羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

『象』を見た!

2013年07月18日 07時10分10秒 | Weblog
 舞台を見るのは、何年ぶりだろうか。
 いや、十年くらいは見ていないかもしれない。このところ自分の中で、こうした芝居を見たいという欲求は生まれてこなかったが、ひょんな縁からチケットが手に入った。
 かつて1960年代末から70年代、まだ学生だった頃、パリ・ユシェット座の公演を見たことがある。
“不条理劇”というジャンルが、演劇の中で特別な位置をしめていた。
 その後は渋谷・山手教会の地下ジァンジァンで、イヨネスコの作品など上演されていたっけ。
 何も判らず、面白いとも思わず、ただ何となくその筋の友だちと見に行った。
「若かったよなぁ~」
「でも、今日の客は、むむむッ。プロか? 芝居をとことん見続けている好き者か? いや、若者もいるじゃないか。選ばれた人たちに違いない」
 自分だけが場違いな人間じゃないのか、と席に座って身を縮めた。

 波の音が聞こえる。目を閉じて、耳を澄ますうちに、舞台が始まる。
 目を開ける。すると、異様な空間。散乱する古着のなかに病院のベッドが一つと、斜めに倒されたベッドがもう一つ、目に入る。さっきから見えていたのに、見ていなかった。
 きっと、何かの象徴だろう。
 
 時間が経過するにしたがって、それらが暗黒の闇に累々と重なる死体に見える。
 その累々と重なる屍の中から、ふわぁ~っと亡霊が立ちあらわれては、“パタン”という軽い音すらもなく倒れて消える。
 かつて生きた人は、立ちのぼっては消え、消えてはまた立ちのぼる。
 一枚、一枚の古着は、一人一人の過去を語る。それも沈黙という言葉で……。
 その中にあって実在感を発するのは、たったひとりの男。背中にケロイドを背負ったひとりの男だ。
 実在することが苦しく、忘却の川に投げ入れられるのはもっと怖くてもっと悔しくて、再び実在することを皆に知らしめることで、今、自分の生存を自分のからだで確認したがっている。
「俺を、忘れるな。俺のケロイドを忘れるな」

 唯一、彼の性を暗示する女房が、かつて男との間で交わした機微を懐かしみ、生存の歓びを失いつつある今を疎ましく思う心が殺意を遠景に描き出す。別役実という戯作者の腕が冴える。

 暗示に次ぐ暗示。
 ふと思った。“これは現代の能狂言に違いない”と。
 被爆者の甥は、実はワキの僧侶なのだ、と思ってみると何となく判るような気がしてくる。
 狂気と驚喜、この世とあの世の狭間で、肉体の極限までからだの言葉を発する、それも饒舌に発する男はシテ方に相違ない。諭されても、賺されても、実存を確かめたがる。

 ~中間に差し挟まれる狂言1。女房との「おにぎりの食べ方」を巡るやりとりが、この男が現実に地球上に、日本に、被爆地に生きたことを証明する。~

 ~すると突然、そう突然に「この人、“暇か?” っていって入って来る課長さん? 私って、相棒の見過ぎ!トホホホッ」
 この配役で、助けられたね。唯一、素直に笑えた! からね。狂言2。~
 
 かくして最期にむけて、何処までも肉体の尊厳を守り抜こうと動きがさらに饒舌になっていく男。
 久しぶりにいい芝居を魅せてもらった。そして昭和の日本語は美しかった、と失われた言葉を無償に慈しみたくなる。
 
 もう64歳になったというのに、ようやく大人になった気分で、新国立劇場を出て、初台の駅に向かう私。
 ステキな役者に出会ったなぁ~。
「病人」の役は、大杉蓮。胸を借りて精一杯やった甥役の木村了。それぞれに皆よかった。

 洒落た装丁のプログラムを小脇にかかえて、電車に飛び乗る。
 もう一度つぶやく。
「役者の名は、大杉蓮」
 私の声は、電車の走行音にかき消されていく。
 
 現実、7月21日まで、新国立劇場小劇場にて。
コメント
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