まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第33番「石薬師寺」~西国四十九薬師めぐり・3(東海道五十三次と佐佐木信綱)

2019年07月17日 | 西国四十九薬師

西国四十九薬師めぐりもまだ3ヶ所目だが、回るのは33番、それも三重県だ。四十九薬師もいろいろなところを回らせてくれる。

今立っているのは国道1号線にある石薬師バス停。石薬師は東海道五十三次の宿場の一つで、どこかしらにそのような名残がないか探してみる。旧東海道というのもあるはずだ。

国道1号線を少し四日市方向に歩くと、次のバス停の手前に分岐があり、「東海道 石薬師宿」の立札がある。この道が旧東海道のようだ。合わせて、「これより南 石薬師宿 信綱かるた道」という案内板がある。信綱というのは先ほどバス停の名前にもあった佐佐木信綱(国文学者・歌人)で、ここが出身地ということで地元の顕彰会が旧東海道沿いに信綱の短歌を50首掲示しているとある。案内板の横にさっそく第1番がある。

すぐ脇には地蔵堂がある。旅の安全を願って宿場町の入口に建てられたものだという。中をのぞくと地蔵像があり、西国三十三所の納経軸も掛けられている。

およそ1.8キロの宿場町の旧街道沿いに石薬師寺もあるようで、宿場町歩きと札所めぐりを兼ねることになる。歴史的な建物が保存されている様子はないが、それだけに佐佐木信綱を推しているようにもうかがえる。20~30メートルに一つは信綱の歌が出てくる。

石薬師が東海道の宿駅として制定されたのは1616年のことという。その名前はこれから向かう石薬師寺から取ったが、宿場としての規模は小さいほうだったそうだ。先ほどバスで通った途中に隣の庄野宿があるが、こちらも小さな宿場。それぞれもう少し頑張って歩けば東は四日市、西は亀山という規模の大きな宿場町があり、まあ、石薬師、庄野は農村の休憩ポイントの役割のほうが高かったようである。それでも、かつての本陣だった小澤本陣跡に解説板があり、かつての宿帳には赤穂の浅野内匠頭の名前も残されているとある。

本陣跡の近くに天野記念館という建物がある。アマノ株式会社という、タイムレコーダーや、コインパーキングの料金精算機などのメーカーがあるが、その創業者である天野修一という人が石薬師の生まれで、後に地元のために建てたものだという。

そして、ちょうど宿場町の真ん中あたりに来たところで、佐佐木信綱記念館に着く。中は資料館にもなっており、入館無料ということもあって少し入ってみる。

佐佐木信綱は1872年に石薬師で生まれた。記念館の敷地内には生家も保存されている。父が歌人だった影響もあってか、5歳から短歌を作ったそうだ。展示品の中には8歳の時詠んだ歌の短冊というのもある。

その後は短歌の会を主宰して短歌誌『心の花』を発行したり、多くの弟子を輩出したりした。中でも有名な詞とされるのが『夏は来ぬ(きぬ)』という唱歌で、「卯の花の 匂う垣根に時鳥 早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」というもの。文語なので現代風に言うなら「夏が来た」という意味だ。また同じ唱歌でも今は唄われないが、日露戦争の旅順の戦いで日本が勝利した後、乃木希典とステッセルが対面してお互いを讃えあった『水師営の会見』の作詞もしている。他にも学校の校歌の作詞も多くあり、隣接する石薬師小学校の校歌ももちろん信綱のものである。

またもう一つ大きな功績として万葉集の研究がある。現在の万葉集研究の権威とされるのは、新元号令和の考案者である(とほぼ確定されている)中西進氏だが、万葉集の膨大な数の歌を分類・体系化したのは信綱が最初だという。展示品にはその書籍もあり、令和の出典となったあの序文が書かれたページが開かれている。

また、信綱による『新訓万葉集』という岩波文庫の上下巻も展示されている。東西の古典文学や思想本を網羅した岩波文庫だが、その最初の刊行本がこの『新訓万葉集』なのだそうだ。文庫の最初に収められたのが万葉集というのも、令和の選定過程に通じるものがあるように感じる。

なお名字が「佐佐木」というのも由来があるそうだ。元々は「佐々木」だったのだが、中国に旅した時のこと、彼の国に「々」という文字がないことを知った。このことから「佐佐木」と改めたそうだ(戸籍上では「佐々木」のままのようだが)。

日本の短歌に大きな功績を残した佐佐木信綱という人物について触れ、再び石薬師寺を目指す。次のバスまで2時間近くあった待ち時間も気づけば後1時間ほど。これで寺にお参りして宿場町の南端まで行けばちょうどよい時間だ。国道1号線を跨ぐ橋を渡ったところに寺の大きな看板と門があるが、どうもこちらは裏側のようだ。街道をもう少し歩いて小ぶりな門の前に出る。

門をくぐると緑が多く、石もゴロゴロして庭のようにこしらえられている。ただ何だか雑然としたように見えなくもない。

青もみじが生い茂る境内の参道を歩いて、正面奥の本堂に着く。まずはお勤めとする。本堂外の柱には「嵯峨天皇勅願」「石薬師密寺」の札が掲げられている。

石薬師寺の由来がある。奈良時代に泰澄がこの地で大きな石を見つけ、そこに薬師如来を感得し、お堂を建てて供養したのが始まりとされている。後に弘法大師空海がこの石に薬師如来像を刻んで供養したことで人々の信仰を集め、嵯峨天皇の勅願寺ともなった。当時は西福寺瑠璃光院と呼ばれたそうだ。石薬師寺となったのは江戸時代、宿駅の制定と前後してのこととあるが、おそらく昔から「西福寺」というよりは「石の薬師さん」とでも呼んで親しまれていたのだろう。今の本堂はそれからしばらくして再建されたものである。

本堂の前に歌川広重の浮世絵の東海道五十三次を模写したパネルがある。石薬師宿の全景を描いたものだが、畑の向こうに宿場町の屋根が並び、奥には鈴鹿の山がそびえるというシンプルな構図。左手に大きなお堂が見えるのが、今目の前にある石薬師寺の本堂である。のどかな景色といえばいいが、これだけを見ると宿場町の中には広重が描きたくなるようなネタはなかったのかなとも思う。

納経所に入る。寺も宿場町の歴史とともにあり、先の広重の絵をカバーにあしらった納経帳も置いている。大阪から来たと言うと「薬師霊場も広いから大変でしょう」と話される。「この寺も昔はもっと広かったそうですが、江戸時代に東海道を造るとして切り取られ、(横を通る)国道1号線を通すとして削られ、なかなか大変な歴史ですよ」とも言われる。確かに境内の東を旧東海道、西を国道1号線が通っていて、ちょうど挟まれた位置にある。

これでお参りを終え、さらに歩いて宿場町の南端を目指す。JR関西線の踏切・橋梁の前に大きな木がある。これが宿場町の南口で、一里塚でもある。ようやく着いた。

ここで折り返して、佐佐木信綱記念館のバス停まで歩いて向かう。途中寄り道すると、源範頼(頼朝の弟、義経の兄)の蒲桜というのがある。平家征討に向かった範頼は、石薬師寺で必勝を祈願した際、馬の鞭で使っていた桜の枝を逆さまに地面に刺して祈ったという。後にその枝から芽が出て、成長したのがこの桜の木なのだとか。範頼に蒲の冠者という呼び方があったことから蒲桜だという。また近くには範頼を祀った神社もある。

バス停まで戻ると、2時間に1本のバスがあと数分で着く頃だった。宿場町を往復してちょっとしたウォーキングの感じだった。 ここからバスで近鉄四日市に向かうが、ルート図を見ると途中で内部駅前というバス停がある。内部といえばナローゲージの四日市あすなろう鉄道の終着駅。ならば、この先は乗り物の時間はさほど気にならない行程だから、一丁乗ってみようか・・・。

コメント