朝は8時半頃に布団から出る。コンビニへ朝飯を買いに行くときは雨だった。午前中は映画のDVDを見て過ごす。
ダイエーやヤマダ電機へ買い物に行き、ついでに昼飯も食べてくる。午前中は強い雨が降った時間もあったが、昼頃は弱めになり、帰ってくるときは止んでいた。気温も昨日と比べて急降下していて、半袖Tシャツの上に薄手のブルゾンをはおって行く。(↓南行徳駅の近くで)
ダイエー近くの中華の味味で昼飯。
肉ニラ炒め定食を食べる。
晩飯は再度、南行徳駅前まで行ってなか卯。温うどんは前の日曜に季節メニューの鶏塩うどんを食べたが、今日は本格的に涼しくなったことだしレギュラーメニューのほうの温うどんを久しぶりに食べる。きつねうどん、それにライスとつけものも注文して”勝手にきつねうどん定食”で食べる。
この組み合わせ、安上がりかと思っていたが、きつねうどんが390円、ライスが130円、つけもの50円で計570円。お得セットだとこれより安いのもあるから必ずしも安上がりとは言えなくなってきた。
昼飯と買い物から帰ってきてから夕方までは、最近買ったCDを聞く。コレギウム・アウレウム合奏団のハイドン交響曲82番、83番、85番。
もう30年近く前になるけど、大学生のとき、自分が初めて買ったクラシックのレコード(1980年代の初め頃だからアナログのLPレコード)のCD版。正確に言うとアナログのLPは82番と83番で片面ずつのだった。それが初めて買ったもの。そのあと、85番と87番が入っているのを買った。今、CDで出ているのは今回買った分だけで、87番が入っているのは未発売。解説書の表紙は85番と87番のほうのLPのジャケットに使われていた絵画の写真になっている。なお、アナログのレコードはもう15年以上前にみんな手放してしまっている。
当時、コレギウム・アウレウム合奏団というオーケストラに興味があったから買ったわけではなく、ハイドン交響曲の82番を聞きたかったので、たまたま大学生協のレコードフェアで見つけて買ったのがそれだった。82番の交響曲は大学の教養課程の授業で聞いて強く記憶に残った曲だった。授業の名前は「音楽」だったが、小中学校の音楽のように合唱したりカスタネットやリコーダーなどの楽器を演奏したりするものではない。西洋美術史としての音楽を毎回、レコードで聞きながら先生が解説していくという内容。全学部共通で、前期だけ・後期だけではなく通年の授業だった。最初のうちは音楽と解説を聞いても、どうもちゃんと入っていけなかったが、11月頃にこのハイドン交響曲82番を聞き、先生の解説を聞いたら急に視界が開けたような感覚を得た。
ソナタ形式という言葉は中学ぐらいの音楽の教科書で見て知ってはいたが、起承転結に似た流れがあり、聞いている曲がそうした構造を持つことがはっきりと分かった。
「音楽の設計図が見えた!」
と思ったのだった。クラシックの音楽に設計図などという言葉はおよそ似つかわしいとは思えないが。
そして曲の中のメロディの造りや配置に古代建築的なバランスを重視したところがあって、ハイドンがいた時代の前の世紀だがルネサンスからの流れがあるということを聞く。ルネサンスというのも小中学校の歴史で習う言葉だけど、それが古典復興運動という意味であることが実感できたと思えた。それまで学校で勉強はするが、バラバラだったものが頭の中で突然、ひとつながりになって視野がぐっと広がったように思え、それが何とも言えぬ快感となった。その感覚は今でも覚えている。本当にこんな感銘を受けた授業は大学4年間通してもあまりない。自分が所属する学部の授業はこなすべきノルマとしての部分があるが、教養課程の学部を限定しない授業は(もちろん一定単位を取らないといけないが)あまり義務感のようなものがないから気楽に聞くことが出来て、それがよかったのかもしれない。今回、久しぶりに82番の交響曲を聞いたら、大学でものんびりした1年生のときの気分を思い出した。(今の大学で1年生がのんびりしていられるかどうかは知らないが)
これがきっかけでクラシックのレコードを買うようになった。それまではオーケストラが演奏する曲を聴くのはアニメBGM集のレコードだった。中学から高校生のころにかけては「宇宙戦艦ヤマト」ブームだったし、予備校生のときは「機動戦士ガンダム」が始まった。この2つを含めて好きなアニメのBGM集を買って、盛り上がった場面を思い出しつつ聴いていた。アニメも含めて映画やテレビドラマで使われる曲はオーケストラが演奏するものも多いから、オーケストラ曲と自分との相性はいいほうだったと思う。
でも、クラシックというと、聴くときは静かに目を閉じて瞑想しているような、座禅をしているかのような態度か、それとも肖像画のベートーベンのような難しい顔をして聴かなければならないという先入観があった。映画でもテレビドラマでも漫画でもそんなふうにクラシック音楽を聴く登場人物が多くいるようなので、その影響だろう。子供のころの吸収力が旺盛な時期に繰り返し意識に入ってきたものは先入観となって、かえって若いときほど視野が狭くなったりしている。クラシック音楽にしてもそのほかの芸術作品に向き合うときは情緒的な部分で捉えなければいけない-つまりは心で感じなければならないというのも同じような先入観だろう。一般に、人間の脳で情緒的な部分をつかさどるのが右脳で、論理的な部分をつかさどるのが左脳ということだけど、大学で西洋美術史としての音楽の授業を聞いて、音楽の設計図が見えたと思ったのは、右脳だけでなく左脳も一緒に使って音楽を聴くことができるのに目覚めたことだった。
音楽の先生がハイドン交響曲の82番を授業で解説用に使ったのは、音楽の構造を説明するのに分かりやすい曲だったということもあるだろう。ところが、自分のほうもこの曲で感銘を受けてしまったために、それ以後、クラシックのレコードをいろいろと買うようにはなったが、ハイドンや同じ時代のモーツァルト、つまりは古典派の楽曲ばかりを買うようになってしまった。CDが普及してからもやはりそうで、今持っているクラシックのCDは40枚余りだけど、ほとんどがハイドン、モーツァルトで他の作曲家のはわずかしかない。もっといろいろと聴いて視野を広げたほうがいいとも思うが、なかなか踏み出せない。どうも、音楽の設計図が見えたことに感動して、設計図の部分を掴み取るのを楽しむために聴くのが目的のようになっているところがある。聴くときは情緒的な部分も含めて聴いているつもりなのだが。
音楽にも設計図にあたるものがあり、設計思想とそれをもたらした時代背景があるということに自分の意識が広がったのだが、音楽の授業の先生が設計図とか設計思想とかいった言葉を使ったわけではない。自分が工学部の学生だったからそうした言葉が頭に浮かんだのだ。artという言葉は芸術や美術と訳すと、高尚なもので、それに対してうやうやしく接しないといけないかのような思い込みが表に出てくる。だけど他には人為的なもの、人工的なものという意味がある。20数年前にコンピューターの世界では人工知能ブームがあったが、人工知能は英語ではartificial intelligenceだ。音楽も美術作品も人が作るものという視点で見れば、工学部で扱う自然科学を基礎とするものとは対極にあるかのように思えていたものが、基礎の上に完成物まで人が作っていく部分では意外と似たところがあるというのがその授業で感じたことだった。
思い出して見ると、そのあとコンピューターソフトウエアの勉強をして、仕事としてやっていく上で、あの音楽の授業で感じたことが役に立ったと思える。コンピューターの世界は変化が早くて新しい考え方や技法がいろいろと出てくるが、表面的なものだけでなく、背景まで深く理解して取り組むべきだと思い、できるだけ実践しようとしてきた。ただ、それはソフトウエア職人としての仕事には役に立ったと思うが、チームのリーダーとかマネージャーだとかいった仕事になると別。自分はリーダーの仕事には全然向いていないようで、落第しているのだから。
今回買ったCDのコレギウム・アウレウム合奏団のことは、古典楽器を使った合奏団だということをLPレコードの解説で読んだぐらいで、これまで詳しいことは知らなかった。Wikipediaの記事によるともうとっくに活動を停止しているらしい。もてはやされたのは1960年代から1970年代のようだ。自分がレコードを買ったのは1980年代の初めだったが、廉価版として売られていた。LP版で新しいのが2,500円とか2,800円だった時代で、古いタイトルが廉価版で1,500円とか1,800円だった。ということはその頃にはもうピークを過ぎていたのだろう。もっとも廉価版で、そこに大学生協なら10%オフだったから、コレギウム・アウレウム演奏のハイドンやモーツァルトの交響曲などをいろいろと買って、その結果、自分にとっての思い出に残る合奏団になっている。他に自分が買ったアナログ版でCD化されたのがないかと思ったが、今回買ったハイドンのものしか出ていないようだ。