吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2014年12月9日/〈大川・町歩き〉014・鏝絵のある町家

2014-12-09 05:01:09 | 〈大川・町歩き〉

 

写真①:二階建て町家妻壁の破風に施された「大黒」の鏝絵

     =大川市榎津で、2014年11月29日午後1時15分撮影

 

〈大川・町歩きスポット〉 14

 :鏝絵のある町家

  福岡県大川市小保(こぼ)の「法泉寺」から榎津(えのきづ)のショッピングモール・「ヴィラベルディ」へ歩いていく途中、二階建て町家の漆喰が塗られた妻壁の破風に「大黒」の鏝絵=写真①=が飾られているのに気付きました。

 表側がサッシのガラス戸になっていますが、昔は格子戸の町家だったのでしょうか=写真②=。財宝の神・大黒さんの鏝絵を飾ってあるのは、商家の誇りの象徴に見えます。

 

写真②:漆喰壁を「大黒」の鏝絵が飾る二階建て町家

 小保・榎津の町歩きを午前中で終わり、午後1時30分から榎津の「ヴィラベルディ」2階ホールで開かれた「第2回まちなみフォーラム福岡in大川」(主催・「藩境のまちづくりを考える会」、「まちなみネットワーク福岡」)に参加。来賓を代表して鳩山二郎大川市長(35)が「『藩境のまちづくりを考える会』の皆さんの熱意に感動し、私も肥後街道宿場を歩くの〝花嫁道中〟では花婿役で歩かせていただいた。今後とも、皆様方と連携して最高のまちづくりをしたい」と挨拶されました=写真③=。鳩山邦夫・衆議院議員の二男で、2013年6月の市長選で初当選した青年市長らしく、はつらつとした印象。「行政も、最大限の努力をさせていただきたい」と力強い口調でした。

 

写真③:来賓を代表して挨拶する鳩山二郎大川市長(向こう左)

     =大川市榎津325-32の「ヴィラベルディ」2階ホールで、11月29日午後1時45分撮影

         (今回の小保・榎津町歩きの見聞録連載を終わります)

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2014年12月8日/〈大川・町歩き〉013・法泉寺

2014-12-08 05:59:07 | 〈大川・町歩き〉

 

写真①:浄土宗寺院の「霊玉山浄土院法泉寺」

     =大川市小保で、2014年11月29日午前11時50分撮影

 

〈大川・町歩きスポット〉 13

 :法泉寺

  福岡県大川市小保(こぼ)にある「霊玉山浄土院法泉寺」=写真①=は、安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)に創立の浄土宗寺院で、本堂は宝形造り本瓦葺き。入母屋造り本瓦葺きで二層の鐘楼門も、見事です。

  「法泉寺」は、雲譽大厳上人が創建後、江戸時代初期の寛文5年(1665年)に柳河藩主が同藩徳川将軍家位牌所「瑞松院」第五世住職傳譽上人を法泉寺第六代に任命、地区の藩最初の本陣とした寺院で小保地区の守り寺だったという。

 大川ボランティアガイドの案内による小保・榎津(えのきづ)の町歩きも、「法泉寺」でほぼ終わりかけましたが、この久留米藩領と柳河藩領の藩境の町には重厚な町家が数多く残っているのに感心しました。榎津裏町にある大正時代建築の商人型の漆喰塗り「大壁造り」(左)と、明治時代建築の職人型の「新壁造り」の対照的な二軒並びの二階建て町家=写真②=も、印象深いです。

  

写真②:「大壁造り」(左)と「新壁造り」の二階建て町家

     =大川市榎津裏町で、11月29日午前11時15分撮影

  久留米藩領と柳河藩領の境界となった榎津に残る江戸時代の水路・「御堺江湖(おざかいえご)」の跡を示す溝=写真③=は、藩境の歴史を今に伝える遺構でした。重い荷物を舟で蔵へと運んでいた当時は、広い所で約4㍍あったという。

  

写真③:江戸時代の水路・「御堺江湖」の跡を示す溝(左が久留米藩領、右が柳河藩領

     =大川市榎津で、11月29日午前11時20分撮影

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2014年12月7日/〈大川・町歩き〉012・吉原義朗家住宅

2014-12-07 04:24:22 | 〈大川・町歩き〉

 

写真①:江戸時代の大型町家・「吉原義朗家住宅」

      =大川市小保で、2014年11月29日午前11時45分撮影

 

〈大川・町歩きスポット〉 12

:吉原義朗家住宅

  福岡県大川市小保(こぼ)・榎津(えのきづ)にある旧柳河藩医の「緒方家住宅」近くに建つ「吉原義朗家住宅」=写真①=は、江戸時代の大型町家です。

  「吉原義朗家住宅」は、主家の屋根勾配が急で棟高は約9mと小保町の通りでは最も高い。別棟の離れ座敷は、棟門と式台玄関を構えた屋敷造りです。丸太を組み合わせた主屋屋根裏の小屋組の構造に江戸時代の建築技術の素晴らしさが伺え、座敷床の間の柱の奥には刀による抜打ちに備えた身隠しの空間が設けられています。

 式台玄関蟇股に天保9年(1838年)の墨書銘があり、当家所有の木板に享和元年(1801年)、桐箪笥の木片に文化3年(1806年)の銘が残っていることや、蟇股の彫りが国指定重要文化財・「旧吉原家住宅」(大川市小保にある旧柳河藩小保町の行政的支配者の別当職を代々務め、後に同藩の大庄屋となった吉原家の居宅)のものとよく似ていることから、19世紀前半頃に主屋=写真②=が建てられた後、離れ座敷が建てられたと思われるという。

 

写真②:「吉原義朗家住宅」1階土間から見た板の間

  吉原義朗家は、本家より分家された当時、「吉原氏(うじ)酒場」=写真③=という屋号の造り酒屋で「まひ(舞)鶴」という銘柄の純米地酒を醸造していたため、地元では酒場(屋号)と呼ばれてきました。毎年4月に開催される町興しイベント・「肥後街道宿場を歩く」の時だけ、地元の酒店で江戸時代の〝幻の酒〟「まひ鶴」として平成13年から復活醸造し、限定販売されているという。現在の住宅は、平成3年9月の台風で被害を受けた屋根瓦の全面葺替えを同6年に行い、ほぼ旧状どおりに修復されました。

 

写真③:1階に貼り出された「吉原氏酒場」と江戸時代の〝幻の酒〟「まひ鶴」復活の説明文

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2014年12月6日/〈大川・町歩き〉011・緒方家住宅

2014-12-06 05:04:37 | 〈大川・町歩き〉

 

写真①:旧柳河藩御典医の武家屋敷・「緒方家住宅」

      =大川市小保で、2014年11月29日午前11時25分撮影

 

〈大川・町歩きスポット〉 11

 :緒方家住宅

  福岡県大川市小保(こぼ)・榎津(えのきづ)の町歩きで、旧有馬藩領の榎津から旧柳河藩領の小保に入って案内されたのが、柳河藩の藩医だった「緒方家住宅」=写真①=です。県内でも珍しい武家屋敷です。

  江戸時代後期・天保(1830-1844年)のころ、緒方元郁が建築した屋敷で、1階には玄関、次の間、座敷があり、重厚な入母屋がつく式台玄関は武家屋敷の様式を示しています。2階は化粧屋根裏になっており、棟はコの字を描くように配置。昭和初めまで表門と中門を構え、表通りの石段三段目から板塀がありました。大川観光ボランティアガイドの説明によると、一時は造り酒屋も営まれていたが、今は空家という。

  「緒方家住宅」近くにある「森田うるし店」は、江戸時代後期・文政11年(1829年)創業。漆や金箔、柿渋、塗料などを販売してあり、築110年の建物は天井や柱に漆が塗られています。1階店内では、珍しい大吊戸=写真②=を見学させてもらえました。

  

写真②:「森田うるし店」1階店内の大吊戸

      =大川市小保で、11月29日午前11時30分撮影

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2014年12月5日/〈大川・町歩き〉010・庄分酢・高橋家住宅

2014-12-05 03:57:36 | 〈大川・町歩き〉

 

写真①:白壁土蔵造り二階建ての風格ある「庄分酢・高橋家住宅」

      =大川市榎津548で、2014年11月29日午前11時10分撮影

 〈大川・町歩きスポット〉 10

 :庄分酢・高橋家住宅

  大川市榎津地区に残る一番古い民家、「株式会社庄分酢(しょうぶんす)・高橋家住宅」=写真①=は、昔ながらの造り酢屋さんです。江戸時代中期・宝暦9年(1759)に建築された白壁土蔵造り二階建ての風格ある町家(母屋は市指定有形文化財)は、今回の小保(こぼ)・榎津(えのきづ)の町歩きで最も居心地の良いスポットでした。

  江戸時代初期の寛永元年(1624年)に初代清右衛門が榎津に移り住み、二代四郎兵衛が造り酒屋を興し、四代清右衛門が江戸中期・宝永8年(1711年)に造酢商売を始めたのが庄分酢の始まりで、以来約3百年、秘伝書に記された手法で有機玄米くろ酢や有機純米酢など、コクのあるまろやかな醸造酢を造り続けているという。1階店内には、美味酢(うます)、すし酢など色とりどりの瓶に入った酢製品が丸テーブルに展示されています=写真②=。

  

写真②:展示された色とりどりの瓶入りの酢製品

  店舗前の道路反対側にある庄分酢の蔵も、高橋家住宅と同じく白壁の瀟洒な雰囲気が素敵です=写真③=。

 

写真③:白壁の瀟洒な造りの庄分酢の蔵

  この日正午すぎ、1時間半の町歩きを終了。昼食会場は、「第2回まちなみフォーラム福岡in大川」主催団体の「藩境のまちづくりを考える会」のご配慮で、高橋家住宅1階の格式のある座敷がセットされていました=写真④=。床の間に花が飾られ、欄間、障子といい、立派な造りです。

 

写真④:昼食会場の高橋家住宅1階座敷

  私が所属する「まちなみネットワーク福岡」の会員仲間とともに、座敷に据えられた長テーブル前のふかふかの座布団に座り、いただいた昼食は庄分酢を用いたチラシずし弁当=写真⑤=でした。美味しくて見栄えも上品で、いい感じです。

 

 

写真⑤:庄分酢を用いたチラシずし弁当

  14代高橋一精ご当主に代わり、座敷にお顔を出された陽子夫人のご挨拶も好感が持て、「庄分酢・高橋家住宅」を次に訪ねた時には2階にある「リストランテ庄分」で、季節の食材とお酢を使ったヘルシーな創作料理の「ビネガーランチ」(2,200円)を予約してゆっくりと味わってみたいと、庄分酢ファンになりました。

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2014年12月4日/〈大川・町歩き〉009・榎津通り

2014-12-04 08:45:52 | 〈大川・町歩き〉

 

写真①:榎津通り沿いにある「天満神社」

     =大川市榎津本町で、2014年11月29日午前10時55分撮影

 

〈大川・町歩きスポット〉 9

 :榎津通り

  大川市榎津本町の「願蓮寺」山門前を通りすぎ、榎津通りを歩きました。右手に「天満神社」の鳥居が見えます=写真①=。道案内の大川観光ボランティアガイドによると、小保(こぼ)・榎津(えのきづ)の町並みには「七天神」といって天神様のお社が七つもあるという。

  榎津通りの町並み=写真②=の雰囲気は、福津市津屋崎の新町の商店が並ぶ〈津屋崎千軒通り〉に似ています。

 

写真②:古い町家が並ぶ榎津通りの町並み

     =大川市榎津本町で、11月29日午前10時55分撮影

  草ぶきの屋根をトタンぶきにした町家=写真③=には、「大川土産処 はんざかい」の屋号=写真④=の店が開かれていました。「藩境のまちづくりを考える会」の女性たちが、ボランティアで店番をして木組み細工を売るお土産屋さんです。

  

写真③:草ぶきの屋根をトタンぶきにした町家

     =11月29日午前11時撮影

写真④:「大川土産処 はんざかい」の店

  このあと、ミステリー・ゾーンともいえる「べたべたくっぞこ通り」=写真⑤=の案内板が目につく路地=写真⑥=へ。幅2㍍弱、長さ百㍍足らずの細道です。昔は舗装されておらず、じめじめした路地で、靴底がベタベタして足を取られる感じがしたらしい。「べたべたくっぞこ」という靴底の姿をした妖怪を踏むと、べたべたして足に巻きつかれるとの言い伝えもあるとう。

  福津市津屋崎古小路にある秘密の小道「オガンタンの坂道」(昔、ここにあったお大師様に行く道が谷間になっていて、拝みながら谷を通ったのでオガムタニがなまってオガンタンと呼ばれるようになった)を連想しました。狭い道の脇にあった馬小屋から、急に馬が顔を出せば、「ウマンクビ(馬の首)が、祟って出た」と子供心に怖がられたという。旧津屋崎町が平成10年に発行した津屋崎町史民俗調査報告書、『津屋崎の民俗(第四集)』には、〈「オガンタンの小豆トンギリ、トンギリが出るぞ」と子供のころおどかされた。肝試しがあったりして怖かった〉という話も載っています。

  

写真⑤:「べたべたくっぞこ通り」の案内板

     =11月29日午前11時5分撮影

 

写真⑥:「べたべたくっぞこ通り」の細い路地

 

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2014年12月3日/〈大川・町歩き〉008・願連寺

2014-12-03 06:34:29 | 〈大川・町歩き〉

 

写真①:紙問屋「株式会社中村」の町家「中村家住宅」

     =大川市榎津本町491で、2014年11月29日午前10時45分撮影

〈大川・町歩きスポット〉 8

 :願蓮寺

  大川市の「小保(こぼ)・榎津(えのきづ)の町並み見学は11月29日、大川観光ボランティアガイドの三宅浩子さんらの案内で、江戸時代の面影が残る有馬藩、柳河藩境のまちに建つ風格のある町家や社寺を巡りました。

  最初に訪れたのが、長崎の五島と海産物の」取引をしていた江戸後期創業の「五島屋」(現在は紙問屋「株式会社中村」の町家「中村家住宅」)=写真①=です。2011年9月18日にこの町並みを初めて訪ねた際には、有馬藩のおふれ書が掲げられた榎津札の辻に接する明治7年ごろ建築のこの白壁瓦葺きの町家は道路から眺めただけでしたが、この日は家の中に入り、七代目社長の中村隆志さんから店に伝わる大福帖の説明もしていただきました=写真②=。

  中村さんは、小保・榎津の町並み保存活動に取り組む「藩境のまちづくりを考える会」の事務局長としても活躍され、この日午後開催された「第2回まちなみフォーラム福岡in大川」のパネルディスカッションにもパネリストとして登壇されました。

  

写真②:江戸後期創業の「五島屋」に伝わる大福帖を前に説明する中村隆志社長

     =「株式会社中村」1階で、11月29日午前10時45分撮影

 このあと、榎津指物製作の初めと伝えられる田ノ上(たのうえ)嘉作・儀助の墓がある「願蓮寺」=写真③=山門前を通りました。田ノ上嘉作は文化9年(1812年)、榎津長町に生まれ、家大工のかたわら建具を作っていましたが、久留米の指物造りの名人に弟子入りして箱物製作の技術を習得、榎津で指物製作を始めたという。儀助は嘉作の長男で、名工の域に迫る技量を持っていたとされ、嘉作・儀助親子の技が今日の大川木工業の隆盛につながったといえそうです。

  

写真③:田ノ上嘉作・儀助の墓がある「願蓮寺」山門

     =榎津本町で、11月29日午前10時50分撮影 

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2014年12月2日/〈大川・町歩き〉007・藩境石

2014-12-02 17:07:48 | 〈大川・町歩き〉

 

写真①:白壁瓦葺きの町家風建物「藩境のまち広場休憩所」

     =大川市榎津471-1で、2014年11月29日午前10時15分撮影

 〈大川・町歩きスポット〉 7

 :藩境石

  11月29日、福岡県大川市の「小保(こぼ)・榎津(えのきづ)の町並みを約3年ぶりに訪れました。県内の町並みをはじめ地域遺産の保存継承に取り組む人たちの結集を目指す「まちなみネットワーク福岡」(代表北島力・NPO法人八女町家再生応援団代表)と、「藩境のまちづくりを考える会」が同市内で開催した「第2回まちなみフォーラム福岡in大川」に私も参加、午前10時半から町歩みを見学しました。2011年9月18日にこの町並みを初めて訪ね、散策した同市の名所・旧跡を〈大川・町歩きスポット〉として同月19日から24日まで6回連載しましたが、今回の見聞録を続編としてきょうから紹介します。

  「第2回まちなみフォーラム福岡in大川」の受付場所は、大川市榎津にある「藩境のまち広場休憩所」=写真①=でした。白壁瓦葺き平屋の町家風建物内部にはベンチが並び、壁面には小保・榎津の町並みの見所紹介パネルが掲示されています。

  休憩所の外に出ると、広場の隅にある石柱の「藩境石(はんきょうせき)」=写真②=が目に付きました。そばに大川市が立てた解説板には「もともと『御境石』と呼ばれる木柱で、柳河藩と久留米藩の境を示すために、浄福寺前の四つ辻の所(現在の中村紙店前)に立てられていました。江戸時代の度重なる藩境争いで引き抜かれていたため、立てられた当初は木柱でしたが、最終的には石柱になっています」と説明。小保・榎津の藩境争いの歴史を物語る石柱でした。

  明治4年(1871)の廃藩置県によって柳河藩と久留米藩が廃止になった際に路傍に倒されていたそうです。それを見かねた個人が藩境石を持ち帰り、庭に立てて現在まで保存されてきたものを移設したという。藩境石には「従是(これより)東七間二尺五柳河領」と記されています。

  

写真②:「従是東七間二尺五柳河領」と記された「藩境石」

 

 

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2011年9月24日/〈大川・町歩き〉006・風浪宮

2011-09-24 05:03:07 | 〈大川・町歩き〉

 

 写真①:国指定重要文化財の「風浪宮」本殿 

     =大川市酒見で、2011年9月18日午前10時50分撮影 

 

〈大川・町歩きスポット〉 6 

 

:風浪宮 

 

大川市酒見にある「風浪宮」(ふうろうぐう)は、地元では「おふろうさん」と呼ばれて親しまれています。国指定重要文化財の本殿=写真①=は室町時代末期の永禄3年(1560年)、筑後国南部に約12万石を領した筑後十五城筆頭大名として筑後を治め、蒲池城を本拠としていた蒲池鑑盛公が再建。三間社流造り桧皮葺きで、刀剣のような屋根の反りと朱塗りの本丸柱で全体の重みを支える豪壮な造りです。

 

「風浪宮」の創建は、約1,800年前と伝えられ、海神・少童命(ワタツミノミコト)、息長垂姫命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)、住吉大神、高良玉垂命(コウラタマタレノミコト)を祭神としています。社伝によると、神功皇后が朝鮮御親征から帰還の洋上で暴風に遭われ、少童命の御加護を得て無事に葦原の津、現在の榎津(えのきづ)に着かれました。その折、皇后の御船のあたりに忽然と現れた白鷺を風浪の難から守護した少童命の御化神だとして、武内宿称(たけうちのすくね)に白鷺の後をつけさせたところ、北東に飛び立ち、境内の大楠=写真②=の上に止まりました。このため、ここを聖地として少童命を祀らせ、海上の指揮をした阿曇磯良丸(あずみいそらまる)を「風浪宮」の初代宮司として留めたという。

 

 この大楠は、「白鷺の楠」(別称・「鷺見の楠」)と呼ばれ、「風浪宮」の御神木として古来崇められています。推定樹齢2千年、幹周り8㍍余で、昭和35年に福岡県から天然記念物に指定されています。

 

 

写真②:福岡県指定天然記念物の御神木・「白鷺の楠」

 

本殿で参拝した際、「阿曇磯良丸の像」=写真③=がこちらを見ている気配にハッとなりました。この木像の前に立てた説明書には「磯良丸は少童命を祖神とする海洋族の首長で、神功皇后の三韓御親征の砌(みぎり)、志賀島に召されて軍船を整え海上指揮をして無事大任を果たした航海熟達の海士であります」と書かれています。

さらに「太平記に見る磯良丸は龍宮に住んでいたが神功皇后のお召しに従って香椎が浜に出現し皇后の三韓御親征に干珠満珠(かんじゅまんじゅ)を捧げて従軍し御助成をしたと述べられています」とし、「この像は磯良丸が多年海底の宮に住んでいたので身体中海藻や魚貝類がとりついていたという魁偉なる風貌を彫ったものです。因に阿曇史久現宮司は直系の六十七代目を数えます」とありました。

 

 なるほど、「阿曇磯良丸の像」には海藻がとりつき、足元には亀がはい、掌には干珠満珠を携えています。福岡市東区志賀島にある「志賀海神社」で磯良丸の御助成譚を知った時より、この像の迫力でイメージがぐっと鮮明になりました。一説には、船の名前に「丸」を付けるのは海神・磯良丸の「丸」に由来するという。 

 

  

写真③:掌に干珠満珠を携えた「阿曇磯良丸の像」

 

拝殿で柏手を打って見上げると、古風な方位盤が目にとまりました=写真④=。東西南北の字の周囲に十二支の絵が描かれています。

 

 

写真④:東西南北の字の周囲に十二支の絵が描かれた古風な方位盤

 

「風浪宮」外苑の「大川公園」には、大川市出身の作曲家古賀政男直筆の曲碑=写真⑤=が建っていました。名曲・「影を慕いて」の〈まぼろしの 影を慕いて 雨に日に〉の歌詞と音符が彫られています。

 

写真⑤:古賀政男直筆の歌詞と音符が彫られた名曲・「影を慕いて」の曲碑

 

大川の町歩きを終え、昼食に名物の「旅出しうなぎ」を味わおうと、大川市津の鰻料理専門店「浜松屋」=写真⑥=に立ち寄りました。筑後川下流で獲れる天然うなぎは、江戸時代からこの地方の特産で、同市が「大川・旅出しうなぎ」としてブランド化したそうです。ウナギのせいろむしを注文しましたが、肉厚のうなぎに秘伝のタレ、こだわりの米の甘さといい、以前、柳川市で賞味したのに勝るとも劣らない旨さでした。

 

 

写真⑥:大川市名物の「旅出しうなぎ」が旨い「浜松屋」

 

                                 (終わり)

「風浪宮」位置図

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2011年9月23日/〈大川・町歩き〉005・筑後川昇開橋

2011-09-23 03:57:56 | 〈大川・町歩き〉

 

 写真①:上昇し始めた可動桁 

     =大川市の「筑後川昇開橋」で、2011年9月18日午前10時50分撮影 

 

〈大川・町歩きスポット〉 5 

 

:筑後川昇開橋 

 

現存する国内唯一の昇開式可動橋である「筑後川昇開橋」(長さ約507㍍)は、大川市を流れる筑後川河口近くに架かっています。 

 

旧国鉄佐賀線の鉄道橋として昭和10年に架設され、列車通過以外は大型船が川を行き来できるように可動桁が上げられています。国鉄佐賀線が同62年に廃止されたあと、同市と対岸の諸富町(現佐賀市)の住民による地域発展のシンボルとしての保存運動が実り、平成8年に財団法人筑後川昇開橋観光財団が設立され、「筑後川昇開橋遊歩道」として新観光スポットに生まれ変わりました。

 

18日、「筑後川昇開橋」を訪れ、大川市側から対岸の佐賀市諸富町側へ歩いているうち、橋の真ん中にある可動桁(長さ24㍍、重さ48㌧)がスルスルと上昇し始めました=写真①=。可動桁は、ワイヤーで高さ23㍍まで5分で昇降します。可動桁が上昇するときは両側の鉄塔(高さ30㍍)=写真②=に下がっているウエイトが下がり、下降するときはウエイトが上がる仕組み。

 

 

写真②:「筑後川昇開橋」の中央にある高さ30㍍の赤い鉄塔

 

この可動橋の技術的意匠が評価され、平成8年に国登録文化財の第一陣として登録されたのをはじめ、同15年に国の重要文化財に指定、同19年に(社)日本機械学会から機械技術発展史上重要な成果を示すものとして「機械遺産」に認定されるなど、日本でただ一つの最古の昇開式可動橋として歴史的に貴重な近代産業遺産です。

 

 可動桁の上昇の見物を終え、「筑後川昇開橋遊歩道」を大川市側の岸辺へ戻る途中、カタクチイワシ科の魚で、日本では有明海に流れ込む筑後川や六角川などにのみ分布するエツのイラストが、歩道端のいすの上に描かれているのが目にとまりました=写真③=。

 

 

写真③:ナイフの様な形をしたエツを描いたイラスト

 

 大川市側の「筑後川昇開橋」のたもとにある「昇開橋若津町物産館」=写真④=では、地元のノリ佃煮など新鮮な海産物や農産物が売られていました。

 

 

写真④:大川市側の「筑後川昇開橋」のたもとにある「昇開橋若津町物産館」

 

また、大川市の筑後川左岸にある「筑後川昇開橋展望公園」近くには、大川ライオンズクラブが建てた歌人若山牧水の歌碑=写真⑤=がありました。牧水が大正13年3月21日、同市を訪れ、弟子ら十数人と歓談の一日を過ごしたときに詠んだ「筑後川 河口ひろみ 大汐の 干潟はるけき 春の夕ぐれ」という短歌が刻まれています。

 

 

写真⑤:大川市若津町の筑後川左岸にある若山牧水の歌碑

「筑後川昇開橋」位置図

 

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