まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第12回中国四十九薬師めぐり~第20番「浄福寺」(呉線沿いの海岸美を楽しむ)

2022年06月22日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師めぐりは三原から呉線沿い、国道185号線を走る。広島市内に帰宅する途中に、安芸津にある第20番・浄福寺に参詣することにする。広島新四国八十八ヶ所の竹林寺は、他の東広島の札所と合わせて別の機会に回ることにする。

この区間は呉線と並走するところ。前回の中国四十九薬師めぐりでは、尾道からの戻りに「etSETOra」に乗って車窓からの瀬戸内の眺めを楽しんだ。

起伏が大きく、大型トラックも頻繁に行き交う国道2号線に比べて、広島へはやや遠回りとなるが交通量も少なく、道も平坦なところが多いので走りやすい。時折クルマを停めて、海の風に当たる。今治造船の巨大なドックも眺めることができる。

忠海に、「エデンの海」という展望台がある。1946年に発表された小説のタイトルで、瀬戸内海の小さな高校に東京から赴任してきた新任の教師と自由奔放な女子生徒たちとの交流を描いた作品だという。映画やドラマにもなり、忠海もロケ地の一つになった。

「うさぎ島」で知られる大久野島もここから眺めることができる。その向こうは愛媛の大島だ。ちなみに「エデン」とは、旧約聖書でいうところの、神がアダムとイブのために設けた楽園のことだという。

そのまま竹原市街を過ぎ、安芸津に入る。かつては豊田郡に属する町で、プロゴルファーの岡本綾子や大相撲の安芸乃島(現・高田川親方)らを輩出したことでも知られる。また、カキの養殖も盛んなところ。養殖に使うホタテ貝がいたるところに積み上げられている。

その安芸津も、平成の大合併で東広島市に編入された。東広島市は西条を中心として内陸のイメージが強いだけに意外である。もっとも、衆議院総選挙の小選挙区の区割りでは、東広島市はほとんどが広島4区のところ、海沿いの安芸津は呉、竹原とともに広島5区となっている。次の総選挙に向けて各地で衆議院の定数、選挙区の見直しが行われ、広島県も7区→6区に再編されるが、安芸津はやはりこれまで通り呉、竹原などと同じ区割りになるのかな。

国道から外れ、また緩やかな坂を上る。上り切ったところに石垣が見え、立派な構えの浄福寺に着く。鐘楼もある山門の中では、「いつでもどこでもお薬手帳」の貼り紙とともに、浄福寺の本尊薬師如来の写真パネルが掲示されている。

浄福寺は平安時代に開かれたがその後無住となり、関ヶ原の戦い後に福島正則が安芸に国替えとなった時に再興された。その後再び無住となるが、虚櫺和尚の手により現在地にて再建された。ちょうど安芸津の海を眺めるところであり、石垣は古いもので桃山時代に特徴的な造りで、その後江戸時代、明治時代の構造も見られ、安芸津の石垣の変遷を見ることができる。

中庭は掃き清められており、ずかずかと歩くのはちょっとためらわれる。

本堂に向かう。こちらも中でのお勤めかなと思い扉に手をかけるが、鍵がかかっている。どうやら留守のようで、横の納経所の入口にもその旨掲示がある。外でのお勤めとして、ケースに入っていた書置きの朱印をいただく。

他にもさまざまな仏や、海の安全を祈念した石碑が建つ祠もある。そうした信仰も集めていたように思う。

これで浄福寺を後にして、いったん呉線の風早駅に向かう。浄福寺に公共交通機関で訪ねる時の最寄り駅で、駅から歩いて15~20分といったところか。「風早」とは海風に縁のありそうな名前である。

駅前に小さな慰霊碑がある。1953年、風早駅の下りホームから上りホームの通路を客が渡っていた時、列車が接近した。駅長が救出に向かったが間に合わず、駅長と客の2人が亡くなる事故となった。その殉職に対する慰霊のためというが、それにしてはまだ新しいように見える。

ここから広島へは、西条まで北上して山陽道に乗るのが最速のようだが、今回は宿泊の代わりに高速道路は使わないことにしており、下道で戻ることにする。といっても呉を経由したのでは遠回りで、東広島の黒瀬や熊野町を経由するルート。この道を走るのは初めてだった。夕方に広島に戻る。

さてこれで中国四十九薬師めぐりも久しぶりに動き、次は広島市内の第21番・不動院、宮島の第22番・大願寺と回って広島県は終了となる。いずれも広島新四国の札所も兼ねていて、そのシリーズで訪ねたから「またいつでも行けるわ」と間隔が空くのかもしれないが・・・。

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