行徳生活日記

「行徳雑学館」作者の日記。

2011年3月21日(月)の日記

2011年03月21日 | 日記

朝は少しゆっくり目に起きる。昼前にちょっと買い物に行って、帰りに昼飯。

南行徳メトロセンターのとんきへ行く。

ランチミックスフライ定食を食べる。

ここしばらく録画した映画を見ていなかったので、午後にちょっと長めのを1本片付ける。

晩飯は欠真間二丁目のバイパスからちょっと入ったところにある中華の喜八

木須呂(ムースーロー)定食にする。木耳と竹の子の玉子炒め。

ケーブルテレビのJCN市川は今は特別編成になっていて、市川市内の生活情報番組を毎日午後6時に新しい内容にして、翌日午後6時まで繰り返し放送している。今日の更新分を見ると、大きな災害直後の外食控えが起こっていて、飲食店が客足が遠のいて苦しい状況になっていることが報告されていた。また、スーパーではミネラルウォーターやカップめん類は買いだめで品薄になっているが、生鮮食料品がだぶついているとのこと。

特に酒を飲ませる店がお客さんが減っているということで、八幡のほうにある居酒屋にインタビューで登場していた。店主によると、仕入れに市場へ行っても、ものはあるが売れずに活気がなくなっているということ。店も手持ち無沙汰になっているようだ。多くの店がそうだろう。

阪神淡路大震災のときも外食控えが起こって、多くの地域で廃業に追い込まれた飲食店が多かったという。廃業になるということは、店を経営していた人たち、働いていた人たちが収入源を失うということだから、こういうのは経済にボディブローのようにじわじわとダメージを与えて行く。

こういう時期だから、酒を飲んで気持ちよくなっても、はしゃぎすぎるのは控えたほうがいいと思うが、酒を飲んだり食事に行くこと自体を控えすぎるのもまた、経済にお金を還流するのを止めるわけだから、悪循環を生むことになる。もちろん、食べるのも飲むのもお金がかかるし、酒を飲みすぎて健康を害したら本末転倒だから、一人一人がやれる範囲でやるしかない。ケーブルテレビのインタビューで出てきた居酒屋では、地酒を注文するときに東北方面の地酒にして、東北の経済にわずかでも貢献しようというお客さんがいるということだ。こういう形で経済を回して、被災地に貢献するやり方もあるわけだ。


2011年3月20日(日)の日記

2011年03月20日 | 日記

今回の地震で転倒せずに持ちこたえた家具も、耐震強化しようと転倒防止の器具で付けられそうなものを買いに、千鳥町のユニディへ行く。昨日買った、天井との間の突っ張り棒型のものはもう完売していた。

ユニディからの帰りに昼飯。福栄四丁目の新浜通り沿いにある中華料理の来来。昔からあるはずの店だが、自分が住んでいるのがバイパス側なので、このあたりの店に入ったことはほとんどなく、来来に入るのも今回が初めて。

店先にもメニューが出ていたランチセットからBセットを注文。ラーメン半チャーハンのセットで700円。

このラーメンは××ラーメンではなく、単なる「ラーメン」。単品なら400円。無印のラーメンがある店は久しぶりだと思った。そしてこのラーメンは、値段の安さと言い、素朴な味といい、いろんな××ラーメンが流行る前からある、懐かしの中華屋ラーメンだった。

さて、買ってきた転倒防止器具は2種類。

左側のを、ダイニングにおいてある食器戸棚の下に取り付け、少し後ろに傾けて壁に接するようにする。これで前へ倒れにくくする。

もう一つのは、2段重ねの家具で上と下を離れにくくするもの。自分の洋服ダンスは上のスーツやコートをいれる部分が、下の引き出し部分に乗っかる2段重ねのもの。こういうのは、天井との間の突っ張り棒型を付けていても、地震の揺れで上下に重ねたのがずれたりすれば効果がなくなるから、固定する強さを高めておいたほうがよい。

強力なマジックテープでくっつけるタイプ。商品1箱には、家具の後ろ側の3箇所で付けられるように必要な個数が入っている。家具に付けるほうは骨組みになる部材に粘着テープで貼り付け、さらに1つにつき2本の釘で固定する。そして、これが重要なのだが、家具の上と下で同じ平面になる箇所に取り付けないといけない。

ところが自分の洋服ダンスは安物で、そんなふうにはなっていなかった。ふだん家具を動かして裏側を見ることなどないし、骨組みの部材ぐらいは同一平面になるだろうと思っていた。しょうがないから、ここだけは同一平面になる両端の部分にそれぞれ取り付ける。

でも、この付け方だけでは強度が足りないだろう。しょうがないから、側面にも付けることにする。釘で穴が開くし、見栄えもよくないが、別に高級家具などではないからかまわない。でも、個数が足りないから、再度、千鳥町のユニディへ行き、もう1箱買ってきて取り付けた。

そして、洋服ダンスと天井間に前から付けていた突っ張り棒型器具は、最初に取り付けた当時、タンスの上に置いていたパソコンの箱などが大きいものだったから、邪魔にならないように、2本がちぐはぐな位置になるような付け方をしていた。そういうのは耐震上、よくないし、今のパソコンの箱はその頃よりも小さくて置くのに邪魔にならないから、転倒防止器具もたんすの両側で後ろの壁側に、2本が並行になるように位置を調整する。

昨日、本棚に取り付けた器具は、本棚の上のものだけでなく、脚部の下に噛ませる器具もセットになっていた。だから、本をすべて本棚から一旦、降ろして作業。今日も洋服ダンスは中のスーツやコートをすべて出さないと動かせないから、その作業も加わる。しかも、引っ越してきて以来、動かしていなかったから、後ろは埃だらけ。そういうのをみんな掃除機で吸う。こういうことを2日続けてやったから、今日の夕方にはぐったりと疲れた。やっぱり、五十路を迎えた身体は体力が落ちている。明日の春分の日は雨らしいから、ゆっくりと休養することにしよう。

晩飯はスーパーの惣菜コーナーで買った弁当。カップ酒を飲みつつ食べる。最初のほうだけ酒のつまみに海苔とチーズ。

食べながらNHK大河ドラマ「江」を見る。ここ2回ぐらい見ていなかった。しかも、先週の日曜は地震直後で休止だった。今回でお市の方様がお亡くなりになった。でも、お市役の鈴木保奈美は語りもやっているから、今後もたまに幽霊で出てくるのではないかと思う。1988年の「武田信玄」では若尾文子が信玄の母・大井夫人兼語りだったが、大井夫人の死後も毎回、「わが子・晴信は...」と語りを続け、たまに幽霊で出てきていた。


2011年3月19日(土)の日記

2011年03月19日 | 日記

この週末は液状化が起こった臨海部のようすを見に行って、行徳雑学館のトップページレポートにしようと思った。3連休で夕方まで晴れそうなのは今日だけみたいだから、今日決行。

午前11時ごろに自転車で出発。今井橋通りで臨海部へ向かう。塩浜橋を渡るとここ40~50年間にできた埋立地に入る。塩浜四丁目の塩浜団地やハイタウン塩浜でも液状化の修復工事が見られた。その先、塩浜三丁目から海に突き当たったところの護岸までは、液状化の跡らしきものはほとんど見られなかった。

市川塩浜駅へ。湾岸道路側の北口には液状化で砂や水が噴き出した跡が見られたが、南口のCVSベイホテル側はそういったものは見られなかった。ホテルの建物も外からは特に変わったようすは見られなかった。だが、ここも公式サイトによるとバス・トイレが使用できなくなっているために3月15日から一時営業見合わせとのこと。

やはり、塩浜一丁目の海沿いの道路が一番、多くの被害が出たようだ。地震翌々日(13日)の様子は、こちらのブログ記事が詳しくレポートしている。

アマゾンのフルフィルメントセンター。地震翌日、翌々日にはトップページのメッセージにフルフィルメントセンターがダメージを受けたことが記載されていた。今日は特にダメージがあるような様子は見られなかったが、トラック出入り口に液状化で砂が噴き出した跡が残っていた。

千鳥町のユニディに来た。駐車場のアスファルトのひび割れ、段差、砂の噴き出し跡は前に日曜日に来たときから変わっていなかった。でも、店は営業していた。

地震で倒れた部屋のスチール本棚を固定する、突っ張り棒型の器具が入荷していたら買おうと入る。地震後1週間ぐらいでは未入荷の可能性が高いだろうと思っていたら、うれしいことに入荷していた。ところが、器具のほうは家具と天井間の長さの対応可能範囲が異なる2種類のがあった(買ってから箱を見ると、商品ラインアップとしては4種類あるとのこと)。本棚と天井間の長さは測っていなかった。しょうがないから一旦、帰って測ってくることにする。

もう昼飯時だったので途中で昼飯。西友行徳店地下にある西山ラーメン餃子定食

その間に完売していたら、そのときはしょうがない。

本棚・天井間を測って再度、ユニディに行き、その長さにあったのを2個買ってくる。こういう器具は最低、2組で使うことが推奨されている。1個だと、固定した箇所を支点にして回転してしまうから。

商品名の「マグニチュード7」はいまいち。今度の地震はマグニチュード9だったのだから。でも、そんなことに文句は言っていられない。

本棚と天井間に設置。本棚を手で揺すろうとしても、がっちりと固定されて全然揺れない。

とりあえずは一安心。

このあと、写してきた写真でトップページレポートを作り、夕方にUPする。

東京電力の計画停電は今日はなし。オフィスも工場も休日で電気を使わないからだろうけど、前の土日にやらなかったのだから、この週末にやるのは変だという気がしてくる。いや、まったく同じではないだろう。前の土日は地震直後で世の中の多くのものがストップした状態だったから、1週間経って同じ状態と考えるわけにはいかない。でも、いずれにせよやらないというのは、個人の生活でも該当地域でも活動を止めざるをえない時間がないのだから助かる。

午後7時前に地震。テレビを見ると千葉県北西部は震度4、東京23区は震度3。行徳は23区と境界を接するところに位置するが、自分の部屋での体感震度は3ぐらいだと思えた。本棚は以前は軽い地震でも左右にゆさゆさと揺れていたが、がっちり固定したからこれぐらいの震度では何もなかった。

今夜は居酒屋オンドリへ行く。節電のためとお客さんも少ないからか、店の半分-テーブル・座敷がある側は消灯して残りの半分で営業している。

でも、さすがに週末。自分がいた間、他には先に来ていて帰った人たち、後から来た人たちなど3組のお客さんたちがいた。いずれも馴染みのお客さんのようで、個人経営の小さい店は苦しい時期でもこうした人たちが支えているのだろう。自分もその1人のつもりだ。

今日はアルバイトもおらず、マスターは1人でオーダー受けから伝票記入、そして調理と、自分の仕事を黙々と続ける。店は地震のとき大丈夫だったのか聞くと、グラスが多少壊れたぐらいだったとのこと。

最初は中生。お通し枝豆。

焼鳥でねぎま砂肝を2本ずつ。

〆さば。地酒で磯自慢

甘エビ。地酒はもう一杯で久保田碧寿

印元ごま和え。このあとライムハイを一杯。


2011年3月18日(金)の日記

2011年03月18日 | 日記

朝は5時半目覚ましで30分早く家を出るのを続けているが、電車の大幅本数削減がないときはスムーズに会社まで行けるので、今日は始業時間の50分前に着く。仕事も早く取り掛かるが、今日は第5グループが午後6時20分~午後10時の予定で停電なので、終業時に即、退社。

晩飯は南行徳メトロセンターの松屋豚バラバーベキュー定食。食べているうちに午後6時の5分ぐらい前になったら、オーダーストップとなり、閉店準備が始まった。メトロセンターはチェーン系の店中心に午後6時閉店の貼り紙をしていたところが目立った。チェーン系以外だと、とんきはすでにシャッターが降りていた。天善かつ壱番屋と洋風食堂壱番亭は特に貼り紙もなく営業継続中。おそらく、電気が消えるまでがんばってやっていたのだろうと思う。

メトロセンターの一番行徳寄りまで来ると、スーパーナカムラヤも午後6時閉店でシャッターを下ろしつつあった。

予定時刻が過ぎても停電がなかなか始まらないと思っていたが、午後7時10分ごろに電気が消えた。懐中電灯の明かりでパソコンを写すとこんな感じに写った。動作中に停電したらハードディスクがやばいかもしれないから、別に立ち上げていたわけではない。

携帯ラジオを少し聞いていたが、懐中電灯の明かりでは何もできないし、暖房はないから、布団を敷いて電気が付くまで寝ることにする。活動できないから眠るというのは、一種の冬眠だ。目覚ましは午後10時にセットする。そうしておかないと、朝まで寝てしまいそうだ。

最初はなかなか眠れなかったが、やがていい気持ちで眠る。そうしたら、電気が回復して部屋の蛍光灯が付いた。午後8時50分ちょっと前ぐらい。電力消費量が減ってきたので、早めに終わったのだろう。第5グループの全地域一斉だったかどうかまではわからないが。

携帯ラジオと自転車用ヘッドライトと懐中電灯。

日が落ちてからの停電で、テレビが見られないときにラジオから人の声が聞こえるというのは実際、心強いことだ。

懐中電灯は大学に進学して親元を離れたときに、一緒に持ってきたものだが、30年目にして初めて役に立った。つまり、この30年間、自分が住んだ地域で、夜の停電などなかったわけだ。明るい時間の停電は、旧江戸川でクレーン船が高圧線を引っ掛けて起こったことがあった。去年かおととしぐらいかと思って、日記の過去分を検索したら、2006年の8月で、5年近く前だった。

自転車用のヘッドライトがあったのを思い出し、懐中電灯代わりになりそうなので、出してきて用意しておいた。LEDライトのもの。単3乾電池を4本使う。懐中電灯で使われる単1がどこも売り切れなので、懐中電灯の電池が切れたら代わりに使える。もっとも、今日の2時間半あまりの停電ぐらいでは、ずっと付けていたとしても電池切れになったりはしない。

去年の9月以来、折りたたみ自転車で出かけていないが、ヘッドライトを出したら、明日からの3連休に久しぶりに街のポタリングでもしようかと考えていたことを思い出した。地震以来、そんなことを考えていたこと自体、忘れていた。とりあえず、3連休に行くことはないが、行くとしたら、もっと世の中が落ち着いてからだろう。


2011年3月17日(木)の日記

2011年03月17日 | 日記

第5グループは今日は朝一番。それと午後の予備。朝は自分が南行徳駅で電車に乗るまでは、停電した様子はなかった。そのあとも分からない。でも、寒の戻りが強くて暖房を使う人が増えたようで、午後の予備のときは停電したようだ。家に帰ってから、湯沸しを室内パネルから付けてみると、湯音設定のインジケータが一番低いところにリセットされていた。停電のときはこうなる。他にも、電気設備関係を見ると、やはり停電していたことが分かった。

朝の電車はそれほどきつくはなかったが、帰りは寒さで暖房需要が増えて電力逼迫したためか、電車は本数削減。会社最寄駅から乗るのに20分あまりホームで待つ。改札制限には引っかからなかった。

地震直後のハイテンションはおさまったが、やっぱり緊張状態は続いていて、そろそろ帰りに酒を飲みたくなった。こういうときに飲みに行くのは気が引けるが、義援金や募金だけでなく、お金を世の中に還流させて経済を回すことにもちょっとでも寄与すべきだと、自分を納得させて行く。同じ行くなら、地元の個人経営の居酒屋にする。チェーン系と比べて体力の小さいところは、こういう時期は苦しいだろうし、自分の気に入っている店が消えたりしないように応援するためもある。

それで、今日行ったのはあびぃろぅど

着いたときは看板の灯りが落ちていた。てっきり休みかと思ったが、中の電気は付いていた。マスターが住んでいるのが浦安で、行徳と同じく第5グループ。夕方まで停電だったので、マスターも店に来てそれほど時間が経っていなかったということ。

地震で店は大丈夫だったかと聞くと、食器棚から出していたグラスが多少、割れたらしい。それと、しっかりと固定されていなかった棚からはものが飛び散っていたということだった。オーディオ機器やドラムセット、棚の上のゴジラのフィギュアは大丈夫だったそうだ。

店内にはゴジラのフィギュアが何体か置いてあるが、他の棚の上にあったのは吹っ飛んでいたということ。

飲みつつ、いろいろと食べる。

ホタテバター焼き

鳥なんこつ焼き

やみつきキャベツ

締めにカレーライス

地震のときはどこでどうしていたといったことを、マスターやママと話しつつ飲み食い。そういうことを話すと気持ちがほぐれる。普段は飲んで食べることを楽しみに来る場所だけど、飲み屋は飲んで気持ちを楽にほぐす場所という役割も持っていることを、あらためて感じた。

明日の第5グループは、午後6時台から午後9時半か10時ごろまでの停電予定。今日の寒さはまだ続くらしいから、実施の可能性が大きい。日が落ちてからだから、暗い部屋で暖房も入らないことになるのはきつそうだ。じゃあ、どうするか。早めに帰ってきて、布団を敷いてもぐりこんで寒さをしのぎ、電気が回復してから活動再開ということにしようか。


2011年3月16日(水)の日記

2011年03月16日 | 日記

行徳地区が入る東京電力計画停電第5グループの停電(今日は9:20~13:00)は行なわれたらしいが、全エリアではなく、行徳地区は外れたようだ。昼間、会社にいるときにニュースサイトや東京電力のサイトを見ていても、細かな情報は得られない。帰ってから地元関係のブログ、掲示板など見て、そうらしいと分かる。会社ではアクセス制限でブログ、掲示板類は見られない。

明日は第5グループは朝1番目になるとのこと。朝1番目と2番目になったグループは、夕方以降に電力需要が伸びてまかなえなくなったときの予備グループになる。今日の帰りには強い北風が吹いていたし、明日は冷え込むようだから、エアコンの暖房を使う人が増えれば、グループ全範囲や、予備グループになっている時間での停電の可能性が高くなるだろう。

晩飯は南行徳駅前のなか卯へ行く。正面の電照看板は灯さずに営業していた。正面の大きなポスターが外されていたのは、強風のためか。

今日は牛丼並小うどんはいからつけものを食べる。

朝はこれまでより30分早く起き、不要不急な残業は規制中(電力需要が増えてくる時間だから、パソコンの電源を早く落として帰れということ)で、帰宅が早い。早く起きた分だけ、早く眠くなってくるから、結果的に早寝早起きの健康的な生活になってきた。もっとも、睡眠時間に関して健康的でも、エアコンもできるだけ使わないようにしているから、油断して風邪なんか引かないよう気をつけないといけない。

26日の土曜日に予定されている「寺のまち回遊展」が果たして予定通り開催されるか、1日1回はてらまち会サイトにアクセスして見ていたが、今日、帰ってから見たら、中止のお知らせが掲載されていた。残念だが、今の世の中が混乱した状況ではやむを得ないところだろう。それで、行徳雑学館トップページの地域イベントの一覧も、中止のお知らせにしてUPする。


2011年3月15日(火)の日記

2011年03月15日 | 日記

これまで午前6時に目覚ましを鳴らしていたが、今日からしばらくは午前5時半にする。昨日より30分早く家を出て南行徳駅に向かう。ホームへ上がったときに止まっていた電車はすでに満員だったが、次が妙典始発でこれは楽に乗ることができた。といっても、浦安、葛西と進めばぎっしりの状態になる。会社最寄駅まで順調に行くかと期待したが、東陽町の手前でストップ。1本前の電車が混みすぎてガラスが割れたので、処置をしたとのこと。これで10分待ちだった。でも、定時には十分に間に合った。

帰りも定時からあまり間を置かずに退社。今のところは不要不急の残業はするなという状態。ニュースによると鉄道には計画停電地域でも電力を供給し続けることで話がついたということで、少しは本数を増やしたダイヤになったのだろう。

東京電力の計画停電のグループ分けはほとんど変わっていないが、今日は順番が変わった。行徳地区を含む第5グループは、午後0時20分から午後4時までが予定になっていた。第5グループの一部の地域では実施されたようだが、行徳地区は今回は外れたということ。今、これを書いている時点で午後10時近いが、明日の予定は東京電力ホームページを見てもまだ載っていない。こういうのが、個人も組織も予定が立てられずにイラつくところだ。

帰りに南行徳駅に着いたのは午後5時50分ごろ。今日のメトロセンターは、その時間が営業時間に入るほとんどの店がやっていた。昨日の状態は、第5グループの停電予定時間なので早仕舞いしてしまったからなのかもしれない。

晩飯は天善かつ壱番屋で。この店は、昨日もやっていたと思う。

B定食(豚ロース焼肉、鳥唐揚げ、白身魚フライ)を食べる。

昨日の午後6時ごろには閉まっていた、駅南側のパチンコ屋もなか卯も今日は開いていた。

パチンコ屋の前に資材はこの前から行なわれている歩道工事のもので、地震で建物が損傷したわけではない。

会社では大震災被災地への義援金募集が始まった。帰りに入ったコンビにでも、棚の商品は徐々に元どおりの状態になりつつあるようだ。昨日ぐらいまでのパニックと言えるような状態を脱して、世の中の経済活動も通常に戻りつつある。計画停電はやむをえないことだが、縮こまっているだけでは経済が回らず、ジリ貧になっていく。


2011年3月14日(月)の日記

2011年03月14日 | 日記

東京電力の計画停電(輪番停電)で、行徳地区がどのグループに入るか、なかなかはっきりした情報がなかったが、ほとんどが第5グループで一部が第2だったようだ。市川市北部は第2が中心だが、総武線の南側がどうも第5のようで、江戸川放水路が境界になるのではない。

朝は6時20分からさっそく始まるのかと思っていたら突然、中止というニュースが流れた。そのまま第4までみんな中止。午後3時20分から午後7時までの第5は、茨城や静岡といった東京周辺と比べて人口の少ない地域でだけ停電実施になったとのこと。

今日はデパートなど大規模店が休業したり、メーカーで工場を休んだりしたところがあったそうだし、鉄道も運休とか本数削減をやっていた。大震災後すぐなので、世の中がみんな縮こまっているような状態だ。それで、電力需要が抑えられたのではないかと想像する。でも、企業などもいつまでの縮こまったままというわけにはいかないから、やがて電気を使うようになると、計画停電をちゃんと実行せざるを得なくなるのではないかと思う。

今朝は起きてニュースを見て、鉄道の運休とか本数削減のことを知る。鉄道関係は通常とほとんど変わりないのではと思っていた。南行徳はいつもの朝より10分程度早く着いたが、ホームへ出ても来る電車はみんな満員で、数本見送ってやっと乗れた。本数が減った状態での数本なので、30分程度は待った。その間にも人がどんどん来るので、改札制限も行なわれていたようだ。会社でも、家の場所によって昼近くに来た人や、昼過ぎにもう帰る人もいた。そのように柔軟に対応していた。

自分も帰りは定時に即行で帰る。おかげで、満員だったが、来た電車にすぐ乗れた。

南行徳を降りると、駅の周りが暗い。停電ではなく、いくつかあるパチンコ屋が休みのため。写真のパチンコ屋は明るく写っているが、まだ午後5時台だったし、カメラのオート機能も働いたため。実際の感じはもっと暗いと思えた。そして、パチンコ屋のとなりのなか卯も休業していた。

メトロセンター内も休業してシャッターを下ろしている店が目に付く。松屋は天井からの電照看板は明かりがついているが休業だった。

ラーメンの花月は開いていたので、今日の晩飯は花月で。

メトロセンターを行徳方向に歩いて行くと、決してシャッターが降りた店だけでなく、開いているところも多くあった。一番行徳寄りのスーパーナカムラヤも開いていた。

しばらくは平日は今日のようなパターンの生活が続きそうだ。

 

昨日の夜あたりから、テレビや新聞で地震関係のニュースを見たり読んだりするのが辛いと思えるようになって来た。津波から九死に一生を得て助かった人のインタビューで、一緒にいた家族は津波に飲まれて行方が分からないといった話を聞くと、こちらも悲しくなって気持ちが沈む。

箱根の山の上で地震に遭遇してから、ずっと気が張り詰めた状態、別の言い方をすればテンションが上がった状態になっていた。周りにいた若い人間が、
「こういうときは、テンションが上がるよね。」
と言っていた。これは、危険な状況に遭遇したときに、自分の身の安全を確保し、生命を守るために、人間の動物としての部分が働くからだろう。また、そういうときは感情を抑えるようにも身体が、というか脳が働くようだ。だから、なんとか宿に着いても部屋ではテレビをずっと見ていられた。晩飯のバイキングは、地震が発生する前から準備していたものだから、時間になったらちゃんと用意されたが、やたらとムシャムシャ食べてしまった。これも生命を維持するという本能が強く働くからか。

そして、家に帰って本棚が倒れていたのに驚き、片付けをして、昨日は転倒防止の応急処置をして一段落着き、ハイテンションの状態も落ち着いた。すると、ニュースから伝わってくる悲惨な状況が自分の感情にどんどん訴えるようになってきた。

それで、やっと意識に上ってきたのだが、これをまだ言っていなかった。

被災された皆さんに心よりお見舞い申し上げます。


2011年3月13日(日)の日記

2011年03月13日 | 日記

さいわいにも今日は日曜日なので、地震で倒れたスチール製本棚の転倒防止措置をやってしまうことにする。でも、こういうときは転倒防止器具は売り切れになっている可能性が強い。なんとかできる範囲でやるしかない。千鳥町のユニディへ行ったら案の定、ほとんどが売り切れ。家具に下に付けるタイプのものはあったが、カーペットでは使えないのしかなかった。

行徳駅前の西友に行っても、大きな器具は売り切れ。でも、使えそうなものを見つけた。10cm四方の小さなゴム板。ゴムと言っても固いゴムで、音響機器や小型機械類の防音・防振用のもの。これを買って帰って本棚の前脚の下に置く。

カーペットの下の床材の関係か、壁のそばが少し固いようで、本棚を壁から1cm程度離して置いても前が沈み気味になって、つまり、本棚が少し前に傾いた状態になる。ゴム板を置くと、微妙に後ろに傾く形になったが、本を置いたらちょうどまっすぐになった。

あとは、本棚の天板と天井との間に、突っ張り棒型の転倒防止器具を設置したいが、そういうのはみんな売り切れで当面、手に入らないだろう。でも、2,3週間か1ヶ月ぐらいすれば、スーパーやホームセンターに防災コーナーが作られて、そこにずらっと並ぶのではないかと思う。洋服ダンスに取り付けている突っ張り棒型の器具も、阪神・淡路大震災のあと、たしか南行徳のDマート(今はヤマダ電機になっているところ)で防災用品コーナーができて、そのときに買ったものだ。

でも、なにかの転倒防止措置をしておかないと、余震で大きな揺れが来たときが心配なので、転倒防止用のチェーンを使うことにする。もともとこの本棚は、30年前に買ったときから転倒防止用のチェーンが付属している。学生のときに住んでいた部屋や、就職してからの独身寮の部屋には木の鴨居があったので、そこに「?」字型のネジ釘を差し込んでチェーンを取り付けていた。今の部屋に来たら、壁も天井も石膏ボードでネジ釘を付ける場所はないから、チェーンは本棚の側に付けてそのままになっていた。

石膏ボードはネジを差し込んでもどれくらい固定できるか分からないし、賃貸だからそういうことはためらってしまう。しょうがないので、石膏ボードに時計とか額とかを付けるときの金具を使うことにした。跡があまり残らない細い釘3本をクロスさせて石膏ボードに差し込んで強く固定するもので、自分の部屋では壁掛けの時計や温度計を付けるのに使っている。2個並べて付けて、姿見の大きくて少し重い鏡も壁に掛けている。今回の地震では時計、温度計、姿見鏡とも大丈夫だった。

姿見鏡と同じように2つ並べて壁に付けて、本棚のチェーンを掛けておく。これを2ヵ所、行なった。

といっても、こうした金具は家具の転倒防止用ではないし、チェーンも30年前のものだから、一昨日と同じ程度の揺れが来たときに持ちこたえられる保証はない。本棚が倒れたら、一昨日と同じようにデスクに当たって斜めで止まるだろうけど、置いてある本は散らばるだろう。夜、寝ているときに揺れに気が付いて、頭から布団をかぶって本棚から少し離れる間の時間稼ぎ分だけ、持てばいいと思っている。あとは、できるだけ早く、突っ張り棒型の器具をメーカーが増産して、スーパーなどに並んでくれなければ。

西友では昼前だったが食料品売り場が混雑していた。カップラーメン類、お茶や水の2リットルのペットボトル類は売り切れ。惣菜コーナーで今日の昼と夜の分、それに明日の朝のおにぎりは確保できた。明日から電力不足で「輪番停電」になるということだから、腐りやすい牛乳などはやめておく。

自分のいるマンションは電気・ガス・水道は大丈夫だが、行徳地区の中には断水しているところがあるようだ。それに、電気が来ていると言っても、原発停止で電力が足りないというので節電が呼びかけられている。でも、情報途絶になるからテレビはなかなか消せない。家庭でできることとしては、今日のような暖かい日は昼間はエアコンを付けず、朝晩も暖房設定の温度を1度か2度下げて、セーターを厚めのもの、ズボンはジーンズでなくコーデュロイのにしてしのぐとか、部屋の電灯は必要なときだけ付け、2灯タイプの蛍光灯は1灯だけ付けるとか、パソコンも立ち上げる時間は最小にするとか、今のところそういうことぐらいだ。

ユニディに行ったとき、広い駐車場の何箇所かでアスファルトが妙に盛り上がっていたり、ひびが入って段差になっていたりした箇所があった。夕方のニュースでは浦安の埋立地(新浦安駅の最寄圏)で液状化の被害が出ているということ。千鳥町も新浦安もここ40~50年程度の埋立地だ。ユニディ駐車場もそうだったのだろう。他には東京ディズニーランドや東京ディズニーシーも液状化の影響が出て、しばらく休園というし、アマゾンジャパンも市川塩浜駅前の物流センターで影響が出ているらしく、配送日指定での受注は中止しているということだ。


2011年3月12日(土)の日記

2011年03月12日 | 日記

首都圏南側の電車は運行再開するようなので、朝飯を食べたらチェックアウトして帰ることにする。もともとの予定では昼頃の特急ロマンスカーで帰るつもりだったが、家のようすが心配だからとにかく早く帰る。いずれにしても、こういう日は指定席の特急などは運休。小田原まで行って、状況を見て小田急かJRかを選ぶことにする。ついでに、特急券も払い戻しを受けてくる。運転再開した路線も、本数を減らして速度も抑えて運転しているが、JRより小田急のほうが本数があって、急行も運転していたので小田急に乗る。都内の地下鉄も本数が減っていたりして、南行徳に着いたのは午後1時過ぎだった。

小田急の車窓からも、東西線で地上区間に出てからも、特に建物が壊れているようなようすはなかった。南行徳の駅前もいつもどおりでほっとした。

家は気になるが、街のようすもいつもどおりだし、昼飯を食べていくことにする。メトロセンターの松屋へ行くと、中に店員はいたが食材の輸送が滞って臨時休業と貼り紙が出ていた。こういう形で影響は出ていた。それで、マクドナルドで手早く食べて帰る。マクドナルドにも食材輸送の関係で、販売停止になるメニューが出る可能性があるという貼り紙があった。夕方にコンビニに行ったら、ここも入荷が滞っているために弁当はなし、カップラーメン類も売り切れ。なんとか入荷したらしいおにぎりなど、とにかくあるものを買って帰る。

家の中はというと、テレビや低い棚は大丈夫、転倒防止器具を取り付けていた洋服ダンスも大丈夫だった。だけど、学生のときから使っているスチール製の背の高い本棚は転倒防止措置をしていなかったので倒れていた。倒れていたといっても、30cm程度先にデスクを置いているので、それにあたって斜めの状態。床がカーペット敷きで、もともと微妙に前に傾いていたが、自分が寝る場所の方向は向いていないし、倒れてもデスクにあたって止まるだろうと思っていたから、想定内といえばそういうことになる。でも、置いてあった本の大部分は部屋中に散らばっていて、実際にそうなってみると、怖いものだった。これは早めに転倒防止の措置をしたほうがいい。今の部屋に来てから20年余り同じように置いていた本棚だが、こんなふうになったのは初めてのこと。これまでにない揺れ方だったようだ。新聞によると震度5強だったらしい。

本をみんな元どおりに戻して一息つく。今日は朝の宿でも、家についてからもテレビをつけっぱなしにして状況を見る。福島の原発のこと、電力不足になって地域ごとに輪番で停電になるかもしてないことだとか、情報をチェックすることはいろいろある。停電になったら情報途絶するから、そうした場合に使う小型ポータブルラジオに電池を入れて、動作を確認する。