に於いても、小型トロール船に引き上げられる網の中身のほとんどが
ゴミと言われます。

しかしながら、網に入るゴミは除去できるにしても、微細な粒子は回収できません。

見た目美しくなった東京湾と言えど、毎日、目に見えない汚染物質が流入していて
多くの生物の生きる環境が狭められているのです。
美しく見えるお台場の海も、港町横浜の海も、覗いて見ると、生命反応が全くなく
自然の営みが感じられない海の実体が、私達の生活が原因と成っている事を知って
もう一度、環境問題を考える必要があるのではないでしょうか。


卑怯なネットによるバッシング

2016-01-27 18:29:00 | ネット社会

ネットの発達により、私達は居ながらにして、世界の情報を手に入れ
膨大なる知識を身に付ける事が出来るようになりました。
更に、世界のどこに居る相手とも繋がることが出来、まるで、目の前に
居る相手と仕事をしているかの様な便利さです。

情報量が少ない頃は、単なる意思の伝達手段に過ぎなかったのに、

今では、映像的にも膨大なる情報を与え合う事が出来、生活も仕事も
公私が混在する新しい時代になって来ました。

しかしながら、この事が、物事を進める上では長足の進歩となったものの

人々のプライベートは、増々、あからさまに、流出する危険性をはらんで
様々な分野で問題が発生しています。

かつて、社会と個人は、しっかりと区別して考える風潮が有り、公私混同と

行った言葉が示すように、仕事にプライベートを持ち込む事は、極めて
社会人としては許されない行為でした。

ところが、あらゆる公的機関がネットを中心に動き、そのなかに個人の情報が

組み込まれるようになって、私たちの、プライベートは、常に、公表されたり
第三者に利用される危険性が極めて大きくなって来ました。
いわゆるネット犯罪は、年々増加の一途であり、今や、世の中は、ネットを通じ
ネット情報で動いているが現状です。

確かに便利になったものの、世の中で生まれるもの全て、更には、マスコミから

発信される情報やエンターテインメントも全て、ネットの判断で動く様になり、
社会が、ネットを通じた社会反応に過敏に反応するようになって来ました。

その為、いかに、情報によって淘汰されないか、情報によって悪い評価を受けず、

より良い評価を得ることに躍起になっている様に成ってきました。
ところが、この評価と言うのは、非常に曖昧で作為に満ちたものと成ることもあり、
ネットによる評価が一方的でその責任を問われない事も有って、個人的に
悪意を持って評価をする人々を生む事も大きな問題です。

いわゆる、ネット情報に対する無責任なバッシングやイジメ、嫌がらせです。

発信した人達への判断基準を問う事が出来ない事から、極めて悪質な行為や
言動が見られ、その矢面に立たされた人や企業は、反論する術も持てず、
更には、その評価の真意も解らず、便乗して更に、当事者を陥れると言った
悪質な行為が目立ちます。

いわゆる、社会的な制裁であり、かつてヨーロッパであった魔女狩りの様な

陰湿な社会傾向と言えます。
学校や会社で問題になるイジメと本質的には変わらず、相手の事を解かろうとせず
一方的な情報と判断で人を陥れる行為は、社会的にも人間としても
許されるものでは有りません。

しかし、このネットにおけるバッシングも社会や学校におけるイジメも、

加害者側には、殆ど罪悪感が無く、自分の方にイジメの矛先が向かない事から
単に、感情のはけ口として安易に行う事が多いのも問題です。
ネット社会の弊害と言うか、誰とでもつながれる反面、誰からも反発を受けず
自分の一方的な発信で済ます事に、問題を増々陰湿にしています。

コンピューターが一般の社会に広がるようになって、すでに20年程になります。

私達の生活は、この便利なシステムの開発により、非常に便利に機能的になり
人と人が直接に関わらず、仕事も遊びも、自分が思うがままに遂行でき
膨大な情報と共に、多くの事が短時間で出来る様になりました。

そんな便利さに、人々はより自己の欲求を満たすべく、増々、その機能を高め

今では、個人が世界に企業に、それまで大きな隔たりがあったものに対しても
自己の考えや要求を訴える事が出来るようになったのです。

誰もが、平等になんでも出来る素敵な社会と成って来たと、手を叩いたのですが

次第に、その弊害リスクが明るみになってきた事も事実です。
機能的には便利になったものの、そのシステムは、人を傷つけ、社会の流れを
人ではなく、ネットの情報が牛耳るようになってしまったのです。

便利で機能的と言うのは、高度成長期には幸せの通り道の様に考えられ、

人々は、更なる豊かな生活を求めて、ついには、ネットと言う巨大な力を
手に入れました。
世界と自分が繋がり、居ながらにして何でも手に入り、あらゆる所へ自分の
思いを発する事が出来るものの、この理想の社会は、私達の考えとは裏腹に
多くの不幸を生んでいる事を知らなければなりません。

その最たるもの、それは、戦争です。

かつて、人と人が剣を交えながら戦っていたものが、今では、遠く数千キロ離れた
平和な街中からのスイッチ一つで行える様になってしまいました。
遠い戦地に、無人機を飛ばし、映像を見ながら、まるでゲームをする様に
ミサイルを発射している現実は、正に、一方的な殺戮であり、現代社会が生んだ
究極のバッシングと言えます。

今や、私達は、一人一人に番号が与えられ、あらゆる生活がコンピューターで

管理される様になりました。
あらゆる企業、会社、学校、更には国とも、ネットで繋がり、素晴らく便利で
理想的な社会に成ったと思うのは、これ等の管理者にとってであり、一方的な
管理によって、目に見えない鎖に繋がれた国民は、増々プライベートまで
覗き見られている、人間としての尊厳も自由もない社会へと向かっている
とも言えるのです。

御互いに相手の懐を覗き、相手の覗きにおびえる社会は、決して国民を

幸せには出来ません。
どんなに社会が発展し、近代化し、ネットが世界を牛耳るようになっても
人間は人間であり、人に生かされ人を生かしていくものです。
その根本を見失わない様、本当の幸せとは何か、一人一人がしっかりと
考え理解して行く事が大切と思われます。


復興しても晴れぬ心

2016-01-26 13:56:56 | 災害

いつまで検査を続ければいいのか。というのが
福島や周辺の汚染地域に生きる農林水産業に関わる方々の
率直な意見です。
政府として見れば、汚染地域の数字が低くて、安全という事を公表する事で
人々の暮らしも次第に復興し、しだいに元の様な安心で豊かな土地になると
考えているとしたら、大間違いです。

何故、原発事故の当時、東京に於いても、かなり高濃度の汚染が各地で

計測されたにもかかわらず、直ぐにその情報は、マスコミの話題から消え
あれから数年間、全く汚染には至らなかった、安全な東京と言う事を
世界にアピールしたのは、今の福島の人々や地域の生産物が置かれている
様々な問題が起こることを恐れての事だったからです。

当然、大きな力が働いて、首都圏の汚染は無き物となったのは明らかですが、

安全と言われる数値が出ているにも関わらず、福島や周辺地域が置かれいる
様々な苦しみを理解せず、日本においても、世界に於いても、特殊な地域として
印象付けている今の復興対策は、多くの人々の心を逆なでにしていると言っても
過言ではないと言えます。

震災から5年にも成れば、街も大きく変わり、人々の生活も次第に安定し

元の地に戻ることが出来る方も次第に増えてきました。
事によると、以前の生活よりも便利で過ごしやすい生活になるかも知れません。
しかしながら、多くの被災者たちの心が本当に晴れる日は、遠い先の事と成り
目先の復興で満足するのは、復興事業を進めてきた方々だけと言えます。

一番の復興は、被災者の方々の心の復興です。

ただ、死なずに済んだ、健康を取り戻した、住む場所が出来食べるに困らなくなった、
その様な生活を行なうための基本的な事は、時間が経てば次第に成し得る事です。
しかし、問題は、当日に失った多くの人々の心の糧、更には、豊かな自然と人の間で
培われてきた東北の人々の魂が癒されていない事です。

つまり、元通りの自然がいまだ戻らない事、さらには、震災以前に関わってきた

日本中の人々との心のバランス、そして、世界の方々からの暖かい気持ちが
元の様になっていない事です。
経済的復興がいくらできても、自然や人に生かされている私達は、様々な誤解や
偏見、差別が生じていては、決して安らかな人生は送れないのです

今、福島の人々が抱えている最大の苦悩は、経済的な基盤が戻らない事ではなく

福島を見る日本の目世界の目が、福島を特異な地として見ている事です。
いくら安全値を示されても、人も自然も元通りになって来たと言うパフォーマンスを
政府や国が示したとしても、他の地域や国とは違っている特異な地と言うレッテルが
無くならない限り、根本的な問題は解決しないのです。

それだけの大きなリスクを負っている事に、単に数字の上での判断をするだけでは

福島の人々は納得できないのは当然とも言えるのです。
本当に、復興を考えるなら、福島のみならず、首都圏東京に於いても、
特定の場所のみならず、全区域の安全数値を公表すべきなのです。
例え、その事により世界の人々の見る目が変わったとしても、将来の日本や
そこに生きて行く人々の事を考えれば、行うべきであり、行う勇気のある
リーダーが生まれる事が、本当に日本が放射能汚染からの復興を考えているかを
世界に示していく事と成るのです。