まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

五箇山・相倉集落へ

2018年01月11日 | 旅行記D・東海北陸
白川郷から、再び富山県に入り五箇山を目指す。今度はバスの最前列の席に座って前方の景色を楽しむ。朝来た時から時間が経っていて雪の量も少し減ったようにも見えるが、それでも時おり降ってくる。

再び岐阜、富山の入り組んだ県境を過ぎて富山県に入る。先ほどの白川郷は村自体は過疎であるが、南部に通じる道もありまだ開けた印象があった。それに比べるとやはり国境を越える越中への道のりのほうが厳しそうである。秘境度でいえば五箇山のほうが深そうだ。

菅沼に到着。ここから観光客の乗車がある。今回は菅沼はバスの車窓から見るに止め、そのまま相倉を目指す。こちらには一度、世界遺産に認定されて間もない時期に見学している。世界遺産と言えば姫路城や法隆寺、原爆ドームに厳島神社といった歴史的建造物というイメージだったところに、合掌造りの集落が認定された。見学に来ていた人の中に、「これが世界遺産? 何だ、オレの田舎と一緒じゃないか」と言っていたのがいたのを覚えている。日本の昔の田舎の景色が世界遺産になることが当時すぐには結びつかなかったようだ。その後、世界遺産として日本からも文化遺産、自然遺産がさまざま認定されるようになったが、合掌造りの集落よりも無理がありそうな物件がないわけでもない。それがどこかと言うのは伏せるとして・・・。

相倉口のバス停に到着。下車したのは私だけだったが、ここから何人かの乗車がある。バス停から5分ほど歩いて集落入口の駐車場に着く。白川郷と比べて集落の規模は小さいが、落ち着いてまとまって見える。世界遺産がどうとか関係なく、日本の冬にはこうした景色があり、人の生活があることを感じさせる。こちらは先ほどの白川郷のように東南アジアから多くの観光客が来るわけでもなさそうで、静かである。次のバスまで1時間弱しかないが、集落を回るには十分である。

白川郷の展望台へは雪のため上がれなかったが、相倉では、民家の間に「ビュースポット」と書かれた手書きの看板があり、それに従って雪道を少し上がる。前の人の足跡はあるが、時おりそれを踏み抜いてズボッと足首の上まではまってしまう。

そして出たのはこの景色。相倉の観光写真でよく見る角度とは異なるが、昔話にでてきそうな風景である。

時間があれば民俗館や産業伝承館を見学するところだが、今回は中の見学は省略する。稲作ができない厳しい自然の中、五箇山はかつては加賀藩の支配下にあって、年貢米の代わりに火薬の原料となる塩硝を製造したり、養蚕で暮らしてきたという歴史に思いを馳せる。

今は塩硝も養蚕もなくなり、観光が産業になっている感じだが、相倉集落の全ての家が観光に従事しているわけではないだろう。そうした人たちは何を生業としているのかも気になる。

南砺市の地酒の三笑楽を土産として、そろそろバスの時間となり、集落を離れて相倉口のバス停に戻る。次の便は土日祝日ダイヤでの城端駅行き。行きと同じ路線バスタイプの車両で、乗客は私を含めて4人。冬とはいえ淋しい乗車率である。ここでまた山越えとなるが、雪が降るかと思えば晴れ間も出て、複雑な天気である。

城端駅に到着。これから城端線に乗るのだが、ここまでの行程は、朝早くに高岡を出たことで1時間ほど前倒しで進んでいる。その時間を使って、例えば城端の町並みを歩くこともできるのだが、ここに来て雨が降ってきた。これで町歩きはもういいかとなり、そのまま高岡行きの気動車に乗ることにした。

元日も早くも午後の時間になったが、これから大移動で大阪に戻ることに・・・。
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雪の白川郷にて

2018年01月10日 | 旅行記D・東海北陸
元日の朝から移動してきた白川郷。バスターミナルで東南アジアからの大勢の観光客の熱気にびっくりした後で、外に出る。これから世界遺産の合掌造りの集落を歩いて回ることにする。

白川郷といえば、展望台から合掌造りの集落を見下ろす景色が観光写真でも多く取り上げられていて、美しい日本の原風景という形で紹介されることが多い。ただその展望台へ上がる道は冬季は積雪のため通行止めだという。少し離れた国道からの坂道を行くようにとの案内があり、クルマではない客は展望台への送迎バスが出ているという。これに乗ればよい話だが、結構行列もできているし、展望台への往復の時間がもったいないかなと思った。ここは自分の目線の高さのところで歩き回ればよいかなと思った。

ここに来て雪も本降りになった。ただ雨よりは雪のほうがまだましである。コートを着てフードをかぶればまだ防げるかなというところで、その上から来る雪は後で払えばよいかなというくらいのものだ。足回りは冬用のスノーシューズを履いていて、このくらいの雪なら十分かな。そんな中でも仲間同士で大声でしゃべり、自撮り棒を当たり前のようにかざして記念撮影する東南アジアからの観光客は元気である。楽しんでいる様子はそれはそれでよいのだが、一方で、日本の観光地がこのようなことでいいのか、日本の観光地が東南アジアの連中に踏み荒らされている感覚にもなってきた。日本人は観光をしないのか??と、心のどこかで沸々とした気持ちが出てくる自分がいるのも確かだ。ここで何か挑発でもされたら爆発しかねない。雪にまみれつつ、そうした気持ちを抑えながらの歩きとなる。

集落の中には見学用に開放している家がいくつかあり、その一つの神田家に入る。こちらは江戸の中期に建てられたものだという。玄関の前にトタンが三角に立てられて雪覆いになっていて、まずはそこで雪を払って中に入る。まずは囲炉裏の間があり、炭火が起こっている。その横には畳敷きの座敷があり、温かいお茶のサービスもある。大勢の観光客が畳の座敷で休んでいる。そんな中だが、暖房装置は囲炉裏だけである。板の間はそれでも冷えるし、座敷といっても都会の暖房完備の部屋とは違う。今は観光客が大勢いるから熱気があるように感じるが、普段の生活では寒さ厳しい家なのだろう。

屋根裏の部屋は昔の家内工業に関する展示で、こうしたところで盛んだった養蚕に関するものが多い。そうした展示と合掌造りの裏側の骨組みを見たところでまずは神田家を後にする。周辺には同様の合掌造りの家も多いが、中には軒先に長いツララが垂れているところもある。

次に入ったのは明善寺郷土館。こちらは江戸時代にこの地に開かれた浄土真宗大谷派の明善寺という寺の庫裡である。これが白川郷の中でも最大級の合掌造りの建物という。玄関から入るとまずは屋根裏に案内される。階段を上がるとまずは記念撮影のサービス(?)がある。障子の外の景色をバックに記念撮影し、よければ1500円で購入するシステムである。必ずしも購入する義務はないし、自分の写っている写真なんか購入したくないが、誰でも記念撮影する代わりに、記念写真を買わなくても自分が写っているハガキ大のカードは無料でいただける。カードには雪の夜の白川郷の遠景写真が合わさっていて満足だが、こうした景色をナマで見たかったなという思いはある。実景は観光写真のようにはいかないのだろうが。

庫裡の最上階まで行けるのだが、最後は細い梯子段がある。さすがにこれを上るのは大変だと断念する。しかし、途中の階で障子を開けて外を見ると、この高さでも十分に集落の風景を味わうことができるのにうなってしまう。

明善寺というから寺の本堂があり、庫裡から渡り廊下を歩く。本堂の外陣の上部には浄土真宗関連の絵画も奉納されている。大くくりには北陸に近いから真宗の寺が多くなるのもわかる気がする。また改めて本堂を外から見ると、瓦屋根ではなく茅葺きで合掌造りに近い形である。こうした雪の中の寺というのも新鮮な景色である。

時間が経つに連れて、高岡からの世界遺産バスが到着したか、あるいはツアーの観光バスもやって来たか、集落全体が人でごった返すようになった。さすがにこの時間だと日本人のおっちゃんおばちゃんのバスツアー客も増えてくる。こうしたツアー客は年末年始を冬の北陸で過ごす(過ごした)人たちだろう。観光バスの駐車場は庄川を渡った向こうにあり、川を渡る吊り橋も揺れる。

向かったのは民家園。飛騨のかつての集落にあった民家などを移築している。戦後の高度経済成長の一方で地方では過疎化が進み、白川村でも少なくとも江戸時代から続いた集落が集団離村でなくなる事態があったそうだ。その中で合掌造りの家が失われることを危惧した村が1971年に開いたのが民家園である。発想としては明治村に近いものかな。その頃は、合掌造りの集落が注目されて人気が出て、しかも世界遺産に認定され、この日も東南アジアからの観光客で賑わう光景など想像もしなかったことだろう。絶滅寸前の合掌造りを何とか1ヶ所で保護しようという、何かの動物に似た扱いだったのだろうか。

その民家園は、先ほどまでの賑わいが嘘のように静かだった。確かに、先ほどまでのところが現在も公開や土産物店、食堂も多く、現役の建物として開いていたのに比べると、こちらは博物館の屋外展示を見るようなものである。合掌造りのメカニズムに興味がある人には細部まで面白いスポットだと思うが、私としては雪のムードを楽しめたのがよかった。

そろそろバスの時間が近くなり、萩町のバスターミナルに戻る。ちょうど昼時、メイン通りも観光客て賑わう。

次の高岡行き世界遺産バスは、観光バスの車両である。ただこのまま高岡に戻るのは惜しいので、途中五箇山の相倉集落に寄ることにする。バス乗り場では相変わらず東南アジアの人たちがほとんどを占めていたが、バスに乗ったのは日本人ばかり数名。往路で城端から乗った男性1人と、途中の上梨から乗ってきた2人連れもいる。観光客で賑わう白川郷をあとに・・・。
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城端線と世界遺産バス

2018年01月08日 | 旅行記D・東海北陸
元日の朝は、世界遺産である五箇山、白川郷に向かう。五箇山の集落には以前に行ったことがあるが、白川郷は初めてである。ということで白川郷に行くことをまずお目当てとしてプランニングを行う。

白川郷の観光は高山や金沢とセットという方も多いと思うが、高岡からもバスの便がある。加越能バスが運行するその名も「世界遺産バス」。高岡駅、新高岡駅から白川郷まで1日5往復が出ている。中でも五箇山へは唯一アクセスする方法であるから、両方を回るのには適している。時刻表を見ると、高岡駅8時10分発の便が最速で、終点の白川郷には10時20分着とある。散策後折り返し、五箇山の菅沼、相倉の両方で途中下車しながら高岡に戻ることができるが、完全に1日コースとなる。

ただ時刻表を見ると、その間に城端駅~白川郷の便がある。土日祝日に運行するもので、これを見ると城端駅を8時10分に出る便がある。先のバスより1時間ほど早く白川郷に着くことができる。城端7時05分発の城端線に乗れば間に合うので、前倒しで出発することにする。

晴れていればちょうど日の出の時間帯だが、昨夜からの雨は止んだもののどんよりした雲が広がる。やはり北陸の地で初日の出を見るというのは難しいようだ。まずJRに乗るため、青春18きっぷに日付印を入れてもらう。駅名は「あいの風とやま鉄道 高岡駅」だ。ホームにはキハ47の2両編成が停まっているが、乗客は2両合わせても20人くらいといったところだ。

新幹線開業にともない新たに設けられた新高岡駅。在来線側はホーム1本だけの無人駅だが、ここで半分くらいが下車する。これから新幹線に乗り換えるのだろう。ここからは砺波平野に入っていく。

城端線に乗ったのはこれまで少なくとも2回。その時は五箇山までバスで行っている。前回は城端からバスに乗ったのはいいが、途中の道路が大雨の影響で通行止めとなったため急遽路線バスの車両が高速道路に乗ることになった。五箇山インター近くの菅沼で降りて合掌造りの集落を見物したのはいいが、帰りの足に困った。ちょうど同じように来ていた旅行者と相談してタクシーの相乗りで城端に戻った。そうしたことも思い出す。

砺波平野といえば散居村で知られる。それぞれの家が自分の屋敷の周りに水田を設けて稲作を行っていたもので、屋敷の横には防風林が植えられているのが特徴である。城端線の周りにもそうした屋敷を見ることができる。この旅の宿泊でも、一時は途中の砺波や福野駅近くのホテルに宿泊しようかと考えたこともあった。

前方に山の壁が立ちはだかるようになり、もうこれ以上は進めないなというところで、8時01分に城端に到着。ここまで乗って来たのは7~8人。駅には観光案内所の窓口もあるが年末年始は休みのようだ。しばらくすると駅前にバスがやって来た。路線バスタイプの車両である。先ほど、路線バスの車両が高速道路を走って・・・と書いたが、道路交通法の改正で、観光バスでも高速道路の走行中はシートベルトを着けなければならないため、今はそうした臨時措置は取ることはできないだろう。まずは天候、道路が無事であることを祈るばかりである。

城端線で来た客のうち私を含めて5人がバスに乗り込む。元日の早々から路線バスで山の中を目指す客ということを思うと、利用客はこんなものだろう。やはり、高岡8時10分発の便で来る人が多いのだろうか。まずは城端の町中を抜けて、少しずつ高度を上げて行く。高度が上がるに従って周りの積雪も増えてきた。こうした雪景色を見るのも久しぶりで、すっかり目が覚めた感じで外を見る。また道路もこれまではしめったアスファルトだったのが、次第にその姿が見えなくなってきた。

五箇山の長いトンネルを抜けるとさらに雪深くなる。その上でまだ降ってきている。除雪車で作業しているところもある。何だか別世界に来たようだ。太平洋側ではあちこちで見事は初日の出が見られたそうだが、日本海側、特に山の中というのはこれが現実である。これはバスで来てよかったところで、とてもではないがこの雪道を自分で運転する自信はない。

相倉口で3人が下車。バス停の標識も雪に埋もれている。たださらにこの先進み、上梨で旅行者らしい2人が乗車。この辺りもひとかたまりの集落だが、外に出ている人の姿は見えない。

高速道路の橋脚が見えてきたところで五箇山インターである。その先に菅沼集落を見下ろす。今回こちらは車窓での見学ということにしよう。そしてこの先がいよいよ初めて通る区間となる。

庄川に沿って西赤尾を過ぎ、道の駅上平を過ぎると岐阜県に入っていく。しばらくは富山県と岐阜県の県境が入り組んでいるところで、橋を渡るごとに県域がころころ入れ替わる。この辺りになると外の雪も激しくなってきた。今ですらこのような難所のところ、昔は人の行き来というのはどのようなものだったのだろうか。

トンネルや洞門が続き、すこしずつ盆地が開けてきた。9時25分、白川郷の萩町に到着。こちらが各方面のバスターミナルとなっている。まずはこちらに入ってみよう・・・とドアを開けるとそこは観光客でごった返している。そこで聞こえる言葉・・・日本語は全くと言っていいほど聞こえない。ハングル、中国語・・・とも違う。東南アジアの言葉、おそらくタイ語だろう(タイ語と他の言語を聞き分ける能力は私にはないが)。顔つきも南方系の方々が圧倒的に多い。

ネットで見たところ、白川郷というのは東南アジアからの訪日観光客の中で人気の高い観光地なのだという。日本の原風景という形で紹介されていたり、特にこの時季だと、特に東南アジアには雪は降らないから「冬の日本の原風景」を楽しむために訪ねるのだそうだ。これまでいたるところで中国人や韓国人の観光客はよく目にしたが、東南アジアの含有率がここまで高い光景は初めて見た。一瞬私のほうが外国に来たのかと思ってしまうくらいだった。日本人も来るのは来るのだろうが、逆に目立たない(大声で仲間同士しゃべるのが東南アジアの人たちの特色で、その声が余計に耳に入るからそう思うのかもしれないが)。

帰りのバスを11時45分発と決めて、この後は白川郷散策である・・・。
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早朝の初詣

2018年01月07日 | 旅行記D・東海北陸
1月1日。新たな年の始まりである。その瞬間はベッドでの夢の中だった。

その代わり起きたのは3時半。もちろん、外は真っ暗である。雨はまだ降っているがさほど強くはなさそうだ。これから初詣に出かけるとして身支度をする。テレビをつけると、六角精児さん出演の「呑み鉄」の旅番組をやっている。舞台は指宿枕崎線。こういう番組を見たかった(笑) ただ全部というわけにもいかないので、一度ホテルを出る。

まず向かったのは昼間も訪ねた高岡大仏。除夜の鐘は撞いていたのだろうが、この時間は無人である。別に大仏もライトアップするわけでもなく、暗がりで見ると逆に怖い感じすらする。ただ大仏の下の回廊は開いており、ここでは般若心経を唱えて気持ちを新たにする。

向かったのは高岡城跡にある射水神社。年越しの時間はおそらく大勢の人が参拝に訪れただろうが、午前4時では人もまばらである。食べ物の出店の人たちも寒そうにじっとしている。

射水神社は、伝承によれば元々は二上山を神として崇めていたのが起こりで、奈良時代に行基の手で麓に別当寺が建てられた。養老寺という名前で、この場所だと一時越中の国司を務めた大伴家持も手を合わせたことだろう。その後は越中の中でも格式ある寺・神社として栄えた。途中、兵火のために焼失したが、江戸時代には加賀藩の祈願所として復興した。

現在の地には明治の神仏分離、廃仏毀釈の流れの中で移ったそうである。射水神社と呼ばれるようになったのもその頃で、四国八十八所めぐりでも似たような歴史を持つ札所もあったが、高岡にもそうした面があるようだ。今となっては近くに高岡大仏もあるし、これらをセットでお参りすればよいと思う。

この時間なので拝殿もパラパラと参拝客が来る程度で、東日本大震災、熊本地震からの復興を祈願する護摩木に名前を記したところで、初詣としてはあっさり終わった。この未明の時間に早起きしてお参りというのも、空いていて穴場の時間帯なのかもしれない。日付が替わる時は混むだろうし、夜が明けて昼間となるとそれはそれで混むだろうし・・・。

ホテルに戻ることにして歩く。アーケードでは前夜から飲んでいたか、若者のグループが奇声を挙げていたが、まあ、このくらいなら正月の光景としてかわいいものである。

そして駅に向かっている時だった。「オニイサン・・・」耳元に女性の声がした。思わずゾッとして振り向くと、東南アジアのどこかの国らしい女性の顔。「マッサージ・・・」というので慌てて手を横に振って立ち去る。急のことで鳥肌が立った。高岡にもそうした商売の方がおるんや。「飲む打つ買う」ではなく「飲む飲む飲む」の私にはびっくり。

ホテルに戻ったのは5時。ここで2度寝はなく、もうこのまま朝食の時間まで起きている。富山テレビ(フジテレビ系)では、普段ならBS朝日で放送する「鉄道絶景の旅」をやっている。しかも舞台は富山から金沢ということで、高岡の町並みや氷見線も取り上げられていた。これはわざわざ富山テレビがこの番組を買って流しているのだろう。間のCMも地元色満載で旅行者には新鮮だった。先ほどの呑み鉄の旅(これは国営放送の番組だが)といい、私にとっては大晦日夜の番組より満足だった。

さて朝食は6時半から。開店直後から結構な人数がレストランに来る。ルートインホテルはベースはビジネスホテルなので、朝食も通常のもの。正月メニューのあるなしは問わない。

さて、高岡での年越しは良しとして、元日はどこに行くのかを書いていなかった。目指すのは山側に入った五箇山、白川郷という、越中から飛騨にかけての世界遺産の町並みである。今回、これらを回ることもあって高岡に泊まったとも言える。高岡からだと加越能バスの「世界遺産バス」が出ていて、金沢や高山と比べると地味だが、交通の地の利がある。

これから世界遺産にどうやって行くか。それはまた次の記事にて・・・・。
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高岡での大晦日の夜

2018年01月06日 | 旅行記D・東海北陸
大晦日の夜を過ごすのは高岡駅前のルートインホテル。2017年の3月に開業したばかりだという。高岡市内だけでなく、周辺の観光の拠点としても期待されるところだろう。

この日選んだのはルートインのコンフォートルーム。ベッドのマットレスにエアウィーブが使われていたり、テーブルとソファーが独立している。また最上階ということで眺めもよい。これは部屋でゆったりとできそうだ。

ということで夕食の一献と行くわけだが、先ほど町歩きをする中で、年末年始休みという店が結構あった。さてどうするかということで外に出るが、ここに来て雨が強くなってきた。玄関に傘の貸し出しがあったのでそれを差して行く。そこで向かったのは日本海庄や。店員が「よろこんで!」というチェーン居酒屋だが、比較的郷土メニューも揃っているので、旅先では「困った時は・・」という感じで入ることがある。高岡といえば氷見に近く、当然「きときと」の魚も何かしらあるだろうなと期待する。

早い時間ということで楽に入れ、カウンターに通される。おすすめのメニューが別紙で置かれているほかに、年末年始の特別メニューも1枚ついていた。「富山へおかえりなさい」とあり、帰省でこちらに来た人に郷土の味を楽しんでもらおうという趣向である。私は富山の出身でも何でもないが、これも地元のおもてなしということでこうしたメニューを中心にいただく。

お通しのバイ貝、刺身盛り、白海老のから揚げと来て、富山らしいメニューといえば昆布〆である。サス(カジキマグロ)とスズキの二種盛りで、昆布の旨味を魚に合わせることで、臭みを取って風味を出すものである。富山は昆布の消費の多いところで知られるが、出汁を取る他にこうした使い方も長年の歴史の中で培われている。

また、これは富山とは少し異なるが、メニューに「加賀棒ほうじ茶ハイ」というのがあった。加賀では番茶(ほうじ茶)がよく飲まれているということはこれまで知らなかった。先日、北陸を旅した会社の人が「あっちのほうに行ったら、こういうお茶ばっかりやな」と、棒ほうじ茶のペットボトルを見せてくれた。番茶、ほうじ茶そのものは茶の一種として全国で飲まれているものだが、金沢のある製茶場が昭和天皇に献上したことがあり、「献上加賀棒茶」というのが製品化されて、ある種のブランドとして広まったということがあったそうだ。お茶割りといえば静岡の緑茶割り(しぞーか割り)は現地の居酒屋では定番メニューだが、棒ほうじ茶が出るとはね。飲んでみるとなかなか味の濃さを感じる。

最後はぶりの塩焼きで締めて店を出る。ちょうど食事中、店には何本もの電話がかかってきた。会話を聞くと、ほとんどが今晩の席の予約である。忘年会、年越しということで地元の人が集まってくるのだろう。

外は激しい雨になっており、ホテルに戻る。大浴場に入ってあとは部屋でゆっくりする。こちらはこちらでまだ途中の福井や金沢、そして高岡で仕入れた酒のあてや駅弁がある。大晦日の夜、最悪、店が開いていない、あるいは満席で入れないということも想定していた。その場合は飲み物はコンビニで仕入れるとして、これらをいただいて部屋食としようということで途中の駅であれこれ買い求めていた。結果としては日本海庄やで郷土のものをいただくことはできてよかったのだが、これはこれとして、全部は食べずに持ち帰るが、せっかくなので一部はつまむことにする。

テレビなのだが、紅白歌合戦もダウンタウンも格闘技も、正直見たいとは思わない。また、これは富山のテレビ事情なのだがテレビ朝日、テレビ東京系列の局はない。何となく地上波、BSを行ったり来たりしながら、テレビだけつけている状況である。それよりも元日の動きをどうするか、時刻表やタブレットであれこれ調べる。

初詣をどうしようかと考えていた。昼間に訪ねた瑞龍寺は夜も開放し、除夜の鐘を撞くことができるとある。また高岡大仏でも境内にある鐘楼で鐘を撞くことができるという貼り紙があった。神社となれば、昼間は訪ねなかったが高岡城跡に建つ射水神社がある。ただ、いずれもホテルから徒歩圏内ではあるが、外の天気が気になる。部屋で飲んでいる間にも、雨が窓を叩きつける音がする。夜に出かけるのが何だか億劫に思えてきた。

そこで思ったのが、「元日の早朝に出かける」というもの。寺や神社で新しい年の瞬間を迎えることはできないが、除夜の鐘にこだわらなくてもいいかなと思う。22時を回って眠たくなった分、早く寝て翌日早起きしたほうがまだすっきりしそうだ。

ということで、消灯してベッドに入る。エアウィーブで眠るのは初めてだが、この日はこのマットレスの有無に関係なくぐっすり眠れそうだ。年越しの瞬間は深く眠っていることだろう。よいお年を・・・。
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氷見線で雨晴海岸へ

2018年01月05日 | 旅行記D・東海北陸
高岡に来てやはり訪ねたい、乗りたい路線がある。氷見線である。今回、高岡に着いて先に氷見線に乗るか、町歩きをしてから乗るか時刻表でいろいろ考えたのだが、結果として15時22分発の氷見行きに乗ることにした。

北陸新幹線ができて北陸線があいの風とやま鉄道に移管したことで、路線図では根なし草のようにも見える氷見線と城端線。その両線も駅の一番北と一番南に離れたホームからそれぞれ出ているから余計に孤立した感じがする。そんな中で観光列車「ベル・モンターニュ・エ・メール」というのが出ている。舌を噛みそうな名前だが、フランス語で「美しい山と海」という意味だそうだ。ただ日本人には覚えにくい。ということで愛称は「べるもんた」。こう書かれると逆に「みのもんた」をイメージしてしまうな。

この列車に乗った・・・ということなら観光旅行の記事としての価値が上がるのだろうが、毎週土日を中心に運転のところ、年末年始は運転されない。残念だ。

それでも、今では希少な車両の一つになったといってもいいキハ40、47型に乗ることができるのはよい。そしてやって来たのは2両編成のキハ40。1両は昔ながらの朱色の車両である。これも汽車旅のムードを高めてくれる。

そしてもう1両は同じキハ40でも「忍者ハットリくん」のイラスト車両である。先の記事で万葉線のドラえもんトラムや、駅前広場のドラえもんの鋳造作品について触れたが、今度は同じ藤子不二雄作品のハットリくんと来た。こちらはハットリくんを手掛けた安孫子素雄(藤子不二雄A)が氷見出身というところからである。せっかくなのでハットリくんのほうの車両に乗る。座席の間にもキャラクターたちのステッカーが貼られている。地元の人のほかに帰省、観光らしい客も多く乗り、座席はほぼ満席である。

発車して、ワンマン列車でおなじみの車内の案内放送が流れる。するとその後で、「拙者、忍者ハットリカンゾウでござる!」と、子どもの頃にテレビアニメで見ていたあの声が流れた。ここからはハットリくんが車窓の案内をするという。ニンニン。

藤子不二雄の二人が最初に出会った高岡の小学校の横を通り、古城公園に近い越中中川に着く。次の能町は、かつては北陸でも有数の貨物コンテナ駅だったが、現在は貨物の取り扱いもなくなり、古びたコンテナが1台ポツンとあるだけ。以前、JRコンテナの担当をしていた時に、貨物の営業案内で北陸線の支線に当たる能町、二塚(城端線)、速星(高山線)という名前を知った。いずれも専用線の扱いで直接これらの駅向けに何かを出すことはほぼなかったが、北陸のものづくり、物流の拠点として名前は今でも印象に残っている。それだけに寂れた景色に時代の流れを感じる。

氷見線というのは短い区間ながら車窓が変化に富んでいるので好きな線の一つである。最初は高岡の今の町並みを走り、能町の貨物駅の後には小矢部川沿いの工場群に囲まれる。専用線を走っているような感覚になる。次の伏木も港の玄関駅。ただこの伏木はかつて越中の国府が置かれたところでもあり、駅の周りには歴史スポットも多い。伏木の港町の家が密集している一角もあり、軒先が近い。

その中でやはり一番の見どころは越中国分を出てパッと進行右手に広がる富山湾である。ハットリくんの車内放送も「右手に見えてきたのは富山湾でござる」とある。「富山湾の向こうには立山連峰が広がるでござるが、今日の眺めはいかがでござろうか」とあるが、やはりこの時季、あいにくの空模様で山々を見ることができない。

そして雨晴。かつて海岸目当てに降りたこともあるし、立山連峰は見えないのでそのまま氷見に行ってよいが、他の客が下車したのにつられる形で、私もここで下車した。氷見まで行ってもすぐに折り返すだけだし、それならば、折り返しの列車が来るまでの30分ほどしかないが、その間を海岸で過ごすことにした。

海岸は駅の真裏にあるが、直接行くことはできない。少し行ったところで踏切を渡って行くことになる。駅舎の横に雨晴海岸の写真パネルが飾られている。晴れた時の立山連峰をバックにした男岩の写真、そして日の出の写真である。目の前の景色はそのどちらでもないどんよりとした冬の日本海だが・・。

今回の旅の計画を立てるにあたり、富山・高岡の初日の出のスポットというのはどこなのかを調べてみた。その中で名所の一つに上がっていたのが氷見の海岸である。そこに雨晴海岸も含まれており、高岡から氷見線の始発に乗れば来ることができるので元日はここに来てもいいかなと思っていた。ただ、天気予報を見ると鉄板で雨または雪の予報。これでは初日の出どころか青空も見込めないということで、この写真パネルを見て一足早い初日の出の気分だけを味わう。旅の天候というのは、そう全てが自分のイメージ通りに行くものではない。

さて海岸。風はやや強いが、波はそこまで高くはない。この時季としては穏やかな海と言えるのではないだろうか。ひとまず海岸を歩き、水をたっぷり含んだ砂浜を通って義経岩までたどり着く。ちょうど団体ツアーが見物を終えたところだ。この後は氷見、あるいは足を伸ばして和倉温泉にでも泊まるのだろうか。ちょうと団体客がいなくなったことで、残った私だけで景色を独り占めする。

時間はわずかなものだったし、立山連峰との景色が見られたわけではなかったが、久しぶりに来られたことでよかった。そろそろ時間が近くなり、駅に戻る。やって来たのは先ほどと同じ2両編成。ということで再びハットリくんによる車窓案内である。時刻は16時を回り、周りも急に暗くなってきた。

これで高岡めぐりも終了となり、駅前のルートインホテルにチェックイン・・・・。
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高岡大仏と伝統的町並み

2018年01月04日 | 旅行記D・東海北陸
日本三大大仏というのがある。一つは奈良大仏(東大寺)、二つは鎌倉大仏(高徳院)、そして三つが高岡大仏・・・とされている。もっとも、奈良、鎌倉は誰もが異存のないところだろうが、三つ目については諸説あるようだ。「三つ目が諸説ある」のは、「日本三代○○」あるあるであるが、高岡では高岡大仏が三大大仏と言われている以上、それが正しいということにする。

奈良大仏、鎌倉大仏はそれぞれ広い寺院の境内にあるが、高岡大仏は町中の風景として溶け込んでいる。高岡の町の中心部を歩くとふと現れる。銅製の阿弥陀如来像である。この時は観光ツアーの一団が訪れていた。

高岡大仏は元々鎌倉時代に二上山の麓に建立されたものが、江戸時代にこの地に移されてきた。当初は木造だったこともあり何度か焼失に遭った。現在のものは1933年に完成したもので、高岡の産業である銅器職人の手により、火に強い大仏として建てられたものである。この大仏がある寺はその名も大佛寺という。

大仏の下に入ってみる。阿弥陀如来をはじめとした諸仏の祭壇があり、ここで手を合わせた後、回廊に飾られた仏画を見る。

ちょうど大仏の背後にはもう一つの大仏の頭部がある。1900年に高岡で大きな火災があり、当時の大仏も焼失したが、頭部だけが焼け残ったという。顔の左側に縦のヒビが入っている。代は変わっても高岡の町並みを見続けてきたのはこの阿弥陀如来である。

このまま北西の方向に歩き、万葉線の通りを過ぎた後で風情を感じる通りに出る。山町筋という通りで、江戸時代に高岡の城下町が開かれた時以来のもの。高岡御車山祭を奉じている。土蔵造りの商家が並ぶ。そのうちのいくつかは公開もされているが、残念ながら大晦日で閉まっている。年末年始の旅では、こうした見学施設が閉まっているのはどうしても避けられない。その一角にレンガ造りの富山銀行の建物もある。施設には入れなくても、こうした町並みを歩くだけでも旅に出た実感がするし、建物の細かなところはわからなくても雰囲気、風情を楽しむことができる。

高岡駅に来た時には立山連峰も薄くではあるが見られた天気だったが、次第に雲が広がり、雨粒もパラパラと降ったり止んだりする。まだ傘ではなくコートのフードでがまんする。その中でもう一つ、金屋町の町並みの案内標を見る。少し離れているが、そちらにも行ってみる。

金屋町とは高岡銅器、鋳物職人の町である。高岡が鋳物の町として現在も主な産業になっているのは、前田利長が、当時の砺波郡西部の金屋村に住んでいた7人の職人を高岡の町に呼び寄せて土地を与え、税金も免除して鋳物造りを保護奨励したことにある。今は公園ができていて、高岡鋳物発祥の地の石碑や、記念事業として造られた鋳物作品も置かれている。

鋳物の町というから工房が並ぶ姿を想像するが、町並みとして現れたのは石畳の道に千本格子の家並み。見た感じでは鋳物の作業場とはかけ離れたどこかの小京都に来たかのようだ。案内によると、表通りはこうした普通の町家で、作業場は家の奥に設けられていたという。よく見るといくつかの家の前には鋳物作品が置かれていたり、小さな工房の看板を掲げていたりする。鋳物造りはこうした家内工業のようなところから広まったということだろうか。

キューポラ(溶鉱炉)と煙突が残されているという。江戸時代の家内工業だった鋳物造りも明治時代以降は近代化が図られ、いくつかの鋳造所がキューポラを建造した。その一つ、旧南部鋳造所が大正時代に建てたものが保存されているというので行ってみた。あったのはパチンコ店の駐車場の一角で、フェンスに囲まれていた。これはパチンコ店にあるというよりは、元々鋳造所だったところがパチンコ店になったということなのかな。

町歩きはこの辺にして、駅に戻る。駅前の商店街があるが、飲食店はもう正月休みに入っているところが多そうだ。大晦日の夜、年内最後の食事をどこでとるか悩ましいところだ。そこへやって来たのは万葉線の「ドラえもんトラム」。作者の藤子不二雄(藤子・F・不二雄)が高岡出身ということで。

そのためか、トラムだけではなく駅前にもドラえもんが見られる。万葉線の待合室や駅前広場にもいる。同じ広場には越中の国司も務めた万葉集の編者・大伴家持の像もあるのだが、観光客にはドラえもんのほうが目につく。

時刻は15時すぎ。瑞龍寺から始まって3時間ほど高岡の町を歩いていたことになる。この日は駅前のホテルに泊まるのだが、チェックインの前にもう一ヶ所行ってみる。ということで再び改札をくぐる・・・・。
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富山にある唯一の国宝建造物~瑞龍寺

2018年01月03日 | 旅行記D・東海北陸
北陸新幹線は高岡駅には乗り入れず、1.5キロほど南に新たにできた新高岡駅を通る。ちょうど城端線と交差するところに新駅ができ、市内とは城端線や路線バスで結ばれている。駅舎および駅前は新幹線開業を機会に全面的にリニューアルされていて、開放的な感じである。新しい駅舎になって下車するのは初めてで、以前の、いかにも古い国鉄らしい風情のあった駅のことも憶えているので、時の流れを感じる。JRは氷見線、城端線があるが、メインの金沢、富山方面はあくまであいの風とやま鉄道の路線である。駅の放送も「あいの風とやま鉄道をご利用いただきありがとうございます」だし、券売機も同線がメイン。氷見線や城端線を利用する客は券売機で一度JRのボタンを押してから買う仕組みになっている。これから北陸新幹線が延伸するにつれて、こうした駅が増えてくるのかなと、ちょっと複雑な気分である。

改札口の正面には大きな窓があり、構内から東の方向を見渡すことができる。正面には立山連峰があり、天気がよい時の展望写真と山の名前が書かれたパネルがある。この時間、雨や雪は降っておらず、山の下のほうが薄いながらも何とか見える。さすがに、ポスターのようにはいかない。

到着したのが12時前ということで、昼食とする。目指すのは駅ビルの中にある今庄という店。ここで「ちゃんぽん」をいただく。わざわざカッコ書きにしたのは、長崎名物、中華料理のメニューのちゃんぽんとはちょっと違うからだ。

その中身はこれ。要はうどんとそばが一つの丼に入る「ハーフ&ハーフ」である(玉子はトッピング)。両方がごっちゃになっているから「ちゃんぽん」というわけだが、この店のオリジナルメニューである。おそらく高岡の他のうどん屋、そば屋でこれを注文しても出てこないだろう。丼の半分ずつに盛られているものを、最初は片方ずつ味わう。そして次からはかき混ぜて両方いっぺんに口に入れる。独特の食感である。福井駅の今庄そばに続いて、一応ここで年越しそばの第二弾ということにする。

大きなバッグをコインロッカーに預けて、さてこれからどうするか。まず思いつくのは、富山県で唯一の国宝である瑞龍寺。以前にも訪ねたことがあるが、ここはもう一度訪ねてみることにする。駅の南側(瑞龍寺口)も、新高岡駅への玄関口ということで整備されている。

歩いて10分ほどで八丁道に至る。ここを右折すると石畳の道が続く。出迎えるのは前田利長の銅像。前田利長は前田利家の長男で、加賀藩主である。この利長の菩提を弔うためとして前田利常によって建立されたのが瑞龍寺である。堂々とした七堂伽藍で知られている。全盛期は3万6千坪あり、堀も設けられたそうで、寺というより城に近い感じだったそうだ。その後、加賀藩もなくなったり寺の経営も思うように行かなくなったりで周囲の土地も売り払われて住宅地になったところが多いが、寺の構えは現在も堂々としたものである。

門前で拝観料を払い、前田家の家紋である梅鉢があしらわれた総門をくぐる。そして目の前に広がる景色にうなる。

頭の中では堂々とした山門の姿を描いていたのだが、現れたのは巨大なフェンスに覆われた建物である。ちょうど2017年のGWの頃から大改修工事に入っていて、終わるのが2020年~2021年にかけてのことだという。これも国宝、文化財の維持には必要なことである。また瑞龍寺は往年の七堂伽藍を現代に復元させようとしているそうだ。確かに山門、仏殿、法堂は国宝に指定されているが、周りの回廊は一時期はほとんど失われていたものだそうだ。それを何回かに分けて復元して、後は浴室と東司(トイレ)が建てられると完成するという。

その山門をくぐると、正面に仏殿、奥に法堂、そして左右には見事な対称を見せる回廊が広がる。この佇まいがよろしい。パンフレット等では、境内の芝が鮮やかに諸堂を引き立てているが、目の前に広がるのは雪景色。これも一味違った景色である。

仏殿に入る。曹洞宗の寺院ということで釈迦三尊(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩)を祀っている。柱、天井の組み方には複雑な技法が用いられている。その後ろには瑞龍寺を開いた広山恕陽禅師、さらには中国の達磨和尚などの像も祀られている。

その奥が法殿で、先ほどの仏殿よりも堂々とした造りである。パッと見るとこちらが本堂かと思わせる。正面には前田利長の位牌が安置されている。仏像とは違うが、そもそもが利長の菩提を弔うための寺ということでここでも手を合わせる。

その隣の部屋にも仏壇が設けられている。こちらに祀られているのが烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)像である。少し前に流行った植村花菜さんの「トイレの神様」という一曲があるが、その中で「私」に「おばあちゃん」が「トイレにはキレイな女神様がいるんやで」と語りかけるところがある。その「女神様」が直接烏瑟沙摩明王を指すものではないとしても、この曲が流れるようになってから、この明王の存在も世に広まるようになった。元々はインドの神様だったのが、仏教の中では不浄を清める功徳があるとして信仰されるようになった。一方で、昔から家の中に怨霊や悪魔が侵入するのがトイレからという思想があったことから、そこを守るためにこの明王をトイレに祀るようになったという。

瑞龍寺の烏瑟沙摩明王の像は120cmあるが、これは全国最大級の大きさだそうである。そのこともあり、瑞龍寺では七堂伽藍とともに「トイレの神様」を売りにしているように感じられる。お札もあるし、烏瑟沙摩明王のご朱印も用意している。今回は札所めぐりとは違うのでご朱印はいただかないが、せっかくなのでお札をいただく。トイレの中で、自分の視線より高いところに祀るようにとある。帰宅後にそのようにするとちょうどトイレ上の棚にいい感じで納まった。これで運気も上がるかな(画像は、回廊の東司跡に祀られている像)

この後は法殿の後ろにある石廟や、回廊を見て回る。禅堂も復元されており、今も寺で修行する人もきちんといるのだろう。回るうちに、気動車のエンジン音が通り過ぎて行った。城端線の線路は法殿のすぐ後ろを通っている。

これで瑞龍寺を後にして、八丁道をそのまま真っ直ぐ進む。「八丁」(1丁は約108m)と呼ばれるのは、瑞龍寺から前田利長の墓所まで敷かれた道の長さである。現在もこの石畳の道があり、両側に車道、そして住宅はその奥という形で整備されている。そして向かった墓所は武士としては最大の高さを持つものだという。いかに加賀藩の祖を大事にしたかがうかがえるところである。

さてこの後はもう少し町を歩くことにする。次は高岡の中心部に行くことにして、JRの線路下の歩行者・自転車用の近道をくぐる。ここで雨が少しパラパラと降ってきた。降ったり止んだりだし、雨も弱いのでここは傘は取り出さず、コートのフードを頭からかぶって歩くことに・・・。
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年越しは高岡にて

2018年01月02日 | 旅行記D・東海北陸
2018年、本年も当ブログをよろしくお願いします。

さて話は年越しのことで。

2016年からは泊りがけだと四国八十八所を目指すことが多く、2016~2017年の年越しは徳島の日和佐をベースに、徳島市内、薬王寺、室戸にある札所を回っていた。ちょうど初詣が薬王寺となった。

ただ今年については、目先を変えて別のところに出かけてみたい。今回は30日に高校の初めての同窓会が入ったため、大晦日~元日の1泊2日でのお出かけである。青春18きっぷ利用ということでそう遠くには行けないが、このところ大阪から西を目指すことが多かったこともあり、冬の北陸を目指す。福井、石川、富山のどの県にするかというところで、選んだのは富山。その中で、主要な町だが泊まったことがない高岡を選んだ。高岡を選んだ理由はもう一つあるのだが、それはまた後で書くことにする。

青春18きっぷで行くとなると乗り継ぎプランはほぼ決まってくる。大阪6時21分発の米原行き快速で出発して、京都で7時00分発の湖西線近江今津行きに乗り換える。以下、近江今津、福井で乗り継いで金沢に着き、金沢からIRいしかわ鉄道~あいの風とやま鉄道直通の列車に乗り、最速で12時47分に高岡に着く。その後は町歩きや、せっかくなのでローカル線に乗ってみようというものである。

ということで大阪を出発。前日は同窓会という場ということもあって結構飲んだのだが、きちんと起きることができた。まずはまだ夜が明けない中、京都に着く。ホームの向かいに停まっているのは117系の近江今津行きである。

・・・ところが、ここで階段を上がって隣の0番線に向かう。どういうわけというところだが、ここから特急に乗るのである。青春18きっぷの旅と言いつつも特急に乗るとはということだが、ここで時間を短縮し、現地での滞在時間を伸ばそうということである。乗るのはサンダーバード1号で、次の停車駅の敦賀に向かう。そうすることで敦賀から先の列車が1本(ほぼ1時間おき)早くなる。この区間の特急券、乗車券代は、青春18きっぷ利用で得した分を充てると考える。

琵琶湖側の席に陣取る。この季節のことで北陸は雨または雪の予報が出ているが、大津あたりもどんよりとした雲が垂れている。いつもの鈍行とは違ってスピードよく走り抜ける。

安曇川を越えて、近江今津を通過するとホームの端にうっすらと雪が残るのが見える。この後の奥琵琶湖に差し掛かると雪が残る場所も結構出てくる。

7時57分、敦賀に到着。ホーム向かい側に停まっている8時06分発の福井行きに乗り換える。青春18きっぷ利用でこの時間に敦賀に来ることができるエリアはごく限られているためか、シーズンにつきものの混雑はない。ゆったりとシートに腰かけてさらに北を目指す。駅を出ると長い北陸トンネルに入る。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」というのは川端康成の『雪国』の書き出しである。この作品の舞台は上越の国境を抜けた越後湯沢であるが、この北陸トンネルというのもそうした趣がある。手前の敦賀では雪は全くなかったが(山の中はともかく、敦賀の町中では雪はほとんど積もらないのではないか)、トンネルを抜けて南今庄に着くと周りは白くなっている。

この北陸トンネルを境にした景色の変化、好きな車窓の一つである。関西を抜けて北陸に来たのだなと感じる。

この雪景色も越前の奥のところだけで、すぐに雪のない車窓に戻る。また外は曇っているが雪や雨はなく、この時季としては穏やかな天候である。まずは福井まで順調に到着する。9時03分着。

福井では9時22分発の金沢行きまで20分弱の時間がある。一旦改札口を出て向かったのは、立ち食いの今庄そばのスタンド。駅そばなのに行列ができるほどの名店である。自宅を出る前に食事はしてきたのだが、9時にして結構空腹である。天ぷらそばにて、一足早い年越しそばとする。やはりそばの造りが本格的だなと感じる。合わせて駅弁の「越前かにめし」他を購入する。これは昼食というよりは、夜のためにとっておくためである。

福井からは4両編成でゆったり進む。ここに来て雲の隙間から太陽がのぞくようにもなる。2015~2016年の年越しでは福井に来たが、よく晴れていたのを思い出す。

石川県に入り、大聖寺に到着。ちょうど私が座っていたところの前に松尾芭蕉の句碑があった。車内からでは解説の文字が小さくて見えなかったのだが、後でネット検索すると、「やまなかや 菊はたおらぬ ゆのにおひ」というものである。『奥の細道』では、芭蕉は弟子の曽良と山中温泉で別れ、その後で大聖寺の全昌寺を訪ねたとある。句の解釈はいろいろあるようだが、どうも私はひねくれているようで、「芭蕉は男色だった」「芭蕉と曽良は一線越えていた」というのがインプットされている。その目線で行くと、「こいつら、別れる前に山中温泉の湯の香りの中で一戦交えたな」と読んでしまう、何せ「菊」だし・・・。まあ、正月の記事なのでそこはスルーしよう。

レディー・カガと大観音像の加賀温泉を過ぎると、金沢に向かう地元客も駅ごとに乗ってくる。10時55分、金沢に到着。

金沢から先はJRから第三セクターになったIRいしかわ鉄道~あいの風とやま鉄道の乗り継ぎである。もっとも、県境で会社が分かれているだけで、列車は石川、富山の両県をまたがって走っている。次に乗るのは11時07分発の泊行きで、降りたホームからそのまま乗り継ぐ。

第三セクター線ということで、青春18きっぷは利用できない。車内にも注意書きの中吊り広告がある。かつて北陸線から分岐していた七尾線、氷見線、城端線があるが、第三セクター線とこれらの線との直通、乗り換え利用についての一部例外を紹介している。

県境の倶利伽羅を過ぎ、富山県に入る。山間部だからか、石川では全然見なかった雪もまた車窓に出てくる。富山まで来ればまた違うなと感じる。

11時45分、高岡に到着。あいの風とやま鉄道になってから改札を出るのは初めてである。特急を挟んだとして、大阪から5時間半の距離、はるばる来たという感じで・・・。
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