上賀茂神社、下鴨神社と回り、次に訪ねるのは京都20番・御霊神社である。地元では「上御霊さん」と呼ばれているそうだ。こう書くとまた「上があるなら下御霊神社もあるのだろう」と思うのだが果たしてそうで、下御霊神社は西国三十三所第19番の行願寺革堂の隣にある。
こちらの御霊神社、西側の鳥居からくぐったところの楼門が工事中で、その横手から境内に入る。
古くから、政治で失脚したり戦乱で敗北した人の霊が祟って、その相手や世の中に災いをもたらすと考えられていた。これに対して、官位や称号を与えることで霊を鎮め、神として祀ることでその霊が人々を護ってくれるという考え方が平安時代頃から広まり、御霊信仰という形になった。その鎮魂の儀式が御霊会である。大宰府に流された菅原道真が亡くなった後に都でさまざまな災厄が起こり、道真の霊をなぐさめて人々の鎮護を願い、やがて学問の神様である天満宮が建てられたのもその一つである。
平安時代の初期、桓武天皇の時代に疫病が流行し、洪水も相次いだ。これは早良親王の祟りだとして、この地に祀ったのが御霊神社の始まりとされる。早良親王とは桓武天皇の弟で、皇太弟に立てられていた。しかし長岡京造営の中心人物だった藤原種継が暗殺された際、早良親王もこれに関わったとされて皇太弟の座を廃され、配流された。その途中、無実を訴えていた親王は絶食して亡くなった。疫病や災害はこの御霊のしわざだと考えられた。
そこで鎮魂の儀式が行われ、早良親王には「崇道天皇」という号がおくられた(もっとも、実際に皇位を継いだわけではないため、歴代天皇には数えられていない)。またその後の時代の御霊会では、早良親王のほかに伊予親王、井上内親王、藤原仲成、橘逸勢、吉備真備といったところが追加されるようになった(吉備真備とは意外だが、彼にも何かあったのだろうか)。
境内を回ると、「応仁の乱勃発の地」という紹介文や石碑がある。「御霊合戦旧跡」と刻まれているが、これを書いたのは応仁の乱の東軍の総大将だった細川勝元の子孫にあたる細川護熙元首相とある。こんなところで名前を見るとは思わなかった。
応仁の乱は足利将軍家の後継問題に端を発したとされるが、主に畠山氏や斯波氏といった有力な一族の内紛、そして東軍の細川勝元、西軍の山名宗全の勢力争いも絡んでいる。畠山氏の争いでは畠山政長が東軍、畠山義就が西軍につき、東軍の政長が御霊神社の境内に陣を構えた。当時は境内が広く周囲に堀や川があり、細川勝元の邸宅も近くにあるのが理由だという。
この御霊合戦は西軍の義就が勝利したが、その後細川、山名両氏が諸国から軍勢を集め、11年におよび戦いが京都、そして地方で繰り広げられた。結局、どちらが勝ったのかあいまいなまま終息したのだが、この後から群雄割拠の戦国の世に突入することになる。
御霊神社が今のような形になったのは江戸時代の中頃という。改めて本殿にて手を合わせる。お天気がよい分、とにかく暑い。朱印をいただいた後、本殿前のスペースで少し休む。次は御霊神社の南にある相国寺で、時間はまだあるのだがこの大寺で最後にして地下鉄に乗ることにしようか・・・。