吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2017年12月29日/〈古賀・町歩き〉005・「船原古墳」

2017-12-29 09:28:55 | 古賀・町歩き

写真①:「遺物埋納坑」隣接地に古墳広場駐車場の建設工事が進む「船原古墳」

     =古賀市谷山柳原で、2017年12月28日午前10時35分撮影

 〈古賀・町歩きスポット〉 4 

 :国指定史跡「船原古墳」

  古賀市谷山柳原と小山田舟原の境にある「船原(ふなはら)古墳」は現存長37.4㍍、復元全長45㍍以上の前方後円墳で、6世紀末から7世紀初め頃の築造。12月28日訪れたところ、隣接地に古墳広場駐車場の建設工事が平成30年3月完成予定で進んでいました=写真①=。

  平成25年3月、古賀市の谷山地区水田の圃場整備に伴う谷山北地区遺跡群の発掘調査で、「船原古墳」西側に古墳時代後期の馬具一式などが埋蔵された土坑(長さ5.3㍍、幅0.8㍍、深さ0.8㍍)が見つかり、鉄製壺鐙(つぼあぶみ)、鉄製輪鐙(わあぶみ)、金銅(こんどう)装飾の鞍、轡(くつわ)の一部の金銅製引手(ひって)、国内初の発見であるガラス製の飾りが付いた金銅製雲珠(うず)、金銅製心葉(ハート)形杏葉(ぎょうよう)、金銅製鈴(れい)など500点以上が出土。

 この「船原古墳遺物埋納坑」は、金色に輝く金銅(金メッキした青銅)を用いた豪華な馬具類や、同時に出土した弓、矢、甲冑といった武器・武具、国内3例目となる馬冑(馬用かぶと)、蛇行鉄器、金銅製歩揺付飾(ほようつきかざり)金具など稀少品が含まれ、古墳の外側から遺物を納めた土坑の発見は例がなく、当時の死者の埋葬儀礼の研究にも重要な資料とされ、特に重要な史跡として「国史跡=写真②=」に平成28年指定されました。

 

写真②:埋め戻された「船原古墳遺物埋納坑」そばに建てられた国史跡の石柱

     =28日午前10時30分撮影

  「船原古墳」は、平成26年度の発掘調査で後円部の径28㍍で、後円部の高さに比べて前方部の高さが低い珍しいタイプの前方後円墳と判名。古賀市地域で唯一つの前方後円墳で、糟谷・宗像地域では最後に築かれた前方後円墳です。中央政権と政治的なつながりを持つ有力者が葬られていたと見られます。

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2017年12月27日:〈津屋崎の四季〉1184:孤島・「沖ノ島」遠望

2017-12-27 17:17:45 | 風物

 

写真①:玄界灘に浮かぶ世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」構成資産の「沖ノ島」

      =福津市渡の「恋の浦」海岸で、2017年12月27日午後2時15分撮影

 厳寒の玄界灘沖に姿見せた世界遺産の孤島

福津市・「恋の浦」海岸から「沖ノ島」遠望できました

  12月27日、福津市津屋崎は放射冷却で冷え込みました。寒さの反面、大気が澄み渡り、渡の「恋の浦」海岸からは、遠く玄界灘沖に浮かぶ世界遺産登録の孤島・「沖ノ島」が遠望でき、ラッキーでした=写真①=。

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2017年12月23日〈エッセー〉057:万葉古歌の「名児山」所在地に新説

2017-12-23 08:49:00 | エッセー

 

写真①:福津市勝浦の「名児山」(右)。左は「桂岳」

     =福津市桂区で、2017年10月31撮影

連載エッセー『一木一草』

第57回:万葉古歌の「名児山」所在地に新説

本当の名児山は新宮町の「三本松山」(名子山)?

福津市奴山の「万葉古道・名児山越え」に疑問浮上

 私が所属する福津市のまちづくりボランティア団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」は11月14日、「第17回〈津屋崎千軒〉ふるさと塾」・万葉古道の植物探訪を開催。大宰帥(だざいのそち。大宰府の長官)大伴旅人(おおとものたびと)の異母妹の万葉歌人大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が奈良時代の天平2年(730年)11月、大宰府から奈良の都へ帰る時に福津市勝浦奴山(ぬやま)と宗像市との境にある名児山(なごやま)=写真①=を越える際に通ったとされる古代官道・〝名児山越え〟を1287年ぶりに踏査、自生の野草や花などを調べながらフットパスウオークを楽しみましたが、本当の名児山は福岡県新宮町の「三本松山」(別名・「名子山」)とする新説が浮上していることが分かり、きょう23日に「カメリアステージ図書館」で開く「海とまちなみの会」12月例会で詳しく検討します。

 万葉古歌の「名児山」所在地に新説を提示したのは、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議(事務局・福岡県世界遺産登録推進室)が平成29年3月に発行した『沖ノ島研究 第三号』に「古代宗像郡郷名考証(三)」を寄稿した大高広和・県世界遺産登録推進室主任技師。この論考で、『万葉集』にみえる大伴坂上郎女が詠んだ名児山の比定地について〈宗像郡内とされる名児山は福津市勝浦の山とする、近世以来の説に対して疑問を示し〉、古代官道との関係について触れています。

 それによると、新たな説として、①古代官道のルートは現在の研究状況ではより陸地側を通るルートを想定すべきであり②古代の宗像郡は宗像、福津両市より南の古賀市域(旧糟谷郡古賀町)までを含んでおり、古賀市南に接する同郡新宮町にある「三本松山」(一名・名子山。標高148㍍)=写真②=の西側の丘陵地帯を古代官道が南北に通っていたと想定される。「三本松山」は古代は宗像郡内か糟屋郡との境界の山だったと考えられる③「名児山」越えの道には切り通しなど古代官道としての痕跡は特に確認されていないうえ、宗像大社・辺津宮に参拝のためなら古代は入海に面していた同宮に船で立ち寄れたはずで、わざわざ山越えの必要はない④糟屋郡久山町との境界線付近にある「三本松山」は、西側の立花山(標高357㍍)との間の丘陵地を通る古代官道の西海道を行く坂上郎女が右手に目にする格好の位置にあり、古代人が神を意識したとされる笠状の円錐形(カンナビ型)で歌が詠まれた内容と関係があるかもしれない。大宰府から離れ、左右を山に挟まれて往く寂寥感から、坂上郎女の心に「慰めてほしい」という気持ちが生まれたと想像したい――などとして、「名児山」は「三本松山」に比定すべきとし、古代宗像郡に含まれた地理的範囲についても整理しています。

 

写真②:糟屋郡久山町との境界付近にある「三本松山」

      =福岡県新宮町で2017年12月22日、南東から撮影

  坂上郎女が、大宰府から通じる古代の官道を通り、〈名児山〉を越えて宗像市方面へ向かう途中で詠み、『万葉集』(巻6 963番)に収録された長歌は――。

〈大汝(おおなむち) 少彦名(すくなひこな)の神こそは 名づけ始(そ)めけめ 名のみを 名児山(なごやま)と負ひて わが恋の 千重の一重も 慰めなくに〉

 歌の意味を現代語訳すると、〈大汝の神と少彦名の神が名付けたに違いない名児山は、〝心が和む山〟という意味を持ちながら、私の悩む恋心の千分の一さえ慰めてはくれない〉。大汝(大国主神)と少彦名(少名毘古那神)は、日本の国造りをした二柱の神です。

 きょうの「海とまちなみの会」例会で、坂上郎女の歌心にまで踏み込んでの検討会が楽しみです。

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2017年12月22日:〈津屋崎の四季〉1183:水路に飛来のオオバン

2017-12-22 17:36:31 | 風物

 

写真①:水路に飛来した2羽のオオバン

     =福津市末広で、2017年12月22日午後4時45分撮影

寒さ和らぐ「冬至」の津屋崎

水路に冬鳥・オオバン2羽飛来

 「冬至」の12月22日、福津市津屋崎はこのところの寒さがちょっぴり和らいだ感じ。末広の水路では午後、飛来している冬鳥のオオバン(クイナ科)2羽を観察できました=写真①=。

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〈催事〉0526: あす「おおしめ祭」

2017-12-15 11:55:18 | 行楽催事

 

写真①:「宮地嶽神社の「おおしめ祭」ポスター

あす16日、年に1度の大仕事
宮地嶽神社の大注連縄掛け替え

 福津市宮司元町の宮地嶽神社拝殿で12月16日午前、年に一度の大注連縄(おおしめなわ)掛け替え催事・「おおしめ祭」が行われます=写真①=。(注:天候の影響により、17日に順延されました)

 大注連縄掛け替えは、この日午前10時から「大注連縄祭」神事で作業の無事を祈ったあと、法被姿の氏子らが拝殿前で2本の大縄を寄り合わせ、丸太を打ち込んで補強、高く持ち上げて捩ったりして完成させ、フォークリフトで高さ6㍍の拝殿正面に取り付けます。    

 商売繁盛の神様で知られる「宮地嶽神社」は、正月三が日の参拝客が約百万人と九州では太宰府天満宮に次いで多い。神社側が〝日本一トリオ〟と自慢の、大注連縄(初めて作られた昭和27年=1952年=当時は長さ13.5㍍、直径2.5㍍、重さ5㌧)と、大鈴(直径2.2㍍、重さ450㌔・㌘の)、大太鼓(牛の一枚皮で作られた直径2.2㍍、重さ1㌧)があるのが有名でしたが、3年に一度、掛け替えられていた大注連縄は平成23年(2011年)12月からは拝殿を傷めないよう小ぶりの大注連縄(長さ11㍍、直径2.6㍍、重さ3㌧)を作って毎年掛け替えられています。

  出雲観光協会によると、「出雲大社」神楽殿の大注連縄は長さ13㍍、重さ4.5㌧で、こちらの方が今は事実上の〝日本一〟。拝殿の大注連縄は長さ6.5㍍、重さ1㌧。

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2017年12月1日/〈福岡・町歩き〉020・志賀の白水郎の「万葉歌碑」

2017-12-01 14:53:59 | 福岡・町歩き

 

写真①:海岸の広場にある志賀の白水郎の「万葉歌碑」

     =福岡市東区の志賀島で、2017年11月28日午後10時45分撮影

〈福岡・町歩き〉020

:志賀の白水郎の「万葉歌碑」

 福岡市東区・志賀島の「志賀海(しかうみ)神社」を参拝した11月28日、市立志賀島小学校近くの海岸広場にある志賀の白水郎の「万葉歌碑」=写真①=も訪ねました。そばに建てられている市教育委員会の「万葉歌碑(志賀島9号碑)」説明板によると、「筑前の国の「志賀の白水郎(あま)の歌十首」中の一首・〈沖つ鳥 鴨といふ船は 也良の埼 廻みて榜ぎ来と 聞え来ぬかも〉(『万葉集』巻16 3867番収録)を石に刻んだものです。

  説明板では〈神亀(724~729)のころ大宰府から対馬に糧を送るように命じられた宗像郡の津麿(つまろ)に代わって志賀の荒雄は、肥前の国の美祢良久(三井楽)から対馬に向かって船出したが、暴風雨に遭って海没した。それから8年、荒雄の妻子はなおその生還を念じてこれらの歌を作ったという。また一説では筑前の国首山上憶良(やまのうえおくら)の作であるとも伝えられている〉としています。

 そのうえで、歌を口語訳で〈荒雄の乗った鴨という船が、也良の崎を回って漕いで来るよと知らせが来たらなあ〉と説明。さらに〈鴨は荒雄の船の名。也良の崎は能古の島の北端で、そのあたりを漕いで来る荒雄の生還の吉報を期待する家人の切ない心を詠んだ歌である。なお、也良の崎には「沖つ鳥鴨といふ船の還り来ば也良の崎守早ぐ告げこそ」の歌碑がある〉としています。

 「也良の崎」にある歌碑の歌を口語訳すると、〈沖の水鳥の、鴨という名の船が帰って来たら、也良の岬の番人は、早く知らせてください〉。志賀島9号碑の「万葉歌碑」から南側には、波静かな博多湾の向こうに「能古島」也良の崎方面の美しい景観=写真②=が眺められました。

 

写真②:「万葉歌碑」(志賀島9号碑)南側からの博多湾の眺望(向こうは「能古島」也良の崎方面)

     =11月28日午後10時45分撮影

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