行徳生活日記

「行徳雑学館」作者の日記。

2011年3月31日(木)の日記

2011年03月31日 | 日記

定期券を買い換える時期が来たので、帰りに浦安の定期券売り場へ寄って行く。定期券売り場前の待ち行列が長すぎたら、土日にしようと思ったが、そこそこの長さだったので申込書を書いて並ぶ。通路の端で折り返すような長い列ではなかったが、それでも並んでから定期券が買えるまで45分ぐらいはかかった。昼間は暖かくても、日が落ちると徐々に冷えてくるし、この通路は風が吹きぬけていたから、今の時期に並ぶならコート類は必須だ。

定期券を買ってから、浦安メトロセンターのつり舟に寄る。ここ数年の定期券を買い換える日の自分の定番になっている。

ここは地震のあとも営業を続けたのかと思ったが、10日あまり休んだそうだ。店は大丈夫だったが、宮城の親戚の子とその友だちが、ちょうど関東に卒業旅行に来ていて帰れなくなり、転がり込んできたとのことだった。そういう状況では店はやれまい。手伝ってもらうわけにもいかないし。地震で浦安の埋立地は液状化の被害が大きかったというが、元町地区はほとんど大丈夫だったし、電車から見る限りは特に変わりはない。でも、いろいろな形で影響があるものだ。常連のお客さんの中には、つり舟がとうとうつぶれたと思った人もいたらしかった。

最初は生ビール。カウンターの上の「不況に負けず営業中」は今回の地震前から掲げられていた。去年から景気は悪かったから。

初かつおの刺身

ビールの後は樽酒を枡で。食べるほうは鳥の唐揚げ。肉が食べたくなったのは昨日、ダンベルをやったからか。

再び魚介類でなまこ酢

”今日の10円”メニューもちゃんとあった。

その10円のそら豆

樽酒は2杯にしておく。3杯だとこの日記は翌日回しになってしまう。それに明日は月初日のタスクがいろいろとある。


2011年3月30日(水)の日記

2011年03月30日 | 日記

昨日は帰りの時間が暖かだったので、家へ着いてからも暖房を入れなかった。だけど、遅くなるほど室温は下がってきたようだ。ところが、昨日は映画「世界大戦争」のDVDを見てから、この日記の長文のを一生懸命書いていたので、書き終わって気が付くと身体がずいぶんと冷えていた。風呂で温まって、寝るときもしっかりと布団にもぐりこんだが、朝になったら熱でも出ているのではないかと心配だった。だけど、今朝は大丈夫だった。昼間暖かくても、今はまだ、日が落ちると寒いから油断大敵だ。今日は大丈夫だったが、こういうのは2、3日遅れて出ることもあるから、まだ完全に安心はできない。

晩飯は洋風食堂壱番亭角切りステーキ&チキンカツを食べる。

パワーが付くものを食べて今日はダンベルエクササイズ。下半身メニューをやる。エクササイズができるのだから、とりあえず今は身体の不調はない。


2011年3月29日(火)の日記

2011年03月29日 | 日記

今日はライナーを外したコートで、帰りの時間はボタンを止めずに歩けるほど暖かくなった。どうやら本格的に春になってきたようだ。

晩飯は南行徳メトロセンターのやよい軒。節電で天井の電灯も3分の1ぐらいに減らしていた。食べたのは肉野菜炒め定食。料理を写すと、カメラのオート機能で少し明るめに写るが、目で見た感じはもうちょっと暗い。

カウンター席の反対側との仕切りは内部に蛍光灯が入っているが、それも消されていた。これが消えていたのが、暗いという印象を強くしていた。

本屋で今日発売のデアゴスティーニの東宝特撮映画DVDコレクション「世界大戦争」を買う。

1961年(昭和36年)、自分が生まれた年に作られた映画。第三次世界大戦が起こって核ミサイルの射ち合いになり人類が滅亡してしまうという話。市井の人々と世界情勢を並行して描いている。初めて見たのは高校生か大学生のときだから1970年代後半から1980年代前半にかけての時期。そのとき2つのことを感じた。

驚きと落胆。

驚きのほうはというと、人類が滅亡してしまうラスト。
「『ノストラダムスの大予言』でもここまでやらなかったのに...」
と驚いた。

1999年に人類が滅亡するというノストラダムスの大予言(結局は当たらなかったが)は、1974年(昭和49年)ごろ、ブームになった。自分が読んでいた中学生向けの学年誌(みんな廃刊になってしまったが、旺文社の『中×時代』や学研の『中×コース』があった。)にも特集が載って、
「君は40歳まで生きられない」
などと書いてあったりした。中学生ぐらいの歳だとけっこう本気で心配したりした。

同じ年には東宝が映画化した。その中で人類の滅亡は登場人物たちの空想として描かれるだけで、実際に滅亡するのを描いたりはしていない。1974年から25年後のことだから、起こるにしても、まだだいぶん先のことだというのもあっただろう。滅亡に到る大きな原因は環境問題の悪化だった。当時は世の中、寝ても醒めても「公害!」、「公害!」の時代。ゴジラが公害怪獣と戦う「ゴジラ対ヘドラ」(1971年)(→3月1日の日記)からもわずか3年後だ。映画のラストは予言が現実にならないように危機を訴えて終わるものだった。ちなみに、映画「ノストラダムスの大予言」は、昔の映画によくある「現在では不適切な描写」が多く、あちこちからクレームがついて封印されてしまい、テレビ放映もソフト化のされていないし、デアゴスティーニのシリーズにもラインアップされていない。

映画やテレビドラマ、小説などはそれが生まれた時代の世相を反映するというけれど、人類が核戦争で滅亡する映画が作られたのは、その時代の人間に強い不安があったからだろう。一つ思い出すのは、大学のときのある先生のこと。学外から講師として来ていた人だったが、その人の若い頃の話で、どんなに努力して勉強なんかしていても、いつ原水爆が頭の上に落ちてきてみんな死ぬかもしれないと不安に思っていたといい、
「あなたたちはそんなこと感じないの?」
と言っていた。
こちらもその人がどうしてそんなことを感じるのかは当時、分からなかった。先生と生徒という関係だから、別に突っ込んだりはしなかった。その先生が若い頃は、アメリカとソビエト連邦が対立し、武力による戦争にはならなかったが、冷戦と呼ばれていた時期になる。当時の日本人は核戦争に対する不安が相当に強くあったようだ。冷戦と言っても、自分が生まれる前から、ものごごろが付くか付かないかぐらいの時期だから、言葉しか知らない。1970年代になるころ(自分が10代に入る頃)には、冷戦も緩和してきたようで、もうそれほど不安の対象ではなかった。

それよりも1970年代から1980年代に始め頃は、不安を引き起こす怖いものは公害と過激派だった。公害問題はどんどんひどくなって、身体に害を及ぼすとか、ノストラダムスの大予言が本当になってしまうのではないか不安を掻き立てるものだった。

1970年前後の時期、自分より10歳から15歳程度上の年代は大学生ぐらいだが、やたらと政治的な主張をして学生運動というのをやっていた。そして学生運動から過激派が生まれ、世の中を震撼させるテロ事件を次々に起こした。日本初のハイジャック事件(よど号ハイジャック事件)、連合赤軍という集団が生まれ、銃器などで武装して警察に追われ、山荘の管理人の妻を人質に立てこもり警官隊と銃撃戦をして何人も撃ち殺したあさま山荘事件(これは映画にもなっている)。そして、追い詰められて、仲間内で大量のリンチ殺人を起こした事件。1974年の8月末には過激派が東京丸の内のオフィス街で爆弾を爆発させ、多くの死者を出す惨事となった(三菱重工ビル爆破事件)。テロだけでなく、過激派どうしで対立する集団ができ、鉄パイプを手に集団で相手を襲って殺すという内ゲバ事件も頻発した。時には、相手を間違えて無関係な人間を襲うことも発生した。

自分が中学から高校、大学のころは、核爆弾が落ちてくることより、こうした狂った集団が起こす事件の巻き添えにいつどこでなるかもしれないというのが、よほどリアルな恐怖を感じさせる不安としてあった。大学生ぐらいの若い人間で政治的な話をするやつは危険極まりないというのが、当時の自分と同年代の感覚だっただろう。

 

もうひとつの落胆のほうはというと...

核戦争が起こって、世界の主要都市が次々と破壊される場面。

核爆弾が爆発して↓

実はこの世界の主要都市破壊の映像は、「世界大戦争」を初めてテレビ放映で見る以前から見ていた。

どこで見たかというと、「ウルトラセブン」の最終回「史上最大の侵略(後編)」。ファミリー劇場でデジタルりマスター版「ウルトラセブン」が去年から放映されてきて、ちょうどいいタイミングで前の土曜日が最終回だった。

ゴース星人が攻撃を命令し、

先端にドリルが付いた地底ミサイルで、人類が無防備な地底から世界の主要都市を攻撃。

そして世界の主要都市が次々に破壊されていく。

その映像が実は「世界大戦争」で作られたものを使っていたのだ。

「ウルトラセブン」では東京は攻撃されなったので、場所が東京だとはっきり分かる、国会議事堂が吹っ飛ぶシーンは使われなかった。でも、東京が紅蓮の炎に焼かれていく場面は、場所が分かるわけではないので、使われていた。

最終回は、それまでの戦いのダメージで体がボロボロになったウルトラセブンが、最後の戦いを終えて地球を去るという話で、とにかく涙ものの内容だった(と言いながら、初回放映では最終回を見逃し、再放送も1回目ではまた見逃し、2回目の再放送ぐらいでやっと見たのだが)。世界の都市が次々と破壊されるシーンは、よくここまでの映像を作ったと感嘆した。感動の最終回のために、製作スタッフが最後の力を振り絞って作った渾身の特撮映像だと思った。つまりは、満身創痍で最後の力を振り絞って戦うウルトラセブンのイメージと重ね合わせていたわけだ。

小学生のときの勝手な思い込みだったのだが、この特撮映像が東宝特撮映画からの流用だと知ったときは、がっくりときてしまった。

ウルトラシリーズの円谷プロダクションを立ち上げた円谷英二は、それ以前から東宝で特撮監督をやって、「ゴジラ」などを作ってきた人だから、東宝とのつながりが強いので、特撮映像が流用できたのだろう。ただで使わせてもらったか、多少は使用料を払ったかどうかまでは知らないが。「世界大戦争」の都市破壊場面は、ついこの前、やはりファミリー劇場で放映している「ウルトラマン80」でも出てきた。「ウルトラマン80」の未見だったエピソードで、第45話「バルタン星人の限りなきチャレンジ魂」。ご町内の子供たちをいがみ合うように仕向けていたバルタン星人が、それが大人に広がり、やがて地球上の国どうしに広がり、人類が戦争で自滅することを夢想する場面で登場した。ご町内から始めて人類滅亡を目指すとは、ずいぶん気の長い話だが。

「ラドン」も「ウルトラQ」の「鳥を見た」や「甘い蜜の恐怖」で使われている。他にもいろいろとあるだろう。


2011年3月28日(月)の日記

2011年03月28日 | 日記

計画停電は午前中の番になった地域で行なわれたみたいだけど、行徳地域が入る第5cグループ(一番遅い時間)は中止になった。気温が上がって暖房の需要が減ったからだろう。

帰りは南行徳を降りて、なか卯牛丼ミニはいからうどんを食べる。そのあと、メトロセンターの通路へ。ちょうど午後7時ぐらい。もともと夕方までが営業時間という店以外は、みんな営業中。計画停電の実施が確実な日は、午後6時ごろでどんどん閉店してシャッターが降りていった。

夏は春以上に電気が不足して、再度の計画停電はありそうだけど、梅雨明け前まではちゃんと節電をしておけば、そんなに停電にならなくてすみそうだ。

本屋へ行ったら、東宝特撮映画の出演女優を特集したムックがあった。大きく取り上げられるのは、当然だが主演女優クラス。脇のほうの女優もそこそこ取り上げられていた。じゃあ、自分が映画館で見て思わず注目した、端役でちょっと出たような女優-特に「ゴジラvsビオランテ」の鈴木京香と「ゴジラvsメカゴジラ」の中山忍が、小さい写真でも載っているかページをめくっていった。でも、鈴木京香は文ひとつで触れてあっただけ。中山忍はまったく無視。結局、買う気にはならなかった。

やはり、夜の時間の計画停電がないと帰ってからも落ち着いた気分になれる。しばらくのんびりとしてから今日はダンベルエクササイズ。4週間近く間があいて、久しぶりの上半身メニュー。

ようやく暖かくなってきたと思ったら、あと3日で3月も終わり。先週がまだ寒かったから、綿のコートはライナーを付けたまま着ていたが、今日、帰ってから取り外す。ライナーを外して数日すれば、もうコートもいらないぐらい暖かくなることも、けっこう多い。今年の気温の上がり方はどれぐらいになるか。


2011年3月27日(日)の日記

2011年03月27日 | 日記

午前中にヤマダ電機へ買い物に行く。1階の家電売り場はそんなに人はいなかったが、2階のテレビ、レコーダー、携帯電話、パソコン、デジタル機器のフロアはけっこう人が多くて、レジ待ちの列も長くなっていた。地震から2週間あまり、東京圏の生活は計画停電もあるけれど、徐々に元に戻りつつあるようだ。 

行徳雑学館のトップページレポートは去年の4月に開園した広尾防災公園のことにしようと思っていた。ちょうど1年だし、今回の震災で意識せざるを得なくなってきたからだ。ケーブルテレビJCN市川の番組を見ていると、大洲防災公園と広尾防災公園で個人からの救援物資を受付けているということ。市川市公式サイト内にも記載があって、受付ける物資も4カテゴリ載っている。

でも、男の1人暮らしだと、(1)赤ちゃん用品はないし、(2)高齢者用品だとまだ使う年齢になっていない。(3)の生活用品に挙げられているものにも、ストックしているようなものはない。

でも、(4)飲料水(水のみ)はあった。

ミネラルウォーターの2リットルボトルは災害時に備えて、常に家に複数本あるようにしてきた。冷蔵庫に開けて使っているもの1本と戸棚に3本(ないし4本)。冷蔵庫のを使い切ったら、戸棚の一番古いものを1本開け、新しいものを1本買って戸棚に入れる。つまり、押し出し方式で使っていく。こういうふうにするようになったのは、確か阪神淡路大震災のあとぐらいだったと思う。うまく自分の習慣になって今まで続いてきた。

ミネラルウォーターを使うのは、休日にコーヒーメーカーでコーヒーを入れるときだけで、2リットルを1本使い切るのは1ヶ月程度かかる。他に水気がほしいときはペットボトル入りのお茶を飲んでいる。だから、今、水の問題でパニック的にミネラルウォーターの買いだめが起こって品薄というが、冷蔵庫の残り少ないのと、戸棚の1本だけを残して、あとのものを拠出しても、残りを使い切る頃には状況も好転しているだろう。それまでに、新たな災害が起きたりしたら後悔するかもしれないが、そういうことがないよう天に祈るしかない。

救援物資で受付ける飲料水は賞味期限が半年以上先が条件だが、それに合うのがうまい具合に2本あったので、広尾防災公園に持って行く。

市川市の案内ページには管理棟2階で受付と記載されていたが、行ってみると備蓄倉庫1階のシャッターを開けてそこで受付をしていた。2階だと量を持ってきた人が大変だから、現場の判断でこうしたのかもしれない。

受付けのところには相之川の神輿愛好会-相祭會の半被をまとった人が目に付いた。

提供された物資の仕分けや保管など作業がいろいろとあるから、ボランティアで参加していたようだ。

これで、救援物資として自分が出せるものは終わり。あとは、義援金や募金の形でやるものしかない。会社での募金とか、毎朝見ているチャンネルのテレビ局が公式サイトで募集している義援金とか、コンビニのレジの脇においてある義援金ボックスとか。もちろん、過剰に外食を控えず、店を通して世の中にお金を還流させ、経済を回すのも継続。

トップページレポート用に載せるつもりの災害用設備などを写したが、それ以外に広尾防災公園で気が付いたことというと、ジョギングコースの案内板。広場やグラウンドの周りを大きく回ると1周で750mになるそうだ。近くの人にはなかなかいいジョギング・ウォーキングコースだ。

そばの旧江戸川で工事中の船着場を写しに行ったら、対岸の新中川に掛かる瑞穂大橋は架け替えが完了して新しい橋となっていた。このあたりにはしばらく来ていないから、全然意識していなかった。

ちょうど橋の向こうにスカイツリーが見える。何日か前のニュースで高さが計画の634mに達したと出ていた。今は震災のニュースが中心だから、小さいニュースとしてだった。

昼飯は広尾防災公園から程近いところにある、相之川一丁目のうなぎのそめや

うな重の上を食べる。

この店に初めて来たときから10年余りだけど、日曜日としてはこれまで一番の賑わいだった。自分が来るのもほとんど土日祝日で、日曜や祝日はけっこう賑わう。でも、今日はお客さんの入り方がちょっと多め。別に席待ちや入店待ちの列ができるような混み方ではないが、店の人たちもこれまで見たことがないぐらい忙しそうな様子だった。震災から2週間経って、みんな財布の紐を緩め始めたが、電車は本数を減らしたり、特急や急行を休んだりしている。かといってガソリンも少ないから車であまり遠くへ行く気もしないので、近場でちょっとおいしいものでも食べようという人が多かったのではないかと思う。

近くのなじみの店からお金を世の中に還流させて、もっと経済を回そうというのはいいとして、この週末はカロリーをちょっと取り過ぎ。だから、晩飯はスーパーの惣菜コーナーで買った弁当などで軽く済ませる。

話が前後するが、昼飯食べて帰ってきてから行徳雑学館のトップページレポートを作りUP。そのあと、昼前にヤマダ電機で買ってきたパソコンの外付けハードディスクの取り付け等々をやる。晩飯の時間を挟んでけっこうかかる。

左がほぼ5年使ってきたロジテック製のもの。右が今日買ったIOデータ製のもの。

IOデータのは電源内蔵型-つまりACアダプターを使わないタイプを選んだ。正月に母親のパソコン用にやはりIOデータの外付けハードディスクを買ったが、ばかでかいACアダプターが付いていてOAタップに差し込むのに苦心した。これまでのロジテックのもACアダプターを使うタイプだが、写真のような形状なのでOAタップに差し込むのに特に苦労はしなかった。

パソコンは、本体、ディスプレイ以外に周辺機器がいろいろあって口の多いタップを使わざるを得ないから、他の口の上に被さってしまうような、でかいACアダプタを直接コンセントに差し込むタイプは使いづらい。

自分のパソコン用のタップには空いている口はあるが、iPodにデジカメのバッテリーに、パソコンとは関係ないがシェーバーの充電をするときに使うから、でかいACアダプタで塞がれても困る。

ロジテックのハードディスクに付いてきた、フォルダミラーリングソフトは自動でファイルを外付けにコピーしてくれるから、最初の頃は重宝していた。でも、ミラーリング設定したフォルダの下にサブフォルダ、そしてデータ(ほとんどがデジカメのデータだが)が増えるにつれ、動きが重く感じるようになってきた。設定したフォルダを常に監視しているのだが、監視する対象が増えるとその分の負荷も大きくなって、特にエクスプローラでフォルダ移動するときなど、どうしても一呼吸待つことになってしまう。

おまけに、単にミラーリングで外付け側にデータをコピーするだけでなく、設定した全フォルダについて整合性チェックを始めてしまう。これが動くとまたパソコンが重くなってしまうし、いつ動くかを設定することができないからいらいらしてくる。結局、パソコンは割りと新しいのにサクサク動かないという状況になっていた。ロジテックの外付けハードディスクも買ってもう5年だから、そろそろ取替え時と思い、外付けとの整合性チェックもコピーもこちらから指示してできるソフトがあるIOデータのに取り替えることにした。先週の3連休ぐらいに買いに行ってやろうと思っていたが、震災の影響で1週間遅くなった。

パソコン本体からの最初のデータコピーも2時間近くかかり、それから、古いほうのは買ったときに付いてくる完全データ消去ソフトでデータを消したが、これも1時間以上かかり、新しいほうの同期ソフトなどを設定していたら、すっかり遅くなってしまった。でも、まあ一応は設定できた。まったく、日曜というのになかなかゆっくりとできない。

 

東京電力の計画停電グループは細分化されたが、行徳地区は第5グループ→第5Cグループとなった。明日は、5番目(午後6時20分からの番)。実際にやるかどうかは明日の昼頃にならないと分からないらしい。やるなら、また早めに帰ってこないといけない。


2011年3月26日(土)の日記

2011年03月26日 | 日記

髪が伸びて首筋があまり気持ちよくない状態になってきた。若い頃は髪を伸ばしてもそんなことは感じなかったが、就職して以降、伸ばすことがなくなって、今はちょっと伸びて首筋に触るといらいらした感じがするようになってしまった。前回の散髪はいつかと思ったら2月20日。たいていは4週間に1回ぐらいの割りで散髪していて、今回は5週間ぶりとなった。先週は、臨海部の様子を見に行ったり、自分の家で家具の転倒防止をしたりするのに気をとられて、散髪のことをすっかり忘れていた。

葛西のいつもの床屋へ行ったが、電車に乗る前に南行徳駅前のなか卯で昼飯。新しく登場した季節メニューの豚カルビとんこつうどんを食べる。

汁が黒いのは黒マー油を使っているからだそうだ。似たようなスープのラーメンを前に食べたことを思い出した。おととしの1月~3月ごろに一心亭でやっていた黒焦がしラーメンと赤焦がしラーメン。黒マー油とは焦がしニンニク油だが、一心亭の焦がしラーメンも焦がし油を入れていた。おそらく黒マー油のことだったのだろう。なか卯の豚カルビとんこつうどんの汁をすすってみたら、たしかにとんこつ出汁だと思ったが、やっぱり味はうどんの汁でそんなにこってり感があるものではなかった。

南行徳駅南側で行なわれていた歩道工事はほとんど終わった状態だった。通行止めのコーンなどが一箇所に集められていた。

地震以降、ほとんど意識していなかったが、混乱が落ち着いてから工事はちゃんと続けられていたのだろう。

今日の東西線は節電のため、快速休止で各駅停車のみの運転。昼間の東西線は地上部分では車内の蛍光灯を消していた。これまで、朝の通勤時にはそういうことはしていなかった。月曜日以後、朝の通勤時間帯にやるかどうかはわからない。昼間、車内の蛍光灯を付けずに走る電車というと、実家があった大阪の南海電鉄でもやっていたという記憶がある。経費節減のために常にそうだったのか、それとも1973年秋の第一次石油ショック以降の時代にやっていたのか、昔のことだからそのあたりの記憶はあいまいになっているが。

夜は香取にある房州料理きふねに行く。

南房総の海産物料理を出す店で、つまりは生鮮食品の料理の店だから、今の自粛ムードでそうした店が苦しい時期に、どうしているかが気になっていた。ママさんは相変わらずのパワフルさだったし、店内の水槽には数は少ないがサザエもあわびもいた。そして、自分以外にもちゃんとお客さんはいた。

お通しと生ビール。

水槽にいたサザエを一匹、刺身にしてもらった。あわびは値段的にちょっと手が出ない。

そして房州料理の酢なめろう。ふつうのなめろうに酢をかけたもので、醤油をつけなくてもそのまま食べることができる。

締めは菜の花のお浸し。これも南房総の産だということ。

ママさんや娘さん、他のお客さんたちとの話もやはり、今のご時世のことになる。自粛ムードは店をやっている人にはきついことのようだ。サザエもなめろうの材料のアジも菜の花もみんな房総の産。外へ飲食に行くのを控える傾向が強くなると、きふねを初めとして直接、消費者に料理を提供するいろいろな飲食店も、その前段階の卸や配送など流通に関わる人たちにも、そしてさらにその前の海産物や農産物を獲ったり作ったりする人たちにも影響する。そうして、収入が減ったり、途絶えたりする人が増えれば、税金を払うことが難しくなり、国の税収が少なくなる。被災地の復興にしても、これからの国づくりにしても、政策として行なわれるとき、その財源は主なものは税収だ。

今は外で食べたり飲んだりするときは、こうした世の中の仕組みに思いを馳せつつ、
「みんなで経済を回そう!」
という話に落ち着いた。


2011年3月25日(金)の日記

2011年03月25日 | 日記

帰りは居酒屋オンドリへ行く。

火曜日にHot Houseへ行く途中の交差点から遠目に見ると、オンドリの小さな電照看板が灯っていなかった。水曜の計画停電が一番遅い時間になった日は前を通ったら閉まっていた。そういうのを見ると、やっぱり少し心配になるが、木曜日には開いていた。そして今日も営業中。

最初は生ビール。

特レバ

メバル煮付醸し人九平次。九平次の次は磯自慢

フレッシュレモンハイ。生のレモンが付いてくる。隣はマドラー入れ。

締めは細切りジャガ芋の唐辛子炒め

マスターによると、卸からの酒や食材の配送は間隔があいたりしていたが、来週からは通常に戻りそうだということだった。今日は自分がいた間、ほかには4組7人のお客さんがいた。座敷側は節電のため電気を落として店の半分で営業しているから、明かりが付いている側は人口密度が高くなっていて賑わっていた。

ジャズライブのHot Houseではチャリティコンサートを計画しているが、場所がなかなか見つからないようだ。街回遊展などの地域イベントではお寺の会館、あるいは本堂を使っていろいろな行事をやっている。展示会や講演もあるが、音楽サークル(コーラス、楽器・・ギター、大正琴等々)の演奏発表、プロの演奏家を招いてのコンサートなどもある。なので、そうしたお寺さんに当たってみてはどうかとママさんに伝えたりしている。

でも、アイディアは話せても、自分が地域のお寺につてがあるわけではないから、チャリティへの賛同を持ちかけるようなことまで、できないのは心苦しいところ。


2011年3月24日(木)の日記

2011年03月24日 | 日記

今日も早めに行こうと南行徳駅まで来たら、駅前に人だかり。東西線が運転見合わせ中。

最初は何が起こっているのかわらかなかったが、少しすると放送があって、中野駅で異音があったので点検のために運転見合わせと分かる。

それを聞くとホッとした。

異音というのはどうも車両トラブルらしい。ふだんなら、「もっとちゃんと整備しておけよ!」と思うところだが、今回は地震関係のトラブルでないと分かるとホッとした気持ちになった。これが、今の自分の心理状態のようだ。

電車もまもなく動き始めた。最初は駅ごとに時間調整しながら運転すると放送していた。ホームで1本見送ったら、次に来たのがワイドドア車両だったので、もう1本待たずに乗ることができた。南行徳では発車を少し待ったが、浦安からは特に時間調整をせずに会社最寄駅に着いた。会社に着いたのも定時の3分遅れぐらいですんだ。

今日の第5グループの計画停電は4番目-午後3時20分~午後7時の予定だったが、中止になったようだ。気候などの条件が変わらず、今の世の中の節電傾向がそのまま続けば、需要ピーク時にあたるという時間の5番目となる日だけの停電でいけそうだ。あくまでも前提が変わらなければの話だが。

晩飯はラーメンの一心亭

本日のセットにする。赤味噌ラーメン(デフォルトの赤味噌ラーメン+辛ネギトッピング)肉みそ丼が今日のセット。

今年に入ってからやり始めた、5種類の野菜のキムチ鉢盛り(「ご自由にお取りください」のもの)はなくなっていた。これも震災の影響だろうか。

しっかりめに食べ、辛ネギでパワーも補充して、今日は約2週間ぶりのダンベルエクササイズをやる。前回は上半身メニューだったから、今回は下半身メニュー。 


2011年3月23日(水)の日記

2011年03月23日 | 日記

第5グループは一番遅い番-午後6時20分~午後10時予定の停電なので、定時で退社。

晩飯はなか卯。ドアや店内に貼り紙があって、「なか卯は計画停電によらず営業」とのこと。停電中は作れないメニューもあるらしいけど、もし、帰りのタイミングがすこし遅めで停電しているときに駅に降り立っても、食べる店が開いているというのは心強い。

鶏塩うどんはまだやっているが、ライス・つけもの(単品のつけものより少し小さいサイズ)とのセットにした鶏塩うどん定食は終売になったいた。それで、鶏塩うどんライスつけものをそれぞれ単品で注文して、"勝手に鶏塩うどん定食"にしてしまう。

停電は、午後7時8分か9分頃に電気が消えた。先週の金曜日も第5グループは午後6時20分からの番だったが、そのときもほぼ同じ時間に消えた。東京電力で送電を止める手順が一定しているのではないかと思えた。次に第5グループが午後6時20分からなのは28日(月)。そのときに停電する時間は、はたしていつ頃か。

先週金曜は午後8時50分近くに送電再開されたが、今回は午後8時25分頃に電気が付いた。終わるときは、おそらく電力の需要量を睨みながらだろうから、一定はしないのだと思う。

今回は布団を敷いて寝ることはせず、ダウンのブルゾンを着て、iPodで音楽を聞いて過ごす。今日の室温なら、ダウンブルゾンで十分にしのげた。携帯音楽プレイヤーは充電しておけば停電でも使えるから、こういうときにはありがたい。途中で一回、マンションの外へ出てみる。闇夜で何も見えないかと予想したが、意外と明るい。23区は停電していないし、行徳は23区と接しているから、23区の明かりが空の雲に反射していたようだ。もっと郊外なら、真の闇になっているかもしれない。

地震が起こって以降だけど、朝の番組で聞いた話で目からうろこが落ちた。東日本と西日本は交流電源の周波数が50ヘルツと60ヘルツとで異なるために、西日本の電力会社に余裕があっても、わずかの変換施設を通す限られた分以外、電気の融通ができない壁があるという話のときだった。EUの欧州統合では、域内の交流周波数を統一したというのだ。EUのことは知っていても、強く興味を持っている人でなければ、せいぜい、ユーロという新しい通貨を作って、経済の統合をしたというぐらいのことしか頭にはないだろう。通貨は海外旅行でヨーロッパへ行けば使わざるを得ないから、多くの日本人に関わってくるのはそうした部分になる。自分もそれぐらいのことしか知らなかったから、エネルギーの安全保障の点から交流電気の周波数を統一したという話は初めて聞いた。

日本で2つの周波数が使われているのは、明治時代に電力インフラを整備し始めたとき、東日本と西日本の電力会社がそれぞれ、周波数の違う国から発電機を輸入してしまったことが原因。今回の震災で起こっている状況の根本的な解決は、境界に周波数変換施設を増やすことではなく、日本国内の周波数を統一することだ。原子力発電を今後も使うか、やめるかという問題もあるが、電気の壁を取り払い、災害に強い国に作り変えるというのも非常に重要。これは民間企業だけでできるようなものではないだろうから、政治主導で国を挙げての大事業としてやらなくてはならないだろう。EUにできて日本にできないということはあるまい。今後、自分が選挙-特に国政選挙で投票するときは、こうした政策を立ち上げて実行できそうなところに投票することにする。

と、ここ何日か思っていたことだが、昨日はHotHouseでカウンター越しにママさんとも話してきた。


2011年3月22日(火)の日記

2011年03月22日 | 日記

今日の第5グループの計画停電は、朝の1番目と午後の予備の1番目だったが、朝のほうは昨日の夕方ぐらいのニュースで中止ということだった。午後の予備のほうも行なわれなかった。明日は午後6時20分からの予定。先週の金曜日と同じ。だから、早く会社に行って、定時に即、退社するつもり。 

今日の帰りはジャズライブのHot House

店は地震のとき2日か3日、休んだだけで、先週は再開。ピアノの松井さんもママさんも、これまで通り、店を切り盛りしていた。

今日の晩飯はこの店でピラフ。小鉢で付いてくるのは梅干。

平日の演奏は松井節子さんのピアノソロ。

と思ったら、途中から若林さん(下の名前を聞くのは忘れた)という方がベースで加わった。

かつては、郷間和緒さんのドラマーだったお兄さん(郷間和緒さんもお兄さんもすでに故人)と一緒に演奏をしていた人だそうだ。Hot Houseへはときどき客として来ているそうで、今日は飛び入りで久々にベースの演奏をやったとのこと。

さて、ママさんのブログ(とそのコメント欄)を読んでいると、この店で出演しているアーティストに呼びかけて、今回の大地震被災地への義援金を集めるチャリティコンサートを計画しているようだ。どの程度、話がまとまっているのか聞きたいというのもあった。

Hot Houseの店はチャリティで人を集めるには小さすぎるので、どこかに会場を探している段階だそうだ。行徳地区でやろうと思っているということだが、会場はまだ押さえていないとのこと。思い立って次の週末にできるというものでもないから、やはり4月中旬以降、5月にかけての時期になりそうだ。曜日は土日のどちらかを考えているとのことで、今のところ、工場や会社が休みの土日は電力需要が押さえられて、地震直後の土日も、昨日までの3連休も計画停電はなかったから、土日が最適だろう。ママさんもそうしたいということで、仕事の合間にも関係先に電話をしていた。正式に決まったら、自分ほうも行徳雑学館のトップページでイベントの予定として載せるという形で協力すると伝えてきた。