吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

〈津屋崎の四季〉1213:ムクロジ

2022-05-20 12:13:58 | 津屋崎まちなみ散策

2022年5月20日/〈津屋崎の四季〉1213:ムクロジと「宮地嶽神社」

写真①:「宮地嶽神社」参道石段頂上近くの斜面にあるムクロジの大木

    =福津市宮司元町で、2014年9月11日撮影

 

テレビ朝日の人気番組「ポツンと一軒家」放送で石鹸の代用になると紹介

ムクロジの効用をテレビで確認、「宮地嶽神社」境内の大木を思う

 

 2022年5月15日にテレビ朝日の人気番組「ポツンと一軒家」で宮崎県の山奥の家に暮らす60代の老夫婦を訪ねて放送されたシーンで、ムクロジ(ムクロジ科)が石鹸代わりに使われると紹介された。私が所属する「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が開催する「津屋崎里歩きフットパス」でも、福津市宮司元町の「宮地嶽神社」境内を歩く際に、参道の石段を上がって左手に斜面にそびえるムクロジの大木=写真①=のガイドでも触れていることを思い浮かべました。

 2014年9月11日朝、「宮地嶽神社」境内を散策した際。このムクロジの大木そばの地面に丸い緑色の実と熟れて黒くなった実が落ちていました=写真②=。「海とまちなみの会」発行の『津屋崎里歩きフットパス・マップ』では、この果実の皮にはサポニンが含まれ、石鹸の代用になると紹介しています。また、ガイドの際には、この果皮を剥くと中から出る黒い種子は堅く、羽根突きの羽根の玉に使われることも説明しています。テレビ朝日の番組『ポツンと一軒家』では、羽根の玉に利用されることとともに、果実の皮を水に浸して泡立てて手を洗い、掌がすべすべになる様子を取材したテレビ朝日の男性が歓声を上げていました。

写真②:地面に落ちたムクロジの緑色の実と熟れて黒くなった実

    =2014年9月11日午前9時20分撮影

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2018年11月16日/〈津屋崎まちなみ散策〉057・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉68 アプテカ・フレーゴ

2018-12-23 17:07:19 | 津屋崎まちなみ散策

 

写真①:イタリア野菜販売とカフェ・レストラン「A.PUTEC FLEGO(アプテカ・フレーゴ)」

   =福津市渡153で、2018年12月22日撮影

〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 68

 

:アプテカ・フレーゴ

イタリア野菜販売とカフェ・レストラン

「A.PUTEC FLEGO(アプテカ・フレーゴ)」が福津市渡でオープン1

 

2012年5月9日掲載の/〈津屋崎まちなみ散策〉043・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉54イタリア野菜市場で紹介した福津市奴山でイタリア野菜を中心とした土・日曜だけ営業の食材市場・「A.PUTEC(アプテカ)」が、有機肥料を使った無農薬と減農薬のイタリア野菜販売とカフェ・レストラン「A.PUTEC FLEGO(アプテカ・フレーゴ)」=写真①=として2017年11月に同市渡153にある築37年の古民家を改築した店舗に移転オープン。それから1年余の18年12月22日午前11時30分、ランチタイムに二人で訪れました。

 

  ベジタブルショップの店名「アプテカ」とは、イタリア語のナポリ方言で「色々なすてきなものが見つかるところ」の意味。イタリア野菜を使う料理が味わえるカフェ・レストランの「フレーゴ」では、福津市津屋崎出身の花田愛さんが夫でナポリ出身のイタリア人シェフのシルビオさんと地元・勝浦で手がける「テヌータカンピフレグレイ農園」で採れたイタリア野菜をはじめ、マカロニ、ドーナツなどを直売所で午前11時から午後5時まで販売。私が訪れたこの日は、しっとりとしたフリルロッテレタス、パパチェッソ(パプリカ)などの野菜が並べられていました=写真②=。

 

写真②:直売所に陳列された採れたてのイタリア野菜

     =アプテカ・フレーゴで、22日撮影

 レストランのランチは、パスタランチ(2,000円)=写真③=とピッツアランチ(1,600円)=写真④=を注文。ランチメニューは、ほかにお野菜ランチ(2,000円)、などがあります。

 

 

写真③:パスタランチ

   =22日撮影

 

写真④:ピッツアランチ

 前菜=写真⑤=やサラダ=写真⑥=なども美味しくいただきました。

 

 

写真⑤:前菜

 

 

写真⑥:サラダ

 

食後のコーヒーは、重くて白いカップで提供=写真⑦=。カフェの営業は、午前11時30分から午後5時30分まで。定休日は月曜。

 

写真⑦:白いカップで提供のコーヒー

 直売所にあったドーナツ=写真⑧=を購入、拙宅でおやつ代わりにいただきましたが、もちもちとしてボーノでした。

 

写真⑧:もちもちとした味のドーナツ

    =拙宅で22日撮影

 

アプテカ・フレーゴの位置図

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2017年11月16日/〈津屋崎まちなみ散策〉056・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉67「万葉古道 名児山越え」

2017-11-16 08:25:07 | 津屋崎まちなみ散策

 

写真①:細い山道の落ち葉を踏みしめて歩く「ふるさと塾」参加者たち

      =福津市奴山の「万葉古道 名児山越え」で、2017年11月14日午前10時35分撮影

〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 67

 

「万葉古道 名児山越え」

 

福津市奴山の古代官道・〝名児山越え〟フットパス楽しむ

「第17回ふるさと塾・万葉古道の植物探訪」で追体験

 福津市奴山(ぬやま)と宗像市との境にある名児山(なごやま)を越える古代官道・〝名児山越え〟があるのを、ご存じですか。今から1287年前の奈良時代の天平2年(730年)11月、大宰帥(だざいのそち。大宰府の長官)大伴旅人(おおとものたびと)の異母妹の万葉歌人・大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が、大宰府から奈良の都へ帰る時にこの古代官道を通り、日本最古の和歌集『万葉集』に収録される長歌を詠みました。同じ11月の14日、私が所属する「津屋崎千軒 海とまちなみの会」は「第17回〈津屋崎千軒〉ふるさと塾」・万葉古道の植物探訪=写真①=として、当時から自生していた野草や花=写真②=などを調べながらフットパスウオークを楽しみ、『万葉集』に女流歌人として最も多い84首の歌を残した坂上郎女が名児山を詠んだ長歌の歌心に想いを馳せました。

  

写真②:花を油に漬けて傷薬にすることから名付けられたアブラギク(油菊。キク科の多年草)の黄色い花

     =「万葉古道 名児山越え」の路傍で、10時30分撮影

  坂上郎女が詠んだ長歌は、『万葉集』(巻6 963番)に載っています。
 〈大汝(おおなむち) 少彦名(すくなひこな)の 神こそは 名づけ始(そ)めけめ

名のみを 名児山(なごやま)と負ひて わが恋の 千重の一重も 慰めなくに〉

 歌の意味を現代語訳すると、〈大汝の神と少彦名の神が名付けたに違いない名児山は、〝心が和む山〟という意味を持ちながら、私の悩む恋心の千分の一さえ慰めてはくれない〉。大汝(大国主神)と少彦名(少名毘古那神)は、日本の国造りをした二柱の神です。

  この日の「ふるさと塾・万葉古道の植物探訪」では、「海とまちなみの会」会員や福岡、古賀、福津3市の『万葉集』ファン、登山愛好者の男女10人が午前10時20分に福津市奴山の「大現寺1号池」堤防下の農道から「万葉古道 名児山越え」の坂道を登り山中へ。起伏に富む細い山道約5百㍍を約40分歩き、同会とともに「宗像植物友の会」にも加盟している女性会員から植生の解説を聞き、野の花の名前を確認したり、道を覆う落ち葉の下から生えたケムリダケ(煙茸。ホコリタケ科)=写真③=をカメラに収め、蹴ると黄色の煙が霧散すると解説されて笑顔になる場面も。

  

写真③:道を覆う落ち葉の下から生えたケムリダケ

   =「万葉古道 名児山越え」で、10時25分撮影

 〝名児山越え〟をして宗像市田島に通じる県道502号線に出た私たちは、近くの福津市勝浦の「あんずの里運動公園」道路脇に旧津屋崎町(現福津市)が平成11年(1999年)に建てた坂上郎女の長歌を刻んだ「名児山万葉歌碑」=写真④=を見学しました。

 

写真④:坂上郎女の長歌を刻んだ「名児山万葉歌碑」

     =福津市勝浦の「あんずの里運動公園」で、2017年10月29日撮影

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2017年11月8日/〈津屋崎まちなみ散策〉055・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉66縫殿神社古宮

2017-11-08 17:00:01 | 津屋崎まちなみ散策

 

写真①:田んぼのそばにある「縫殿神社古宮」の祠

      =福津市奴山で、2017年10月29日撮影

 〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 66

 :縫殿神社古宮

 〝日本最初の裁縫の神様〟・「縫殿神社」古宮様

  福津市奴山の田んぼの一角に、「縫殿神社古宮」の祠=写真①=があります。県道528号線を挟んで北側の大明神岳(山)西側中腹にある〝日本最初の裁縫の神様〟・「縫殿神社」の古宮様で、10月5日の早稲祭(川棚祭)では神職を迎えてのお祭りが行われます。

  奴山の氏神様・「縫殿神社」=写真②=の祭神は、工女兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の4名の媛と、応神天皇、神功(じんぐう)皇后、大歳(おおとし)神です。境内に市が設置した由緒解説碑文では〈応神(おうじん)天皇の頃に、呉の国(今の中国)から、兄媛、弟媛、呉織、穴織の4名の媛が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています〉と説明。『日本書紀 巻第十』の応神天皇三十七年(306年)には、〈三十七年春二月一日、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして、縫工女(ぬいひめ)を求めさせた。(中略)呉の王は縫女(ぬいめ)の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えた〉と書かれています。

 

写真②:大明神岳(山)西側中腹にある奴山の氏神様・「縫殿神社」

     =福津市奴山で、10月31日撮影

  福津市新原(しんばる)の国道495号線東側にある国指定史跡・津屋崎古墳群の「22号墳」(全長約80㍍の帆立貝式円墳。5世紀前半築造)の前にも、「縫殿宮」の扁額がある石の鳥居が建っています=写真③=。「22号墳」は、2017年7月に世界文化遺産に登録された「『神宿る島国』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の構成資産・「新原・奴山古墳群」を代表する古墳。『津屋崎町史 通史編』では〈墳頂部には、かつて縫殿宮の社殿が建てられていた〉としています。鳥居の石柱には「大正六年」と刻まれており、現在、石段を上がった墳頂部には「縫殿宮」の扁額が付いた石祠があります。

写真③:「新原・奴山古墳群」の「22号墳」前に建つ「縫殿宮」の扁額がある石の鳥居

     =福津市新原で、10月30日撮影

 この「縫殿宮」は新原地区で建て、奴山大明神岳の「縫殿神社」は奴山地区で建てたといわれ、「縫殿神社古宮」(古宮様)は江戸時代中期の天明2年(1782年)に火災に遭い、その時焼けたご幣が飛んでいった所に「縫殿神社」が翌3年に建てられたという。古宮の跡は畑とし、江戸後期の文化12年(1815年)に両側の堀を埋めて田二町を作り、古宮神殿の跡をいささか残して石祠が建てられました。

 

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2017年11月7日/〈津屋崎まちなみ散策〉054・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉65大現寺観音堂

2017-11-07 19:20:21 | 津屋崎まちなみ散策

写真①:お産の神様・「大現寺観音堂」

     =福津市奴山大現寺で、2017年11月7日撮影

 〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 65

 :大現寺観音堂

産の神様で信仰集める

 福津市奴山上練原にある「酒多神社」近くの「大現寺1号池」堤下から細い山道を10分余り登った山中に、安産祈願で信仰されている「大現寺観音堂」=写真①=があります。

  江戸後期の寛政5年(1793年)に福岡藩士・加藤一純が編纂した地理誌・『筑前国続風土記附録』、文久4年(1864年)に同藩士・青柳種信が編纂の地理誌・『筑前国続風土記拾遺』には、「帝賢寺という寺の跡」と記載。旧福岡県が明治13年(1880年)に編纂した郡村地誌・『福岡県地理全誌』には「宗像宮帝見寺」とある平安時代の保延五年(1139年)銘の経筒のことが記されていることから、宗像宮に付属して建てられた神宮寺の一つだったとも見られています。

  「大現寺観音堂」は宗像四国西部霊場八十七番札所で、妊娠したら本尊の聖観世音菩薩にお参りし、女の子がほしい時は前の参拝者が納めていた腹帯の赤の晒、男の子がほしい時は白の晒=写真②=を受けてきます。産後、女の子が生まれたら新しい赤の晒、男の子が生まれたら白の晒をお返しするという。

  

写真②:「大現寺観音堂」に前の参拝者が納めた赤と白の晒

      =11月7日撮影

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2017年11月1日/〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉64桂岳神社

2017-11-01 08:49:43 | 津屋崎まちなみ散策

 

写真①:「桂岳」の麓にある「桂岳神社」

     =福津市勝浦で、2017年10月30日撮影

  〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 64

 :桂岳神社

 「勝浦」の地名由来の神功皇后を祭る

 福津市勝浦の「桂岳神社」(旧称「勝浦明神」)=写真①=は、宗像市との境の「桂岳」(別名「勝浦嶽」、標高165㍍)の麓、県道502号線(玄海・田島・福間線)脇に立つ「桂岳神社」の道標から少し北に入った所にあります。以前、「桂岳」の中腹にあったのを、昭和46年に移転。祭神は、神功皇后と天満天神(菅原神)、歓喜天です。例祭は、4月3日。

  「桂岳」=写真②=の名は、神功皇后が朝鮮出兵から帰られた際、登られて「加都良(かつら)」と唱えられたので「桂岳」(「勝浦嶽」)、村名を勝浦と呼ぶようになったと言われています。

  

写真②:宗像市との境にある「桂岳」(左側の峰)と「名児山」(標高160㍍)

     =福津市桂区で、10月31日撮影

  「桂岳神社」の道標近くには、当地は「勝浦」地名発祥の地です、の見出し付き案内板が建てられています=写真③=。

  

写真③:当地は「勝浦」地名発祥の地です、の見出し付き案内板

     =10月30日撮影

  案内板は平成20年(2008年)、「勝浦古代ロマンを語る会」が建てたもので、〈「勝浦」神功皇后、新羅にかちて帰りこの浦にあがらせ給う。故にかつらと名付くと云う。

貝原益軒(1630~1714)の「筑前国 続風土記」より

今から1000年以上前の西暦200年頃、仲哀天皇と神功皇后(第15代応神天皇の母〉が都(奈良)から少数の家来を連れて三韓(新羅)征伐のため当地勝浦へやって来ました。 ここで宗像水軍や勝浦人を結集し征伐の戦略を練り、203年桂嶽(「勝浦嶽」)へ登り必勝祈願を行い、205年勝浦浜(桂浜)と神湊から対馬海神族や宗像水軍を水先案内人にして神功皇后、武内宿禰等が征伐へ出兵しました。〉などと説明。

  さらに〈勝利を納め206年に帰還し、この年瀬戸内海を通り都へ凱旋する路々で、ついて行った勝浦人たちに褒美としてそれぞれの土地が与えられ、与えられた者が「阿波勝浦」「那智勝浦」「(高知)桂浜」等等、全国10ケ所以上に「勝浦」の名がつけられたと伝えられています。(中略)「勝浦」は勝った浦、「勝島」は勝ったところにある島、「勝浦浜」は勝った浦の浜、「神湊」は神功皇后の湊と伝えられています。私たち、勝浦に住む者は先人が残したロマン溢れるこの宝(財産)をしっかり、後世に引き継いで行くことが使命であると思ってやみません〉と結んでいます。

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2017年10月24日/〈津屋崎まちなみ散策〉052・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉63酒多神社

2017-10-24 19:51:44 | 津屋崎まちなみ散策

 

 

写真①:奴山上練原の産神・「酒多神社」の石鳥居

     =福津市奴山上練原で、2017年10月10日撮影

 〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 63

酒多神社

奴山上練原の産神

 福津市奴山上練原(ねりわら)にある酒多(すだ)神社=写真①=は、酒田(さかた)神社とも呼ばれています。福津市桂区奴山上練原(ねりわら)の産神です。

  宗像大社の「七十五末社」の一つで、宗像大社の正平23年(1368年)の『宗像宮年中行事』に「酒田明神」と記されています。祭神は不詳ですが、一説には大物主神(おおものぬしのかみ)、神功皇后、応神天皇、工女兄比売(えひめ)を祭るという。神職は、同市勝浦浜の「年毛神社」の宮司が兼帯。1月8日、9月28日に祭祀が営まれます。

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2016年11月12日/〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉62蒙古戦没者供養塔

2016-11-12 15:06:19 | 津屋崎まちなみ散策

 

写真①:「宮地浜」に建てられた蒙古戦没者供養塔

      =福津市宮司浜4丁目で、2016年11月11日撮影

 〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 62

 蒙古戦没者供養塔

 「宮地浜」ひっそりと建つ

 福津市宮司浜4丁目の「宮地浜」に、蒙古戦没者供養塔=写真①=が、ひっそりとした佇まいで建っています。国道495号線に面した歩道のそばにあり、旧宗像郡福間町との境になる「今川」河口右岸の旧津屋崎町に入ってすぐの場所。

  中国大陸を支配していた元が日本に侵攻してきた蒙古襲来(元寇)は、肥前・筑前に上陸した文永11年(1274年)の〈文永の役〉と、筑前・長門に襲来した弘安4年(1281年)の〈弘安の役〉の二度ありました。このうち、〈弘安の役〉で宗像沖に襲来した元軍を宗像長氏(ながうじ)が率いる日本軍が迎え討ち、日本軍の死者は奴山(旧津屋崎町奴山)に、元軍の死者は在自海岸(旧津屋崎町在自)に葬られ、元軍の死者が打ち上げられた「今川」の河口付近には後に供養塔が建てられたと伝えられています。

 福間では「今川の河口近くに蒙古の土坊主(どぼうず)が海から迷い出て来た」という伝説が残されており、宮司地区では「今川」に架かる「今川橋」は忌地とされ、陰暦八のつく日は通らない。風に当たったら病気になると言われているという。石の供養塔の表には、「那無阿弥陀仏」の文字が読み取れます=写真②=。

  

写真②:「那無阿弥陀仏」の文字が刻まれている供養塔

     =福津市の「宮地浜」で、11月11日撮影

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2016年10月21日/〈津屋崎まちなみ散策〉050・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉

2016-10-21 12:01:17 | 津屋崎まちなみ散策

 

写真①:平成29年3月末で図書室が閉室される「津屋崎公民館」

     =福津市津屋崎1丁目で、2016年10月21日撮影

 〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 61

 :津屋崎公民館

 図書室が平成29年3月末で閉鎖へ

  福津市津屋崎1丁目(旧天神町)にある福津市津屋崎公民館(木造2階建て)=写真①=の図書室が、平成29年(2017年)3月31日限りで閉室されます。

  津屋崎公民館玄関入り口ドアには、福津市中央公民館長の「公民館図書室閉室のお知らせ」と書かれた貼り紙があり、〈このほど策定した「福津市行財政集中改革プラン」等に基づき、中央・津屋崎公民館図書室を平成29年3月31日付けで閉室することになりました〉と表示。さらに〈平成29年夏頃には、旧福津市役所・津屋崎庁舎(津屋崎町役場)内に、新しい図書館を開館する予定です〉と説明、閉室に伴うスケジュールとして図書の貸し出し終了を同年1月31日としています。

  津屋崎公民館は、国道495号線「天神町交差点」東側に昭和48年に建設、老朽化しています。図書室は同館1階にあり、津屋崎地区の小規模図書館として市民に利用されてきました。

  福津市手光にある市中央公民館=写真②=1階の図書室も、津屋崎公民館図書室と同時に閉室された後は、津屋崎庁舎を再生整備工事中の市複合文化センターが平成29年7月オープンする際、2階に設置される図書館に機能を移転するようです。

  

写真②:2017年3月末で図書室が閉室される「福津市中央公民館」

     =福津市手光で、21日撮影

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2015年4月24日/〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉60修験者の墓

2015-04-24 06:45:53 | 津屋崎まちなみ散策

 

写真①:木立に囲まれた「修験者の墓」

     =福津市渡御園で、2015年3月25日撮影

 〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 60

 :修験者の墓

 木立に囲まれた真言宗修験僧の墓

  福津市渡御園(おぞの)に木立に囲まれた「修験者の墓」=写真①=があるのは、一般に知られていません。

  3月25日、私が所属する「津屋崎千軒 海とまちなみの会」の第15回「〈津屋崎千軒〉ふるさと塾」・「楯崎神社」と「津屋崎の恋人岬」探訪で、初めて訪れました。「楯崎神社」近くの県道533号線から南へ小道を入った所にあります。

  江戸時代に福岡藩の国学者・青柳種信が編集責任者となった『筑前国続風土記拾遺』によると、昔、御園に「楯崎寺」という寺があり、宗像大宮司家から4町の神田(じんでん)を与えられ、江戸時代になっても田の字が残っていました。真言宗の修験僧が、同寺を守っていたという。

  「修験者の墓」の敷地には、修験者だったという豊福家のものと見られる「豊福登良姫の墓」=写真②=など数基が祀られています。

  

写真②:「豊福登良姫の墓」

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