午前中、寺に墓参りをかねて、掃除に出かけた。
途中、バスのなかからぼんやりと外を見ていると、古びた掛け軸が目に入った。古美術商とも違うようだ。古道具屋でもなさそうである。
なんとなく気にかかったので、帰りに途中下車して、寄ってみた。
間口一間半、壊れそうなサッシの戸をあけて中に入ると、左手の壁に六幅の掛けものが、ぎしぎしにかかっている。武者絵・雅楽舞・翁・美人画・虎・仏画。江戸期から明治期にかけての真筆らしい。
ふと右手を見ると、70歳も半ば過ぎの男性が、ワープロに向かってひたすら何かを打ち込んでいる。
その後ろには、しっかりした大き目の戸棚があり、その脇には、文字の掛け物がみえる。
ならびに二人がけのソファがあって、奥さんらしい女性が腰をかけている。
部屋の奥行きは、二間半くらいだろうか。奥には居間と続きの台所らしき部屋の気配が感じられる。
私の姿を認めても、声をかけるでもなく、男性はワープロを打ち続け、女性はソファに座り続けていた。なんとなくそのまま出ていくことも出来ず、ばつも悪くなって、声をかけた。
「こちらの掛け軸は、譲っていただけるものですか」
やっと女性が立ち上がった。
「ええ、お売りしています。でも、家は墨蹟鑑定で、近々、本がでますの」
指さしたところは、戸棚の上にある資料箱だった。
「専門的で、難しいので、なかなか本になりません」
その下を見ると表がかけてある。鑑定料金表のようである。相当な目利きらしい。何巻にも及ぶ「掛け軸鑑定大鑑」を編纂していることがだんだんに察しられる。おそらくこの老人にとって最後の仕事なのだろうことが予想される。
もくもくとワープロに何かを書き込んでいる姿に、殺気すら感じられた。
「こちらには昭和50年にきました。それまでは鑑定だけをしておりましたが、こうしてお売りしています。以前はデパートなどでも展示即売をしておりましたが、最近ではやっておりません」
クーラーもきかず、窓もない部屋に息苦しさを感じた。その表情を見て取ったのか
「じっとしてますと寒くなりますので」
今度は、出入り口の上を指差した。みると昭和50年に入れたままではないかと思えるような古びたクーラーが目に飛び込んだ。
部屋の匂いも独特だった。スイッチを入れてくれる気配はない。
「まったくわからないのですが、この雅楽舞の軸は、どのくらいですか」
「ここを引き出すとお値段が……」
鑑定書の隠れた部分を掛け軸から引き出すと、値段が書かれていた。
しばらく間をおいて
「あの、衝動買いはなさらない方がよろしいですよ。お宅の床の間の大きさとさがりの具合をみて、どのくらいの軸がかかるのかを測るのが先ですから」
「ありがとうございます。では、また寄せていただきます」
いやはやホッとした。外に出て建物を見ると、モルタルがところどころははげかかっている木造二階屋だった。
まさかこのような店舗に、これほどの掛け軸が揃っていて、そこに墨蹟や日本画の目利きの老人が、大鑑の執筆に命をかけているなどと、入るまでは想像できなかった。
掛け軸を見たくて思わず飛び込んでしまっただけだったので、「衝動買いはおやめになった方が」の言葉に救われた。私が手に入れられるようなお値段のものではなったのだから。
昨今、日本の住宅から畳も床の間もなくなってしまった。
きっと商売にもならないのだろう。黙々と編纂の仕事を続ける夫を見守る妻。老夫婦のまなざしと姿勢には、凛としたものを感じながらも、そそくさと退散した。
市井にひっそりと文化を守る人がいる。
市井にあって真剣に文化を残そうとしている人がいる。
梅雨の晴れ間に、気温は30度を超えていただろう。
雨を予想して持ってきた雨傘を、思わず日傘変わりに広げてしまった。
最寄駅までかなりの距離を歩く道々、鑑定大鑑の出版に、ぜひともこぎつけいただきたいと祈っていた。
途中、バスのなかからぼんやりと外を見ていると、古びた掛け軸が目に入った。古美術商とも違うようだ。古道具屋でもなさそうである。
なんとなく気にかかったので、帰りに途中下車して、寄ってみた。
間口一間半、壊れそうなサッシの戸をあけて中に入ると、左手の壁に六幅の掛けものが、ぎしぎしにかかっている。武者絵・雅楽舞・翁・美人画・虎・仏画。江戸期から明治期にかけての真筆らしい。
ふと右手を見ると、70歳も半ば過ぎの男性が、ワープロに向かってひたすら何かを打ち込んでいる。
その後ろには、しっかりした大き目の戸棚があり、その脇には、文字の掛け物がみえる。
ならびに二人がけのソファがあって、奥さんらしい女性が腰をかけている。
部屋の奥行きは、二間半くらいだろうか。奥には居間と続きの台所らしき部屋の気配が感じられる。
私の姿を認めても、声をかけるでもなく、男性はワープロを打ち続け、女性はソファに座り続けていた。なんとなくそのまま出ていくことも出来ず、ばつも悪くなって、声をかけた。
「こちらの掛け軸は、譲っていただけるものですか」
やっと女性が立ち上がった。
「ええ、お売りしています。でも、家は墨蹟鑑定で、近々、本がでますの」
指さしたところは、戸棚の上にある資料箱だった。
「専門的で、難しいので、なかなか本になりません」
その下を見ると表がかけてある。鑑定料金表のようである。相当な目利きらしい。何巻にも及ぶ「掛け軸鑑定大鑑」を編纂していることがだんだんに察しられる。おそらくこの老人にとって最後の仕事なのだろうことが予想される。
もくもくとワープロに何かを書き込んでいる姿に、殺気すら感じられた。
「こちらには昭和50年にきました。それまでは鑑定だけをしておりましたが、こうしてお売りしています。以前はデパートなどでも展示即売をしておりましたが、最近ではやっておりません」
クーラーもきかず、窓もない部屋に息苦しさを感じた。その表情を見て取ったのか
「じっとしてますと寒くなりますので」
今度は、出入り口の上を指差した。みると昭和50年に入れたままではないかと思えるような古びたクーラーが目に飛び込んだ。
部屋の匂いも独特だった。スイッチを入れてくれる気配はない。
「まったくわからないのですが、この雅楽舞の軸は、どのくらいですか」
「ここを引き出すとお値段が……」
鑑定書の隠れた部分を掛け軸から引き出すと、値段が書かれていた。
しばらく間をおいて
「あの、衝動買いはなさらない方がよろしいですよ。お宅の床の間の大きさとさがりの具合をみて、どのくらいの軸がかかるのかを測るのが先ですから」
「ありがとうございます。では、また寄せていただきます」
いやはやホッとした。外に出て建物を見ると、モルタルがところどころははげかかっている木造二階屋だった。
まさかこのような店舗に、これほどの掛け軸が揃っていて、そこに墨蹟や日本画の目利きの老人が、大鑑の執筆に命をかけているなどと、入るまでは想像できなかった。
掛け軸を見たくて思わず飛び込んでしまっただけだったので、「衝動買いはおやめになった方が」の言葉に救われた。私が手に入れられるようなお値段のものではなったのだから。
昨今、日本の住宅から畳も床の間もなくなってしまった。
きっと商売にもならないのだろう。黙々と編纂の仕事を続ける夫を見守る妻。老夫婦のまなざしと姿勢には、凛としたものを感じながらも、そそくさと退散した。
市井にひっそりと文化を守る人がいる。
市井にあって真剣に文化を残そうとしている人がいる。
梅雨の晴れ間に、気温は30度を超えていただろう。
雨を予想して持ってきた雨傘を、思わず日傘変わりに広げてしまった。
最寄駅までかなりの距離を歩く道々、鑑定大鑑の出版に、ぜひともこぎつけいただきたいと祈っていた。