ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団2006 初日公演を見た。
出し物はヘンリー・パーセルの音楽「カフェ・ミュラー」とストラビンスキー「春の祭典」。
思いがけずチケットが手に入るという幸運は突然にやってきた。
かつて内田義彦宅に、野口三千三先生のお供で伺ったことがあった。
そのときに内田先生入魂のオーディオ装置で、「春の祭典」のレコードを聴かせていただいた。立体感のある音空間は、スピーカーに負うところ大だった。それは名器「タンノイ」であった。ヨーロッパやアメリカのオーケストラで生演奏の「春の祭典」を聴いていたが、はじめは文化会館、しばらくしてからNHKホールしかなく、ホール自体が平板な音しか鳴らせない状況にあった。
ところがオーディオが鳴らしてくれる音は、「立体」として聴こえてくる内田義彦好みの音楽を再生する力を持っているものだった。
この体験が、私にとってのストラビンスキー「春の祭典」とのほんとうの出会いだった。
さて、ピナ・バウシュの「春の祭典」、この作品はダンスにおける20世紀の世界遺産だ。
この言葉を素直に受け取ってほしい。過去のものだと言う意味ではない。そうではなくて、世紀を超えて進化しながら、次世代に残してほしい世界遺産という意味だ。
ヨーロッパの歴史的文化から生まれるべくして生まれた総合芸術としての一つの頂点だと思う。
国際色豊かなダンサーを受け入れながら、したたかに固有名詞付文化を乗り越えてダンスの根源を抉り出した作品だった。
ダンスの根源というのは、人間の根源ということと同義語だ。
(注:メソポタミア・ギリシャ・インド・エジプト・中国と言う固有名詞付文化・文明の次にある西洋近代文化・文明という意味)
この作品の初演に出会えたら、「水を含ませた土」の上で踊る意表をついた装置に、ものすごく驚かされただろう。
今回、初めて三宅坂の国立劇場で見ることになった。もっと違った空間で見ることができたらよかったと内心ではおもっている。
正直言って、「土」という装置も、ダンスの動きそのものにも、驚くことがなかったことが、私自身として驚きだった。
問:なぜか?
答:野口体操とともに生きてきたから。
なのである。
野口体操の発想は、この舞踊団の通奏低音に共鳴するところがあったから。
人間が苦難のなかから「一握りの土」を握りしめて立ち上がり生きるエネルギーを胎内に宿すというテーマだと受け取れば、そこに共鳴する動きと音を持っている。
しかし、「大地」「土」という装置の中で、繰り広げられる方向性が逆向きのベクトルだった。ヨーロッパはヨーロッパ文化という装置からは、抜け出せないという限界を感じた。この「限界」というコトバも決して否定的な意味で読まないでほしい。限界をもつことが、違った言い方をすれば「巨大な壁」を持つことが、新しいダンスを産み、そのダンスが人間を普遍化してみる力をもって世界を席捲するエネルギーを潜め開花する原動力になるという意味なのだから。
パウシュは、土に抗うことによって弱い人間が主体的に生きる雄雄しさを描き出した。
おそらく発表当時の日本人には、ある先鋭的な日本人を抜きにして、難解な作品だったに違いない。
しかし、現代に生きるものにとっては、難解ではなく、むしろわかりやすい作品として、ある意味の親しみと懐かしさをもって受け入れられるに違いないと感じた。
西欧が中世から近代へ、ヒューマニティーを確立していく頂点にたった金字塔としてのダンス作品として20世紀の世界遺産だ。
ところで、この「春の祭典」を見たことによって、一つの問いをもらった
問:野口三千三先生は、なぜ、演劇界からはなれたの?
答:リアリズムの捉え方に、ズレがあったんじゃないの?
問:それはそうかもしれないけれど、それだけじゃないでしょ?
野口体操は「イメージ体操」だと言われている。
前衛そのものの「身体」を追及しているとも言われている。
そこで問いかけられることは、野口三千三先生がイメージする「人間の身体」と「演劇的身体」との間に、齟齬があったのではないかという、問いをもらった。
「人間の身体が宿す言語」と「演劇的身体が巧妙に演ずる言語」との間に、齟齬があったのではないのかという問いでもある。
「野口三千三の実感と言う言葉」と「演劇におけるリアリティー」との間に、齟齬があったのではないのかという問いでもある。
イメージとリアルとはいったいどのような関係にあるのだろう。
舞台上に敷きつめられた「土」を見つめながら、現代のカオスを照らし合わせていた。
今日は、ここまで。
出し物はヘンリー・パーセルの音楽「カフェ・ミュラー」とストラビンスキー「春の祭典」。
思いがけずチケットが手に入るという幸運は突然にやってきた。
かつて内田義彦宅に、野口三千三先生のお供で伺ったことがあった。
そのときに内田先生入魂のオーディオ装置で、「春の祭典」のレコードを聴かせていただいた。立体感のある音空間は、スピーカーに負うところ大だった。それは名器「タンノイ」であった。ヨーロッパやアメリカのオーケストラで生演奏の「春の祭典」を聴いていたが、はじめは文化会館、しばらくしてからNHKホールしかなく、ホール自体が平板な音しか鳴らせない状況にあった。
ところがオーディオが鳴らしてくれる音は、「立体」として聴こえてくる内田義彦好みの音楽を再生する力を持っているものだった。
この体験が、私にとってのストラビンスキー「春の祭典」とのほんとうの出会いだった。
さて、ピナ・バウシュの「春の祭典」、この作品はダンスにおける20世紀の世界遺産だ。
この言葉を素直に受け取ってほしい。過去のものだと言う意味ではない。そうではなくて、世紀を超えて進化しながら、次世代に残してほしい世界遺産という意味だ。
ヨーロッパの歴史的文化から生まれるべくして生まれた総合芸術としての一つの頂点だと思う。
国際色豊かなダンサーを受け入れながら、したたかに固有名詞付文化を乗り越えてダンスの根源を抉り出した作品だった。
ダンスの根源というのは、人間の根源ということと同義語だ。
(注:メソポタミア・ギリシャ・インド・エジプト・中国と言う固有名詞付文化・文明の次にある西洋近代文化・文明という意味)
この作品の初演に出会えたら、「水を含ませた土」の上で踊る意表をついた装置に、ものすごく驚かされただろう。
今回、初めて三宅坂の国立劇場で見ることになった。もっと違った空間で見ることができたらよかったと内心ではおもっている。
正直言って、「土」という装置も、ダンスの動きそのものにも、驚くことがなかったことが、私自身として驚きだった。
問:なぜか?
答:野口体操とともに生きてきたから。
なのである。
野口体操の発想は、この舞踊団の通奏低音に共鳴するところがあったから。
人間が苦難のなかから「一握りの土」を握りしめて立ち上がり生きるエネルギーを胎内に宿すというテーマだと受け取れば、そこに共鳴する動きと音を持っている。
しかし、「大地」「土」という装置の中で、繰り広げられる方向性が逆向きのベクトルだった。ヨーロッパはヨーロッパ文化という装置からは、抜け出せないという限界を感じた。この「限界」というコトバも決して否定的な意味で読まないでほしい。限界をもつことが、違った言い方をすれば「巨大な壁」を持つことが、新しいダンスを産み、そのダンスが人間を普遍化してみる力をもって世界を席捲するエネルギーを潜め開花する原動力になるという意味なのだから。
パウシュは、土に抗うことによって弱い人間が主体的に生きる雄雄しさを描き出した。
おそらく発表当時の日本人には、ある先鋭的な日本人を抜きにして、難解な作品だったに違いない。
しかし、現代に生きるものにとっては、難解ではなく、むしろわかりやすい作品として、ある意味の親しみと懐かしさをもって受け入れられるに違いないと感じた。
西欧が中世から近代へ、ヒューマニティーを確立していく頂点にたった金字塔としてのダンス作品として20世紀の世界遺産だ。
ところで、この「春の祭典」を見たことによって、一つの問いをもらった
問:野口三千三先生は、なぜ、演劇界からはなれたの?
答:リアリズムの捉え方に、ズレがあったんじゃないの?
問:それはそうかもしれないけれど、それだけじゃないでしょ?
野口体操は「イメージ体操」だと言われている。
前衛そのものの「身体」を追及しているとも言われている。
そこで問いかけられることは、野口三千三先生がイメージする「人間の身体」と「演劇的身体」との間に、齟齬があったのではないかという、問いをもらった。
「人間の身体が宿す言語」と「演劇的身体が巧妙に演ずる言語」との間に、齟齬があったのではないのかという問いでもある。
「野口三千三の実感と言う言葉」と「演劇におけるリアリティー」との間に、齟齬があったのではないのかという問いでもある。
イメージとリアルとはいったいどのような関係にあるのだろう。
舞台上に敷きつめられた「土」を見つめながら、現代のカオスを照らし合わせていた。
今日は、ここまで。