まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第1回中国観音霊場めぐり~第2番「餘慶寺」

2019年06月25日 | 中国観音霊場

話は中国観音霊場めぐりに戻る。6月16日。

第1番の西大寺の参詣を終え、吉井川にかかる雄川橋を渡って瀬戸内市に入る。日が当たると結構暑く感じる。

目指す餘慶寺の案内板が出る。お堂は道の正面上に見えていたのだが、案内板によると結構南下してから坂道を上るように出ている。仕方ないかなと引き続き歩く。

少し行くと墓地があり、その脇に上りの山道が見える。ここを上がることはできないか。

道はそのまま続いていて、これはいい感じで上がれそうだ。寺の敷地らしい雰囲気になり、そのまま餘慶寺の一角に出た。吉井川とその向こうに西大寺の伽藍も見ることができる。西大寺からは歩いて40分くらいで着いた。た

何やら供養塔が見える。南朝方の武将だった児島高徳とその一族である和田氏を顕彰するものである。児島高徳はこのあたりの出身だということもあるが、最近歴史の表舞台から忘れ去られているのでは?ということで建てられたものである。

この一帯は地元では上寺山(うえてらやま)という呼び方で親しまれているそうだ。中国観音霊場の2番札所と書かれた石柱があり、その奥に諸堂が並ぶ。本堂と三重塔が存在感を出している。

まずは本堂に向かう。靴を脱いで畳敷きの外陣でお勤めである。本尊の千手観音はその向きから「東向き観音」として親しまれている。

餘慶寺は奈良時代、報恩大師により創建されたとある。当初は日輪寺という名前だった。この報恩大師という僧は岡山県下の古い寺の多くの由緒に出てくる人物とされている。その後、慈覚大師円仁により「本覚寺」と改められ、平安後期には近衛天皇の勅願寺となった。戦火で焼失したこともあったが復興して、中世は浦上氏、宇喜多氏の保護を受け、江戸時代は岡山藩主池田氏の保護を受けた。今でも上寺山にいくつかの塔頭寺院を持つ。もちろん初めて訪ねた寺院だが、結構な歴史がある。この本堂も江戸時代前期に再建された長い歴史を持ち、国の重要文化財にも指定されている。

こうした札所めぐりにはご詠歌がつきものである。古くは西国三十三所の各札所で花山法皇が御製の和歌を詠んだものだが、中国観音霊場にもご詠歌はある。これまでさほど意識しなかったのだが、餘慶寺の本堂に掲げられたのがふと目に留まった。

「けんやくに みをつつしみて おごりなく ただよきことを すればよけいじ」

ご詠歌は寺の由緒などが詠み込まれることもあるのだが、この歌は法話の一節でも聞いているかのようである。中国観音霊場のご詠歌はどのように作られたかは知らないが、各札所にそう都合よく伝わる歌があるわけでもなく、ひょっとしたら各札所の住職が直々に詠んだのもあるかもしれない。

隣接する三重塔、さらに奥にある薬師堂も由緒ある。

一方で新しい建物もある。八角堂では法華経に出てくる数多くの仏の名号を唱えることができるし、地下にある十三仏堂にはあの世に行くにあたり巡り会う十三の石仏が並ぶ。さらには納骨堂である阿弥陀堂もある。結構手広い。

この餘慶寺、神仏習合の昔ながらの姿を今に留めているのもうかがえる。写真を見ると、本堂や三重塔が建つのと同等の存在感で石の鳥居が建つ。豊原北島神社という。

寺と神社の境界を示す石標もある。神仏習合ではなく寺と神社が明確に分かれているではないかと思われるが、これは江戸時代の初期、初代の岡山藩主池田光政の政策によるものである。光政は岡山藩の発展に尽くした名君と称される人物で、そのベースとして儒学(ただし朱子学ではなく陽明学)を信奉していた。閑谷学校を作ったのも光政である。その中に「神儒一致思想」というのがあり、儒学的合理思想から神道を中心とする政策を取り、神仏分離を実施した。ただ、後の明治時代にあった廃仏毀釈のようなことはなかったようで、寺の本尊は今でも貴重な文化財として伝わっているし、神社と寺が共存しているようにも見える。

元々、神仏分離はこのような形で行われていたのだが、明治の新政府になっておかしなことになった。最近読んだ鵜飼秀徳著『仏教抹殺』にその辺りの経緯が書かれていたが、事の本質を理解せずに、明治新政府に気をつかって、あるいは点数稼ぎのために無茶をした連中が我先にと寺や仏像を破壊した。あくまでも餘慶寺を見ただけのことだが、その点でいえば岡山、備前は皮肉なことに以前から神仏が分離されていたから寺が無事だったともいえる。

神社と寺の境界があるといっても、薬師堂の横には日枝社と愛宕社もある。

納経所は餘慶寺会館の一角にある。こちらで中国観音霊場の第2番の朱印をいただく。

帰りは最寄り駅の大富まで歩いてみる。道標では1.5キロほどとあるが、下り坂が続くのでそれほど苦にはならない。住宅地もあるし、あじさいが咲く庭もある。

15分ほどで大富駅に近づいたが、岡山方面の列車が発車する音が聞こえてくる。実はこの後は赤穂線で播州赤穂方面に行くのではなく、いったん岡山に出て新幹線に乗ることにしている。いきなり新幹線登場だが、これは早く帰宅したかったのと、後の展開を考えて岡山駅に布石を打とうというもっともらしい理由がある。

大富駅だが、ホーム1本きりなのはよいとして、駅舎もなければ周りに時間をつぶせそうなところもない。停留所のようなものである。

時刻表を見ると、次の岡山方面の列車の前に来るのは東方面の長船行き。で、この列車が長船で折り返して、次の岡山方面の列車である備中高梁行きになる。ならば、長船へのちょい乗り往復はきちんと支払うとして、大富駅でじっと待つより冷房の効いた列車で過ごすほうを選ぶ。

長船では10分足らずの時間だったが、改札を出て再び入場し、備中高梁行きの客となった。これはこれで楽に過ごせたと思う。

そのまま岡山に到着し、そのまま新幹線「さくら」号に乗る。岡山に来たらあのミシュラン居酒屋に寄るのが定番だが、またの機会とする。

・・西大寺と合わせて2番まで訪ねた中国観音霊場。今回については、西国や四国で目にしたような中国観音霊場の熱心な巡拝者や、個性的な人を見かけることはなかった。ただ、寺としての歴史は西国や四国に負けない奥深さを垣間見ることができて、これからが楽しみである。

次回は第3番の正楽寺を訪ねる。同じ赤穂線でも東側にあり、中国地方一周というなら逆方向だが気にしない。備前の名刹をもう一つ訪ねるのだなという気持ちで、いつ行くかカレンダーを確認することに・・・。

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