吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2019年11月5日/〈福岡・町歩き〉021・唐津街道・「箱嶋家住宅」

2019-11-05 20:14:10 | 福岡・町歩き

 

写真「唐津街道」沿いに建てられた「箱嶋家住宅」(国登録有形文化財)

     =福岡市東区馬出2-21-27で、2019年11月2日午前11時25分撮影

〈福岡・町歩き〉021

唐津街道・「箱嶋家住宅」

 

 「第7回まちなみフォーラム福岡in唐津街道箱崎宿~町並みや町家を未来につなぐ~」が福岡市東区馬出4丁目の福岡県教育会館で開かれた11月2日、午前10時から行われた町並みフィールドワークに参加、地元ガイドの案内で「唐津街道」箱崎宿の町家や名所を巡りました。

 町家巡りの最後に訪ねたのは、明治初期に「唐津街道」沿いに建てられた木造2階建て「箱嶋家住宅」=写真です。平成17年(2005年)の福岡西方沖地震で被害を受けていますが、切妻造平入、桟瓦葺の建物は間口1間半で、奥行6間の主屋の後方に奥行2間半の坪庭があります。福岡市が平成2年に箱崎宿界隈で行った「市内所在町家調査」で存在が明らかになった9件の町家のうち、典型的な博多町家として価値が認められ、同19年に国登録有形文化財になっています。

 「箱嶋家住宅」当主の箱嶋文衛さんは、「唐津街道箱崎宿箱崎・馬出プロジェクト」代表で、県内各地の文化的・歴史的資産である町並みを後世に残そうと、「第7回まちなみフォーラム福岡」を県内のまちづくり市民グループ12団体らで組織している「まちなみネットワーク福岡(大塚政徳代表)」と主催。この日の町家巡りでは、箱嶋さん自ら「箱嶋家住宅」を案内していただきました。玄関を入ると、左側に「表の間」、「中の間」、「座敷」=写真②=が連続し、右側の通り庭(土間)が繋いでいます。

 

写真②:「中の間」に続く「座敷」

 「中の間」上部は吹き抜け写真③=で、厨子2階の欄干や箱階段など随所に施されたベンガラ(弁柄)塗はあせることなく艶やかです。

 

写真③:上部は吹き抜けの「中の間」から2階に通じるベンガラ塗の階段

 坪庭写真④=には、水琴窟が備えられていますが、現在は音は聞こえない状態です。

 

写真④:水琴窟が備えられている坪庭

通り庭には、火の神、竈(かまど)の神を祀る荒神=写真⑤=配されています。お坊様が年数回、琵琶を弾きながら荒神払いをされる風習が残っているという。

 

写真⑤:通り庭に配されている荒神竈

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2017年12月1日/〈福岡・町歩き〉020・志賀の白水郎の「万葉歌碑」

2017-12-01 14:53:59 | 福岡・町歩き

 

写真①:海岸の広場にある志賀の白水郎の「万葉歌碑」

     =福岡市東区の志賀島で、2017年11月28日午後10時45分撮影

〈福岡・町歩き〉020

:志賀の白水郎の「万葉歌碑」

 福岡市東区・志賀島の「志賀海(しかうみ)神社」を参拝した11月28日、市立志賀島小学校近くの海岸広場にある志賀の白水郎の「万葉歌碑」=写真①=も訪ねました。そばに建てられている市教育委員会の「万葉歌碑(志賀島9号碑)」説明板によると、「筑前の国の「志賀の白水郎(あま)の歌十首」中の一首・〈沖つ鳥 鴨といふ船は 也良の埼 廻みて榜ぎ来と 聞え来ぬかも〉(『万葉集』巻16 3867番収録)を石に刻んだものです。

  説明板では〈神亀(724~729)のころ大宰府から対馬に糧を送るように命じられた宗像郡の津麿(つまろ)に代わって志賀の荒雄は、肥前の国の美祢良久(三井楽)から対馬に向かって船出したが、暴風雨に遭って海没した。それから8年、荒雄の妻子はなおその生還を念じてこれらの歌を作ったという。また一説では筑前の国首山上憶良(やまのうえおくら)の作であるとも伝えられている〉としています。

 そのうえで、歌を口語訳で〈荒雄の乗った鴨という船が、也良の崎を回って漕いで来るよと知らせが来たらなあ〉と説明。さらに〈鴨は荒雄の船の名。也良の崎は能古の島の北端で、そのあたりを漕いで来る荒雄の生還の吉報を期待する家人の切ない心を詠んだ歌である。なお、也良の崎には「沖つ鳥鴨といふ船の還り来ば也良の崎守早ぐ告げこそ」の歌碑がある〉としています。

 「也良の崎」にある歌碑の歌を口語訳すると、〈沖の水鳥の、鴨という名の船が帰って来たら、也良の岬の番人は、早く知らせてください〉。志賀島9号碑の「万葉歌碑」から南側には、波静かな博多湾の向こうに「能古島」也良の崎方面の美しい景観=写真②=が眺められました。

 

写真②:「万葉歌碑」(志賀島9号碑)南側からの博多湾の眺望(向こうは「能古島」也良の崎方面)

     =11月28日午後10時45分撮影

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2017年11月30日/〈福岡・町歩き〉019・志賀海神社

2017-11-30 17:58:49 | 福岡・町歩き

 

写真①:紅葉の木々に囲まれた「志賀海神社」拝殿

     =福岡市で、2017年11月28日午後0時10分撮影

〈福岡・町歩き〉019

:志賀海神社

 「志賀海(しかうみ)神社」は、福岡市東区の志賀島にあります。小春日和に恵まれた11月28日、久しぶりに参拝。拝殿そばの紅葉がきれいでした=写真①=。

 参道石段上り口にある福岡市の「志賀海神社」案内表示=写真②=によると、〈祭神は、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)・仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)・表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)〉。この綿津見三神は伊邪那岐命が日向橘の小門の阿波岐原で禊祓した際に現れたもので〈海神(わたつみのかみ)の総本社と称えられる当社は、海上守護の神として『万葉集』にも詠われ、古来より信仰されています〉という。「龍の都」とも称えられ、玄界灘に臨む海上交通の要地博多湾の総鎮守として信仰篤い神社です。主祭神の「綿津見三神」と併せて神功皇后、玉依姫命、応神天皇も祀られています

 邪那岐命の禊祓の際、海の底の方に潜った時に生まれたのが底津綿津見神、中ほどにいた時生まれたのが仲津綿津見神、水の表面で生まれたのが上津綿津見神とされ、綿津見三神を祖神とする阿曇族が代々奉斎してきたとされています。

 

写真②:福岡市の「志賀海神社」案内表示(右側)がある参道石段上り口

 伝承によると、神功皇后は三韓出兵に際して、志賀島の阿曇磯良を召して祈願され、龍神から干珠満珠を授かり、無事に三韓を平定して帰還されたという。志賀海神社には、その模様を描いた神功皇后出兵絵巻が残されています。

  『万葉集』にも詠われた〈ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神〉(巻7 1230番=作者不詳)の短歌を刻んだ石碑=写真③=が、参道わきに建てられていました。そばに設置の福岡市教育委員会の『万葉歌碑』解説文によると、「志賀島から船出して奈良の都へ向かう官人が詠んだものです」。この歌意を口語に訳すと、波が荒く恐ろしい鐘の岬(宗像市鐘崎の「織幡(おりはた)神社」が鎮座する岬)を船に乗って過ぎてしまっても、私は志賀の皇神(「志賀海神社」に祀られている海神)のご加護を忘れません。鐘崎と対峙する約800㍍離れた「地島」との瀬戸は岩礁があり、潮流・風向きしだいでは玄界灘第一の航海の難所とされ、古来、船乗りは通行の安全を志賀の神(海神)に祈った、とされています。

写真③:参道わきに建てられている〈ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神〉の万葉歌碑

 拝殿近くの境内には、鹿の角1万本をおさめたという「鹿角堂(しかつのどう)」=写真④=もありました。神功皇后が対馬で鹿狩りし、その角を奉納されたことが起源で、祈願成就の際に納められてきたという。

  

写真④:鹿の角1万本をおさめたという「鹿角堂」

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2017年2月5日/〈福岡・町歩き〉018・九州大学「伊都キャンパス」

2017-02-05 08:47:40 | 福岡・町歩き

 

写真①:九州大学伊都キャンパスを視察する研修・交流会の参加者たち(向こう中央は「椎木講堂」、右端は建設中の中央図書館)

     =福岡市西区元岡で、2017年2月3日午前10時50分撮影

 〈福岡・町歩き〉018

 :九州大学「伊都キャンパス」

  福岡県福岡市東区箱崎の「箱崎キャンパス」や、「六本松キャンパス」、「原町キャンパス」から糸島市元岡の「伊都キャンパス」へ九州大学の移転が進んでいます。2月3日、私が所属している「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が加盟している「福岡県美しいまちづくり協議会」の研修・交流会に参加して「伊都キャンパス」を見学しました=写真①=。

  一番驚いたのは、福岡市と西に隣接する糸島市にまたがる「伊都キャンパス」が東西3Km、南北5Kmもあり、バスで行き来する275haの広さです。「椎木講堂(Shiiki Hall)」=写真②=は、三洋信販株式会社創業者の椎木正和氏(福岡県行橋市出身)が、九大創立百周年を機に寄贈したもので、規模、設備が素晴らしい。鉄筋コンクリート、鉄骨造りの4階建て(最高約20m)で、 延べ床面積約1万千㎡。創立百周年にちなみ直径100mの円形で、メインのコンサートホールと管理棟で構成。コンサートホールは、最大で約3千人を収容でき、入学式や学位記授与式、各種学会や大規模イベントに利用できます。講堂内の施設は、講義室としても活用できるほか、常設のギャラリー、展示コーナーや、レストランを備えています。

 

写真②:3千人収容の規模を誇る「椎木講堂」

 九大の移転は、2005年の工学系部局から始まり、2018年に最後の農学系部局移転が終われば、学生・教職員の合計移転人口は18,700人に達します。理学系部局の研究・教育棟=写真③=の手前は、イベント会場としても利用できるセンターゾーン。

  

写真③:理学系部局の研究・教育棟(向こう中央)手前はイベント会場にもなるセンターゾーン

  工学系部局の研究・教育棟は、上空をジェット機が低空飛行する「箱崎キャンパス」の黒っぽい灰色と違い、「伊都キャンパス」の土色に合わせた明るい色調でしゃれた感じです=写真④=。

 

写真④:「伊都キャンパス」の土色に合わせた明るい色調の工学系部局の研究・教育棟群

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2016年3月24日/〈福岡・町歩き〉017・朝倉市甘木散策

2016-03-24 20:04:38 | 福岡・町歩き

 

写真①:御影石でできたアーチ形の「眼鏡橋」

     =福岡県朝倉市秋月で、2016年3月15日午後0時10分撮影

 〈福岡・町歩き〉017

 :朝倉市甘木界隈

  福岡県筑前町弥永(いやなが)の「大己貴(おおなむち)神社」を初参拝した3月15日午後、朝倉市甘木界隈を散策しました。

  秋月の城下町入り口の清流に架かる「眼鏡橋」=写真①=は御影石でできたアーチ形で珍しく、風情があります。江戸時代後期の文化7年(1810年)、秋月藩によって架けられ、県指定文化財です。

  近くの天然酵母のパン屋さん「月の峠」=写真②=は、買物客が入れ替わり入店し、人気店の様子。古処鶏のガラをベースに作られたという一番人気のカレーぱんを食べると、出来立てで美味しくいただけました。

 

写真②:天然酵母のパン屋さん「月の峠」

     =15日午後0時10分撮影

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2016年3月21日/〈福岡・町歩き〉016・「大己貴神社」界隈

2016-03-21 05:04:54 | 福岡・町歩き

 

写真①:松尾芭蕉の句碑と平成23年に筑前町教育委員会が立てた解説板

     =福岡県筑前町弥永字大神屋敷の「大己貴神社」で、2016年3月15日午前11時20分撮影

 〈福岡・町歩き〉016

 :「大己貴神社」界隈

  3月15日初参拝した福岡県筑前町弥永(いやなが)字大神(おんが)屋敷の「大己貴(おおなむち)神社」境内に、松尾芭蕉の句碑=写真①=が建てられていました。

  石の句碑には、芭蕉が江戸深川のご本松で詠んだ〈川上と この川下や 月の友〉という句が記されています。そばにある筑前町教育委員会の解説板によると、願主は弥永の柳絮庵五滴(りゅうじょあんごてき)といい、江戸後期の文化5年(1805年)に建てられたとありますが、文化5年は正しくは1808年なので、あるいは文化5年は文化2年(1805年)の誤記かもしれないですね。

  解説板には〈世話人は、弥永の蘭稲(らんとう)、扇路(せんじ)、芝風(しふう)、下淵(したぶち)の淵魚(えんぎょ)、天民(てんみん)の五人で、柳絮庵五滴とは柳絮庵で五人の弟子(五滴)が育ったという意味でしょうか。このころ、当地方にも俳句をたしなむ文化人が集い、芭蕉を俳聖とあがめていたのでしょう。芭蕉は、江戸時代の正保元(1644)年に伊賀上野で生まれ、江戸に下って桃青(とうせい)と号しました〉と書かれています。句碑には、俳聖とあがめたことがうかがえる「桃青神」の文字も見えます。

  「大己貴神社」そばの駐車場の東側には、同神社の祭神・大己貴神(おおなむちのかみ。別名大国主神)説話のイメージをもとに、『古事記』に載せられている「因幡の白兎」や「ヤマタノオロチ」などの神話にちなんだ遊具を設置した「筑前町歴史の里公園」=写真②=がありました。

  

写真②:「筑前町歴史の里公園」の案内板

     =筑前町弥永谷口で撮影

  駐車場の隅には、平成23年に筑前町教育委員会が立てた「神功皇后と羽白熊鷲(説話)」の解説板もあります=写真③=。それによると、羽白熊鷲(はじろくまわし)は昔、筑前町一帯を支配していた豪族で、朝倉市秋月の「荷持(のとり)」(野鳥)に本拠を構え、白い鳥の羽根を付けて鷺舞いを演じ、まつりごとを行う鳥装の司祭者でした。ある年、九州に来て香椎(福岡市東区香椎)に宮を定めた神功皇后が、朝鮮半島の新羅と戦うため各地の豪族に命令して多くの兵を集めた際、熊鷲は命令に従わなかったことから、皇后軍に征服されたという。

  解説板には〈皇后は熊鷲を征服し、「我が心安し」(私は安心した)と語りました。この「安」が当地方の郡名起源とされ、後に「夜須(やす)」(郡)の二文字に改められました〉と記載。私は福岡県警担当の事件記者時代、汚職事件の内偵取材で夜須町の有力者宅に朝駆けしたことがあり、「夜須町」って妙な町名だなと思った記憶が残っており、この説話で町名のいわれに納得がいくとともに、夜討朝駆けに明け暮れた若かりし察回り記者のころを懐かしく思い出しました。

 

写真③:「神功皇后と羽白熊鷲(説話)」の解説板

     =「筑前町歴史の里公園」で撮影

  さらに、解説板は〈熊鷲平定後、新羅出兵の兵士はなかなか集まらず、皇后は「大己貴神社」(大神屋敷=おんがやしき)に社を建て、矛をささげました。これは、勝者が打ち込んだ楔、あるいは熊鷲への鎮魂だったのでしょうか。いずれにしても、熊鷲という在地豪族がヤマト(中央)政権に組み込まれていく過程を物語るのでしょう〉と感慨深く説明。途中下車気分で立ち寄った筑前町で「大己貴神社」や羽白熊鷲の説話に思いがけなく触れ、興味深い小旅行となりました。

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2016年3月18日/〈福岡・町歩き〉015・「大己貴神社」

2016-03-18 17:17:23 | 福岡・町歩き

 

写真①:「大己貴神社」の石鳥居

     =福岡県筑前町弥永(いやなが)で、2016年3月15日午11時20分撮影

 〈福岡・町歩き〉015

 :「大己貴神社」

  3月15日、福岡県筑前町弥永にある「大己貴(おおなむち)神社」=写真①=に初参拝=写真②=。福津市の自宅から朝倉市へドライブ中、雰囲気が気になり、立ち寄りました。祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)と天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、春日大明神。大己貴神は大国主命(おおくにぬしのみこと)の異称で、春日大明神とは奈良の春日大社の祭神です。

  

写真②:「大己貴神社」拝殿

  筑前町教育委員会が平成21年に境内に立てた「大己貴神院社」の解説板では、〈地元では「オンガサマ」と呼び親しまれています。このお宮は神功皇后の伝承地で、皇后が新羅(大陸)との戦のとき、兵が集まり難かったので、兵が集まるように社を建てて祈願したとのことです。このときの社が、この神社であるとされ、我が国で最も古い神社とされています〉としており、大己貴命ら祭神3柱よりもっぱら神功皇后の解説となっています。

 社殿・拝殿=写真③=は、町指定の重要文化財。江戸時代末期から明治初頭の建造物で、二棟の切妻造、平入りの建物が前後に接続した形をしています。原形は八幡造と見られ、建物の中間に石の間を置き、前面の建物が拝殿、後ろの建物が神座です。

  

写真③:「大己貴神社」の拝殿と神座(右)

 拝殿には、中央部は弓形で左右両端がそり返った唐破風の向拝(拝殿正面階段上に付けたふきおろしの屋根)=写真④=が付いています。

  

写真④:拝殿に付いている唐破風の向拝

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2016年2月27日/〈福岡・町歩き〉014・新幹線「筑後船小屋駅」界隈

2016-02-27 08:50:07 | 福岡・町歩き

 

写真①:「筑後船小屋駅」ホームに入る新幹線

      =福岡県筑後市津島で、2016年2月19日午9時10分撮影

 〈福岡・町歩き〉014

 :新幹線「筑後船小屋駅」界隈

  福岡県筑後市にある九州新幹線「筑後船小屋駅」=写真①=に2月19日、初めて乗降しました。「筑後船小屋駅」前の芸術文化交流施設・「九州芸文館」=写真②=で開かれた「福岡県美しいまちづくり協議会」(事務局・県都市計画課)主催の交流会に、私が所属する福津市の町興しボランティア団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」の活動発表を行うため、私費で参加して新幹線博多駅経由で「筑後船小屋駅」に降りた次第です。

  展示室や工房などを備えた「九州芸文館」は、2020年東京五輪・パラリンピックのメイン会場・新国立競技場についいてデザインして採用された建築家隈研吾氏の設計で、外観は筑後の山並みをイメージ。屋根や外壁に石や金属、コンクリートなどを組み合わせたアートな建造物になっています。この日の交流会で活動発表終了後、会場付近の景観まち歩きを筑後市のご案内で楽しみました。

  

写真②:建築家隈研吾氏の設計で建てられた「九州芸文館」

  九州新幹線「筑後船小屋駅」を中心に、東西4Kmにわたる192㌶(大濠公園の約5倍の面積)は「筑後広域公園」になっており、県内最大の県営公園です。景観まち歩きで最初に案内された同駅西側にはJR鹿児島本線「筑後船小屋駅」があり、その前の広場では珍しい「からくり時計」を見物できました=写真③=。筑後市羽犬塚(はいぬづか)に伝わる羽のはえた犬・「羽犬」伝説にちなみ、時計の下の緑色の円形収納部分から「羽犬」の人形などが朝7時から夜8時まで毎正時に現れる仕組み。一説によると、豊臣秀吉が連れて来た羽の生えたように俊敏な犬が羽犬塚の地で死に、塚を作って弔ったとの伝説で、犬を葬ったとされる塚歯市内の宗岳寺にあるという。

 

写真③:緑色の円形収納部分から「羽犬」の人形(中央)などが毎正時に現れる「からくり時計」

  「からくり時計」近くにある「筑後船小屋観光案内所」=写真④=では、「筑後広域公園」にある筑後管理の温泉入浴施設と地元産野菜、魚介類等の販売施設を備えた「川の駅船小屋 恋ぼたる」、炭酸ガスの圧力で自噴している珍しい「船小屋鉱泉場」などお薦めスポットを紹介していました。

  

写真④:ソフトバンクホークス「二軍球場」や観光スポットを紹介の「筑後船小屋観光案内所」

  JR鹿児島本線「筑後船小屋駅」の北側には、プロ野球ソフトバンクホークスの「二軍球場」=写真⑤=が、ほぼ完成していました。

  

写真⑤:プロ野球ソフトバンクホークスの「二軍球場」(中央はJR鹿児島本線「筑後船小屋駅」構内線路)

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2014年2月1日/〈福岡・町歩き〉013・崇福寺

2014-02-01 10:17:29 | 福岡・町歩き

 

写真①:黒田家の菩提寺・「崇福寺」の山門

      =福岡市博多区千代4丁目で、2014年1月23日午前11時45分撮影

 〈福岡・町歩き〉013

 :崇福寺

  「福岡藩主黒田家墓所」のある福岡市博多区千代4丁目の臨済宗の寺院、「崇福寺」。1月23日訪れた際、いつもながら山門=写真①=の見事さに感じ入りました。福岡城本丸表御門として建立されたもので、大正7年(1918年)に陸軍からの払い下げでこの地へ移設、福岡県有形文化財に指定されています。

  「崇福寺」の山号は横岳山(おうがくざん)といい、湛慧(たんえ)禅師が鎌倉時代の仁治元年(1240年)に旧福岡県三笠郡(大宰府市)に創建しましたが、安土桃山時代の天正14年(1586年)の島津氏と大友氏との岩屋城の合戦で焼失。江戸時代初期の慶長5年(1600年)、福岡藩初代藩主黒田長政が現在地に再建、黒田家の菩提寺としました。

  鎌倉時代の文永9年(1272年)に「横岳山崇福寺」の住職になった圓通大応国師が、福津市津屋崎出口にある「海雲山善福寺」を開山。その本尊の馬頭観世音を祀る六角堂には、黒田長政の位牌が祀られています。長政が京都で死去後、柩を船で博多へ運ぶ途中、しけに遭って「善福寺」にあげ、一夜、四方に垣を巡らせて守護し、翌日陸路で博多の「崇福寺」へ送ったことから、「善福寺」は〈垣の内観音堂〉とも呼ばれています。

  NHKテレビの大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送が1月5日から始まり、長政と父黒田官兵衛(出家後、如水と号した)の墓が並ぶ「崇福寺」の「福岡藩主黒田家墓所」(市指定史跡)が注目されていますが、境内には明治14年(1881年)に旧福岡藩士らが中心となってアジア主義を掲げて結成した政治結社・「玄洋社」の活動家を祀る「玄洋社墓地」=写真②=もあります。

  

写真②:「崇福寺」境内にある「玄洋社墓地」

         =1月23日撮影

  「玄洋社墓地」の中央には、中国の民族独立運動家で日本に亡命した孫文を支援した「玄洋社」の総帥・頭山満の墓=写真③=が建てられています。

  

写真③:「玄洋社墓地」の中央に建てられている頭山満の墓

         =1月23日撮影

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2014年1月26日/〈福岡・町歩き〉012・福岡藩主黒田家墓所

2014-01-26 16:49:36 | 福岡・町歩き

 

写真①:「福岡藩主黒田家墓所」にある藩祖・黒田如水の墓

      =福岡市博多区千代4丁目の黒田家の菩提寺・「崇福寺」で、2014年1月23日午前11時30分撮影

 〈福岡・町歩き〉012

 :福岡藩主黒田家墓所

 NHKテレビの大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送が、1月5日からが始まりました。黒田官兵衛(出家後、如水と号した)の隠居領(家督を譲った如水が生計を立てるための領地)だった津屋崎(福津市)に、如水が慶長8年(1603年)ごろ代官所を置いたほか、福岡藩直営の津屋崎・勝浦両塩田で筑前の製塩量の90%を賄っていた史実があり、福岡市博多区千代4丁目の臨済宗の寺院、「崇福寺(そうふくじ)」にある「福岡藩主黒田家墓所」(市指定史跡)を23日に訪ね、藩祖・「如水」の墓=写真①=にお参りしてきました。

  「崇福寺」の山門から境内に入って左手奥に、2014年大河ドラマ軍師官兵衛「黒田官兵衛」の幟と「福岡藩主黒田家墓所入り口」の案内板=写真②=がありました。

 

写真②:「軍師官兵衛」の幟と「福岡藩主黒田家墓所入り口」の案内板

  「福岡藩主黒田家墓所入り口」にある「藤水門」=写真③=を潜り、墓所に入ります。

  

写真③:「藤水門」を潜る観光客

   「藤水門」を潜るとすぐ左に、福岡市が立てた「黒田官兵衛(如水)ゆかりの地」「福岡藩藩祖 黒田官兵衛(如水)」「福岡藩初代藩主 黒田長政」の観光案内板=写真④=が目に付きました。

 

写真④:「黒田官兵衛(如水)ゆかりの地」「福岡藩藩祖 黒田官兵衛(如水)」「福岡藩初代藩主 黒田長政」の観光案内板

  観光案内板を背にして立つと、目の前の広い「福岡藩主黒田家墓所」に四代綱政、六代継高など藩主らの大きな墓が並んでいます=写真⑤=。二代忠之や三代光之、八代治高の藩主らは、福岡市博多区御供所町の「東長寺」の黒田家墓所(市指定史跡)に祭られています。

  

写真⑤:黒田家墓所に並ぶ藩主らの墓

  初代藩主・黒田長政の墓=写真⑥=は、墓所の中央に建てられていました。

  

写真⑥:初代藩主・黒田長政の墓

 藩祖・如水の墓は、長政の墓の右側にあり、墓石の三面には戦国末期の日朝・日明交渉に携わった外交僧として知られる聖福寺(しょうふくじ。福岡市博多区にある日本最初の禅寺)第109世景轍玄蘇(けいてつげんそ)の如水の生涯を讃える撰文=写真⑦=が刻まれています。景轍玄蘇は、宗像郡西郷(現福津市)生まれの禅僧で、渡航した対馬で慶長16年(1611年)に他界。

 

写真⑦:如水の墓石正面に刻まれた聖福寺第109世景轍玄蘇の撰文

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