吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2011年9月30日〈エッセー〉019:恩師・脇野龍馬先生と坂本龍馬

2011-09-30 17:56:36 | 津屋崎まちなみ散策

 

 

写真①:別府・楽天地でゾウに跨り、記念撮影した脇野龍馬先生と6年1組児童

    =大分県別府市で、津屋崎町立津屋崎小学校の修学旅行で撮影

 

連載エッセー『一木一草』

 

第19回:2011.09.30

 

恩師・脇野龍馬先生と坂本龍馬 

 

私が旧津屋崎町(現福津市)立津屋崎小学校6年生の担任だった恩師・脇野龍馬(わきの・たつま)先生が亡くなられたのを同級生Mさんから聞き、旧福間町(現福津市)八並にあるご自宅を9月27日、弔問しました。麗子夫人のお話から、龍馬先生のお名前が坂本龍馬(りょうま)にあやかって付けられたことを初めて知り、胸が熱くなるのを禁じ得ませんでした。

 

私が津屋崎小を卒業したのは、昭和32年(1957年)3月。1年生から5年生まで、同じ女性教諭が担任でした。音楽と演劇が好きな先生で、毎年の学芸会で劇の主役や朗読をやらされるのが嫌で、なんで担任の先生を変えてもらえないのかと思ったものです。津小時代のアルバムの中に、修学旅行で訪れた別府・楽天地でゾウに跨り、記念撮影した脇野先生と6年1組児童の写真=写真①=がありますが、おそらく卒業前の同31年に撮ったものでしょう。

 

 脇野先生が病気で他界されたのは、今年の5月18日でした。昭和3年(1928年)7月27日のお生まれで、享年82歳。私が同19年(1944年)8月生まれなので、16歳年上の先生が津屋崎小で12歳の私の組担任に赴任された時は28歳の青年教師だったはずです。小さなことにこだわらない性格で、伸び伸びと教えていただいた先生の印象が残っています。アメリカの西部劇映画・『荒野の七人』に出演したジェームズ・コバーンのような風貌で、背が高く、かっこいい先生で、尊敬していました。

 

 脇野先生は、農家の8人きょうだい(男2人、女6人)の次男。ご長男が獣医になり軍隊勤務の後、横浜市に居を構えられたため、先生が実家を継がれました。宗像市池田から嫁いで来られた麗子夫人によると、龍馬の名前は、年の離れたご長男が坂本龍馬ファンで「りょうま」と呼ばせるのをはばかって「たつま」と付けられたという。先生はお亡くなりになる7,8年前までは家族で龍馬が生まれた高知や龍馬が日本初の商社・「海援隊」を開設した長崎への旅行も楽しまれ、お元気だった由。

 

 脇野先生の祖父は、旧神興村長。先生の姉上が津屋崎渡の柴田家に嫁がれ、そのお子様が町議で渡の「東郷神社」の役員も務められ、歌が上手く、「津屋崎盆踊り」歌の名手という。また、先生の父君は「東郷神社」を祀られた津屋崎町議の安部正弘氏とご親交があったといい、私が観光客らにボランティアガイドで案内している同神社と先生のご家族のご縁があることに奇遇を感じました。

 

 私の尊敬する歴史上の人物の一人は、坂本龍馬です。龍馬先生は、「龍馬」の名前をいただかれただけに、その人格形成に大きな影響を受けられたのではないでしょうか。薩摩と長州を結びつけ、明治維新をもたらしながら刺客による非業の最期を遂げた龍馬の生き方や、「船中八策」などアイデアマンの才能に共感を覚えます。

 

「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」(敬天愛人)、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也」の言葉を残した西郷隆盛とともに、坂本龍馬は人生の師にふさわしい偉人です。

 

「感動が人を動かし、出会いが人を変えていく」というのも、私が好きな言葉です。12歳だった私は、津屋崎小の教室で〝龍馬先生〟と出会って感動し、変わっていったと確信しています。ご霊前に供花とともに、拙著・吉村青春第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン―』と津屋崎の歴史と自然のガイド本・『津屋崎学――A  Quaint  Town  Tsuyazaki-sengen  Guide』をお供えし、ご冥福をお祈りしました。合掌。

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2011年9月27日/〈津屋崎の四季〉819・黄金の稲田

2011-09-27 08:10:35 | 風物

 

 

写真:向こう中央に対馬見山を望む黄金の稲田 

=福津市在自で、2011年9月27日午前6時40分撮影

 

秋晴れのいい天気だ!

 

そう叫びたくなるくらいに、9月27日朝の福津市津屋崎は、爽やかです。半袖シャツで散歩をしていても、暑くなく、寒くもなく、いい感じ。在自の農道に差し掛かると、黄金の稲田が広がっていました=写真①=。

 

在自地区から津屋崎地区へ通じる田んぼの真ん中の農道まで足を伸ばし、南の津屋崎海岸の方を眺めると、そこも〝黄金の絨毯〟が敷き詰められているようです=写真②=。

 

 

写真②:目の前に敷き詰められた〝黄金の絨毯〟(向こう中央は福津市文化会館「カメリア」)

=福津市在自で、27日午前6時30分撮影

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〈催事〉0155:きょう第3回「〈津屋崎千軒〉ふるさと塾」

2011-09-25 01:28:39 | 行楽催事

 

 写真第3回「〈津屋崎千軒〉ふるさと塾」のレジュメ

     

きょう25日午後2時から「津屋崎千軒民俗館・『藍の家』」で 

第3回「〈津屋崎千軒〉ふるさと塾」(参加無料)を開講 

――津崎米夫講師の「津屋崎馬車鉄道の話を聴く会」です

 

~NHKテレビで放送された

「宮地嶽神社」前の線路を走る馬鉄のビデオも再生します

  (昭和初期撮影)

 

  きょう9月25日午後2時から福津市津屋崎4丁目の「津屋崎千軒民俗館・『藍の家』」で、同市の町興しボランティア団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」主催の第3回「〈津屋崎千軒〉ふるさと塾」=写真①=が開かれます。「津屋崎馬車鉄道」宮司駅員・津崎米夫講師(87)(同市津屋崎1)の「津屋崎馬車鉄道の話を聴く会」で、受講無料(事前申込不要)です。平成10年(1998年)にNHKテレビで放送された「宮地嶽神社」鳥居前の線路を走る馬鉄を昭和初期に撮影した「フィルムに残された馬車鉄道」の珍しいビデオも再生、披露します。

   「津屋崎馬車鉄道」(立石新社長、本社・宮地村前田、資本金5万円)は明治41年(1908年)開業。1頭の馬に引かせた木製の客車(乗客16人乗り、前後に御者台付き)を幅91.4㌢の線路に走らせ、〝馬鉄〟の愛称で親しまれました。時速約10㌔で、九州鉄道(現JR)福間駅前から宮地嶽神社鳥居前停車場を経て津屋崎まで3.8kmの路線=写真②=を25分で運行。運賃は、福間―宮司間が片道10銭、往復15銭。当時、うどん1杯が5銭、豆腐2丁が10銭だったという。最盛期は主に同神社参拝客や海水浴客ら年間18万人の乗客を運びましたが、昭和14年3月に乗合バス利用の時代となり、廃止されました。

 

 

 

写真②:「津屋崎馬車鉄道」路線図

 

 津崎さんは、大正13年(1924年)、津屋崎町生まれ。8月27日に福津市宮司3の旅館「大阪屋」で開いた第2回「〈津屋崎千軒〉ふるさと塾」で、同旅館近くに馬鉄の宮司停車場があったことが話題になり、津崎さんから福間駅―津屋崎駅間のルートや運行状況、賑わいぶりなどを第3回「ふるさと塾」で詳しく話してもらうことになりました。

 

 旧津屋崎町が発行した『津屋崎町史 通史編』には〈明治41年4月に福間駅から宮地まで、翌42年8月に津屋崎までを開業した。最大の客は宮地嶽神社の参拝客で、その〝ご利益〟に負うところは大きかった。しかしその後、大正13年(1924)に「博多湾鉄道汽船」(湾鉄)に合併され「津屋崎軌道線」として存続する〉と書かれています。

 

 25日の「ふるさと塾」では、〝馬笛一声〟でパカパカと走った牧歌的な乗り物・津屋崎馬車鉄道の当時の馬糞処理に困ったエピソードや馬鉄=写真③=利用の参拝客で賑わっていた宮地嶽神社の様子などを話していただきます。

 

写真③:津屋崎―福間間を走っていた馬車鉄道(津崎米夫さん撮影=吉村青春著『津屋崎学』から)

  〈津屋崎千軒〉ふるさと塾」は、津屋崎の歴史や文化、自然、習俗、景観、祭り、民話、建築遺産、観光などを講師に学び、登録塾生も時には講師として自らの体験や蘊蓄を教え合い、楽しみながら交流します。福津市内外から参加を募り、受講は無料。津屋崎の宝の発掘と郷土の素晴らしさの認識を深め、津屋崎ファンとの交流人口を増やし、町興し、地域づくりの〝人財〟育成も目指しています。受講者の皆様を「ふるさと塾」塾生として登録、次回以降の講演会案内やイベントなどの開催通知を行います。7月24日には、開塾記念の第1回講演会を市文化会館で開き、講師の大森洋子・久留米工業大学建築・設備工学科教授に、「〈津屋崎千軒〉の町並みの印象と保全策」の演題で講演していただきました。

 「津屋崎千軒民俗館・『藍の家』」福津市津屋崎4丁目14―20。℡0940-52―0605=午前10時―午後4時)

 

「津屋崎千軒民俗館・『藍の家』」位置図

 

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2011年9月24日/〈大川・町歩き〉006・風浪宮

2011-09-24 05:03:07 | 〈大川・町歩き〉

 

 写真①:国指定重要文化財の「風浪宮」本殿 

     =大川市酒見で、2011年9月18日午前10時50分撮影 

 

〈大川・町歩きスポット〉 6 

 

:風浪宮 

 

大川市酒見にある「風浪宮」(ふうろうぐう)は、地元では「おふろうさん」と呼ばれて親しまれています。国指定重要文化財の本殿=写真①=は室町時代末期の永禄3年(1560年)、筑後国南部に約12万石を領した筑後十五城筆頭大名として筑後を治め、蒲池城を本拠としていた蒲池鑑盛公が再建。三間社流造り桧皮葺きで、刀剣のような屋根の反りと朱塗りの本丸柱で全体の重みを支える豪壮な造りです。

 

「風浪宮」の創建は、約1,800年前と伝えられ、海神・少童命(ワタツミノミコト)、息長垂姫命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)、住吉大神、高良玉垂命(コウラタマタレノミコト)を祭神としています。社伝によると、神功皇后が朝鮮御親征から帰還の洋上で暴風に遭われ、少童命の御加護を得て無事に葦原の津、現在の榎津(えのきづ)に着かれました。その折、皇后の御船のあたりに忽然と現れた白鷺を風浪の難から守護した少童命の御化神だとして、武内宿称(たけうちのすくね)に白鷺の後をつけさせたところ、北東に飛び立ち、境内の大楠=写真②=の上に止まりました。このため、ここを聖地として少童命を祀らせ、海上の指揮をした阿曇磯良丸(あずみいそらまる)を「風浪宮」の初代宮司として留めたという。

 

 この大楠は、「白鷺の楠」(別称・「鷺見の楠」)と呼ばれ、「風浪宮」の御神木として古来崇められています。推定樹齢2千年、幹周り8㍍余で、昭和35年に福岡県から天然記念物に指定されています。

 

 

写真②:福岡県指定天然記念物の御神木・「白鷺の楠」

 

本殿で参拝した際、「阿曇磯良丸の像」=写真③=がこちらを見ている気配にハッとなりました。この木像の前に立てた説明書には「磯良丸は少童命を祖神とする海洋族の首長で、神功皇后の三韓御親征の砌(みぎり)、志賀島に召されて軍船を整え海上指揮をして無事大任を果たした航海熟達の海士であります」と書かれています。

さらに「太平記に見る磯良丸は龍宮に住んでいたが神功皇后のお召しに従って香椎が浜に出現し皇后の三韓御親征に干珠満珠(かんじゅまんじゅ)を捧げて従軍し御助成をしたと述べられています」とし、「この像は磯良丸が多年海底の宮に住んでいたので身体中海藻や魚貝類がとりついていたという魁偉なる風貌を彫ったものです。因に阿曇史久現宮司は直系の六十七代目を数えます」とありました。

 

 なるほど、「阿曇磯良丸の像」には海藻がとりつき、足元には亀がはい、掌には干珠満珠を携えています。福岡市東区志賀島にある「志賀海神社」で磯良丸の御助成譚を知った時より、この像の迫力でイメージがぐっと鮮明になりました。一説には、船の名前に「丸」を付けるのは海神・磯良丸の「丸」に由来するという。 

 

  

写真③:掌に干珠満珠を携えた「阿曇磯良丸の像」

 

拝殿で柏手を打って見上げると、古風な方位盤が目にとまりました=写真④=。東西南北の字の周囲に十二支の絵が描かれています。

 

 

写真④:東西南北の字の周囲に十二支の絵が描かれた古風な方位盤

 

「風浪宮」外苑の「大川公園」には、大川市出身の作曲家古賀政男直筆の曲碑=写真⑤=が建っていました。名曲・「影を慕いて」の〈まぼろしの 影を慕いて 雨に日に〉の歌詞と音符が彫られています。

 

写真⑤:古賀政男直筆の歌詞と音符が彫られた名曲・「影を慕いて」の曲碑

 

大川の町歩きを終え、昼食に名物の「旅出しうなぎ」を味わおうと、大川市津の鰻料理専門店「浜松屋」=写真⑥=に立ち寄りました。筑後川下流で獲れる天然うなぎは、江戸時代からこの地方の特産で、同市が「大川・旅出しうなぎ」としてブランド化したそうです。ウナギのせいろむしを注文しましたが、肉厚のうなぎに秘伝のタレ、こだわりの米の甘さといい、以前、柳川市で賞味したのに勝るとも劣らない旨さでした。

 

 

写真⑥:大川市名物の「旅出しうなぎ」が旨い「浜松屋」

 

                                 (終わり)

「風浪宮」位置図

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2011年9月23日/〈大川・町歩き〉005・筑後川昇開橋

2011-09-23 03:57:56 | 〈大川・町歩き〉

 

 写真①:上昇し始めた可動桁 

     =大川市の「筑後川昇開橋」で、2011年9月18日午前10時50分撮影 

 

〈大川・町歩きスポット〉 5 

 

:筑後川昇開橋 

 

現存する国内唯一の昇開式可動橋である「筑後川昇開橋」(長さ約507㍍)は、大川市を流れる筑後川河口近くに架かっています。 

 

旧国鉄佐賀線の鉄道橋として昭和10年に架設され、列車通過以外は大型船が川を行き来できるように可動桁が上げられています。国鉄佐賀線が同62年に廃止されたあと、同市と対岸の諸富町(現佐賀市)の住民による地域発展のシンボルとしての保存運動が実り、平成8年に財団法人筑後川昇開橋観光財団が設立され、「筑後川昇開橋遊歩道」として新観光スポットに生まれ変わりました。

 

18日、「筑後川昇開橋」を訪れ、大川市側から対岸の佐賀市諸富町側へ歩いているうち、橋の真ん中にある可動桁(長さ24㍍、重さ48㌧)がスルスルと上昇し始めました=写真①=。可動桁は、ワイヤーで高さ23㍍まで5分で昇降します。可動桁が上昇するときは両側の鉄塔(高さ30㍍)=写真②=に下がっているウエイトが下がり、下降するときはウエイトが上がる仕組み。

 

 

写真②:「筑後川昇開橋」の中央にある高さ30㍍の赤い鉄塔

 

この可動橋の技術的意匠が評価され、平成8年に国登録文化財の第一陣として登録されたのをはじめ、同15年に国の重要文化財に指定、同19年に(社)日本機械学会から機械技術発展史上重要な成果を示すものとして「機械遺産」に認定されるなど、日本でただ一つの最古の昇開式可動橋として歴史的に貴重な近代産業遺産です。

 

 可動桁の上昇の見物を終え、「筑後川昇開橋遊歩道」を大川市側の岸辺へ戻る途中、カタクチイワシ科の魚で、日本では有明海に流れ込む筑後川や六角川などにのみ分布するエツのイラストが、歩道端のいすの上に描かれているのが目にとまりました=写真③=。

 

 

写真③:ナイフの様な形をしたエツを描いたイラスト

 

 大川市側の「筑後川昇開橋」のたもとにある「昇開橋若津町物産館」=写真④=では、地元のノリ佃煮など新鮮な海産物や農産物が売られていました。

 

 

写真④:大川市側の「筑後川昇開橋」のたもとにある「昇開橋若津町物産館」

 

また、大川市の筑後川左岸にある「筑後川昇開橋展望公園」近くには、大川ライオンズクラブが建てた歌人若山牧水の歌碑=写真⑤=がありました。牧水が大正13年3月21日、同市を訪れ、弟子ら十数人と歓談の一日を過ごしたときに詠んだ「筑後川 河口ひろみ 大汐の 干潟はるけき 春の夕ぐれ」という短歌が刻まれています。

 

 

写真⑤:大川市若津町の筑後川左岸にある若山牧水の歌碑

「筑後川昇開橋」位置図

 

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2011年9月22日/〈津屋崎の四季〉818・「初彼岸」参り前にヒガンバナ

2011-09-22 04:35:56 | 風物

 

 

写真:「在自川」沿いの農道わきに咲いた赤いヒガンバナ 

=福津市在自で、2011年9月22日午前6時15分撮影

 

 

9月22日朝の福津市津屋崎は、台風15号が過ぎ去り、ちょっと寒いくらいです。

 

秋の彼岸到来を告げるかのように、在自の「在自川」沿いの農道わきには赤いヒガンバナ(ヒガンバナ科)が咲いています=写真①=。

 

近くのビニールハウスのある田んぼの畦も、ヒガンバナの群落で彩られていました=写真②=。

 

 

写真②:ビニールハウスのある田んぼの畦を彩るヒガンバナの群落

 

 

今年は、7月に亡くなった長姉の「初彼岸」参りに24日、天神町の実家の霊前にお参りする予定です。

 

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2011年9月22日/〈大川・町歩き〉004・光楽寺

2011-09-21 18:23:02 | 〈大川・町歩き〉

 

 

写真①:「光楽寺」本堂 

 

     =大川市小保で、2011年9月18日午前10時30分撮影 

 

〈大川・町歩きスポット〉 4

 

 :光楽寺

 

柳河藩主・立花宗茂が江戸時代初期の寛永元年(1624年)に創建した「光楽寺」(浄土宗本願寺派は、福岡県大川市小保にある国指定重要文化財・旧「吉原家住宅」近くにあります。

 

本堂=写真①=は、江戸時代後期の弘化4年(1847年)に完成。全長21㍍、奥行き12.6㍍の堂庫裏形式の建物で、県内でも珍しい大型堂庫裏という。大屋根が二重に見える造りになっているのが特徴で、上層は寄棟平入、外側は大壁で土蔵造り風の感じ。下層は、周囲に庇(ひさし)がめぐる形になっています。

 

本堂の天井には、江戸末期の柳河藩御用絵師・北島勝永(1795-1867年)らが動植物や人物を描いた見事な168枚の板絵があります。

 

 山門=写真②=は四脚門で、切妻建て平入り本瓦葺。本堂とほぼ同時期か、やや新しい時期の建造とみられています。

 

 

写真②:「光楽寺」山門

=大川市小保で、18日午前10時30分撮影

 

「光楽寺」位置図

 

:光楽寺

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2011年9月21日/〈日記〉436・公立図書館3館に『津屋崎学』収蔵

2011-09-21 09:02:00 | 日記

 

 

写真①:『津屋崎学』第9版上製本の表紙

     =福津市津屋崎の拙宅で、2011年9月21日撮影 

 

福津市立、福岡県立、国立国会各図書館に収蔵

『津屋崎学――A  Quaint  Town  Tsuyazaki-sengen  Guide

閲覧できるようになりました

 

 古里・津屋崎の素晴らしさを子や孫の世代に伝えたいと1冊の本にまとめた『津屋崎学――A  Quaint  Town  Tsuyazaki-sengen  GuideB5判カラー、314㌻。非売品)が、9月21日までに公立図書館3館に収蔵され、閲覧できるようになりました。福津市立図書館と、福岡県立図書館(福岡市)、国立国会図書館(東京)で、いずれも7月27日に発行した『津屋崎学』第7版上製本を寄贈したものです。東京や福岡在住で津屋崎ゆかりの方にご覧いただければと願っています。

 

 『津屋崎学』は、インターネットのポータルサイト「goo」に連載した吉村青春ブログ「津屋崎センゲン」http://blog.goo.ne.jp/magpie03の『津屋崎学』記事をもとに、東京にある発行所・Obunest(オブネスト)=ソフト開発のイースト株式会社および印刷会社の欧文印刷の共同事業名=で書籍化した津屋崎の郷土史と自然のガイド本です。第1版並製本(B5判カラー、432㌻)を2月12日に発行、私が所属している福津市の町興し団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」のボランテイアガイド養成講座の受講者教本として実費頒布(並製本7,400円、上製本14,000円)しています。

 

収録した記事は、「第1章 津屋崎の魅力」から始め、「第2章 津屋崎塩田の軌跡~津屋崎は塩で保(も)つ~」=写真②=、「第3章 〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門と津屋崎」や、「第16章 卯建と鏝絵の町家巡り」、小説やテレビ・ドラマに描かれた津屋崎、失われた町家、〝幻の津屋崎鉄道〟などを紹介した「第18章 津屋崎よもやま話」、「第19章 津屋崎の食文化」まで全19章で構成したあと、「津屋崎歴史年表」を掲載。

  

写真②:「第2章 津屋崎塩田の軌跡」の「第2節 通称『塩倉庫』」の掲載ページ

 

解説記事に写真402枚付き

 

明治創業の荒物屋・旧「乙藤商店」や旧「田中薬局」など古い町家の様子と、「豊村酒造」=写真③=の鏝絵、旧「麦屋惣平衛邸」の卯建、「津屋崎干潟」に渡来する冬鳥・クロツラヘラサギ、東京で撮影した泉岳寺や東郷神社、庚申信仰の柴又帝釈天も含め、平成15年から撮影した郷土の祭りや社寺、石碑などの写真402枚と地図60枚付きで分りやすく表現しています。本書で、郷土の素晴らしさを多くの方に知っていただければ嬉しく存じます。

 

 

写真③:「第6章 明治の津屋崎」の「第1節 豊村酒造」の掲載ページ

 

「海とまちなみの会」の第3期「〈津屋崎千軒そうつこう〉ガイド養成講座」(参加無料)は7月からスタート、あす22日午後2時から第5回講義「〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門と津屋崎」を福津市文化会館2階・視聴覚室で約40分行ったあと、伝右衛門が明治41年に渡半島の曽根の鼻に築いた「活洲場跡」や宮地嶽神社に寄贈した鳥居と石垣などを車で見て回り、現地研修します。養成講座は、12月15日までの原則毎月第3,第4木曜日に計10回開講して修了です。講師は、不肖私と「海とまちなみの会」ガイドなどが担当します。問い合わせされる方は、事務局・吉村(Email:yosi3019@sage.ocn.ne.jp)へ、氏名、住所、年齢、電話番号をメールでご連絡下さい。

 

 10月以降の講義と現地研修の内容は、次の通りです。

第6回講義:10月13日=津屋崎馬車鉄道と在自唐坊跡遺跡
第7回講義:10月20日=津屋崎古墳群
第8回講義:11月17日=貝寄せの浜、アカウミガメ、カブトガニ、朝鮮通信使と相島交流の石碑
第9回講義:11月24日=新泉岳寺、東郷公園、東郷神社
第10回講義:12月15日=宮地嶽神社、クロツラヘラサギ、ニッポンバラタナゴ

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2011年9月21日/〈大川・町歩き〉003・旧「吉原家住宅」

2011-09-20 18:35:24 | 〈大川・町歩き〉

 

 

写真①:国指定重要文化財・旧「吉原家住宅」の御成門 

     =大川市小保で、2011年9月18日午前10時30分撮影 

 

〈大川・町歩きスポット〉 3 

 

:旧「吉原家住宅」 

 

大川市小保にある旧「吉原家住宅」=写真①=は、国指定重要文化財の建物です。柳河藩小保町の別当職(町の行政的支配者)を代々務め、後に同藩の村落の行政区分である「蒲池組」(10村程度で構成)の大庄屋となった吉原家の居宅で、肥後街道=写真②=に面していました。幕府巡検使の宿泊や藩主の狩猟の折の休憩といった藩の公用に利用され、測量のためこの地に立ち寄った伊能忠敬は、『測量日記』に文化9年(1812年)10月に二度、小保町別当吉原正右衛門家に止宿したと記録しています。 

 

 

写真②:旧「吉原家住宅」前の「肥後街道」(向こう左手に見えるのは柳河藩主・立花宗茂が創建した「光楽寺」の土塀) 

=大川市小保で、18日午前10時35分撮影 

 

 屋敷は南面し、正面中央に御成門、右端に通用門を構えて塀を巡らせています。建物は主屋(入母屋造平屋)に、切妻造の北角屋敷(一部2階建て)と南角屋敷(平屋)が接続。主屋は、江戸時代後期の文政8年(1825年)に建築。式台玄関は入母屋造の屋根で、格式の高さを示しています。天保9年(1838年)に幕府巡検使の宿泊に備えて増改築した際、御成門を新造したという。複雑な屋根の構成と大壁造の重厚な外観=写真③=など、江戸後期の上質な大型民家の姿を伝えています。 

 

 

写真③:複雑な屋根の構成と大壁造の重厚な外観

=旧「吉原家住宅」敷地で、18日午前10時25分撮影

 

主屋は、農家の整形四間取り系の部屋配置ですが、大庄屋にふさわしく最大規模に発展した間取りです。表側に玄関から「上の間」=写真④=に至る接客部分と、裏側に居住用の部分を設けた平面構成が特色。

 

 

写真④:付書院と化粧竹組の丸窓で飾られた「上の間」

=旧「吉原家住宅」で、18日午前10時5分撮影

 

窓枠の頭部が火炎を思わせる曲線の「火灯窓(かとうまど)」(「花頭窓」とも書く。別名「源氏窓」、「書院窓」))も取り入れられ、座敷回りに洒落た意匠を備えています。

 

 

写真⑤:座敷回りを飾るお洒落な「火灯窓」

 

座敷には、据え付けの箪笥=写真⑥=もありました。

 

 

写真⑥:座敷に据え付けの箪笥

 

 神棚=写真⑦=も、大庄屋の家らしく立派です。

 

 

写真⑦:大庄屋の家らしく立派な神棚

 

 土間は、大きな梁と差鴨居で組み固められており、豪快さがうかがえます=写真⑧=。

 

 

写真⑧:大きな梁が組み合わされた土間

 

 主屋の東北にある収蔵庫(明治21年建築)と資料館(同35年建築)の二棟の土蔵=写真⑨=は本瓦葺で、ともに大川市指定文化財。

 

 

写真⑨:旧「吉原家住宅」土蔵群(正面が所蔵品を展示している資料館、右が収蔵庫)

 

主屋の背後には、「屋敷神」=写真⑩=が祀られていました。

 

 

写真⑩:主屋の背後に祀られている「屋敷神」

 

 旧「吉原家住宅」:福岡県大川市小保136-17。℡0944・86・8333.開館時間は、午前9時―午後5時。毎週月曜(祝日の場合は翌日)休館。入館料は無料。

 

旧「吉原家住宅」位置図

 

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2011年9月20日/〈大川・町歩き〉002・馬継所の境界石

2011-09-20 06:33:28 | 〈大川・町歩き〉

 

 

写真①:道路わきに並ぶ「藩境の石列」と呼ばれる「小保・榎津」の境界石 

     =大川市小保町で、2011年9月18日午後0時10分撮影 

 

〈大川・町歩きスポット〉 2

 

:馬継所の境界石

 

大川市小保にある「小保八幡神社」前の道路わきに、「藩境の石列」=写真①=と呼ばれる「小保・榎津」の境界石(高さ約1㍍)が28本、横列に建てられています。江戸時代の小保地区は、柳河藩と久留米藩の藩境に位置し、宿場や港町として栄えていました。

 

大川市教委が平成2年に「藩境の石列」を発掘調査した結果、石柱は29本あったことが判明。同じ間隔で、二か所に穴が開けられており、この穴に横木を通して馬継所(うまつぎしょ)として利用されていました。

 

江戸中期の宝暦9年(1759年)の『小保町絵図』にこの石列が描かれており、18世紀中頃には建てられていたことが分かっています。文化9年(1812年)、測量のためこの地に立ち寄った伊能忠敬は測量日記に「右八幡宮 左側久留米柳河境石」と書いています。

 

「藩境の石列」近くの「浄福寺」の山門前に「第八次伊能忠敬測量隊御宿跡 文化九年(一八一二)十月十二日」と刻まれた石碑=写真②=が建てられています。そばに「浄福寺 諸国巡検使御目付御本陣跡 天保九年(一八三八)六月二十日」と彫られた石碑も並んでおり、肥前から筑後に入る幕府御巡検使が立ち寄る場所でもありました。

 

 

写真②:「第八次伊能忠敬測量隊御宿跡」(左)と「浄福寺 諸国巡検使御目付御本陣跡」と彫られた石碑

=大川市小保町の「浄福寺」山門前で、18日午後0時15分撮影

 

「浄福寺」は、山号を地名をとって「小保山」といいます。安土桃山時代の天正年間(1573年―)のころまでは、津村城主津村秀門の祈願寺・天台宗小保山受信寺と称していましたが、江戸時代初期の元和6年(1620年)、二世了世の時に本願寺に帰属して小保山浄福寺と改称されました。お城の北の寺といわれた「浄福寺」の山門=写真③=は、明治5年に柳河城の天守閣が焼失した後、城の辻御門を移したものです。山門はすべて仏寺特有の彫刻が飾りつけてあるのに、同寺の山門は飾りがなく、城門の風格を残しているという。

 

 

写真③:城門の風格を残している「浄福寺の」山門

=大川市小保町で、18日午後0時15分撮影

 「境界石」位置図

 

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