羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

映画『シャニダールの花』

2013年07月29日 12時45分51秒 | Weblog
 この映画は、はっきり言って、”勧善懲悪“ ”起承転結“ ”明確なストーリー”、といったことを求める人には向かない。見方はいく通りもあるし、好き勝手に、それぞれがイマジネーションを膨らませて、映像の中で遊ぶことができる自由人には、或る種の刺激を確実にもたらすだろう。

 一晩、寝て起きて、昼になって言えることは、「魂の発生に、心の発生に、謎に満ちた迫り方をしていたのか」という問いかけだ。
 女の愛の多彩さと微妙さが、命を感じさせない無機的な身体によって重ねて表現されている。つまり、生ものの身体が発する“熱”というものが欠如している。それが監督の狙いだったのかもしれない。
 嫉妬も献身も嫌悪も純愛も、どれに触れても火傷しない、感動もない、”冷光”の発光現象のように描かれていく。
 淡白な色の中で、花だけが色とりどりの色彩をもっている。しかしその花々も化石化して、命は失われている。
 花も実もない世界なのだ!
 村上春樹の新作をもじって「色彩を持たない◎男と◎子と、彼と彼女の巡礼の年」って感じかな?

 テーマにもなっている“シャニダールの花の化石”は、人の死に花を手向けることで、あの世の畏れを癒し、この世にそれ以上の悪さをし、仇なすことがないように、祈り封じ込めるものの遺物のかけらだったのかしら。
 敵の死にはその復讐を恐れ、味方の死には悲嘆を、だから人は人を食べる行為を行う。腹を満たすためだけでなく、儀礼としてその行為を行ったに違いない。その中で、いちばん神聖なものは「脳」だった。そのことを古代人は、すでに知っていたのだ。脳は現実を把握することもある。しかし、脳が生み出す幻覚、幻聴、幻像、夢幻、……、おそらくそうしたことから喚起されるイマジネーションは、死の恐怖という観念で彼らを襲ってきたに違いない。 野生でも感じる身体が生み出す恐怖から、新たに「人の脳が生み出す恐怖」を知ってしまった。だから埋葬という儀礼が、古代において求められるようになった。当然、花と歌が捧げられただろう。花は残り、歌は消えていったが……。

「ひとはいつからひとになったのか」
「ひとはしのかんねんをもったときからひとになった」
 養老せんせいは、おっしゃる。

 さて、映画に戻ろう。
 最後におんなは命を育むのだ。それがふたたび「悪」を生むものであろうとなかろうと、自らの身体に宿った生命をこの世に生み出そうとする、のが「おんなの性」であることを知らしめる。
 良いものを残し、悪いものを事前に消し去ることは、生命の論理にはあわない。善も悪も表裏だからだ。
 生と死の境界は危うい表裏なのだ、と教えてくれる。
 何時の時代にもおんなは命をかけて新しい生命を生み出すものだ、ということも教えてくれる。
 私たちは生をもとめて果てしない巡礼にでかけるのだ。それが生きものの性なのだ。
 人をあの世におくる時、生殖器でからだを包み、再生を願って、旅路の無事を祈るのだろう、きっと。
コメント
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