さまざまな音色の太鼓の連打、それは人の意識を自在に操る。
いや、操る意図は毛頭ない。結果として聞く人の思考を停止させ、異空間へと引きずり込むのだ。
その快感!
その驚愕!
その魔力!
雷鳴轟く荒れ狂う海に劣らぬ制御不能な情念が肉体を鍛え上げ、鍛え上げられることで神空間へと一人ひとりの演者を引き上げることを可能にする。
そこには、湿度も粘度も高い和太鼓を育てた風土があった。
平胴太鼓、長胴太鼓、桶胴太鼓、締獅子太鼓、締太鼓、団扇太鼓、それぞれに長さ・太さ・厚みが異なる太鼓は、打ち方の技で無限の音を響かせる。
人間界のありとあらゆる情緒、情念、情性、情味、情愛、情弊、情懐、挙げたらきりがない「情」であらわす感情が “これでもかッ、これでもかカカカッ ガガガガッ ドドドドッ” と、打ち続けられ、地鳴りのごとく鳴り響く。
カオスの実体を「太鼓というオノマトペ」、つまり擬情語をもって語り、そのまま神と対峙する世界が、舞台上で展開する。
シルクロード、敦煌の楽器も加勢する。
琴、胡弓、笛、佛鉦、ジャンガラ、木魚、ささら系、ネパール仏教寺院の命を繋ぐ托鉢の鉢、さらにインドネシアのボナンや竹のアンクルン、それそれ育つ環境が異なった楽器群が、浄められた水面に揺れる蓮の花の安らかさを加味する。
するとどうだろう。
赤坂サカスがそのまま聖地として変身をとげていった。
からだの芯を揺らす・叩く振動に、見るもの聞くものたちまでもが、シャーマンと化していく。
一生懸命、自分を保とうとする。しかし、それは無駄なことと早々に降参して、どうにでもなれ!とばかりに陶酔境に身を委ねることが、ここでは賢明な策なのだ。
……これらを操る、いや、これらに操られる「鼓童」たちに、言葉による賛美は似合わない。人の言葉には、あまりにも手垢がつきすぎていて、選語に戸惑う。
“この言葉も違う あの言葉も違う”と、じりじりした思いに、今、私は身を焦がして書いているのだが。……
だから、地上に遣わした言葉は、“太鼓の言葉”なのだ!
それだけで十分だった筈。
しかし、彼らは満足しなかった。舞台の質が高まれば高まるほどに、危険であることを何時しか知ったに違いなない。
魔境に迷い込んだ聞く人、一人ひとりを覚醒させる新たな装置を、懸命に模索し、そして得たのだ。
それは極上の天から舞い降りた「アマテラス」だった。
……そうだ、かつて大和路の佛たちと出会ったことを思い出す。とりわけ百済観音の御姿には、ギリシャの神々を超えたアンバランスな長身に、僅かな疑念さえ抱いたことがあった。ロマネスクとも違う。一体全体、何なのか。大きな疑問符は、私のからだのなかに、半世紀近く仕舞われたままだった。
その姿が、玉三郎という生身のからだに宿って現前した瞬間に、私は立ち会った。
思わず、得心した。
これだったのだ「天と地を貫く柱」、これだったのだ「天の逆鉾」へと連なるイメージとは。
確信するのに時間はかからなかった。……
殴り合い、殺しあい、強姦し、人を食い、盗み、「悪」と名のつく限りを尽くす象徴的な現世の地獄模様に、厳然と筋目を通していく統一の力。
ある学者は言う。
「古事記」は、幾重にも重なった民族と文化をまとめあげていく物語である、と。
第一は、隼人・海人に象徴される「縄文的な層」。
第二は、田を耕しムラやクニを成り立たせた「弥生的な層」は、出雲に見られるようなヤマト政権に対立した層。
第三に、中国に習って「律令的国家としての統一の層」。ここに自然神としてのアマテラスをおくことで「日出ずる国」が誕生した。
神話は語る。
太陽神、アマテラスの死と再生は、古い太陽から新しい太陽へと生まれ変わることで、調和へと人々を導く、とね。まさしく自然信仰に基づく、普遍宗教の誕生なのだろう。
そして“天岩戸”は、冬至という自然現象を暗示する。太陽が地球から遠ざかり、地上に夜の暗闇の長い時間をもたらす。暗く長い冬は、徐々に、ほんとうに徐々に、春の生命の息吹と豊穣をもたらすのだが、それにはエロスの象徴となるアメノウズメが、炎のもとで踊ることによって受胎する「性の歓喜」がなくてはならない、と説く。
アマテラスは、その時、両性具神に変身する、と今回の舞台は悟らせてくれる。独断かもしれない。偏見かもしれない。しかし、そう見えてくるのだった。
……私はひとりの観客として、目の前の舞台で繰り広げられた出来事に遭遇し、芸能という底知れぬ渦に巻き込まれてしまった。
この舞台に先の三層を重ねる深読みをお許しいたきたい。
佐渡の鼓童、宝塚の端麗な男役の愛音羽麗、歌舞伎の洗練の極にある玉三郎、異質な三層が「古事記」という神話の世界を描き上げるその現場の中心にいさせてもらった、と気づかされた。前から六列目の座席に深々と腰をかけて……
「生命の再生と循環」を、あえて言葉抜きの音楽と舞いという身体表現のみので、「生命への讃歌・謳歌」にまとめあげ、祈りに昇華させた演出はさすがに見事だった。オリエンタル、そして混沌のアジアを織り込んだ玉三郎の胆力を知らされた。描き出された世界は、一つの“普遍”であり、関わった全ての人々の思いの深さとそれを表現する力による“コスモス”空間だ。
その時、観客は、単なる観客ではなくなる。
観客自らも「太陽の死と再生」の申し子である慶びを宿して、うしろ髪ひかれる思いで、劇場をあとにする。
海原の青と太陽の紅炎を模する布が、舞台全体を波状に包む美しさを目に焼き付けて、それそれの街に帰っていく顔は、晴れやかだった。
いや、操る意図は毛頭ない。結果として聞く人の思考を停止させ、異空間へと引きずり込むのだ。
その快感!
その驚愕!
その魔力!
雷鳴轟く荒れ狂う海に劣らぬ制御不能な情念が肉体を鍛え上げ、鍛え上げられることで神空間へと一人ひとりの演者を引き上げることを可能にする。
そこには、湿度も粘度も高い和太鼓を育てた風土があった。
平胴太鼓、長胴太鼓、桶胴太鼓、締獅子太鼓、締太鼓、団扇太鼓、それぞれに長さ・太さ・厚みが異なる太鼓は、打ち方の技で無限の音を響かせる。
人間界のありとあらゆる情緒、情念、情性、情味、情愛、情弊、情懐、挙げたらきりがない「情」であらわす感情が “これでもかッ、これでもかカカカッ ガガガガッ ドドドドッ” と、打ち続けられ、地鳴りのごとく鳴り響く。
カオスの実体を「太鼓というオノマトペ」、つまり擬情語をもって語り、そのまま神と対峙する世界が、舞台上で展開する。
シルクロード、敦煌の楽器も加勢する。
琴、胡弓、笛、佛鉦、ジャンガラ、木魚、ささら系、ネパール仏教寺院の命を繋ぐ托鉢の鉢、さらにインドネシアのボナンや竹のアンクルン、それそれ育つ環境が異なった楽器群が、浄められた水面に揺れる蓮の花の安らかさを加味する。
するとどうだろう。
赤坂サカスがそのまま聖地として変身をとげていった。
からだの芯を揺らす・叩く振動に、見るもの聞くものたちまでもが、シャーマンと化していく。
一生懸命、自分を保とうとする。しかし、それは無駄なことと早々に降参して、どうにでもなれ!とばかりに陶酔境に身を委ねることが、ここでは賢明な策なのだ。
……これらを操る、いや、これらに操られる「鼓童」たちに、言葉による賛美は似合わない。人の言葉には、あまりにも手垢がつきすぎていて、選語に戸惑う。
“この言葉も違う あの言葉も違う”と、じりじりした思いに、今、私は身を焦がして書いているのだが。……
だから、地上に遣わした言葉は、“太鼓の言葉”なのだ!
それだけで十分だった筈。
しかし、彼らは満足しなかった。舞台の質が高まれば高まるほどに、危険であることを何時しか知ったに違いなない。
魔境に迷い込んだ聞く人、一人ひとりを覚醒させる新たな装置を、懸命に模索し、そして得たのだ。
それは極上の天から舞い降りた「アマテラス」だった。
……そうだ、かつて大和路の佛たちと出会ったことを思い出す。とりわけ百済観音の御姿には、ギリシャの神々を超えたアンバランスな長身に、僅かな疑念さえ抱いたことがあった。ロマネスクとも違う。一体全体、何なのか。大きな疑問符は、私のからだのなかに、半世紀近く仕舞われたままだった。
その姿が、玉三郎という生身のからだに宿って現前した瞬間に、私は立ち会った。
思わず、得心した。
これだったのだ「天と地を貫く柱」、これだったのだ「天の逆鉾」へと連なるイメージとは。
確信するのに時間はかからなかった。……
殴り合い、殺しあい、強姦し、人を食い、盗み、「悪」と名のつく限りを尽くす象徴的な現世の地獄模様に、厳然と筋目を通していく統一の力。
ある学者は言う。
「古事記」は、幾重にも重なった民族と文化をまとめあげていく物語である、と。
第一は、隼人・海人に象徴される「縄文的な層」。
第二は、田を耕しムラやクニを成り立たせた「弥生的な層」は、出雲に見られるようなヤマト政権に対立した層。
第三に、中国に習って「律令的国家としての統一の層」。ここに自然神としてのアマテラスをおくことで「日出ずる国」が誕生した。
神話は語る。
太陽神、アマテラスの死と再生は、古い太陽から新しい太陽へと生まれ変わることで、調和へと人々を導く、とね。まさしく自然信仰に基づく、普遍宗教の誕生なのだろう。
そして“天岩戸”は、冬至という自然現象を暗示する。太陽が地球から遠ざかり、地上に夜の暗闇の長い時間をもたらす。暗く長い冬は、徐々に、ほんとうに徐々に、春の生命の息吹と豊穣をもたらすのだが、それにはエロスの象徴となるアメノウズメが、炎のもとで踊ることによって受胎する「性の歓喜」がなくてはならない、と説く。
アマテラスは、その時、両性具神に変身する、と今回の舞台は悟らせてくれる。独断かもしれない。偏見かもしれない。しかし、そう見えてくるのだった。
……私はひとりの観客として、目の前の舞台で繰り広げられた出来事に遭遇し、芸能という底知れぬ渦に巻き込まれてしまった。
この舞台に先の三層を重ねる深読みをお許しいたきたい。
佐渡の鼓童、宝塚の端麗な男役の愛音羽麗、歌舞伎の洗練の極にある玉三郎、異質な三層が「古事記」という神話の世界を描き上げるその現場の中心にいさせてもらった、と気づかされた。前から六列目の座席に深々と腰をかけて……
「生命の再生と循環」を、あえて言葉抜きの音楽と舞いという身体表現のみので、「生命への讃歌・謳歌」にまとめあげ、祈りに昇華させた演出はさすがに見事だった。オリエンタル、そして混沌のアジアを織り込んだ玉三郎の胆力を知らされた。描き出された世界は、一つの“普遍”であり、関わった全ての人々の思いの深さとそれを表現する力による“コスモス”空間だ。
その時、観客は、単なる観客ではなくなる。
観客自らも「太陽の死と再生」の申し子である慶びを宿して、うしろ髪ひかれる思いで、劇場をあとにする。
海原の青と太陽の紅炎を模する布が、舞台全体を波状に包む美しさを目に焼き付けて、それそれの街に帰っていく顔は、晴れやかだった。
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