吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2008年1月31日/〈日記〉205・「名呑池」改造工事進む

2008-01-31 18:24:58 | 日記
写真①:「名呑池」南側堰堤で進む石垣造り
     =福津市在自で、2008年1月31日午後4時11分撮影

 07年11月18日の〈日記〉188で、拙宅近くにある福津市在自の農業用溜め池「名呑池(なのみいけ)」で行われている堰堤改造工事を取り上げましたが、31日までに南側堰堤では石垣造りが進んでいます=写真①=。

 この「県営ため池等整備事業(一般)名呑地区堤体工事」は3月19日で終了の予定。以前、草がはえていた堰堤南斜面は、階段状に土が削られ、下部で石垣造りが急ピッチ。堰堤下にあった田んぼは、土で埋められ、運動広場のような状態です。

 北側の堰堤から南を見下ろすと、水がなくなった池の南端に排水口らしいコンクリートが目に付きました=写真②=。


写真②:北側の堰堤から見た水がなくなった「名呑池」
     =福津市在自で、1月31日午後4時撮影

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2008年1月29日/〈津屋崎の四季〉198・3羽のクロツラヘラサギ

2008-01-29 11:13:45 | 風物
写真①:「津屋崎干潟」で佇む1羽のクロツラヘラサギ
     =福津市渡で、2008年1月29日午前8時53分撮影

 福津市渡の「津屋崎干潟」で29日朝、1羽のクロツラヘラサギ(トキ科)が佇んでいるのを見かけました=写真①=。

 このあと、「津屋崎干潟」から北側の勝浦の農業用水路でも1羽のクロツラヘラサギを見つけました=写真②=。


写真②:農業用水路に降りたクロツラヘラサギ
     =福津市勝浦で、2008年1月29日午前9時07分撮影

 これで、「津屋崎干潟」と合わせて2羽のクロツラヘラサギを確認したことになりますが、勝浦の農業用水路から「津屋崎干潟」に戻って観察していると、もう1羽が舞い降りて来て2羽に増えました=写真③=。


写真③:「津屋崎干潟」に姿を見せた2羽のクロツラヘラサギ
     =福津市渡で、29日午前9時28分撮影

 ということは、「津屋崎干潟」とはかなり離れた勝浦にいた農業用水路の個体と合わせると、この朝のクロツラヘラサギの確認数は3羽になる計算。津屋崎で1月に3羽を観察したのは、「津屋崎干潟」での15,16日以来です。この朝、「津屋崎干潟」に姿を見せた2羽は、朝食の餌を十分獲ったのでしょうか、浅瀬で羽の中に嘴を入れて眠りました=写真④=。


写真④:浅瀬で羽の中に嘴を入れて眠る2羽のクロツラヘラサギ
     =「津屋崎干潟」で、29日午前9時36分撮影
                                  
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2008年1月28日/〈津屋崎の四季〉198・1羽のクロツラヘラサギ

2008-01-28 09:59:55 | 風物
写真①:「津屋崎干潟」で餌を探す1羽のクロツラヘラサギ
     =福津市渡で、2008年1月28日午前8時52分撮影

 福津市渡の「津屋崎干潟」で28日朝、1羽のクロツラヘラサギ(トキ科)が餌を探していました=写真①=。嘴に釣り糸が巻きつき、沖縄県豊城市の豊崎干潟で13日に保護されたクロツラヘラサギとは違って、こちらの個体は元気に浅瀬で嘴を左右に振って歩き回っています。

 1月に入ってから「津屋崎干潟」でのクロツラヘラサギの確認数は、3日の1羽以来、7日の2羽、14日の1羽、15、16両日の3羽、18日の1羽と、最高3羽を超えたことがありません。

 豊崎干潟で保護されたクロツラヘラサギは、幸い順調に体重が増えているとか。このまま体力の回復が進めば、2月には野生に返し、3月からの北帰行に間に合うように手当てを受ける予定という。    
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2008年1月25日/〈津屋崎の四季〉197・ジョウビタキも寒いよ

2008-01-25 17:37:23 | 風物
写真①:畑の竹のてっぺんで体を丸めているジョウビタキ
     =福津市的岡で、2008年1月25日午後3時53分撮影

 福津市津屋崎は連日、最高気温が10度を切る冷え込みです。夏の生まれの男には、春が待ち遠しいこのごろです。

 的岡にある畑の竹のてっぺんでは25日午後、冬鳥のジョウビタキ(ヒタキ科)の雄もじっと体を丸めて寒そう=写真①=。小雨がぱらつく冴えない天気のせいか、〝紋付き鳥〟の異名を持つトレードマークの翼の白斑も不鮮明に見えます。   
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2008年1月23日/〈日記〉204・インターネットラジオ局

2008-01-23 18:10:33 | 日記
写真①:インターネットラジオ放送局「サッタモまちかど放送局」のスタジオ
     =福岡市早良区西新5丁目で、2008年1月23日午後0時49分撮影

 福岡市早良区祖原の特定非営利活動法人「イマジン」が運営しているインターネットラジオ放送局「Sattamo(サッタモ)まちかど放送局」に23日、出演しました。早良区西新5丁目にあるスタジオ=写真①=へ福津市津屋崎から出かけ、「ほんものインタビュー」の番組で、若手男性キャスター堀之内さんから質問を受けながら約30分間話しました。

 「海とまちなみの会 吉村勝利さん」という紹介で、12時16分すぎから―45分ごろまで放送。まず、2007年2月の「津屋崎千軒 海とまちなみの会」(略称・「海とまちなみの会」、会員112人)の設立から、08年1月までの活動ぶりを尋ねられ、行政合併で誕生した福津市の「津屋崎千軒考え隊」に参加したメンバー約20人が中心となり、町興しボランティア団体として会を設立し、会報季刊紙『津屋崎千軒新聞』やまちなみ散策地図『津屋崎千軒そうつこう』の発行、無料配布、さらに07年11月からまちなみガイドを始めたことを説明しました。

 カラー印刷の『津屋崎千軒そうつこう』については、放送局の女性スタッフの方からも「きれいですね」と出来栄えを評価していただきました。

 また、あす24日(木曜)午後6時30分から福津市の「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」で開く新年定例会・〈津屋崎の〝蒸籠(せいろ)雑煮〟を楽しむ会〉について質問されました。

 〝蒸籠雑煮〟は、昭和初期に津屋崎新町にあった飲食店「千房(ちぶさ)」で提供されていた独特の雑煮で、博多芸者が「津屋崎の〝蒸籠雑煮〟を食べに行きまっしょう」と、お客さんを連れて来店していたという名物雑煮です。その『幻の雑煮』の味を、「海とまちなみの会」の女性会員らが再現し、レシピも用意する予定ですが、どのような味なのか楽しみです。津屋崎の食文化を掘り起こし、活動を楽しみながら津屋崎が行きたくなる町になるようにしたい――といった話で放送を終わりました。

 これまで、新聞記者時代に山口放送のテレビスタジオでアナウンサーと対談したり、福岡放送の「テレビ・コラム」で話したことがあります。ラジオでは、鹿児島放送のラジオに電話出演して話した経験もありましたが、インターネットラジオ局のスタジオ出演は初めてでした。パソコンの画面に映るカメラ映像を見ながらマイクに向かって話し、面白かったです。

 「イマジン」様には、「海とまちなみの会」の活動紹介の機会を与えていただき、本当にありがとうございました。
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2008年1月21日/〈津屋崎の四季〉196・「大寒」に紅梅五分咲き

2008-01-21 16:57:01 | 風物
写真①:住宅の庭を彩る五分咲きの紅梅
     =福津市宮司6丁目で、2008年1月21日午後3時46分撮影

 21日は、二十四節気の一つ「大寒」。寒さが最も厳しい日とあって、福津市津屋崎でも、風はあまりなかったものの、肌寒さを感じました。

 それでも、宮司6丁目にある住宅の庭先では、ウメ(バラ科)の赤い花が五分咲き=写真①=。このところ、雨の日が多かったためでしょうか。白梅と違って紅梅の方が、開花するとボリューム感があります。  
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2008年1月19日/〈日記〉203・キジバトの健康をいつまでも

2008-01-19 17:17:18 | 日記
写真①:農道の草むらに下りたキジバト
     =福津市的岡で、2008年1月19日午後4時15分撮影

 福津市津屋崎は19日、小雨がパラついたものの、18日よりは暖かでした。的岡の住宅わきの農道を散歩していると、草むらで1羽のキジバト(ハト科)=写真①=が餌を啄ばんでいました。

 ブドウ色の体に、青い羽の斑点模様が健康的な美しさを感じさせます。犬が近づくと、飛び上がって住宅の屋根のアンテナに止まりました。

 その住宅の前に、デイサービスのマイクロバスがゆっくりと停車。座席には、お年寄りの男女が並んでいます。4人に1人は65歳以上という津屋崎地区の人口構成を垣間見た気がしました。

 長姉は07年以来、脳梗塞で入院して言葉を失ったままですが、周りの人の家庭を見ても、ガンで療養中の妻の介護やデイサービスに行く義父の世話をするお嫁さんなど、高齢化の波がひたひたと押し寄せているようです。野生のキジバトのように、だれしも健康ではつらつとしていたいのですが――。
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2008年1月18日/〈津屋崎の四季〉195・カワラヒワの群れ

2008-01-18 09:26:03 | 風物
写真①:電線に止まって朝日を浴びるカワラヒワの群れ
     =福津市末広で、2008年1月18日午前8時30分撮影

 福津市津屋崎は、このところ最高気温が10度を切る寒い日が続いています。

 渡の「津屋崎干潟」では18日朝、環境省から絶滅危惧種に指定されているクロツラヘラサギ(トキ科)1羽と、ミサゴ(タカ科)が浅瀬や棒杭の上に止まって休んでいました。末広の畑では、カワラヒワ(アトリ科)の群れが電線に止まって朝日を浴び、気持ちよさそうです=写真①=。

 そうそう、渡田ノ浦の「天満神社」東側の「津屋崎干潟」では16日朝、1羽のバリケン(カモ科)=写真②=を見かけました。2日朝、末広の同干潟東岸を走る県道502号線を歩いていた個体のようで、田ノ浦に飼われていた住宅があるようです。


写真②:「津屋崎干潟」で憩うバリケン
     =福津市渡田ノ浦で、16日午前9時20分撮影
                               
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2008年1月17日/〈津屋崎まちなみ散策〉005・田ノ浦の「天満神社」

2008-01-17 06:54:39 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:参道に赤い鳥居が並ぶ田ノ浦の「天満神社」(上方の鳥居の所)
     =福津市津屋崎渡で、2008年1月16日午前9時10分撮影

〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 16 

:田ノ浦の「天満神社」

 福津市津屋崎渡の「津屋崎干潟」(入海)西側の里山に、田ノ浦の「天満神社」(田ノ浦天満宮)があります。道路わきから神社までの坂を上る参道に、赤い鳥居=写真①=が3つ建っており、〝赤鳥居〟とも呼ばれています。

 祭神は、菅原道真公。右大臣から大宰権帥に左遷され、太宰府に向かう途中の道真公が、同行の子供2人が疲れて泣いたため、休んだところとされ、お堂の中にご神鏡が安置されています=写真②=。そばに、昭和53年11月に天満宮を改築した渡区の寄進者の氏名が掲げられています。


写真②:ご神鏡が安置されているお堂
     =田ノ浦の「天満神社」で、16日午前9時12分撮影

 道真公が田ノ浦に立ち寄ったのが9月21日とされるため、「天満神社」ではこの日に神事を行うという。お堂前の境内から南方に、波静かな入海・「津屋崎干潟」と津屋崎橋が見下ろせます=写真③=。


写真③:境内から望む「津屋崎干潟」と津屋崎橋
     =田ノ浦の「天満神社」で、1月15日午前9時14分撮影

田ノ浦の「天満神社」
     田ノ浦の「天満神社」位置図
       (ピンが立っている所)
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2008年1月16日/〈津屋崎まちなみ散策〉004・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉15「静の墓」

2008-01-16 03:23:56 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:静御前の霊を弔うために建てられたという「静の墓」
     =福津市津屋崎生家で、2008年1月14日午前11時53分撮影

〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 15 

:「静の墓」と「臼杵の井戸」

 静御前(しずかごぜん)の墓が、津屋崎にあると聞くと、驚く人が多いでしょう。福津市津屋崎生家(ゆくえ)に、「静(しずか)の墓」(静子の碑)=写真①=があるのです。

 もと白拍子で源義経の側室(妓=まいひめ)・静は、後鳥羽天皇(1185-1198年)の主殿助(とのものすけ=雑用係)の頭の娘臼杵(うすき)静子で、京都に住んでいました。義経の子を宿していた静は平安時代後期の文治元年(1185年)、任国の九州へ下ると告げて吉野を出た義経を訪ねようと、豊後国(大分)府内にいる義経の甥の大友能直(おおともよしなお)の所へ行き待っていたものの、義経の行方はつかめません。

 さらに、静は第三十六代宗像大宮司氏国の娘だった能直の妻から、実家の宗像で義経の行方を尋ねるように言われます。氏国を頼って宗像へ行ったところ、奴山郡勝田(かつた)の里(生家)にある氏国の別荘に身を潜めて、義経を捜すよう勧められます。しかし、氏国から義経は九州には来ず、奥州の藤原秀衛(ふじわらひでひら)の館に行き、近く鎌倉から討手が奥州に向かうと知らされて嘆き、勝田の里で次のような義経を慕う歌を詠みました。

 〈わが君の 行方も知らず 静か川 流の末に 身をやとどめむ〉

 文治2年(1186年)3月、静は男児を産み、臼杵太郎と名付けました。静が氏国の別荘で亡くなった後、静が歌に詠んでいた〈行方〉にちなみ、勝田の里の地名を生家の里と改め、近くの谷川を「静か川」と呼ぶようになったという。生家は、太郎が生まれた家のある里というわけです。「静の墓」には、幼児を抱いた石像=写真②=が建てられています。太郎を抱く静の像でしょうか。


写真②:「静の墓」に建てられた幼児を抱いた石像
     =福津市生家で、1月15日午後4時21分撮影

静の墓
       「静の墓」の位置図
       (ピンが立っている所)

 臼杵太郎は成長後、豊後国へ行きましたが、生地との別れを惜しみ、井戸の中に臼と杵を入れ、「臼杵の井戸」として「静の墓」から西に離れた生家区に残されたと伝えられています。現地を訪ねると、道路わきの畑との間にある「臼杵の井戸」のそばには、石の祠と2基の庚申塔が建っていました=写真③=。


写真③:石の祠(中央)と2基の庚申塔(祠の左にある楕円形の石塔)がそばに建つ「臼杵の井戸」(右端の四角い部分)
     =福津市生家で、1月15日午後4時24分撮影

 「臼杵の井戸」は、約1㍍四方の囲いの中にあり、石組みの井戸には水がたまっています=写真④=。臼と杵が井戸の底にあるか、濁って見えません。あえて確かめたくはないですね。定説では、静の生没年は不詳で、静の産んだ赤子は頼朝の命で殺されたとされるものの、生家を含め伝説による静の墓は、全国で約20か所あるとされています。


写真④:石組みの中に水がたまっている「臼杵の井戸」
     =福津市生家で、1月15日午後4時26分撮影

臼杵の井戸
       「臼杵の井戸」の位置図
       (ピンが立っている所)
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