●写真①:縫殿神社秋季大祭で拝殿を出る御神幸の神輿
=福津市奴山の同神社で、2006年9月13日午後3時44分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第11回:2006.11.02
日本最初の裁縫の神様・「縫殿神社」の謎
福津市奴山の「縫殿神社」位置図
(ピンが立っている所)
清 「福津市津屋崎の主な神社の由緒は、叔父さんに聞いてから、大体分かったよ。その中で、
奴山(ぬやま)にある〈
縫殿(ぬいどの)神社=写真①=〉の由来はどうも気になる。もっと詳しく教えてもらえんやろか。奴山という妙な地名や、縫殿神社という変わった社名は謎を秘めているような気がしてならんちゃけど」
琢二 「ほう、なかなか着眼点がいいぞ。いろいろ中身のある神社だからな。福津市奴山の縫殿神社境内に市が設置した由緒解説盤=写真②=では、次のように説明している。
〈
応神(おうじん)天皇の頃に、呉の国(今の中国)から、
兄媛(えひめ)、
弟媛(おとひめ)、
呉織(くれはとり)、
穴織(あなはとり)の4名の媛が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。
祭神は、この4名の媛と応神天皇、神功(じんぐう)皇后、大歳(おおとし)神でこの神社は日本最初の裁縫の神様であり、この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます。
この神社には、永享(えいきょう)12年(1440年)につくられた
梵鐘(ぼんしょう、県指定有形文化財、宗像大社神宝館に展示)、南北朝時代の
大般若経(だいはんにゃきょう)600巻や江戸時代中期ごろの
三十六歌仙絵扁額をはじめとする絵馬があります〉
以上の通りだ。糸や布を作り、着物を縫う縫女として兄媛たち4人が来日し、着物の縫い方を伝えた。今も、着物や織物に関係する人たちの参拝がある神社たい」
写真②:縫殿神社境内にある神社の由緒解説盤
=06年9月13日午後2時40分撮影
清 「日本のデザイン、ファッションの発祥の地か。おしゃれな神社だね。大歳神というのは、何の神様?」
琢二 「大年神(おおとしのかみ)とも書き、『日本書紀』では素戔嗚尊、『古事記』では須佐之男命と表記する〈すさのおのみこと〉と、〝大いなる山の神〟である大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘の〈神大市比売(おおいちひめ)〉との間に生まれた穀物の神様だ」
清 「へー、そうか。県指定有形文化財の梵鐘やら、三十六歌仙絵馬=写真③=やら、いろいろなお宝もある神社のごたるね」
琢二 「室町時代の永享12年の梵鐘は、宗像大宮司氏俊(むなかただいぐうじうじとし)が筑前国奴山の安穏や五穀豊穣を祈願しようと寄進したものだ。高さ約81㌢、口径約47㌢、厚さ約5㌢の大きさで、福岡県指定有形文化財の工芸品として、今は宗像大社の神宝館に委託保存されている。大乗仏教の基礎的教義が書かれた様々な般若教典を集大成した膨大な経典・大般若経600巻は、足利尊氏が武運を祈るため奉納したと言われる。拝殿に掛かっている三十六歌仙絵馬は、天保年間に奉納されたものだ」
写真③:縫殿神社本殿に掲げられた絵馬
=9月13日午後3時07分撮影
清 「9月13日の縫殿神社秋季大祭を見に行った
吉村青春さんのブログでは、わらじ履きで神輿を担いだ氏子さんたちが禊をするため、神社近くの奴山川に入る写真と、伝説によると工女兄媛ら祭神が女性神なので、以前は神輿の担ぎ手には未婚の男子が選ばれていたが、この日は年配の男性たちが担いでいたという記事が面白かった」
琢二 「ハハハ。縫殿神社は奴山地区の氏神様だが、平日の9月13日の秋祭りに参加できる若者もそうはいないご時世だからな」
清 「応神天皇の頃に、呉の国から兄媛ら4人の媛が織物、縫物を伝えに日本に招かれ、兄媛は宗像神の求めでこの地に残ったという神社の由緒も、興味をそそられたばい」
琢二 「そのくだりは、『
日本書紀 巻第十』の応神天皇三十七年(306年)に、〈三十七年春二月一日、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして、縫工女(ぬいひめ)を求めさせた。(中略)呉の王は縫女(ぬいめ)の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えた〉と書かれている。
また、応神天皇四十一年には、〈四十一年春二月十五日、天皇は明宮(あきらのみや)で崩御された。(中略)この月、阿知使主らが呉から筑紫についた。そのときに
宗像大神(むなかたのおおかみ)が工女らを欲しいといわれ、兄媛を大神に奉った。これがいま筑紫の国にある御使君(みつかいのきみ)の先祖である。あとの三人の女をつれて津国(つのくに)に至り、武庫についたとき天皇が崩御された。ついに間に合わなかったので、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)に奉った。この女たちの子孫がいまの呉衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)である〉と書かれている。大鷦鷯尊というのは、応神天皇の皇子で次の皇位に就いた仁徳天皇のことだ」
写真④:縫殿神社の参道階段を下る神幸の神輿
=06年9月13日午後3時46分撮影
清 「津屋崎の縫殿神社に関わる歴史が『日本書紀』に出ているなんて、すごいね」
琢二 「阿知使主とは、後漢霊帝の曾孫と伝えられ、十七県(あがた)の民を率いて渡来し、大和高市郡に住んでいたという。応神天皇は、阿知使主と都加使主の父子を使節として呉の国に派遣し、縫工女を求められたわけだ」
清 「阿知使主は、中国からの渡来人だったんやね」
琢二 「縫殿神社縁起は、日本書紀の記述に沿う由緒となっているが、一説には宗像大神は兄媛をいただかれたので、神服を織らし、御衣を縫わしめられ、これによって縫殿を建てたとも書かれている。だから、この時の縫殿は今の福津市新原の国道495号線東側にある縫殿神社の古宮の〈
縫殿宮(ぬいどのぐう)〉だろう。コンクリートの大きな建物・宗像農協カントリーエレベーター(米・麦の乾燥施設)とは、国道を挟んで反対の山側にある
国指定史跡・津屋崎古墳群の
22号墳の上に、かつての社殿が建てられていた。今も古墳の前には鳥居が立っている。古墳は大きな円墳のように見えるが、巨大な後円部を持つ全長約80㍍の前方後円墳と考えられる。墳丘から出土した埴輪や須恵器から、その一帯で発見された59基の〈
新原(しんばる)・奴山古墳群〉の中でも古い5世紀前半に造られたと思われとる。恐らく、この丘にあった居館の跡地に祠を建て、縫殿宮として崇め祀ったのじゃないか。縫殿宮は、広大な宮造りだったようだ。周辺には、縫田(ぬいだ)という兄媛の料田と思われる字地もある。後世、郷名を二字の喜名にせよとの詔勅で、縫殿の殿を省いて縫と改め縫山(ぬやま)となったのが、のちに奴山と表記されるようになったと見られる」
清 「フーン、そうなんだ。こうなったら、縫殿宮も訪ねてみたくなったよ」
写真⑤:氏子たちが禊をする縫殿神社近くの奴山川へ下る御神幸行列の神輿
=福津市奴山の農道で、9月13日午後3時56分撮影
福津市奴山・縫殿神社の古宮「縫殿宮」位置図
(ピンが立っている所。前方後円墳「22号」墳の前に鳥居がある)