羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

レジュメ

2013年07月14日 09時10分41秒 | Weblog
 昨日、朝日カルチャーセンター 土曜日「野口体操講座」で、最後まで板書しきれなかったので、レジュメをここに貼付けます。今までブログに書いたことと重複するところがあります。

2013年7月13日(土)朝日カルチャー 『人口減少社会という希望』

※ 『人口減少社会という希望―コミュニティ経済の生成と地球倫理』広井良典著 朝日新聞出版 朝日選書899
* 「定常社会論」 人類史20万年のなかで「三つのサイクル」を著者は見いだした。
* 第一は、「狩猟採集社会」5万年前「心のビッグバン・文化のビッグバン=装飾品、絵画、彫刻など」広義の芸術や象徴的思考、シンボリックなコミュニティの成立。(注:20日、テアトル東京で封切りになる日本映画の題名でもある「シャニダールの花について補足。これはイラク・ネアンデルタール人遺跡で人骨とともに発見された花の化石を指す。「人間の心の発生」を意味する)
* 第二は、「農耕社会」約2500万年前。ヤスパーズ「枢軸時代」(何らかの普遍的原理を志向する思想が地球上の各地で同時多発的に生成するという現象がおこった。仏教、ユダヤ・キリスト教、儒教や老荘思想、ギリシャ哲学。「幸福」の意味を説いた。「普遍的な価値原理」の生成。欲望の内的抑制←農耕文明の境界的限界。
* それぞれ前半が「物質文明の拡大期」で人口増加の時代であり、後半は「内的・文化的な発展期」であると同時に人口減少の時代である。
* その後半期に「定常社会」を迎える。
* 現在は「三度目の定常期」と捉えていて、「工業社会(産業社会)」。「地球倫理」の時代と位置づける。個々の普遍宗教を超えた地球的スピリチュアリティ。ローカルとグローバルの循環的融合。外的拡大に代わる内的価値の時代。多様化。
* 過渡期においては「情報の時代」がいつも生じる。現在のデジタル革命の先には「『生命/生活(life)』というコンセプトに象徴されるようなローカルな基盤に根ざした現在充足的生への志向が比重を増していくだろう」(広井)。例えば「農耕社会」の場合は、流通、情報の新しい流れが生まれる。
* 「情報」の定義=カール・セーガン。DNAに象徴される遺伝情報→生物が複雑になると情報の容量や容器がDNAでは間に合わなくなることから生物は「脳」という情報貯蔵メディアをつくりだした→人間の場合は「言語(情報)」「文字情報」という外部メモリーを持つようになる。→更にデジタル情報の蓄積や伝達が展開したのが20世紀後半である。
* 「遺伝情報→脳情報(→文字情報)→デジタル情報」という形で、情報とコミュニケーションの何重もの「外部化」を行ってきた。
* 地球倫理の意味としての「グローバル」は、通常の「グローバル(マクドナルド化、アメリカ化)「グローバリゼーション(世界が一つの方向に向けて均質化し、地球上の各地域の風土的な)多様性や文化的個性が背景に退き失われる方向を指している」ではない。
* 「ローカル」(=地域的、個別的)に対立するのは 「ユニバーサル(普遍)」個別の文化や民族等を超えた共通の何かを志向するものだった。
* 「グローバル=地球的」は、本来それとは違う。地球上の様々な地域を一歩外から見ながら、しかしそれらの「ローカル」の固有の特徴や価値をポジティブに認め、またその風土的あるいは文化的な多様性を積極的にとらえていくような考えとして把握されるべき。
* 枢軸時代に生まれた普遍宗教ないし普遍思想が、そうした発想を十分にもたなかったことへの対比においてである、という。
* グローバル化の先にローカルを見る。「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」を著者は提唱する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする