羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

「腰・丹田(臍下丹田)」と「胸・丹田」のお話

2006年04月06日 09時35分31秒 | Weblog
 野口三千三先生の最初の著書『原初生命体としての人間』の第三章の一部が、高校の国語の教科書「高校生の現代文」(角川書店)の第一章に載った。
「生き方と息方」と「排便の楽しみ」である。
 
 野口体操をはじめた当初を振り返ってみると、私自身もこの第三章―息と「生き」から読みはじめたように記憶している。『原初生命体としての人間』は、難しくて何が書かれているのかわからなかった。どこかわかる章はないかと、ページをめくるうちに、なんとか手がかり・足がかりになりそうだったのが、第三章だった。
 
 動きと呼吸については、ある意味でいちばん難しいテーマではあったが、床に任せてからだをほぐす「やすらぎの動き(開脚長座による上体の前曲げ)」や「真の動き(仰向けに寝て足先を頭の向うへ持っていく)」など、床に接しているからだが広い「ほぐし」には、呼吸をテーマにすることがとてもよかった。
 で、腹式呼吸(横隔膜式呼吸)と胸郭式呼吸を分ける練習を、それぞれの姿勢で練習をしていった。

 それで、ひとつだけ自分でつかんだ感覚を書いておきたい。
 それは丹田ということが言われるが、この丹田は腰の中心「要」の位置だけでなく、もう一箇所あることだ。それを丹田というのかどうかは知らない。
 どこかと言うと「胸の中心」、前は胸骨の骨端から2センチくらい上がったところ・後ろは胸椎の真中より少し上の位置で『病膏肓(コウコウ)に入る』と言われているところ、(辞書によると、「膏」は胸の下の脂で「肓」は胸の上の薄膜)だが、腕をぶらさげたときの左右の肩甲骨の骨端を結んだ中心から胸郭の内側に入っていったところ。どちらかといえば胸椎にちかいところ、胸郭の中ほどあたりに、もう一箇所「胸丹田」と命名したいところがある。

 この「腰・丹田(臍下丹田)」と「胸・丹田」の関係は深くて、なおかつ面白い。
 たとえば「腰・丹田」に気持ちを集中するときは、主には横隔膜呼吸でたっぷり息が入っていて横隔膜は腹部に向かって圧をかけている状態だ。そのとき「胸・丹田」の気を抜くと、上体はたっぷり緩み、足・腰には「気が満たされて安定する」感じがつかめる。

 実利をいえば、排便のときの呼吸である。
 つまり、「腰・丹田」と「胸・丹田」が逆の働き方をすることで、楽な排便が促される経験をしている。余分な力みのないからだの在り方ではないないかと思っているのだが。
 
 こうした感覚は、野口体操をはじめて十数年過ぎたある日突然に気付いた。
 実感としてつかめたからだの内側の「感覚と動きと呼吸」だと思う。
 眉唾物の「気の世界」ではなく、実際のからだの在り方だ。

 言葉にしてみると煩雑で、上手く表現できないが、とにかく「丹田」という位置は、腰と胸の二箇所にあるような気がしている。その関係をよりいい関係にするには、「陰と陽」というか「虚と実」というか微妙な「質の交差」、違いがあるように思えてならない。

 このような実感を得てから、自分のなかで先生の言葉の意味がからだで判ってきたような気がしてならない。
 一つをあげればこの言葉だと思う。
『信じるとは、負けて・参って・任せて・待つ』
 これは呼吸の極意だが、排便の極意でもある。
コメント
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