吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2014年3月31日/〈津屋崎の四季〉995:クロツラヘラサギ4羽飛来

2014-03-31 08:49:52 | 風物

 

写真①:浅瀬で憩う4羽のクロツラヘラサギ

      =福津市渡の「津屋崎干潟」で、2014年3月31日午前7時25分撮影

クロツラヘラサギ4羽飛来

――福津市・「津屋崎干潟」


  時の経つのは早いもので、3月もきょう31日まで。福津市渡の「津屋崎干潟」には早朝、なごりを惜しむかのように北帰行前の冬鳥・クロツラヘラサギ(トキ科)4羽が飛来していました=写真①=。

  クロツラヘラサギは、環境省レッドリスト(日本の絶滅の恐れのある野生生物のリスト)で「絶滅危惧ⅠA類」指定の野鳥で、世界に約2700羽しか生息していません。今季、津屋崎では、2013年11月6日に「津屋崎干潟」に第一陣の1羽が渡来、14年1月14日には最多7羽の飛来を確認しています。昨季は、13年4月19日に3羽の飛来を観察したのが最後でしたから、この日の4羽の津屋崎滞在ももうしばらくのようです。

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2014年3月30日/〈津屋崎の四季〉994:ニホンアナグマ

2014-03-30 08:29:03 | 風物

 

写真①:排水溝の穴から顔をのぞかせしたニホンアナグマ

      =福津市宮地元町の「宮地嶽神社」・「民家村自然広苑」にあるボタン園で、2014年3月28日午前11時30分撮影

こんにちは、ニホンアナグマです

「宮地嶽神社」・「民家村自然広苑」に姿現す


 福津市宮地元町の「宮地嶽神社」・「民家村自然広苑」にあるボタン園で、3月28日、ニホンアナグマ(イタチ科)群が排水溝の穴から顔をのぞかせていました=写真①=。

 ニホンアナグマは体長約50㌢で、ずんぐりした体形。本州、四国、九州の里山に生息しています。このボタン園の個体=写真②=は、宮地岳(標高182㍍)一帯をねぐらにしているのでしょう。

 

写真②:ずんぐりした体形のニホンアナグマ

      =宮地嶽神社」・「民家村自然広苑」のボタン園で、28日午前11時30分撮影

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〈催事〉0267:〝花見ごろ〟・「宮地嶽神社」

2014-03-28 17:20:28 | 行楽催事

写真①:ソメイヨシノの満開の花の下でくつろぐ花見客
      =福津市宮司元町の「宮地嶽神社」・「民家村自然広苑」で、2014年3月28日午前11時30分撮影

満開のソメイヨシノにホウキモモの花も咲く
〝花みごろ〟・「宮地嶽神社」境内
ボタンの開花も始まりました  

                                                 
 福津市津屋崎は3月28日、5月並みの陽気に恵まれました。「宮地嶽神社」(同市宮司元町)境内にある「民家村自然広苑」では、満開のソメイヨシノ(バラ科)の花見客で昼ごろからにぎわいました=写真①=。

 芝生広場そばの「ボタン園」では、竹ほうきを逆さまにしたように花枝が縦に伸びたホウキモモ(バラ科)のピンクや赤い花も開き始めています=写真②=。

 

写真②:花枝が縦に伸びたホウキモモ

  ホウキモモの枝の下では、上品なピンクのボタン(ボタン科)の花も次々と咲き始めています=写真③=。

 

写真③:咲き始めた上品なピンクのボタンの花

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2014年3月26日〈エッセー〉027:「恋の浦」のいわれ

2014-03-26 09:41:08 | エッセー

写真①:「恋の浦」の由来がテーマの観光ポスター
      =福津市まちおこしセンターで、2014年3月1日撮影

・連載エッセー『一木一草』

 第27回:「恋の浦」のいわれ

  福津市まちおこしセンターで3月1日、九州大学大学院芸術工学研究院の大学院生(デザインストラテジー・ユーザー感性学専攻)が同市の海と津屋崎千軒をテーマにデザインしたという「ふくつ観光ポスター展」を観ました。その中に玄界灘に面した津屋崎の景勝地・「恋の浦」がテーマの1枚=写真①=に、初耳の「恋の浦」の由来が書かれており、驚きました。

  それによると、「恋したら いってみようか、なんて」のコピーで、「日本一ロマンティックな名前の海岸」と紹介したあと、〈由来…ある高僧が修行を終え、大陸から帰国した際、大陸に残してきた恋人を思い、浜で海の向こうの大陸を眺めておられたことから、恋の浦と名付けられた〉=写真②=とあります。

写真②:「恋したら いってみようか、なんて」のコピーで書かれた「恋の浦」の由来

  「恋の浦」のいわれについては、黒田官兵衛の異母弟・黒田修理助利則(養心公)が恋路の邪魔をする役所にされ、婚約中の若い男女が海で心中するフィクションと思われる〝伝説〟が、一部で観光宣伝されています。福津市の郷土史家(故人)が昭和53年(1978年)に出版した本に収録された「恋の浦秘話」の引用で、悪玉役の養心公にはお気の毒です。ご子孫にもご迷惑な筋書と思われますので、私の〈津屋崎千軒〉観光ガイドでは使わないようにしています。

  以前、弘法大師にまつわる由来があるとの話を小耳に挟み、福津市歴史資料室や福津郷土史会の方に尋ねましたが、分かりませんでした。この「ある高僧」由来ならまさに「恋の浦」=写真③=にふさわしいレジェンドです。そう思って、「ふくつ観光ポスター展」を主催している福津市商工観光課に尋ねた結果、市のホームページの「福津三十六景」の「恋の浦」に、観光ポスターと同じ文章で由来がアップされていることが分かりました。私がこのホームページに同文章を平成19年にアップした担当の方に照会した結果、旧津屋崎町役場の観光係をしていた約15年前、「東郷神社」の内田久美・第二代宮司から同宮司の父で同神社を創建した安部正弘さん(昭和46年=1971年=他界)から伝え聞いた話で、高僧は弘法大師のことだったと思うが、メモを取っておらず記憶がはっきりしないので大師の名前はアップしなかったという。

 

写真③:「ふくつ観光ポスター」の「恋の浦」に使われた道路標示(福津市新町)

 内田久美・第二代宮司の娘の川野万里子・第三代宮司にお聞きしたところ、内田宮司と祖父の安部正弘さんから、この高僧ゆかりの「恋の浦」の由来を聞いた記憶はなく、由来を裏付ける文献史料を見たこともないとのこと。

 「恋の浦」の由来の文献あれば教えてください

  今後、安部正弘さんに関する伝記や、旧津屋崎町時代の町広報誌、旧宗像郡内の郷土史、各種団体の機関誌などに安部さんの寄稿やインタビュー記事などが残されていないか、調査を続けます。「恋の浦」=写真④=の「ある高僧」由来の文献をご存じの方がおいでなら、教えてください。「恋の浦」の由来が、うら若い男女の心中ではなく、帰国した高僧と中国に残した恋人への思慕にからむのであれば、「日本一ロマンティックな名前の海岸」として胸を張って「恋の浦」の観光ガイドができます。

写真④:玄界灘に面した「恋の浦」海岸
     =福津市渡で、2007年8月28日撮影

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2014年3月26日〈エッセー〉027:「恋の浦」のいわれ

2014-03-26 09:41:08 | エッセー

写真①:「恋の浦」の由来がテーマの観光ポスター
      =福津市まちおこしセンターで、2014年3月1日撮影

・連載エッセー『一木一草』

 第27回:「恋の浦」のいわれ

  福津市まちおこしセンターで3月1日、九州大学大学院芸術工学研究院の大学院生(デザインストラテジー・ユーザー感性学専攻)が同市の海と津屋崎千軒をテーマにデザインしたという「ふくつ観光ポスター展」を観ました。その中に玄界灘に面した津屋崎の景勝地・「恋の浦」がテーマの1枚=写真①=に、初耳の「恋の浦」の由来が書かれており、驚きました。

  それによると、「恋したら いってみようか、なんて」のコピーで、「日本一ロマンティックな名前の海岸」と紹介したあと、〈由来…ある高僧が修行を終え、大陸から帰国した際、大陸に残してきた恋人を思い、浜で海の向こうの大陸を眺めておられたことから、恋の浦と名付けられた〉=写真②=とあります。

写真②:「恋したら いってみようか、なんて」のコピーで書かれた「恋の浦」の由来

  「恋の浦」のいわれについては、黒田官兵衛の異母弟・黒田修理助利則(養心)が恋路の邪魔をする役所にされ、婚約中の若い男女が海で心中するフィクションと思われる〝伝説〟が、一部で観光宣伝されています。福津市郷土史家(故人)が昭和53年(1978年)に出版した本に収録された「恋の浦秘話」の引用で、悪玉役の養心公にはお気の毒です。ご子孫にもご迷惑な筋書と思われますので、私の〈津屋崎千軒〉観光ガイドでは使わないようにしています。

  以前、弘法大師にまつわる由来があるとの話を小耳に挟み、福津市歴史資料室や福津郷土史会の方に尋ねましたが、分かりませんでした。この「ある高僧」由来ならまさに「恋の浦」=写真③=にふさわしいレジェンドです。そう思って、「ふくつ観光ポスター展」を主催している福津市商工観光課に尋ねた結果、市のホームページの「福津三十六景」の「恋の浦」に「恋の浦」の由来が、観光ポスターと同じ文章でアップされていることが分かりました。私が平成19年のこのホームページに同文章をアップした担当の方に照会した結果、旧津屋崎町役場の観光係をしていた約15年前、「東郷神社」の内田第二代宮司から同宮司の父で同神社を創建した安部正弘さん(昭和46年=1971年=他界)から伝え聞いた話で、高僧は弘法大師のことだったと思うが、メモを取っておらず記憶がはっきりしないので大師の名前はアップしなかったという。

 

写真③:「ふくつ観光ポスター」の「恋の浦」に使われた道路標示(福津市新町)

 内田久美・第二代宮司の娘の川野万里子・第三代宮司にお聞きしたところ、内田宮司と祖父の安部正弘さんから、この高僧ゆかりの「恋の浦」の由来を聞いた記憶はなく、由来を裏付ける文献史料を見たこともないとのこと。

 「恋の浦」の由来の文献あれば教えてください

  今後、安部正弘さんに関する伝記や、旧津屋崎町時代の町広報誌、旧宗像郡内の郷土史、各種団体の機関誌などに安部さんの寄稿やインタビュー記事などが残されていないか、調査を続けます。「恋の浦」=写真④=の「ある高僧」由来の文献をご存じの方がおいでなら、教えてください。「恋の浦」の由来が、うら若い男女の心中ではなく、帰国した高僧と中国に残した恋人への思慕にからむのであれば、「日本一ロマンティックな名前の海岸」として胸を張って「恋の浦」の観光ガイドができます。

写真④:玄界灘に面した「恋の浦」海岸
     =福津市渡で、2007年8月28日撮影

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2014年3月22日/〈貝寄せの浜・「貝寄せ館」物語〉077:入り口に新案内表示

2014-03-22 19:19:16 | 「貝寄せ館」物語

 

写真①:「貝寄せ館」入り口にお目見えした新しい案内表示

     =2014年3月22日午前10時45分撮影

「貝寄せ館」入り口に新案内表示

 私が所属する「津屋崎千軒 海とまちなみの会」の観光ガイド拠点事務所・「貝寄せ館」(福津市津屋崎3丁目)入り口に3月22日、新しい案内表示がお目見えしました=写真①=。

 「貝寄せ館」の看板だけでは、何の建物かが分かりにくいとの声が寄せられたことから、「つやざき観光案内所~そうつこう〝古風な趣のある町〟~」「津屋崎千軒の町家・古地図・土産を紹介」「入場無料です」などと表示したイーゼルを新しく立てました。

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〈催事〉0266:「旧蔵内邸」観覧記④

2014-03-21 01:52:44 | 行楽催事

 

写真①:「旧蔵内邸」の「回遊式庭園」
      =福岡県築上町上深野で、2014年3月17日午後0時35分撮影
 

「旧蔵内邸」観覧記④

  「回遊式庭園」=写真①=に足を踏み入れ、池に架かる二連の反り橋越しに重厚な「旧蔵内邸」を眺めました。池の水は、同邸南側の農業用水路から引き込み、敷地内と「応接間棟」の地下を石積水路で巡らせて池に注がれています。途中3か所に石組階段の「水汲み場」=写真②=を設け、水路の管理などに利用しました。

 

写真②:回遊式庭園の入り口付近に設けられた「水汲み場」

 最後に展示室「宝蔵」=写真③=に入りました。炭坑経営で「旧蔵内邸」を築いた蔵内次郎作、保房、次郎兵衛の三代の蔵内氏の経歴などをパネル展示。それによると、次郎作は明治18年、峰地炭坑(福岡県添田町)の採掘を始め、大谷坑(福岡県水巻町)、飯塚坑(飯塚市穂波町)など規模を拡大、大正5年には蔵内鉱業株式会社を設立し、保房が社長に就任しました。次郎作は、明治41年から衆議院議員を5期務め、保房は、田川中学や築上中学の創設、学校経営に多大な寄付を行い、次郎兵衛は昭和4年に大分市の高崎山7万坪を万寿寺に寄進しました。

 

写真③:「旧蔵内邸」外の道路から見た展示室「宝蔵」

  「大広間棟」「宝蔵」など「旧蔵内邸」の大増築は、蔵内鉱業株式会社設立と同時に開始、隣接する「貴船神社」(祭神・高龗神=たかおかみのかみ。祈雨・灌漑の神)=写真④=と鳥居、参道、参道に架かる石橋=写真⑤=も一体として建設されました。

 

写真④「貴船神社」   

写真⑤:「貴船神社」の参道に架かる石橋

 「旧蔵内邸」の建物配置図=写真⑥=を見ると、「主屋棟」「座敷棟」「大玄関間棟」「応接間棟」「茶室棟」「大広間棟」と続く邸宅は、接客重視の大豪邸です。敷地は、〝筑豊の炭鉱王〟・<Ahref="http://blog.goo.ne.jp/magpie03/e/ea5ff634f6aedee8c9b10988bfcdb26f">「伊藤伝右衛門邸」</A>(飯塚市)の方がやや広いものの、建物は「旧蔵内邸」の建坪の方が大きく、天井に屋久杉をふんだんに使い、欄間や襖の引手、特注の照明など手の込んだ細工といい、贅を尽くした建築と回遊式庭園は炭坑主の邸宅として随一でしょう。

  

写真⑥:「旧蔵内邸」の建物配置図

                                               (終わり)

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〈催事〉0265:「旧蔵内邸」観覧記③

2014-03-20 05:31:08 | 行楽催事

写真①:「旧蔵内邸」の「茶室」
       =福岡県築上町上深野で、2014年3月17日正午撮影

「旧蔵内邸」観覧記③

  「応接間」の次には、北側の「回遊式庭園」に突き出た「茶室」=写真①=を訪ねました。庭園の眺めを意識した開放的な造りで、丸窓があり、表面に皺状の模様と凹凸がある「俵絞り」の床柱など数寄屋風の意匠が特徴です。

  「応接間」の西側にある「仏間」は、撮影禁止のため生写真で紹介できないのが残念です。内陣の周囲の部分を一段持ち上げるようにした「折上格天井」には屋久杉と黒柿を市松模様に配し、壁紙に「金唐革紙(きんからかわし)」=写真②=を使った豪華な装飾。西洋の装飾革工芸を和紙で加工して模したこの「金唐革紙」の壁紙は、明治時代に流行したもので、現存するのは国内でも数例しかなく、「旧蔵内邸」のは最古級のものという。

 

写真②:「金唐革紙」(「旧蔵内邸」のパンフレットから)

  「仏間」の北西にある10畳の「座敷」=写真③=は、大正6年の建物増築で造られ、かつては掘りごたつがありました。西側の廊下にはガラス戸を立て込み、花崗岩の切り石を幾何学形に配した当時としてはモダンな「中庭」を楽しめます。

写真③:10畳の「座敷」

  「座敷」北側の「大広間」=写真④=は、18畳間が2室続き、炭坑主住宅では最大規模です。奥には、5畳の上段と3畳の神殿が並び、「旧蔵内邸」では最も格調の高い部屋とされています。

写真④:18畳間が2室続く「大広間」

  「大広間」の西側にある「洗面所」=写真⑤=は、大理石の床でモダンなデザインです。

写真⑤:モダンなデザインの「洗面所」

   「洗面所」に隣接した「トイレ」=写真⑥=も大理石の床で、清潔感があります。

写真⑥:大理石の床の「トイレ」

   「トイレ」の北側にある「浴室」=写真⑦=は、浴槽と腰壁に白い大理石を、床には白と濃緑の大理石を市松模様に貼ったモダンなデザイン。大正から昭和初期の建物に多く使われた霜の結晶のような模様の摺りガラスで、貴重なアンティークガラスとされる「結霜(けっそう)ガラス」を貼った窓ガラスが、大正ロマンを感じさせてくれます。

写真⑦:床には白と濃緑の大理石を市松模様に貼った「浴室」

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〈催事〉0264:「旧蔵内邸」観覧記②

2014-03-19 05:41:24 | 行楽催事

写真①:「旧蔵内邸」の「応接間」
       =福岡県築上町上深野で、2014年3月17日午前11時50分撮影
 

「旧蔵内邸」観覧記②

  「大玄関間」の次に事務所の部屋があり、受付で入館料3百円を払い、「応接間」=写真①=へ。途中の幅広い廊下は、船底天井=写真②=でした。

写真②:「応接間」へ通じる廊下の船底天井

  「旧蔵内邸」の建物のうち最も早い明治38年ごろに建てられた「応接間」は、欄間の細工が見事です=写真③=。

写真③:「応接間」の見事な欄間細工

 橋や池を観賞できる「回遊式庭園」=写真④=は、この「応接間」からが眺めるのを主眼として造営されました。池の水は、農業用水路から引き込み、敷地内を地下水路で巡らせて池に注がれています。

写真④:「応接間」から臨む「回遊式庭園」

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〈催事〉0263:「旧蔵内邸」観覧記①

2014-03-18 17:32:42 | 行楽催事

写真①:「旧蔵内邸」の表門
      =福岡県築上町上深野で、2014年3月17日午前11時40分撮影

 福岡県築上町上深野にある国登録有形文化財の炭坑主住宅「旧蔵内邸」=写真①=を3月17日、初めて観覧。築上町が平成22年、当時の所有者から買い取り、建物や庭園を手入れし、敷地にトイレを造ったりして同25年4月18日から一般公開、同26年3月13日に来館者3万人を達成したと聞き、福津市津屋崎の拙宅から約2時間マイカーを運転して訪問しました。きょう18日から「旧蔵内邸」観覧記を連載します。

 「旧蔵内邸」観覧記①

  「旧蔵内邸」は、筑豊地方を中心に全国10位以内の産出高を誇る炭坑を経営した蔵内次郎作=写真②=、保房、次郎兵衛の三代の蔵内氏本家住宅です。7135平方㍍の広大な敷地に、明治38年ごろ二階建ての主屋棟と応接間棟や回遊式庭園を建造、大正5年の蔵内鉱業株式会社設立と同時に大広間棟や茶室棟などを増築した大規模な近代和風住宅(延べ床面積1250平方㍍)、蔵倉庫(37平方㍍7)を同9年に完成。ビッグで豪華な建物、内装、庭園といい、見ごたえがあります。

 

写真②:晩年の蔵内次郎作氏

 無料駐車場で車を降り、横門から広い敷地に入ると、二重の入母屋造・妻入の大胆な屋根構成の風格のある大玄関棟=写真③=が目に付きました。

写真③:重厚で風格のある大玄関棟

 玄関軒下に懸かる三つ巴の家紋入り幡幕を潜って邸内へ入ると、「大玄関間」の上がり框に「祝来館者3万人達成」=写真④=と掲示されていました。

写真④:「祝来館者3万人達成」の掲示

 12畳の「大玄関間」=写真⑤=は、炭鉱主住宅では最大規模という。天井には屋久杉を使い、土間や腰壁には大理石をふんだんに用いています。豪華な照明=写真⑥=は、三つ巴の家紋入りです。

写真⑤:「大玄関間」                       写真⑥:三つ巴の家紋入り照明

 「旧蔵内邸」福岡県築上町上深野396番地。℡0930-52-2530▽開館時間 午前9時30分~午後4時30分(入館は午後4時まで)▼休館日 毎週火・水曜日(祝日の場合は開館)▽入館料 一般(高校生以上)3百円、小・中学生百円▽無料駐車場(約40台収容)あり。

「旧蔵内邸」へのMAP

 

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