神仏霊場めぐりは談山神社を後にして、吉野郡にある丹生川上神社の3つの社をめぐる。まず目指すのはこのうちの中社。
談山神社から坂道を下り、長い大峠トンネルを抜ける。桜井市と宇陀市の間の竜門山地をくぐるトンネルである。そのまま、ダム湖のある宮奥ダムや関戸峠といったところを過ぎる。この辺りは古くは「阿騎野」と呼ばれ、宮廷の狩場があったところだという。今回は逆方向にいったが、万葉集の柿本人麻呂の歌の舞台とされた場所には公園があるそうだ。
途中で看板を見かけ、いったん通り過ぎて戻ったところにある片岡家住宅を訪ねる。江戸時代からこの辺りに続く庄屋の屋敷で、当時の建物が修繕を加えつつ現在も残っているとある。宇陀にこうしたところがあるのかと門の前まで行くが、見学は予約制とあり、この日は予約がなかったのか「見学中止」と出ていた。
東吉野村に入りさらに奥に進むと、「天誅組終焉の地」に出る。吉村寅太郎の墓碑が置かれている。天誅組とは幕末の尊王攘夷派の集団で、吉村寅太郎は土佐藩を脱藩してこの活動の中心人物の一人だった。孝明天皇が攘夷祈願のために大和に行幸するとの詔が発せられると、吉村寅太郎や公卿の中山忠光を中心とした天誅組はその先鋒として大和で決起し、五條の代官所を襲撃した。しかし、「8月18日の政変」で朝廷内の勢力が変わり、大和行幸は中止。天誅組は幕府軍の攻勢にあい、十津川村の郷士の力を得て抵抗するも最後は敗れ、最後はこの地で壊滅した。吉村は討ち死に、長州に逃れた中山も暗殺された。
この天誅組の変は失敗に終わったものの、倒幕のための初めての武力蜂起として後に評価され、「維新の魁」とも言われている。天誅組の舞台となった自治体も観光スポットとして紹介している。先ほどの終焉の地の近くにも、天誅組義士の墓が点在する。
高見川沿いに走り、丹生川上神社に到着する。丹生川上神社の祭神は、水の神、雨の神である罔象女神(みつはのめのかみ)である。天武天皇の時、「吉野の丹生川上に宮柱を立てて祀れば、天下のために雨を降らし、長雨の時には雨を止める」との神託があり、開かれたとされる。その後朝廷からの崇敬も厚く、しばしば雨乞い、雨止めの祈願が行われた。しかし戦国時代以降は朝廷からの祈願もなくなり、時代が下ると丹生川上神社の所在すらわからなくなったという。
明治になって「丹生川上神社はどこか」という研究、調査が行われ、下市町の神社、川上村の神社が有力視され、下市町の神社を丹生川上神社下社、川上村の神社を丹生川上神社上社とした。その後、大正時代にさらに調査が進められ、東吉野村にある蟻通神社こそが丹生川上神社であることがわかった。そこで、下社、上社がすでに名付けられていることから蟻通神社は丹生川上神社中社としたうえで、三社合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされた。戦後、神社制度の変遷により三社はそれぞれ独立した神社となり、現在に至る。
中社自身は、あくまで「ここが丹生川上神社である」というスタンスのようで、石標、扁額、幟、朱印の墨書等々には「丹生川上神社」とのみ記されている。
その脇には「丹生の真名井 清めのお水」の井戸があり、自由に汲むことができる。さっそくペットボトルに入れる。水の神を祀るところとあって、口に含むだけでご利益がありそうだ。
少し歩くとパワースポットという「東(ひんがし)の滝」がある。吊橋を渡って進むと、水流がクロスしており、躍動感がある。これは手を合わせたくなる。
川遊びを楽しむ人たちも結構いる。ちょうどこの日は気候もよく、少し暑いくらいなので水遊びも気持ちよさそうだ。
ここまでレンタカーで来たが、一応コミュニティバスの便もある。バス停の名前は蟻通で、榛原方面から乗り継いで来ることもできるが、土日祝日のバスはデマンド式で予約が必要とある。なかなかハードだ。
またこの地は、神武天皇の聖蹟「丹生川上」にも比定されている。「日本書紀」の中で、神武天皇は大和平定のために天香具山の土で御神酒を入れる甕を作り、「丹生川上」に上って天地の神を祀った。そして甕を川に沈め「もし魚が全部酔って流れるなら自分はこの国を平定するだろう」として神意を占った。すると魚が浮き上がって口をパクパク開けたという。神武天皇は大いに喜び、一帯の榊を神々に祀ったという。どこまでが本当の話かはわからないが、ちょうどこの辺りは「東の滝」も含めて3つの川が合流する地点で、「夢渕」と呼ばれている。神秘的な雰囲気も漂っている。
しばし水辺で涼んだ後、神仏霊場めぐりを進める。次に向かうのは、丹生川上神社の上社である・・・。