写真①:別府・楽天地でゾウに跨り、記念撮影した脇野龍馬先生と6年1組児童
=大分県別府市で、津屋崎町立津屋崎小学校の修学旅行で撮影
・連載エッセー『一木一草』
第19回:2011.09.30
恩師・脇野龍馬先生と坂本龍馬
私が旧津屋崎町(現福津市)立津屋崎小学校6年生の担任だった恩師・脇野龍馬(わきの・たつま)先生が亡くなられたのを同級生Mさんから聞き、旧福間町(現福津市)八並にあるご自宅を9月27日、弔問しました。麗子夫人のお話から、龍馬先生のお名前が坂本龍馬(りょうま)にあやかって付けられたことを初めて知り、胸が熱くなるのを禁じ得ませんでした。
私が津屋崎小を卒業したのは、昭和32年(1957年)3月。1年生から5年生まで、同じ女性教諭が担任でした。音楽と演劇が好きな先生で、毎年の学芸会で劇の主役や朗読をやらされるのが嫌で、なんで担任の先生を変えてもらえないのかと思ったものです。津小時代のアルバムの中に、修学旅行で訪れた別府・楽天地でゾウに跨り、記念撮影した脇野先生と6年1組児童の写真=写真①=がありますが、おそらく卒業前の同31年に撮ったものでしょう。
脇野先生が病気で他界されたのは、今年の5月18日でした。昭和3年(1928年)7月27日のお生まれで、享年82歳。私が同19年(1944年)8月生まれなので、16歳年上の先生が津屋崎小で12歳の私の組担任に赴任された時は28歳の青年教師だったはずです。小さなことにこだわらない性格で、伸び伸びと教えていただいた先生の印象が残っています。アメリカの西部劇映画・『荒野の七人』に出演したジェームズ・コバーンのような風貌で、背が高く、かっこいい先生で、尊敬していました。
脇野先生は、農家の8人きょうだい(男2人、女6人)の次男。ご長男が獣医になり軍隊勤務の後、横浜市に居を構えられたため、先生が実家を継がれました。宗像市池田から嫁いで来られた麗子夫人によると、龍馬の名前は、年の離れたご長男が坂本龍馬ファンで「りょうま」と呼ばせるのをはばかって「たつま」と付けられたという。先生はお亡くなりになる7,8年前までは家族で龍馬が生まれた高知や龍馬が日本初の商社・「海援隊」を開設した長崎への旅行も楽しまれ、お元気だった由。
脇野先生の祖父は、旧神興村長。先生の姉上が津屋崎渡の柴田家に嫁がれ、そのお子様が町議で渡の「東郷神社」の役員も務められ、歌が上手く、「津屋崎盆踊り」歌の名手という。また、先生の父君は「東郷神社」を祀られた津屋崎町議の安部正弘氏とご親交があったといい、私が観光客らにボランティアガイドで案内している同神社と先生のご家族のご縁があることに奇遇を感じました。
私の尊敬する歴史上の人物の一人は、坂本龍馬です。龍馬先生は、「龍馬」の名前をいただかれただけに、その人格形成に大きな影響を受けられたのではないでしょうか。薩摩と長州を結びつけ、明治維新をもたらしながら刺客による非業の最期を遂げた龍馬の生き方や、「船中八策」などアイデアマンの才能に共感を覚えます。
「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」(敬天愛人)、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也」の言葉を残した西郷隆盛とともに、坂本龍馬は人生の師にふさわしい偉人です。
「感動が人を動かし、出会いが人を変えていく」というのも、私が好きな言葉です。12歳だった私は、津屋崎小の教室で〝龍馬先生〟と出会って感動し、変わっていったと確信しています。ご霊前に供花とともに、拙著・吉村青春第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン―』と津屋崎の歴史と自然のガイド本・『津屋崎学――A Quaint Town Tsuyazaki-sengen Guide』をお供えし、ご冥福をお祈りしました。合掌。