まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

新緑の赤目四十八滝

2012年06月10日 | まち歩き

先日梅雨入りが発表された関西。ただ昨日9日は朝から何とか天気が持ち、10日も雨は免れた。梅雨入りすると不思議なもので雨がやむというのはどういうことだろうか。

Dscn4839そんな時候の中ではあるが、「新緑、そして水の景色を見たい」と思った。今回同行いただいた方(仮に、Tさんとしておく)とともに近鉄大阪線の赤目口駅に降り立つ。ここで目指すのは赤目四十八滝である。確か子どもの頃に家族連れで一度来た記憶があるが、それ以来のご無沙汰である。今回訪れてみようと思ったのが近鉄電車のポスターで見たこと、そして、この滝の名前が冠せられた小説を読んでのことである。そこでTさんにお声がけした次第。

赤目口駅前は結構な人出がある。バスの発車までは時間はあるがすでに停車しており、先に乗り込む。駅から滝まで歩こうかという一団もあれば、次に着いた列車でバスに乗り込む人もいる。写真教室の受講生らしく三脚を手にしたグループも見える。あとは女子会で来たような人も。紅葉の時期がベストの赤目であるが、新緑もまた見どころがある。

Dscn4840バスに揺られること10分ほどで滝の入口に到着。何軒かある土産物店の一つで手作りの弁当を買い求め、いよいよ滝めぐりの始まり。アップダウン含めて片道4キロ、往復で3時間のコースである。

Dscn4843その前に通るのは日本サンショウウオセンター。特別天然記念物のオオサンショウウオとかイモリ、一時はやったウーパールーパーが水槽に収められている。岩と同じような色合い、のそのそと動く様子は独特のものがある。

山に慣れているTさんを前に出すような形にして遊歩道を歩く。まあ途中の滝めぐりなどは山の範疇には入らないかもしれない。歩く人たちもしっかりしたハイキングスタイルの人もいれば、手ぶら、中にはサンダル履きの人もいるというくらいである。私には「筋肉痛にならないでくださいよ」とクギをさされたのだが・・・。

Dscn4849先日の雨で木々も水を含んでおり、緑も水によく映えている。水量もなかなかあるようで、ここまで透き通った川を見るのも久しぶりのように思う。

赤目五瀑の一つ、不動滝に着く。不動明王にちなんで名づけられた滝で、かつての滝めぐりというのはここまでだったそうだ。明治の中頃まではこの先は修行用というか、一般の観光客は入れなかったそうである。逆にここからが滝の秘境に入るところである。観光客が連なって先に進む。

Dscn4867名所というのはもともと閉ざされていたものかもしれない、と思わせるのはこういう景色なのだと思う。次の五瀑の一つ、千手滝。高さでは先の不動滝よりも低いが、複雑な形の岩の壁面を縫うように滑り落ちる水の様子がよい。Tさんともども感心する。あまり感心しすぎたのか、三脚を持った観光客が足を滑らせて川の中にはまる光景も。こういう時は本人がどうのこうのよりも、カメラのほうが大丈夫かと気になるところだが、仮にそういうことが私の彼女(という人がいたとして)に起こったら、落語の「厩火事」の世界になってしまうな・・・。ともかく、川にはまった人もカメラも無事だったようで何よりである。

Dscn4881Dscn4886ここで高度を上げる。竜ヶ壺から布曳滝のあたりは落差と深さを感じ、急な階段を交えながら進んでいく。Tさんを先に進めて私は写真を撮りながら・・・という散策。

Dscn4890ほぼ中間点にあたる百畳岩。ここまで巨岩がゴロゴロする光景に出合う中で、ここは百畳というのは言葉のアヤとしても比較的平坦なエリアである。ここで休憩を取る人が多いが、私たちはとりあえずゴールを目指すことにする。そのために観光客の姿も少なくなり、聞こえるのは川のせせらぎ、二人の足音だけという場面も出てくる。

Dscn4895五瀑ほどのスケールはないが、長年のせせらぎが作り上げた滝の数々も見られる。四十八というのは、あと二つ足せば50になるという意味での四十八ではなく「多い」という例えであるが、実際はどのくらいあるのだろうか。

Dscn4906急な岩を下って目に入ってきたのが荷担滝。滝が二手に分かれて流れ落ちる様子が、天秤の両側の荷物、あるいは振り分け荷物のように見えることからつけられたものである。幅の広さは絵になるところである。Tさんも携帯を取り出してシャッターを切っていた。

Dscn4916ここからは上りが続き、琵琶滝を経て最終の巌窟滝に到着。ちょうどサンショウウオセンターを出て1時間半の道のり。道そのものはこの先も続いているがここでゴールとする。滝のそばの河原はすでに先客がくつろいでいたので、滝が見えるところで昼食とする。実は滝の売店でビールを1本仕入れており、ここでブルトップを引く。歩いてきた後の一口はまた格別。

Dscn4855さて帰り。「今度は下りだから、早く行けるでしょう。バスの時間もあるし」ということで、ペースが上がる。ただ、帰りのほうが当然下りが多く、結構足を滑らせそうになる。普段使わない筋肉を使っている感じがするが、そこは一気に行くことに。結局帰りは特に写真を撮ることもなく、1時間で最後まで下りきった。

こういう形で新緑とせせらぎ、マイナスイオンを楽しむこともよかったし、もっともっと自然に触れる機会も増やしていこうかと思ったところである。まだまだ関西にも渓谷美があるようだし・・・・。

コメント

三宮ガード下

2012年06月03日 | まち歩き

神戸というと異人館、旧居留地など、街歩きを楽しめるおしゃれなスポットが多いイメージがある。デートなんかの1日コースで行ってみたいところではある。







ただ、どんな都市でもそうだとは思うが、庶民的な面を見せるスポットも結構あり、そういうところは地元の人たちで賑わったりする。神戸で言うなれば中心街の三宮にもそういう雰囲気のところがある。







それが阪急、JRのガード下。日中からビールを飲ませる店も多く、しかもタイムサービスということで18時までなら250円とか、店によっては199円で生ビールが出る店も多い。なかなかの激戦区である。先週に神戸で試合観戦をした時にはこちらに立ち寄っての祝杯を挙げたもの。







Dscn4747本日もとある場所を目的に西の方に出かけていたのだが、途中で予定を切り上げる形で夕刻に三宮に降り立った。そしてまたとある一軒に。時折真上に響く電車の音を聞きつつ、今日のところは本当に「お疲れさん」といったところで立ち寄った。同じビールでも今日のところはちょっと苦い味がしたが、それでも少しすれば気持ちも落ち着き、何とか立ち直ることができたように思う。













こういうスポットを持っておくというのも、気持ちの安定につながるのかな・・・・?



コメント

とりあえず出かけます

2012年05月04日 | まち歩き
本日4日は当番にて職場に出勤。ただ連休中のこととて仕事は薄く、早い時間での終了となった。

実はこの後、連休中の「週末鉄道紀行」の実施となる。といっても特急で往復し、現地での滞在を産み出そうというもの。ただ明日のしかるべき時間には大阪に戻る必要あり。

出発が遅いのでまずは大阪市内で腹ごしらえしてから・・・。

コメント (2)

メーデー参加、5月攻勢はどうなるか

2012年05月01日 | まち歩き

オリックス・バルディリスが2試合連続のサヨナラ本塁打。「打線組み替えが功を奏してますね」という見方もできるのだが、やはり先制-中押し-ダメ押しという得点ができることに越したことはないだろう。こういう勝ちを拾うことが勢いにつながればいいのだが・・・・。相変わらず厳しい戦力ではあるが、5月攻勢、得意の交流戦も始まることもあり、何とか乗っていってほしいものである。

さてそんな5月であるが、5月の1日はメーデーということで、大阪城公園にて行われた大阪地方メーデーに参加してきた。メーデーに出るのは何年ぶりだろうかというところであるが。

2012050110540000職場の協議会の仲間たちと合流し、大阪城公園の広場へ。主催者発表では7万人の動員があったというが、その中にいる限りで「そこまでいたかなあ」という感じである。周りを見渡すと、この日を自分たちの主義主張の格好のアピールの場にしよう!とアジったりビラを撒いたりする人たちもいる一方で、「連休の最中やのにねえ」という感じで仕方なく来ている人もいて、広場の中もなかなか混沌としたものであった。

連合の幹部による演説、そして来賓の国会議員たちの紹介がある中、今年は福島県からも連合役員が招かれており、東日本大震災への復興支援のお礼と、今後とも継続して支え合っていこうというお願いのあいさつが行われていた。

震災復興、原発問題、税と社会保障の一体化・・・この国を取り巻く状況を何とか打破しようという演説が繰り返される中、目立ったのが、橋下市長や大阪維新の会に対する批判。

2012050109460000現在、連合をはじめとした組合の皆さんにとっては現在の政治状況に対してもどかしさ、頭の痛さというものを感じているところだろう。自分たちが支持、支援してきたはずの民主党政権も現在のマニフェスト違反や政策の迷走に頭を悩ませるところだろうし、「組合つぶし」を掲げる橋下市長となるとまさに目下の敵。一応、府、大阪市からも来賓は来ていたが、それぞれ副知事と副市長が形だけのあいさつ文を読み上げていた程度だし。また、無党派層や若年層の組合離れ、無関心というのも(そういう層が維新の会あたりに流れるのだろうが)、今後を考えた時にどうだろうか。

別に私は組合の役員でもないし、このブログでは支持政党その他は書かないことにしているが、一労働者として、企業の中でこれまで組合が調整弁やブレーキ弁として果たしていた役割が薄れてしまうのは懸念される。企業の暴走を食い止めるためにもその活動というものに期待していきたいところである。

そんなメーデーも、このところ、中央では「5月1日だと、連休を楽しむ人がなかなか集まりにくいから」ということで、4月28日に行っているという。大阪はまだ「メーデー」という言葉の意味と、「普通の休日の他に、メーデーがある意味『会社休日』となることが労働者にプラスになるのでは」ということで、当面は5月1日開催を継続するようだが、これもそのうちどうなるだろうか。

あまり「記念日」は動かさないほうがいいと思うのだけど・・・・。

コメント

道明寺の桜

2012年04月08日 | まち歩き

春の嵐を経て穏やかな気候となったこの週末。今年は桜の開花が遅い状況ではあるが、「どこかに花見でも」と行きたくなる頃合いである。

例えば京都とか大阪の市内だとか、人の多い桜のスポットというのはあちらこちらにあるのだが、この日は「何や、こんな近くにもきれいに桜を見られるところがあるんやな」ということで、少しのひと時、桜気分を味わうことに。

それは私の住む藤井寺の市内にある道明寺。かつてこの地は菅原道真ゆかりの地であり、寺そのものも1300年からの縁起を持つという。ちょっとした隠れたスポットと言えるだろう。

Dscn3545ほとんど雲もない快晴の一日。歩いて道明寺の山門に到着。枝垂れ桜との組み合わせが実によろしい。

Dscn3543こぢんまりとはしているが石庭も広がる境内。地元の人たちがまったりとしたひと時を過ごしていた。こちらもしばし心を落ち着かせる。

Dscn3547この道明寺に接しているのが道明寺天満宮。もともとは神仏習合というか、ひとつの境内であったのだが明治の神仏分離施策で寺のほうが出て行ったという歴史がある。天満宮というからには菅原道真を祭っているのだが、もともとの菅原家のルーツともいえる地にあるだけあって、全国の天満宮の中でもそれなりの「格式」があると思っている(そりゃ、規模の点では大宰府や北野、大阪天満には劣るかもしれないが)。

Dscn3553Dscn3562菅原道真にちなんで梅の名所ではあるのだが、山門から拝殿に至る参道の桜もまたよい。ちょうど満開を迎えており、地元の人たちを中心に桜の下でレジャーシートを敷いて宴会をするグループも。

Dscn3558またこの日は何か特別なものだろうか、赤ちゃんを抱いてお宮参りする家族連れの姿も目立った。新しい季節の始まり、子どもの健やかな成長を願うのには格好の日和である。

なかなか「花見」というのをする機会がないのだが、久しぶりに桜にゆっくり接することができた。そういえば昨年の今頃といえば東日本大震災の発生直後で世間もゴタゴタとしており、とても花見などという感じではなかったということもあるだろう。

Dscn3574今年は全国で花見を楽しもう、また東北の桜の名所でも震災復興、観光客の誘致ということでPRも行われている。さすがに東北まで花見に出かけることはできないにせよ、人々の心に春の訪れの喜びと、これからの希望を感じさせてほしいものである・・・・。

コメント (2)

海をめざした鉄道~なにわの海の時空館

2012年03月18日 | まち歩き

Dscn3402_4少しずつ暖かくなっているのか、それでもどんよりしたはっきりしない天候のこの週末。18日は大阪市内のほうに出る所用があり、そのついでもあってWTCのある南港へと回る。まあ、南港へ行くのは結構大回りとなったのだが・・・・。

Dscn3347やってきたのは「なにわの海の時空館」。海や港とともに発展してきた大阪の歴史について紹介するという、2000年にできた建物である。このドーム型の建物が海に浮かぶように見える。南港のこのエリア、WTC、ATCもそうなのだが、まったく人の気配がないということではなく物流の拠点として機能はしているのだが、ベイエリアを副都心や観光地として発展させようという当初の目論見は崩れているように思う。橋下前知事が大阪府庁のWTC移転を声高に叫んでいたが、東日本大震災でこの建物の耐震性に疑問がついたこともあり、市長への転身とともにいつしかその話もどこかにいってしまったようだ。

この「なにわの海の時空館」も、それらのハコモノとともに無用の長物のように見られてしまいがちだが(この日もどんよりした天候のため、余計にそう見えてしまうのかもしれない)、海上交通や港を中心とした街づくりという、この建物のコンセプトは嫌いではない。まあ、それを巨額の費用をかけて、海の上に浮かべてみるというのが賛否あるところだろうが・・・。

Dscn3345やってくるのも久しぶりのこと。入場券を購入すると穴あき銅銭をあしらったコインが渡される。これを改札口に投入してゲートを開けるのだが、どうせならこのコイン、記念に持ち帰れないものかと思う。

Dscn3351エレベーターで地下に降り、海底通路を通ってドーム型の展示棟に行くという順路。窓が開けられており、大阪湾で見られる魚の紹介をパネルもあるのだが、濁った海水と窓にこびりついた海藻が見えるくらいである。海遊館あたりのマネをしたかったのだろうが、真上に窓をこしらえたところで魚の動きはわからないでしょうに。

Dscn3352館内は世界の海上交易と大阪の港づくりについて、バーチャル技術も駆使してわかりやすく紹介されている。

Dscn3353文化の交流と発展には「海の道」が果たした役割が大きく、古来の探検家たちが航路を見つけ、開拓してきたことで「世界」が広がったとも言える。

日本も中国文化の受容に海を介していたことはもちろんで、難波にも一時都を置いていたのも国際海洋国家を意識してのことという。ただこれは外敵からの脅威を守るために再び大和盆地に戻ってしまったのだが、難波~大坂はその後も海とともに発展してきた。現在の繁栄の基礎となったのは江戸時代のことである。

Dscn3361この時代には新田開発を積極的に行い、現在の区名でいえば住之江区、大正区、港区、此花区といったところに当たる場所はこの頃の開発により広がったところ。現在にも残る町名がその当時の古地図でも確認できる。

Dscn3378私が小学生の頃に社会科の郷土史のような感じで「大和川の付け替え」というのを習ったのだが、これらも含めて江戸時代の殖産興業につながるものがあった。現在の湾岸エリアの工業地帯などはこの時代にはまだまだ姿形を現していないのだが、そういう、陸地ができていく様子を見比べるのも面白いだろう。

Dscn3358そして、海上交通である。この頃に300石から1000石積の弁才船、菱垣廻船が活躍するのだが、これを現在に復元したのが、この建物の中央にどんとそびえる「浪華丸」である。畳200枚ほどはある大きな帆船。中に入ることもできる。

Dscn3382この「浪華丸」、復元にかかった費用は10億円とも言われている。確かに建造時に一度大阪湾を航行したそうであるが、その後はこのドームにすっぽりと覆われて、今後外に出ることはないだろう。まあ、当時の船の様子を現代に伝える・・・という存在意義があるということで納得するしかないかな。

Dscn3365まあ、展示資料をじっくりと見ればそれなりに充実しているし、物流とか交通に興味がある向きにはなかなかの建物であるが、もう一つパンチがあればな・・・とも思う。もっとも、これでも昔はいろいろなアトラクションものとかもそれなりにあったそうなのだが、採算がとれずに閉鎖したとか。一回だけ航行した菱垣廻船だけでは客を呼ぶのは難しいか。

・・・と、これだけ書けば閑古鳥が鳴いている施設のように思うのだが、この日に限っては小さいお子さんを連れた家族連れとか、どこか目つきが怖いお兄さんとかの姿が目立つ。

Dscn3348その理由は、こちら。「企画展~海をめざした鉄道 なにわの海の鉄道もけい展」。そう、鉄道である。今や、人を呼ぶには鉄道を絡めるのが有効。「鉄道」と銘打っておけばどんなイベントでも客は集まるし、企画もの、販売ものもよく売れる。コーナーではNゲージやプラレールの運転会が行われており、関西の各私鉄の模型を走らせる光景が見られる。

Dscn3385今回この「なにわの海の時空館」で行われていた企画展示は、大阪の市電~地下鉄の紹介。大阪市電の第一期線というのは現在の九条あたりに位置する花園橋から大阪港の間を結んだ「築港線」というそうで、いわば大阪の公営鉄道の歴史は「海をめざす」ところから始まったということだ。

Dscn3396企画展示室には年表やら模型、切符などが展示されている。ちょうど「市電博士」と呼ばれる男性によるギャラリーツアーが行われるということで、私も一緒に話を聞くことに。

Dscn3388開業したばかりの市電というのはもの珍しさもあって見物客も多く、その後は築港に魚釣りに行くのに市電に乗ってみたり(車内に釣竿が持ち込めないからと、運転台のところに釣竿を置くスペースがあったり)、2階建て電車を運転したこともあったとか。

Dscn33932階席からはサーチライトで周囲を照らすサービスをしたこともあったそうだが、「2階から家の中を覗かれる」という苦情が相次いだために取りやめになったという。そういう歴史を「市電博士」(もともと、どういう経歴の方なんだろうか)から聞くのも面白い。

Dscn3387市電の路線網というのも結構広かったものだ。ただ戦後のモータリゼーションの波に押され、市電は渋滞の原因と決めつけられていつしか廃止。市内交通は地下鉄が賄うことになった。ただ、走っていた車両の一部は現在でも広島電鉄の市内線で見ることができる。うーん、また広島に行きたくなってきたなあ。

Dscn3395その地下鉄で「海をめざした」のは中央線にニュートラム。こちらについても精巧な模型で紹介されている。中央線というのもなかなか変化に富んだ線だと思う。乗り入れしている近鉄けいはんな線も含めて考えると、東は生駒山の向うの高台。生駒トンネルを抜け、大阪平野の東部を高架橋で駆け抜け、そして地下に潜り、阿波座を過ぎると再び顔を出し、大阪港から先で最後はコスモスクエアの埋立地の中に潜る。山の上から海底まで走り抜ける路線というのもなかなかないことだろう。この中央線も最初に開業したのは国鉄と接続する弁天町から大阪港の区間。海をめざす役割を果たしたということだ。

Dscn3386大阪市の施設ということで取り上げたのは市電に地下鉄ということだったが、海と陸を結ぶ役割を果たしたということでは貨物鉄道もあるだろう。今回はこれに関する展示はなかったが、海上交通の延長ということでこうしたことも取り上げられていればな、と思うのであった。

こちらのベイエリア、天気が良ければ六甲山系や神戸あたりも望むことができるそうだがこの日は残念。それほどバカみたいに混雑するエリアでもないので、のんびり、まったり過ごすには面白いかもしれないなあ・・・・。

コメント

赤穂浪士にあやかった居酒屋・赤垣屋

2011年12月15日 | まち歩き

『酒は呑んでも 呑まれちゃならぬ 

武士の心を 忘れるな

体こわすな 源蔵よ

親の無い身に しみじみと

叱る兄者が 懐かしい・・・

迫る討入 この喜びを

せめて兄者に よそながら

告げてやりたや 知らせたい

別れ徳利を 手に下げりゃ

今宵名残の 雪が降る・・・』

・・・・上は、三波春夫の歌う浪曲歌謡「赤垣源蔵」の一節である。「徳利の別れ」のエピソードを持つ赤穂四十七士の一人、またの名を「AKO47」の主要メンバーの一人ともいえる赤垣源蔵を唄ったものである。なぜか小学生の時に、父親がLPを持っていたのを一緒に聞いたのだろう、耳に残っている一曲である。

12月14日は赤穂四十七士の討入りの日。あれから300年以上たっても四十七士ゆかりの地では祭りが行われたり、装束をまとっての練り歩きがあったりと、今もって日本人の心の中に受け継がれている出来事である。世界の諸国を見てみても、こういう形で「ヒーロー」とされている人物や集団というのはそうあるものではないだろう。

2011121420450000_2四十七士に関するイベントといえば、こちらでも行われていた。大阪ミナミを中心に広がる立ち飲み居酒屋の「赤垣屋」。店の「赤垣」という名前も、四十七士の赤垣源蔵の「徳利の別れ」のエピソードから取られたものである。いつも貧乏徳利をぶら下げて飲んだくれている・・・という描かれ方をされている源蔵である。ただ、史実をだどってみれば実は「下戸」で、義弟のところに暇乞いに訪れるにあたって普段は呑めない酒を一気に飲んだ・・・というのが本当のところらしいのだが、それがいつしか堀部安兵衛とともに「呑んべえキャラ」に仕上げられてしまったのが面白いところである。

さて話は赤垣屋さん。討入りの日には「討入り記念」ということで、手のひらサイズのミニボトルを進呈している。奈良の地酒「歓喜光」というやつであるが、飲み口は実に庶民的。ただし、来店客一人一人に配っていたが、早速その場で封を切って手持ちの徳利に注いでいた客には注意していた。あくまで家でゆっくり飲んでください、ってなもんである。

2011121420350000_2赤垣屋は大人数で来るよりは一人でふらりと入るのが似合う、かといって敷居も高くなく、若い女性アルバイトが常に接客に入っている(そういう女性を目当てに通っているおっちゃんも多いようだが)。料理も正味一人前が相応の価格で出てくるので、何品か注文するのも無理なくできる。居酒屋の神様・太田和彦氏なぞは歯牙にもかけないだろうが(酒場放浪記の吉田類氏はどうだろうか)、自分の好みからすればなかなかいいですな。

仕事帰り、「今日はクルマを置いて帰ろう」という時にちょっと立ち寄り、リラックスするのに適したところである。討入り記念は終わったが、またちょこちょこ行ってみたいものだ・・・。

コメント

神戸散歩&あべの・ユーゴー書店が閉店

2011年12月11日 | まち歩き

11日は午後から阪神電車で神戸へ。まずは三宮に降り立ち、B-WAVEにて来年のオリックス・バファローズのカレンダーを購入。来年のカレンダーの話となると、いよいよ年の瀬が来たなとそわそわするものだ。部屋のインテリアを兼ねてもう一種類くらいは購入するか、あるいは会社に来たものをいただくか。

Dscn2194ここからはしばらく歩いてみることに。ちょうど現在開催中の神戸ルミナリエの会場に。昼間のこととてもちろんイルミネーションは点灯されておらず、夜になるとあれだけ幻想的な夜景を見せるオブジェも「こんなものか」というところ。まあ、舞台裏というのはそういうものだろう。関西の冬の風物詩としてすっかり定着しているとはいえ、その運営費用というのも協賛金とか寄付によるもの。その実情はなかなか厳しいのではないだろうか。

Dscn2199そんなことを思いつつ、旧居留地のかつての洋館群を歩く。現在でこそブティックなどを入る商業施設となっているが、ブティックだから似合うということもある。間違っても赤ちょうちんやらチェーンの居酒屋などが入るのは恐れ多いことで・・・。

そのまま歩いて到着したのが高速神戸。先月、友人のKEN氏の応援で神戸マラソンの観戦にやって来たのだが、最後はこの高速神戸駅で選手たちを見送った。普段は多くのクルマが通る国道2号線の高架道路を逆走するというコース設定に驚いたことである。あ、そういえば今日は奈良でマラソンが行われており、KEN氏はそちらにエントリーしているはず。この時間ではとっくにレースは終わっているはずだが、果たしてタイムはどうだっただろうか・・・。

Dscn2205本日高速神戸までやってきたのは、地下街の「デュオ神戸ギャラリー」で開催されている写真展の見学。「KRPC(関西レイルウェイフォトグラファーズサークル)」というところの第18回写真展「美しき列車たち」というものであり、この写真展のメンバーでフェイスブックのほうで交流リストに入っているOさんという方から、フェイスブック上でイベント招待を受けたということでのぞいてみることにしたのだ。

ギャラリーは地下街の通路に面してほとんどオープンに作られており、気軽に出入りできる。招待をいただいたOさんらしい姿もあったようだが、「面識」のないままでいきなり声をかけるのもどうかと思い、あくまで一般の見物客として写真を見せていただいた。

10人ほどのメンバーの作品が合計で20点ほど展示されており、春夏秋冬、その中にあって力強い走りを見せる列車の写真の数々にうなるばかりである。写真をこの場で紹介することはできないが、個人的に気に入ったのは、琵琶湖の朝日を受けて走る湖西線、呉線の穏やかな海岸列車、DD51の重連がこちらに迫ってくる迫力の客車列車、背景の色をあえて加工処理して国鉄カラーを強調した「まほろば」、そして青森の雪の中を走る「日本海」・・といったところ。他の作品も含めて、「鉄道が好き!」というのがよく伝わってくるものであった。

さて、せっかく神戸まで来たのだからルミナリエを見物してもいいのだが、結局そのまま大阪に向けて帰った。そして乗り換えとなる近鉄あべの橋駅へ。

Dscn2208こちらで行われているのがイルミネーションゲート2011、通称「アベナリエ」。

Dscn2215ルミナリエのように通りを飾ったり大きな広場があるわけではなく商業施設の入口で小ぢんまりと行われているイルミネーションであるが、こちらはこちらで気取らない感じがあって好ましいところである。

Dscn2191さてこのアベナリエを抜けたところ、キューズモールと阪堺電車を挟んで向かい合う昔ながらの商店街の中にある書店でユーゴー書店というのがあるのだが、実は前日の10日、飲みの帰りに立ち寄ろうと向かったところ、シャッターが閉まっていた。

Dscn2192「臨時で休業でもしているのかな?」と思ったのだが、よく見るとシャッターに貼り紙が。そこには「12月6日をもって店舗販売を取りやめ」とあった。「教科書等の販売は新事務所で行います」とはあったのだが・・・。

イルミネーション側の入口からは窓越しに中をうかがえる。電気はついているがあれだけあった書棚の本は一切なくなっておりもぬけの殻。先月ここで買い物をした時には何事もなかったし、12月6日の閉店というのも中途半端だし、何かよろしくないことでもあったのかしらんと勘ぐってしまう。夜逃げとか倒産とか。でもまあ、創業80年以上という中で、向かいのキューズモールを含めた再開発というのも何らかの関係があるのかも。

こちらは学生時代から結構お世話になっているところで、店員が無愛想というのか商売っ気があまりないようにも見えたが、書籍として揃うものは揃っているし、または学術関係、特に教育や芸術系などは結構充実していたのではないだろうか。文庫や新書とも岩波書店のものは結構な数があったし。その点では「売れるものだけ大量に売ろう」という昨今の大型書店とはどこか一線を画していたような気がする。

まあ、先に書いたような再開発を含めた時代の流れというのもあるだろうし、その中で書店の業界も苦しいと聞く(旭屋書店の梅田本店の閉店もその一つかな)。これまで乗り換えの時に気軽に訪れていたスポットの一つだけになくなったのは残念であるが、私も時間の許す限りはいろいろな書物を手にしてみたいものである。

うーん、こうなるなら事前に一言あってほしかったのだけど・・・・。

コメント

神戸マラソン観戦記

2011年11月20日 | まち歩き

先月30日に大盛況だった大阪マラソンに続き、本日20日は関西4大市民マラソンの第2戦となる神戸マラソンが行われた。

2万5000人がエントリーするというこのマラソンであるが、今回は私の知っている人が2人出場するということで、声援を兼ねて観戦に訪れることにした。

一人はこのブログでもリンクしているが、奈良を本拠地に活動している司法書士のKEN氏。彼のブログではこの夏以降はとにかくほぼ毎日かかさず長距離の走り込みを行っていることが書かれており、市民ランナーとしての練習量は大変なものがある。このレースでも自身の自己ベスト更新だけではなく、このところカンボジアへの国籍変更でロンドン五輪を目指すとかで話題になっている猫ひろしさんの記録を上回るのが目標という。ということは2時間30分の前半ということで。

もう一人は以前に旅のサークルでご一緒させていただいたOさん。このマラソンのためにはるばる横浜から遠征ということで、こちらも神戸でのさまざまな活動に触れて「地元の皆さんの熱意というのを感じています」というコメントをいただいている。こちらは目標4時間とか。

コースマップを見て、どのあたりにポイントを置くかを決める。やはり神戸らしい、このコースならではのところで見たいという気持ちはあるのだが・・・。

Dscn1759とりあえず早朝から神戸に向かうことにする。今回はちょうど有効期間にある「スルッとKANSAI 3daysチケット」と購入。これで自宅から大阪市内への往復も含め、神戸、さらにその先への移動もスムーズに行ける。3日分で5,000円するが、また別の日に出かければ十分元は取れる計算である。

Dscn1761そして向かったのは神戸・元町。やはり神戸なのだから旧居留地の洋館街とか中華街などをバックに走るところを見たいなという気がしたのだ。ただマップをよく見ると洋館街が面している2号線あたりはコースに入っておらず、ならばということで中華街の長安門前に移動する。まだ朝早いとあってそれほど観客の姿はいないが、おそらくこの辺りは大観衆に膨れ上がるのだろう。スタッフの人が応援用の紙製メガホン(こちらにコースや交通規制ポイントが載っている)を配っており、これを応援グッズということで。

ちょうどここはスタート地点から1キロにもならない区間である。ただ、ワンセグでサンテレビの中継(午前中に生中継、午後から録画を交えた特番をやるとか)をやっているのを見ると、スタート地点の神戸市役所前は見渡す限り人、人、人・・・で埋め尽くされているようである。これではKEN氏やOさんの姿を探すのは(KEN氏からはゼッケン番号を教えてもらっていたが)まず不可能である。

Dscn17689時のスタートから2分、先導車と白バイがやってきた。これに続くのは先頭集団。ケニア出身のワキウリ選手の姿も見える。ゲストランナーということで参加しているとのこと。

Dscn1773そして第一集団が続く。このあたりはかなりの人数がスピードを上げて通過するので、誰が誰やらわからない。これに合わせて長安門の前で龍の舞が披露され、「神戸らしさ」を演出する。

Dscn1777その後となるととにかく歩道を埋め尽くす人の波である。真剣に走ろうというランナーもいれば、コスチュームのほうで目立とう(それだけ楽しんで走ろう)というランナーもいて、市民マラソンらしい光景が見られる。それにしても、阪神タイガースのユニフォームやら虎の被り物や帽子などにをまとう人というのは結構目立つなあ。

さて、ある程度人の波が過ぎたところで、移動にかかる。目指すのは折り返し地点となる舞子公園。ちょうど明石海峡大橋の下で折り返すことになる。そこは一つ観戦ポイントになるかな。ということで、また元町駅に戻り、山陽電車への直通特急で西へ向かう。同じように西へ移動しようという人も結構乗っているようだ。ただ、神戸市街区間は直通特急といえども各駅に停まっていく。このために思うほど早く進めない。

Dscn1782地上に出る。ちょうど線路と須磨の海岸が近づくポイントであるが、もうすでにランナーの姿が結構見える。思わず扉のガラス越しに撮影する。KEN氏ももう先に行っていたりして。向こう側には須磨のギラギラした海岸を眺めることができるのだが、果たしてランナーたちの目にはその海岸は目に映っているのだろうか。

Dscn1786明石海峡大橋に臨む舞子公園に到着。とにかく西からの風が強い。これではランナーも苦労するのではないだろうか。

Dscn1787そしてそれよりもすでに折り返し点には何重もの人垣ができており、沿道を眺めるのも結構先のほうまで行かなければならない。すでにトップランナーは過ぎ去っているようだ。後のことも考えてここでの声援は断念、すぐに東方向に戻ることにする。

Dscn1793帰りは新長田までJRで移動。こちらからもランナーたちの姿を見ることができる。まだまだこの人垣は続いているようだ。ただ、これより後続まで来るとトップランナーたちのレースというよりは、何か祭りで山車を曳く行列でも続いているかのように見える。電車から「車窓」として見ているからだろうか。

Dscn1804新長田到着。ここでは駅前の鉄人28号モニュメントを見る。往路のコースではこの後ろを通ることもあり、広場では数々の屋台が出ており、かつ新長田商店街のパンフレットを配る光景も見られた。確かこのマラソンのテーマは「感謝と友情」。そこには「被災からの復興」ということも含まれており、16年前の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた新長田地区から、今年の東日本大震災で被災した東北を支援するということで東北の屋台も出ていたりした。

さて、ここから地下鉄の海岸線に乗り換えてやってきたのは和田岬駅。今でこそ地下鉄の駅として機能しているが、一昔前までは(現在もあるのだが)JRの和田岬線の終点駅である。コースで言えばちょうど32キロ手前の地点。ここまで来ればランナーの波も長くなっており、走ってくる人を見つけやすいということもある。少し手前にホームズスタジアムがあり、観客の多くはそちらに行くと考えれば、まあ穴場というところか。鉄道ファン的にも「和田岬駅」といえば独特の位置づけがあることだし・・・・。ということで、ここだけは間に合うように移動してきた。

11時10分前に到着。スタッフの人に尋ねるとトップはすでに通過したという。ただ、KEN氏が自分で想定するラップタイムからすれば来るまではもう少し時間がありそうだ。周りはそれほど観客もおらず、またランナーもまばらにしかやって来ないので探すのもそう難しくないだろう。穴場の見立てとしてはよかったかなと思う。

Dscn1818何人かのランナーが通過していき(写真は女子の部のトップランナー)、このあたりはゼッケン番号も若く、いかにもよく走りそうという人たちが通過していく。

Dscn1819そして遠くに見覚えのある体格、ゼッケン番号も聞いていた通りのものだ。メガホンを片手に名前を呼ぶと、向こうもこちらに気づいたようで手を振って応えてくれる。結構しんどそうだが残り10キロあまり、何とかベストタイムに向けて頑張ってほしいものである。

この後はランナーも少しずつやってくるが、朝から動き回ったこともあり早めの昼食とする。入ったのはその名も「駅前」という店。昼は定食、夜は海鮮を中心とした居酒屋で、ここでは日替わりの定食をいただいたが、夜の部も訪れてみたくなるような雰囲気のところであった。

Dscn1823さて、ここからは和田岬線に乗って兵庫駅まで移動して・・・と言えば簡単なのだが、和田岬線といえば知る人ぞ知る路線である。

Dscn1824時刻表はご覧のとおり。純粋な通勤路線なのである。まあ、こういうコアな場所というのも観戦場所に選んだ理由なのだけど。ちなみにこの日、次の列車は17時台!

Dscn1830まあ地下鉄で移動してもいいのだが、道の勝手も知っているところであり、少しでもランナーと同じ空間を楽しもうということで、このままランナーの波に併走する形でしばらくコース沿いに歩いてみる。和田岬から中央卸売市場を経て神戸駅に至るあたりは工場やら市場やらが多いこともあり、それほど観客もいない。それだけに選手に近いところで声援を送ることができる。コース沿いに歩きながら、ランナーたちに声をかける。さすがにOさんの姿は、4時間でゴールするならちょうどこの辺りを走ってそうなものだが人数が多く見つけることはかなわなかったが・・・(こちらが歩いている横を通過していった、ということにはなると思うが)。

Dscn1834Dscn1836沿道のサポートも充実しており、給水ポイントでは水にスポーツドリンクのコップを大量に並べ、補食ポイントではバナナに紀州みかん。それを受け取るランナーもいれば、さすがに30キロを過ぎて脚に来ているランナーも目につく。

Dscn1849中にはコースを外れてストレッチをしたり、スタッフの人にスプレーをかけてもらったりという光景も。競技マラソンではない市民マラソンとしての光景で、そういう人にはコース復帰後より大きな声援が送られる。

Dscn1845歩道橋の上から見ると、やはり圧巻ですな。

Dscn1864そのまま歩いてやってきたのは神戸駅前ハーバーランド地区。神戸新聞の建物の前ではサンバが披露されていたり、太鼓をたたいての声援も送られる。さすがにこの辺りは観客が多く、選手を奮い立たせてくれる。

Dscn1869ここで国道2号線に出るが、普段は大阪方面からの高架道路となっているところが本日はマラソンコースになっている。それを上るランナーたち。普段はクルマが走る高架を多くの人が上るのも異例の光景。ただその横で毛布を掛けられている人も。そこに救急車がかけつけて運ばれていった。さすがに終盤に来て限界が来てしまったか。マラソンの過酷な一面を垣間見たように思う。

Dscn1868結局観戦はここで終了。後でKEN氏から聞いたところでは、タイムは2時間44分10秒。自己ベストおよび目標タイムには及ばなかったものの、上位陣もそれほどタイムが伸びていたわけでなく、この日のコンディションも考えれば決して悪いタイムではないと思う。それだけ、練習量はきちんと出ていたのではないだろうか。一方、ネットで検索したところではOさんは4時間14分という記録。こちらも目標を4時間ということを考えればまずまずのところではないだろうか。ともにお疲れ様でした。

Dscn1851さて、こうやって市民マラソンを見るに、走る人、サポートする人、それぞれの思いというのがよく伝わったイベントだったと思う。沿道に出ているだけで何だかランナーたちから元気をもらったような気もしたし。復興と街の活性化のために、今後続けて実施されることを期待したいところである。

え?お前は(例えばバファローズのユニフォーム姿で)走らないのかって??・・・・いやいやいや、そいつはご免こうむりやしょう。走る前に、まず42キロを続けて歩けるくらいにウエイトを落とさないと・・・。

コメント (2)

交通科学博物館へ

2011年10月10日 | まち歩き

このところ、フェイスブックでの交流の中で、昔懐かしい鉄道の車両やら風景の写真を見ることがあり、いろいろな人からこういう情報が得られるのもこのツールの面白さだなと感じているところである。

それに加えて、もうすぐ10月14日、鉄道の日である。本来ならばこの連休はどこかに遠出しようかとも思ったのだが仕事やら何やらがありそれは断念。結局、8日の土曜日に関西で気軽に訪れることのできる鉄道スポットに行ってみた。

Dscn1148それは、弁天町の交通科学博物館。近い将来に梅小路の蒸気機関車館との統合も取りざたされているところであるが、大阪環状線の高架下のスペースも生かしたコンパクトな博物館もなかなか風情のあるものだ。

Dscn1204実物展示での目玉といえばこちら0系ということになる。運転台にも入ることができるのはいいが、先日名古屋のリニア・鉄道館での開放的なスペースで堂々とした姿を披露しているのに比べると、ちょっと窮屈な感じがする。どこか広いところに出してやりたいなと思う。となれば、梅小路ということになるのか。

Dscn1166さて土日祝日は展示車両の中を一部開放したガイドツアーが行われるとか。たまたま午後の部のその時間に行き当たったので参加してみる。家族連れの姿が目立つ。何度も訪れている博物館であるが、こういう形のイベント参加は初めて。

Dscn1159屋外のプラットホームをモチーフにした展示スペースでまずはD51、C62を見る。ここでCとDの違いの解説を受ける。結局は動輪の数なのだが、スピードと力強さ、それぞれの利点があるということだ。

Dscn1172続いては旧型客車、昭和37年に食堂車に改造されたというスシ28形。スシ・・・寿司という言葉が連想される。食堂車だけに。まだ冷房はなく、窓を開けての食事ということになるが、蒸気機関車の煤煙が入らないように網戸がしつらえられているのが特徴。こういう、食堂車が当たり前についていた時代の鉄道旅行、なかなか苦労もあっただろうが忘れられないものだっただろう。

Dscn1176そして、こちらに連結されているのがマロネフ59形。マロネフといっても別にロシア人の名前ではなく、車両の能力、用途をカナ記号で表すとこうなるのだが、寝台車である。もともと貴賓寝台車として製造され、戦後は一時米軍に接収されたのだが、返還後は現在の天皇陛下が皇太子時代に乗車されたとある。

上記の写真はかつての2等寝台であるが、この奥が貴賓スペースとなっている(人が多かったので写真は撮れなかった)。それにしては質素な造りだなと思うが、公式のお出かけではなくプライベート、お忍びで出かける際に使用されたとか。プライベートといっても専用の寝台車がつくところが皇室である。今こうやって子どもが同じベッドやソファーに座っているのが妙な感じがする。

Dscn1196今度は少し時代が下り、80系電車。いわゆる「湘南電車」の元祖である。この中も木製のボックス席がずらりと並ぶ。

Dscn1187さすがに現在の一般車両に木製のシートを導入するわけにはいかないだろうが、インテリアに木の温もりを感じさせるものがもっとあってもいいだろう。

Dscn1160そして最後はキハ81形。確かブルドッグとか言わなかったか。この辺りまで来ると現在の特急につながるものがある。ただ、いわゆるクリーム色と赤色の国鉄カラーも今や絶滅寸前で、この色も早晩「昔のもの」になってしまう。

Dscn117830分ほどのガイドツアーであるが、普段は入れない車両の中を見学できたのはよかった。普段からいつでも中を見学できるようにしてもらえればという気持ちもあるが、史料としての保全を考えれば致し方ないところもあるだろう。

Dscn1211現在の企画展示は、今年青森から鹿児島までつながった新幹線がテーマ。それぞれの路線ごとの紹介などが行われているが、先ほど昭和の重厚な車両たちを見てきた目からすれば、何だか軽いものに感じられた。もう少し実物資料があればなというところであるが、これはこれでいいのだろう。

Dscn1157なかなかに密度の濃い時間を過ごすことができた午後の一時であった。

コメント

「毎日オリオンズ」の野球遺産?

2011年09月13日 | まち歩き

先日のニュースで「ロッテ、通算4000勝」というのが出ていた。日本のプロ野球にあって8球団目ということで、前身球団を含めた4000勝以上の球団を見てみると、巨人、阪神、中日、ソフトバンク(南海・ダイエー含む)、西武(西鉄、太平洋、クラウン含む)、日本ハム(東映、日拓含む)、オリックス(阪急含む)に続いてということになる。まあ、この中で1950年の「セパ分立」の時期に新生球団として登場したのは西武とロッテということで、まずまず健闘しているのではないかと思う。

現在の千葉ロッテマリーンズ。この球団の歴史をさかのぼると、ロッテオリオンズ⇒東京オリオンズ⇒大毎オリオンズときて、初代の「毎日オリオンズ」ということになる。この「毎日」のプロ野球参入が、一連の「セパ分立」のきっかけというか火種になったと言える。

オリオンズは阪神からの大量の選手移籍などで強力な戦力を持ち、パ・リーグの初代優勝チーム、そして日本一となったにもかかわらず人気はさほどでもなかったとか、リーグの盟主になれそうでなれなかったとか、どうしてもマイナーなイメージがあるようだ。

2011090813550000_3こちら、大阪・西梅田の毎日新聞ビル。この1階にあるのが「茶房 オリオンズ」。前から気にはなっていたのだが、先日仕事の関係で近くを訪れることがあり、時間が空いていたこともあってようやく入ることができた。

店のロゴを見ると、あの「オリオンズ」の字体、そして球団旗。さりげなく「かつてウチもプロ野球チームを持っていたんですよ」とアピールしているかのようである。でもまあ、例えば接客をしてくれる従業員に店名の由来を聞いてもわからないかも。

注文票を見ると「社用・私用」を選ぶところがある。毎日新聞の1階ということもあり、ひょっとしたら新聞関係者の打ち合わせや商用で使うことがあるのだろう。経費で落とせるとか。

2011090813550001西梅田からさらに西よりということだし、日曜は休みということで休日の一時をここで過ごす、というのは難しいが、喫茶店としての雰囲気はまずまずで、また時間つぶしを兼ねて、往年の球団の「遺産」に触れてみるのも悪くないだろう。

2011090813580000今回この「オリオンズ」について書いてみたのは、毎日球団について書かれた一冊の本を読んでのことである。そのことについては、また稿を改めて書くことに・・・・。

コメント

あまり不平を並べても仕方なく・・・

2011年08月20日 | まち歩き

それにしても、「オリックスがここまで日本ハムに勝てないのは何でか?」とでも言いたくなる。今日の試合でもスタメンを見たら「何やこれ?」と言う感じ。このチームも結構名前のある選手がいたのではと思うが、どうかな。まあこの打線なら、斎藤佑樹でも軽く抑えるところだろう。案の定、なすすべなく敗退ということで。

岡田監督が前日の試合で審判の抗議に「八百長」という表現をしていたのが掲載されていたが、このチームの日本ハムとの戦いぶりを見るに、あんたらこそ「無気力相撲」ならぬ「無気力野球」でもやってるのかと疑いたくもなる。まさかそんなことはないと思うが・・・。

さて、前の記事で夏休み返上のことを書いた。実は20日の夜から出発して中国地方のローカル線めぐり、そして広島・マツダスタジアムでの「80年代の青いビジターユニフォーム」の復刻試合というのを予定していた。まあそれが流れたについては仕事の段取りや予定のあることなので、あまり不平を並べても仕方ない。一晩経てばそちらの気持ちの整理はついたこと。

ただ、それよりもっと不満なこと。実はこの旅行に合わせて新たなバッグを通販で注文したのだが、某業者が誤配をした。名前はちゃんと私のものだが、どこでどう行き違ったか全く別の人の受け取りサインをもらっているようで(業者は私の名前を確かめた、と言っているようだが、どこまで本当のことやら)。「引き取ってお届けしなおします」と言われてかれこれ1週間近くなるが、まったく音沙汰がない。そんな、他人の手に渡った品物を受け取る気にはなれず、引き取って販売元に返品し、その分を賠償してほしい旨を伝えている。まあ、このバッグも来なかったということもあり、今回の旅行はご破算になって精神的にはよかったのではと思うことにする・・・。

とはいうものの、手元の「青春18」は何とか消化しなければならない。明日21日は通常の日曜日休みということもあり、ともかく出かけることにする。あまり不平ばかり並べても仕方がない。

・・・ということで、先月と同じように「行き先」をそれぞれサイコロの目に当てて、明日の朝、それを振って出たところに行くことにする。天気予報では雨のところばかりであるが、それは仕方がない。今回の「出走表」は・・・。

1・・・敦賀、今庄。港町敦賀の散策と、北陸トンネルの向こうの宿場町・今庄を歩く。

2・・・鳥取、餘部鉄橋。新しく架け替えられた餘部鉄橋を観察する。

3・・・白浜。雨天ならば海の景色も今一つ。ならば温泉にゆっくりつかるか。

4・・・宇野・高松。フェリーに乗るのもまた面白そう。直島に行ってもいいかな。

5・・・赤穂・日生。赤穂線の途中下車。帰りは久しぶりに岡山の居酒屋を訪ねるか。

6・・・美濃から下呂。そういえば下呂温泉には行ったことがなく。山間の景色も楽しむか。

天気が雨というのが気になり、当初のもくろみどおりには楽しめないかもしれないが、果たしてどうなるか。いずれにしても明日は早い出発なので今夜は早めに寝ることに・・・・。

コメント (2)

旧生駒トンネル跡を見学

2011年08月08日 | まち歩き

Dscn9958大阪難波を出た奈良行き近鉄電車はほぼ一直線に生駒山に向かい、瓢箪山からカーブを左にとって高度を上げる。そして石切からは生駒トンネルをくぐり抜けて生駒へと至る・・・。

現在の生駒トンネルは1969年に開通したものであるが、実はこれより前に生駒山をくぐりぬけていたトンネルが別にある。それが旧生駒トンネル。1914年、当時の金額にして200万円という巨額を投じて開通したトンネルであるが、車両の大型化、大量輸送に対応するためにトンネルを新たに掘削し、鉄道輸送としての役割は終えた。ただその坑道と手前にあった駅は現在も残されており、関西から手軽に訪れることができる「廃線跡」ということで知られているようである。もっとも、近鉄ではトンネルを業務上でも使用することがあるとして、私有地としてきちんと管理しており、一般人の立ち入りを禁止している。

それが、昨年の近鉄創業100周年を記念して、近代化遺産の見学と銘打って事前申し込みにより公開したのだという。そのツアーが今年も行われるというので募集しており、暑い中であるがそれに参加してきた。

Dscn99068月6、7、20、21日の各日、関西地区発が午前のAコース、東海地区発が午後のBコースということで案内が出ていた。ということで、7日のAコースを目当てに阿部野橋の営業所に申し込みに行ったのだが、結構前に訪れたにも関わらず「Aコースは各日満員御礼」とあった。ただ、「Aコースが満員・・・という言い方は、Bコースなら空いているのかな。でも、名古屋とか伊勢の発の分ではないのかな」という疑問。それで係員に尋ねてみると、「名古屋、伊勢方面からの申し込みがほとんどないので、大阪発でも参加できるように募集を広げました」とのこと。見学が午後からになるというだけで私としては問題はないので、そのまま申し込み。その後数日でそのBコースも満員となったようだ。さすがに名古屋から近鉄で石切・・・というのはちょっとしんどいかな(かつて近鉄提供の沿線歴史スポット紹介番組の『真珠の小箱』で、その日紹介した奈良のスポットに行くのに、「大阪・京都・な~ご~や~から近鉄でお越しください」と、名古屋から無理くりに奈良まで近鉄だけで大回りで誘導していたシーンを思い出す)

Dscn9907さて、7日の昼すぎ、近鉄の石切駅に現れる。小ぶりな改札口の向こうの通路にはヘルメットをかぶった人たちであふれていた。受付を済ませるとヘルメットにレインコートを渡される。トンネルの天井から水がしたたり落ちるところがあるということだ。年配の方も結構いるが、小さな子ども連れの家族やらが多い。もちろん見るからに「その筋」の人たちもいるし、「歴女」と分類されそうな人の姿も見える。

Dscn9910時間となり、案内役の駅員の先導でここから300メートルほど先の旧トンネルの入り口に向かう。実は石切駅で下車するのは初めてなのだが、駅前から見渡せる大阪平野の景観はすばらしい。夜景も美しいものがあるだろう。

Dscn9911駅前に月決めの自転車置場があるが、停まっているのはほぼ100%が原付。さすがに生駒山の斜面を切り開いた住宅地では自転車の出番はほとんどないか。やはり山の上に住むというのはそれなりの苦労もあるようである。そんな中をヘルメットをつけた50人ほどの団体がぞろぞろと歩く。

Dscn9915普段は固く閉ざされている扉をくぐって敷地内へ。両側に駅のホーム跡が見える。孔舎衛坂(くさえざか)駅ということだ。参加者の一人が、この駅にさしかかる電車を撮った当時の写真を持参しており、それをのぞかせてもらう。今はなき駅舎、駅名標もちゃんと写っており、当時の様子がうかがえる。

Dscn9924そしてトンネルの入口へ。まずは案内役の駅員からトンネルの歴史についての紹介を受ける。トンネルの中からひんやりした空気が流れ出てきており、心地よい。今回見学できるのはトンネルの中に入って330メートル地点のところまでである。

Dscn9920いよいよトンネルの中に入る。参加者の中には懐中電灯持参の人も多く、中のあちらこちらを照らしながら進む。業務用に使用しているということでトンネルの中も通電しており、照明も通っている。煙を逃すためのダクトも走っている。この先、現在の奈良線の生駒トンネル、けいはんな線の生駒トンネルとも通路でつながっているのである。

レンガにも水がしみ出しており、ところによってはコケが生息したり、蛍光灯の光の下では若干の植物も生息している。また、天井から滴る水に石灰などの成分が含まれているのか、天井からつららのように垂れ下がっていたり、側面には水色や茶色の層ができている。「鍾乳洞みたいやな」という声も。トンネル鍾乳洞というのもなかなかオツなものである。それだけ地中深く穿たれたということだろうか。

Dscn9935時折退避場の跡も現れる中、ゆっくり歩いて330メートル地点に到着。ここから横に連絡通路が掘られており、現在の奈良線の生駒トンネルに出ることができる。非常時の出入口ともなるようで、ここには専用電話も設けられている。ここで改めて案内役の駅員から解説があり、見学客がいろいろと質問をぶつけるというもの。

Dscn9934ただ、あまり自社にとって都合がよくない、あるいはマイナスの出来事というのはちょっと言葉を濁す。例えば建設中に発生した岩盤事故。この事故では150名あまりの作業員が犠牲になったという。また、この工事には朝鮮人も多数酷使されており、過酷な労働条件と悲惨な待遇でケツを割る者も相次いだという。そういう者には制裁も加えられたことだろう。また開通後もトンネル内での火災や、ブレーキの破損による列車暴走の事故もあった。そんなこともあって、この旧生駒トンネルというのは知る人ぞ知る「心霊スポット」という。むしろ、ネットで検索すれば「心霊スポット」としてのヒットのほうが多いのではないだろうか。

それらについて「そんなこともありましたよね」と誰かが口にして、「そうやそうや」とあいづちを打つ人がいると、案内役の駅員は「すみません、私も不勉強なもので、そういうこともあったとは聞いてますが詳しくないもので。よくご存知ですね」と歯切れ悪く答えるにとどまる。まあ、知らないということはないだろうが、この見学会を主催した近鉄にとってはあまりよろしくない歴史ということで、話したがらないのもわかる。歴史の見学とはいえ、多くの子どもたちも集まっており、あくまで楽しいイベントということにしたいという大人の事情もわかる。まあ、ここで近鉄の社員にどうというものでもなくこれはそういうイベントと割り切って、どうしても深層を知りたければ例えば郷土史家とか、趣味やライフワークで陰の歴史をあれこれ研究している方に確かめることかな。

Dscn9936ここで結構長い時間滞在して、石切側の出口へ。トンネルを出てもしばらく散策時間があるということで、代わる代わる駅員にトンネル前でシャッターを押してもらう光景も見られる(この写真に写っている人は決して心霊スポットに出てくるものではございませんのでご安心を)。

Dscn9947さてホームの横には鳥居が建てられている。「白龍大神」と刻まれた板のある鳥居。その脇には地蔵や、不動明王が掘られた石がまつられている。

Dscn9944東大阪線生駒トンネルの貫通石なるものもある。おそらく古くからこの地に祭られていたお社で、まさかトンネルが開通するからといって動かすわけにもいかず、逆にトンネルの守護神としてのご利益を期待したのかな。

Dscn9945石段を上がると小さな祠がある。社務所というほどのものでもないが建物があり、その中には祭祀で使うであろう太鼓と、他にもなにかある様子であったが、おそらく地元の人でも限られた日しか立ち入ることができないであろう神社。これもひっくるめての近代化遺産ということになるのかな。

Dscn9942トンネルの中とは比べものにならないくらいの暑さ。とうの昔にヘルメットは脱いで日よけの帽子姿に。それでも、夏の面白い一時になった。このうえでまだ歴史を知ろうと思えば参考となる文献はいくらでもあるが、なかなかためになる散策の一時であった。

Dscn9952帰りは山側を通る。ちょうどここからだと現在の生駒トンネルに出入りする電車の姿を見ることができる。トンネルの入口上には、「日日新」という、現在の近鉄を日本一の私鉄に育て上げた功労者といっていい佐伯勇の書による銘板がある。

Dscn9955「苟日新、日日新、又日新」の三点セット?の中の一つである。中国の四書の一つ「大学」に収められているのだが、「とにかく常に行いが新しくなるように、今よりもよくなるように、そういう修養をしなければならない」というくらいの意味である。いかにも経営者が好みそうな言葉である。それにしても、トンネルの入口ってよく偉人の銘板が飾られているのだが、あれっていったいどういうわけなんだろうか?それだけ、天下の大事業という意味合いがあったのかしら。

Dscn9905石切駅まで戻り、ここでヘルメットを返却して解散。参加者は大阪方面、奈良方面へとそれぞれの電車に乗って石切を後にする。私はこの後大阪市内に戻り、暑い中歩いたことで渇いた身体をアサヒビールで潤わせるのであった・・・・。

Dscn9961長い歴史を持つ近鉄。その歴史を紐解けばまだまだいろいろなものが出てきそうだ。奈良大和路や伊勢志摩といった沿線の観光地で古代ロマンをアピールするのもいいが、こういう近代化遺産というのも最近関心が高まっているジャンルである。これからこういう楽しみをもっと設けてほしい、沿線在住者としても期待したいところである・・・・。

コメント

住吉大社・鯨まつり

2011年07月24日 | まち歩き

Dscn9647古くから海の守り神として信仰を集める大阪・住吉大社。今年は住吉大社が鎮座して1800年という特別な年ということで、夏の祭りも盛大に執り行われるという。

Dscn9606そんな中、「24日、57年ぶりに鯨まつりが復活」というニュースを見る。これは堺の伝統行事で、古くは鎌倉時代、堺の浜に現れた鯨を漁師たちが追いかけたがとり逃がし、その漁師たちを慰めるための祭りということで行われたそうだが、前回は1954年(昭和29年)に行われたのが最後という。今年は住吉大社鎮座1800年ということもあるし、東日本大震災での津波で多くの被害を受けた地域の復興を祈念してということもあって、地元の人が復活させたのだとか。

関西と鯨の関わりというのも古くからのものがあるし、現在でも鯨の食文化が残っている。何でもこの祭りでは鯨の山車が練り歩くとかで、24日は堺から運んできた山車を住吉大社に奉納するという。どのようなものか見に行くことにした。

Dscn9595住吉大社へは阪堺電車で行くのがお似合いである。天王寺駅前から乗車したが2つ目の松虫で途中下車。次の電車が東京都電塗装の車両ということで、これを見てみたかった。東京都交通局と南海電鉄がコラボ企画を行っており、そのグループ会社である阪堺電車、それと東京都電がお互いの塗装を「相互乗り入れ」するということをやっている。黄色の電車も青空に映えていいものである。さすがに昭和初期の車両は冷房装置がないためか出番はなかったが、この車両も昭和32年製造。沿線の風情と合わせてノスタルジックな感じである。

Dscn9600住吉公園に到着。住吉大社まではごく近い。

Dscn9603そしてやってきた大社には、法被姿の男性たちが黒い物体を囲んでいる。これが鯨の山車で、頭のほうと尾のほうの2両連結のような形。頭のほうには人が入るという。中でポンプを操作して鯨の潮吹きを見せるのだとか。

Dscn9613笛、太鼓の音がなる中、いよいよ山車が担ぎ上げられる。鯨が住吉大社を参拝するというところで、まず鳥居をくぐる。長さは12メートルほどだが、頭と尾の2両連結の動きは鯨が泳いでいるかのような動きを見せる。

Dscn9617時には口を大きく開けてみたり、水を出して潮を吹いてみたり。そのたびに多くの見物客のカメラが向けられ、歓声が上がる。

Dscn9622そして見せ場となるのが、社殿へと続く反橋。あの太鼓橋を渡るわけだが、まずは階段の上りで苦労する。角度が急で前と後でなかなか呼吸が合わず、周りからは担ぎ方とか角度とか、あれこれ指示が飛ぶ。なかなか難しいものだ。

Dscn9630それでも少しずつ階段を上っていき、ようやく鯨が反橋を渡るの図。鯨が生き生きとした感じに見える。

Dscn9635そして橋を渡っていよいよ社殿へと入るわけだが、ここでも一苦労。山車の幅が結構ギリギリで設計されているためか、慎重なかじ取りが求められる。途中「バキッ」という嫌な音もする。胸ひれのところが柱にでも当たったようだが、何とか少しずつ前に進む。

Dscn9638ようやく社殿へ鯨の頭が覗き込む。こうしてみると結構ユーモラスな感じで、「神社参りもなかなかしんどいもんやなあ」と鯨がボヤいているようにも見える。

Dscn9642第三本宮。ここで一旦小休止となり、見物客からは大きな拍手が送られる。この猛暑の中、担ぎ手も50人くらいいただろうが結構体力を使ったことであろう。

Dscn9649再び担ぎ上げられて、奥の第一本宮へ向かう。ここからは平坦な道のりということで担ぎ手にも再び勢いが出て、鯨も元気を取り戻したようだ。

Dscn9653鳥居をくぐって20分ほどで第一本宮に到着。ここで台座に据えられて無事に到着となった。

Dscn9664ここで鯨の奉納式ということで祝詞が上げられ、祭りの代表者らによる玉串奉納、そして見物客を含めて皆で二礼二拍手一拝。この鯨の山車、8月1日の住吉祭では今度はここから担ぎ出され、堺の出島まで練り歩くそうだ。それもまた面白い光景になりそうだ。

Dscn9661法被姿の男性たちの横には浴衣姿の女性たちも。私は住吉大社を後にしていたが、実はこの後で「くじら音頭」というものを披露したとか。

Dscn9674さてこの後、再び阪堺電車で天王寺に戻り、地下街にて昼食を兼ねての暑気払い。冷たいビールのあてには鯨の刺身・・・。たまたまメニューにあったので迷わず注文した(関西ならば「おばけ」という皮鯨も酒のあてにはもってこい)。まあこの鯨自体は調査捕鯨の払い下げ品ということになり、昨今の捕鯨事情やシー・シェパード等の反捕鯨団体のやり口に思いを致す。その一方で、古くから伝わる「鯨まつり」は捕鯨文化だけではなく、日本の食文化、生物への信仰文化という意味も含めて今後受け継いでいく必要もあるだろう。

いいじゃないですか、こういう素朴な祭り・・・・。

コメント (2)

明石にて憩う

2011年06月08日 | まち歩き

Dscn8659姫路の手柄山にモノレールの展示を見た後で、今度は山陽電車の手柄駅まで歩いて戻る。手柄山まで歩いて15分というのは結構穴場的。おまけにこの辺りは線路が直線になっており、高速で通過する梅田~姫路の直通特急のきれいな編成を見ることができる。その筋のプロに言わせれば被写体にもならない平凡なところなのだろうが、こういう直線を走る特急を見るとつい素人のカメラでも思わず構えてみたくなる。

Dscn8667 飾磨に到着。ここで乗り換えて、山陽電車の中でも未乗車区間であった網干まで向かう。単線区間ながら高架橋もあちこちにあり、ローカル電車なのだが住宅も結構多く、わびしさを感じさせないままに網干に到着。網干の向こうには古くからの瀬戸内航路の港町であった室津があるが、バスで行こうと思えばなかなか難しい。今回も結局パスすることに。

乗りつぶしを終えて明石に出る。ここでは私にとっての関所というわけではないが、こちら方面を訪れていて、夕方の時間に身体が空いていれば途中下車することになる。そして向かうのは駅前にある居酒屋「道場」。こちらも何度か訪れているところ。

Dscn8673 やはり明石に来たからというのでたこぶつを注文。歯ごたえがある中で身のほんのりした甘味もあって、なかなかよろしいものである。他には一品料理、おでんなど、いわゆる親父の行くような居酒屋料理が揃っていて、それを日の高いうちから味わえる。地元の人が多く結構町の風情とともに楽しめるスポットだと思う。

Dscn8674 目についたのはここでも一般的に出している日本酒「菊正宗」の進化版。生翫づくりというもののPR冊子が置いてあり、名前を「きもとづくり」という。こちらでも心地よくやらせていただいた。

Dscn8694 さて店を出るとまだまだ日没までには時間がある。ということで舞子公園に移動して、明石海峡大橋へ。海峡プロムナードということで、橋の上(といっても道路よりは低い)に上がってその高さを体験しようというものがある。

Dscn8690 そしてやってきたプロムナード。高所恐怖症の私にとっては橋脚の上にあるラウンジといっても結構ビビる。そんな私をあざ笑うかのようにわざと床をガラス張りにしているところもあり、それを見ると海面やら釣り人たちが豆粒以下に見える。それだけでビビりまくり。体験ツアーといえばその橋脚の最上部、普段ならば点検保守の作業員しか入れないエリアに入るというものがあったが、とんでもない。

Dscn8689 やはり下から見上げるほうがいいかなと、エレベーターで下界へ。波打ち際、結構釣り糸も垂れている。こういうのんびりした光景もいいものだ。明石海峡という、潮流の条件の揃ったエリアで上がる魚。それはさぞかし美味いことだろう。

Dscn8697 そういえばということで、この時読みかけでバッグに忍ばせていた、司馬遼太郎の『街道を行く』の文庫版を取り出す。その中で「明石海峡と淡路みち」という一章がある。この当時はもちろん明石海峡大橋などなく、「播淡汽船」の在りし姿を彷彿とする船渡りとなる。そういえば淡路島をゆっくりと回ったことがないのだが、高速道路の割引も今月で終了する。たこフェリーはもうないし、高い通行料の橋だけが残った形で、何だかまた遠くなったような気がする。

しばし潮風に吹かれ、再び山陽電車に乗り帰阪ということに・・・・。

Dscn8686

コメント