「良き偶然」

2016-04-12 21:34:40 | Weblog




「偶然の作用」に助けられたりすると、心から嬉しくなる。


みんなそうだよね?





思えば俺達は、随分と沢山の「良き偶然」の流れに乗って、今を生きているのだ。


もちろん、「悪しき偶然」もあった。・・・・多々あった。


だが、それは「試練」であったのだ。


逆に言えば「試練」でしかなかった・・・・のだ。


とは言え、中には、「乗り越えられなかった試練」もある。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・具体的な例は挙げない。



しかし


冷静に考えれば、俺はけっこう・・・・無茶苦茶な性格、というか


突飛な行動を衝動的に決行してしまったことが過去に何度もあって、


それは「致命的」になったとしても全然おかしくなかった(だから今、生きてることを感謝するのだが)。


それで


その度に「良き偶然」に助けられている。そうとしか考えられない。



その事を差し引くと、


「良き偶然」の方が「悪しき偶然」より、多く起こっているのだ、


と認識せざるを得ない。


・・・・・きっと、そうなのだ。



だからと言って、


何事も、放っといてもうまく行く・・・などと思えるか?というと決してそうではない。


「向上への努力」をしなければ俺など、何ひとつ出来はしない。


ただでさえ「ずっこけ」が多い人生なのだ。


ちょっと気を抜くと


「エントロピー的悪魔(もしくは堕天使)」が「悪い偶然」を(たちの悪い猟犬のように)引き連れて


冷たく微笑みながらやって来ては、


俺の行く先々に罠を仕掛けていく。


そのほとんどが下らないブービー・トラップなのだが甘く見てはいけない。


小さな過ちが致命傷になったりすることは充分、在り得るのだ。


時々は「大きな落とし穴」も掘ってある。




俺に出来ることは


「永久エンジン」を常に全開にして、


いつもいつも お陽さまのほうに顔を向けて(陽光は直視してはいけないけどね)、


ただただ、前のほうに、明日のほうに進み、


「君のいるところ」を明るく照らすために、生きていくだけなのだ。


















「あてずっぽの神様」に感謝。


君がいつも「良き偶然」と共に在りますように。










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謝辞・2016年・春

2016-04-11 16:38:26 | Weblog





昨日は各地でいろいろと、

ライヴとかお花見とか、ずいぶんあったようで。


そんな中で、

我々のライヴに来て下さった皆さん、

本当にありがとうございます。

心からの感謝を捧げます。



ぶっきらぼうなライヴとか

非・フレンドリーなライヴとか

泥酔してドシャメシャなライヴとか

暗く落ち込んだライヴとか

人前に出たくないのに無理矢理引きずり出されたような人・・・みたいなライヴとか




もうそんなのは卒業して




これからは




良い音楽を


まっすぐな心でお届けする、



そんな感じで、


そんな風にやっていこう、






今さらながら決意する片山道子なのです。





昨夜は


そんな感じで演れた・・・・・・・・という実感を持っています。




応援してくれてありがとう、


気にかけてくれてありがとう。







「表現すること」は、最上の喜びであり同時に、



哀しみの海に海パンもなしに飛び込むような・・・・・・・・・



無防備なところもあります。




でも、ほんのちょっとでも「共感」が得られると



哀しみは半減し、



喜び・・・・・みたいなものが



まるで温泉のように噴出します。



「あー、いい湯だわ」っていうくらいの温度のお湯が。



そのお湯で「温泉宿」を開業することを


生涯の目標にする・・・ことを視野に入れつつ、



今後の人生を歩んでいこう。









繰り返し、何度でも言いますが



来てくれてありがとう。



「行きたい」と、思ってくれただけでも


ありがとう。


まだまだ、やれます。







そして


「野伏」にも、ありがとう。


「THE BEE BEE JONES」にも、ありがとう。



中津「Vi-CODE」にも、ありがとう。








次回は道子のソロ、



4月23日CLUB WATER。











追記・昨夜のライヴの「GO」と「エントロピー」の動画を


YOUTUBEにアップしてます。検索したら出てくるかもよ。

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ブログ10周年、そして明日は中津でROCA'66ライヴ

2016-04-09 11:45:30 | Weblog

そう、どっちかって言うとわりに”ゆるゆる”に生きてて、

そういうのって考えないのだけれど

さっき突然気付いた。多分、ブログ書き始めてから10周年。

そうだよね?

アドレスの最後に2006って入ってるから、きっと、そうだよ。


うーん、はじめは「文章修行」のつもり・・・だったんだけど、

続けてたら、楽しくなってしまった。

こんな風に「(物語ではなく)一方的に書き綴る文章」ってのが

自分に合ってたのかもしれない。

読んでくれてる人も、意外と多い。

ブログの読者の人が集まってくれたら俺はもしかして、

大阪城野音くらいでライヴ出来るのではなかろうか。

大阪城ホールは無理としても。

ファンダンゴでワンマンくらいは毎日出来るぞ。

はははは。

(乾いた笑い)


しかし10年。

ここらで初心に戻る意味で、簡単に自己紹介などしてみよう、と思いついた。

やってみる。

名前は、片山道郎。

おばあちゃんがスターリンのファンでミチロウと名付けられた、というのは大嘘だ。

1960年代に新宿・戸山ハイツで産まれ、

広島県で、中学の同級生のドイケン、キョージ、ヤシキ、マサイチと

「草戸千軒」というはじめてのバンドを組んだ。

その後奈良県の高校へ進学し、同級生だった佐治らと、「ランブルフィッシュ」を結成する。

佐治と共に大阪に移り住んだ。

ランブル解散後はボケロウらと「ばるぼら」を結成。

「ばるぼら」はテキサスでのSXSWや、NYでのCMJに出演したりしたんだぜ。

バイトを転々としながら、バンドをやりながら生きてきた。

ずっとギタリストだった。

ギターは大して上手くない・・・というか下手っぴいなのだけれど、

飛び道具的なアイディア勝負で、何とかやってきた。

「ばるぼら」解散後は自分で歌っている。

今は「ROCA’66」という名前のバンドの、

ヴォーカル/ギターだ。そして何故だか今は、京都に住んでいる。

中学生だった頃から自分で作詞/作曲をやっている。

ROCA’66は何人かメンバーが出入りしたのだが、

今は固定メンバー。

ベースの「たんちん」、ドラムスの「トビー」、ギターの「赤井」。

みんなそれぞれ、関西ライヴハウスシーンを渡り歩いてきたツワモノだ。

(俺は弱っちいですが。)

俺は個人的には・・・1980年代にライヴ活動を始めて、もう何年経つのだろう?

バーボンハウスも、エッグプラントも、バナナホールも、今はもう ない。

でも新しいライヴハウスは、すっごくいっぱい、出来てるよね。

明日、初めて出演する大阪・中津の「Vi-CODE」も、どっちかっていうと新しい方だ。

しかし我々はいつまでライヴ演ってられるだろう?と考えてしまう。

だから・・・って言うか

ここでライヴ告知することが出来るのは、とても嬉しいことなのだ。

バンドをやること、は「ライフワーク」だ、とも言える。

いつまででも演ってられる・・・かもしれない。

でも、体の調子がおかしくなるかもしれないし、メンバーの誰かが抜けて去ってしまうかもしれない。

誰にだって「事情」は、ある。

それか、自分で「いい」と思える歌が作れなくなってしまうかもしれない。

人前になんか、出たくなくなるかもしれない。

だからやっぱり、この歳でバンド続けていられるのは

とてもとても「有難い」ことなのだ。

だから、ライヴハウスに来て下さい、とりあえずは明日、

大阪の阪急電車の「中津」駅の近くの「Vi-CODE」に。

共演は、俺がお願いして出てもらうことになった2バンド、

「野伏」



「THE BEE BEE JONES」。

この2バンドをやってる奴等も、関西ライヴハウスシーンで活躍してきたツワモノばかりだ。

とても格好いいし、独自の音楽性がある。

桜の花はもう、散りかけているが我々は「枯れて」いない。

「枯れて」もいい年齢かもしれないが、「枯れ」はしない。

「散る」ときはパッと散ってやる。

だが、今は未だ「その時」ではない。

まだまだ、楽しんでやる。

「しがみつくように」して、でも生きてやる。


・・・・とか色々と暑苦しいですが、

気楽に、見に来てくらっさい、ドゾ、ヨロシク。






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認識不可

2016-04-03 16:00:02 | Weblog

アリと象。


以前にも、日記で書いたことなのだが・・・・・・

アリと象は、すぐ近くで生きていても、

お互いの存在を認識していないであろう、

という話。


この場合「大きさ」のスケールが違いすぎる。

それに、アリは象を、

象はアリを、

「認識した」としてもそれは何の役にも立たない(であろう)。


そこから更に一歩進んで、

どう頑張っても認識できないことって、我々ニンゲンにも、あるような気がする。

「大きさ」のスケールの違い、ではなく

「次元」の違い・・・・・というようなことで。

人類には永遠に知りえない、

壮大な「理由」みたいなのが、

宇宙には存在するような気がするのです。


「運」とか、って本当はあるのかもしれない。

「運命」も。







それどころか





あらゆる物事に「意味」って、あるのかもしれない。






そんな気がしてしまう。










ところで春先って、何だが妙に

ノスタルジックな気分に陥ったりとか、するよね。 





次の日曜日はライヴだから、

予定は空けておいてくれよ。




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「閉じた系」

2016-04-03 00:17:38 | Weblog


我々は「閉じた系」である。









我々って、ニンゲンに限らず、

アリから象から・・・・・・・・・植物に至るまで

「生物」というのは

ひとつ、独立した生命体である、ということは

イコール、

すべての「生物」がひとりひとり、

一個体一個体がそれぞれ「閉じた系」である、ということ・・・・なのだ。









ここまではいいかな?









そして


「閉じた系」である我々は、眠る。









昆虫も、植物も、確たる証拠はないのだけれど

(脳波とか測定できないからね)、

恐らく、夜は眠っているだろう。




哺乳類、というか

ニンゲンは少なくとも、

人生の三分の一くらいを眠って過ごす・・・らしい。



それで

思ったのだが、眠ってる間って

「自閉」してるよね。



夢想世界というのは、他者の介在がない、という点で

ほぼ完全に「自閉」した世界・・・であろう。



「自閉」というのはあまり良くないイメージもあるかもしれないが

実は(生物にとって)、とてもとても、大事なことなのではなかろうか。




誰だって

他人とうまくコミュニケート出来ない時がある。

っていうか

うまくコミュニケート出来る時の方が少ない・・ような気さえする。



愛する人と、でさえ

すれ違ってしまうことがある。


「会話にならない」ような事があると

ちょっと「がっかり」してしまうのだけれど


我々「生物」は

「基本的に自閉的」な傾向を持っているのだ、と考えれば


いろいろと、うまくいかないコミュニケーションも

納得がいく・・・・・・


というか


アキラメがつく、というか



「それでいいのだ」というような気になる。




言ってることがネガティヴなのか

ポジティヴなのか


わからないんだけれども



最近はその事ばかりを考えているのですよ。






「コミュニケーションの不可能性」について。







・・・・・・・・・・・・・・・世界はいろいろと、悩ましい。










それはともかく


そろそろ、チューリップが咲くよ。







春になったら、また会おうぜ。









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