吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2006年11月12日〈津屋崎学〉013:「舟つなぎ石」

2006-11-12 01:13:34 | 郷土史
●写真①:県道528号線の西側に立っている「舟つなぎ石」
      =福津市勝浦で、2006年11月5日午後1時10分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第13回:2006.11.12
  「舟つなぎ石」――昔、海だった津屋崎や、歌枕の「桂潟」が陸地となった証(あかし)


清 「福津市勝浦をドライブしとったら、西東(にしひがし)公民館近くの県道528号線の西側に〈舟つなぎ石〉=写真①=があったよ。叔父さん、知っとうね」
琢二 「ああ、昔は港で船をつなぐ石があった所だな。〈舟つなぎ石〉のそばに説明盤=写真②=があったろうもん」
清 「あった、あった。写真に撮ってきたよ。説明文は、次のように書いてあった。

 〈この地区の平野部は、明治の末ごろまで約23haに及ぶ塩田となっていました。江戸時代の寛文6年(1666年)に塩田が造成されるまでは、桂潟からあらじ潟まで続く深い入り海で、勝浦浜から梅津の森山にのびる砂丘「海の中道」によって外海と仕切られていました。
 この舟つなぎ石は、そのころ入り海を出入りしていた舟を結びつけていた石です。今では、往時の港の所在を示す唯一のあかしとなっています。

(夫木集二十四)
秋の夜の 潮干の月の かつら潟
山までつづく 海の中道
  後九条内大臣〉」


写真②:〈舟つなぎ石〉の説明盤
     =福津市勝浦で、06年11月5日午後1時10分撮影

福津市・「舟つなぎ石」位置図
    福津市勝浦の〈舟つなぎ石〉位置図
       (ピンが立っている所)

琢二 「この説明盤にある当時の地図のように、塩田が造成される前の江戸時代までは、〈舟つなぎ石〉のある辺りが入り海の奥部で、勝浦地区の〈桂潟〉から南側の在自地区の〈あらじ潟〉まで入り海だった。〈あらじ潟〉は、今の福津市津屋崎庁舎の北西側近くまで続いていて、玄界灘に通じていた。ちょうど県道528号線(勝浦宗像線)から今の津屋崎干潟東側の市下水道処理施設〈津屋崎浄化センター〉前に通じる同502号線(玄海田島福間線)の西側が砂丘〈海の中道〉だったと考えたらいい」
清 「ということは、今の津屋崎の街のほとんどが、昔は海やったとばい=写真③=」
琢二 「旧津屋崎町が同町史編集委員会の編集で発行した同町史民俗調査報告書『津屋崎の民俗 第二集』の中に、勝浦の〈西東〉地区の〈農家の副業〉と題した120㌻に、〈塩作り〉として、〈町の入口に船つなぎ石が三個あったこと(現在二個)で分かるように、この西東まで海水が来ていた。年毛の浜に大釜を持っていき昼も夜も塩をたいた〉と書かれとる」


写真③:〈舟つなぎ石〉(右)付近から津屋崎方面を望む。水田も昔は入り海だった
     =福津市勝浦の県道528号線で、06年11月5日午後1時12分撮影

清 「それから、〈舟つなぎ石〉の説明盤にある後九条内大臣の和歌の意味は?」
琢二 「この後九条内大臣の和歌を石に刻んだ歌碑=写真④=が、近くの市〈あんずの里運動公園〉展望台にあるぞ。歌碑の裏には、福岡藩士の儒学者・貝原益軒が江戸時代に編纂した『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』から引用した〈海の中道〉についての解説文も刻んである。

 それによると、〈勝浦村と梅津の間の海中をいうなり。其長き事十町許(ばかり)あり。むかしは勝浦と津屋崎の間は、皆入海なりし故、此所は両方に海ありて、海中にある道なれば、海の中道とはいへるなるべし〉と書かれている。この後、宗祇法師が、海の中道、桂潟、宗像にあり、(中略)山までつづくとよめるは、勝浦岳につづけるにあらず、梅津の薬師山につづけり――と歌中の〈海の中道〉は糟屋郡那多浜(現福岡市東区奈多)の海の中道ではなく、山までつづくという歌には合わず、宗像郡勝浦の海の中道だとする宗祇の説を是とすべきだとしている。

 つまり、秋の月夜に潮が干き、かつら潟から遠くの山の辺りまで海の中道が長くつづいていることだなァ、と詠嘆した叙景歌と解釈できるな」
清 「それで、後九条内大臣(ごくじょうないだいじん)って、どんな人やろか」
琢二 「いい質問だ。実は、この後九条内大臣が詠んだという点には、議論があった。貝原益軒も、『筑前国続風土記』の中で、〈此歌、名寄には後京極の歌とす。良経の家集に無之〉と書いているように、この歌が平安時代末期の公卿、九条良経(よしつね)、または後京極良経とも呼ばれた著名な歌人の歌集に収録されていない。また、九条良経は内大臣職を歴任しているが、〝後九条内大臣〟と〝後〟を頭に付けた呼び名はないから、詠み人知らずの歌となる、などの異論が出ていたのだ」
清 「ヘー、ややこしい問題やね」
琢二 「結論を先に言うと、後九条内大臣と呼ばれた人は藤原基家(ふじわらのもといえ)だ。内大臣とは、律令制度の規定がなく新設された官職・〈令外官(りょうげのかん)〉の大臣の一つで、左大臣、右大臣に次ぐ官職だな。藤原基家は、内大臣から左大臣を歴任後、土御門天皇の摂政、さらに太政大臣となった後京極良経の三男だ。〈海の中道〉を詠った和歌は、鎌倉時代後期の延慶3年(1310年)ごろ成立とされる藤原長清撰の私撰集『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』に収められている。
 〈春の夜の 塩干(しほひ)の月の かつらがた 山までつづく うみの中道〉として載っており、歌の題は〈かつらがた〉となっているが、その下に〈未定〉と注が入っていて、この〈かつらがた〉がどこなのかは分からないということになっている」
清 「エッ、ちょっと待って。歌の初句・〈秋の夜の〉が、〈春の夜の〉と違っているよね」
琢二 「その通りだ。鋭いな、清。この歌が、筑前の〈桂潟〉を詠んだとされるのは、鎌倉末・南北朝期成立の澄月撰『歌枕名寄(なよせ)』からだったんだ。ただし、〈桂潟 後京極摂政〉と作者を誤ったうえ、〈秋の夜の 塩干の月の かつらがた 山までつづく うみの中道〉として収録してしまった。新古今時代の代表歌人の一人である後京極摂政良経と、その三男で後九条内大臣とも呼ばれた藤原基家とを混同したのだ。しかも、この和歌に詠みこむ名所・旧跡を集めた『歌枕名寄』で有名になったらしいこの歌は、〈秋の夜の〉で詠い出す〝秋の歌〟となってしまったようだ。これ以後、〈桂潟〉は筑前の歌枕、として定着していく」


写真④:後九条内大臣の「かつら潟」を詠んだ歌碑。〈秋の夜の〉と刻まれている和歌の初句は、〈春の夜の〉だった原文を誤記されたまま一般に定着、後世に伝わった。
     =福津市勝浦の市〈あんずの里運動公園〉展望台で、04年4月11日午後4時33分撮影

〈あんずの里運動公園〉展望台位置図
福津市勝浦の市〈あんずの里運動公園〉展望台位置図
   (ピンが立っている所に歌碑がある)

清 「でも、この初句の誤解で、歌ごころが全く違ってくるよね。〈春の夜の 塩干の月の かつらがた〉では、春のおぼろの月夜に見渡す桂潟でゆったりとした春の風情なのに、〈秋の夜の 塩干の月の かつらがた〉だと、中秋の名月の寂寥感も漂う清澄な雰囲気に変わってしまう」
琢二 「そうだな。俳句では〈月〉と言えば秋の季語だから、〈秋の夜の 塩干の月の〉と詠むと〝季重なり〟のようでくどくなる。やはり、歌ごころは原文の通り〈春の夜の 塩干の月の〉にあったんだろうな。ちなみに、〈あんずの里運動公園〉にある歌碑の解説盤に書かれている宗祇法師というのは、室町時代を代表する連歌師宗祇のことで、大宰府詣での旅をして、中世紀行文学の最高傑作とされる『筑紫道記』を著わしている。貝原益軒より約200年前に、勝浦の〈桂潟〉を筑前の歌枕と記述してくれていたことになるな」
清 「フーン、きょうは、いろいろ勉強になったばい」
コメント
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