吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2013年1月31日/〈東京・町歩き〉013・東京スカイツリー

2013-01-31 02:29:50 | 東京・町歩き

写真①:そばに立つと見上げる大きさの「東京スカイツリー」

     =東京都墨田区押上1丁目1-2で、2013年1月16日午後4時20分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 13 

:東京スカイツリー

 1月16日の最後の観光スポット・「東京スカイツリー」(墨田区押上1丁目)=写真①=に着いたのは、午後4時すぎでした。世界一の高さ634㍍というこの自立式電波塔は、2011年11月、ギネス世界記録に「世界一高いタワー」として認定されています。そばに立つと、さすがに見上げる大きさです。

 平日のせいか待ち時間約15分で、高さ350㍍にある「展望デッキ」の当日入場券(2千円)を購入。超高速のエレベーターで急上昇しましたが、音もなくの乗り心地は快適でした。360度の眺望が楽しめる「展望デッキ」に着くと、多くの観光客がガラス越しに〝高見の見物〟をしていました=写真②=。


写真②:ガラス越しに〝高見の見物〟を楽しむ観光客


 眼下に「隅田川」やビル群が小さく見え、まさに絶景です=写真③=。残念ながら曇天で、期待していた富士山は見ることができませんでした。

 

写真③:高さ350㍍の「展望デッキ」から見下ろした「隅田川」やビル群

 耐熱強化仕上げの「ガラス床」の上に乗り、真下に広がる眺めは=写真④=スリリングです。「展望デッキ」からさらに上の「展望回廊」(高さ445㍍)の当日入場券売場もありましたが、「展望デッキ」からの眺望で十分満足できたので、さらなる高みは目指しませんでした。

 

写真④:耐熱強化仕上げの「ガラス床」の真下に広がる迫力ある眺め

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〈薩摩大使〉003・遠くへ行きたい=2013年1月29日

2013-01-30 09:58:47 | 薩摩大使

 

写真①:鹿児島県垂水市の森伊蔵酒造の名酒・「森伊蔵」のかめ壷焼酎づくり

     =2013年1月27日放送の日本テレビ番組・『遠くへ行きたい』から

 日本テレビ番組・『遠くへ行きたい』で

鹿児島の名酒「森伊蔵」の焼酎づくりが放送されました

 日本テレビ系列で1月27日(日曜)午前7時30分から全国放送された旅番組・『遠くへ行きたい 薩摩 阿藤快のいっこもん旅』で、鹿児島県垂水市の森伊蔵酒造の名酒・「森伊蔵」のかめ壷焼酎づくり=写真①=が放送されました。「なんだかなー」の口癖で親しまれている俳優の阿藤快さんが、リポーターを務めています。

  「薩摩大使」を委嘱されている私は、とくに薩摩の芋焼酎では、「森伊蔵」を一番と推薦しています。私がそれまで飲んだ芋焼酎と違って臭みもなく、まろやかな味で、実にうまい酒です。しかも、飲んだ夜は熟睡でき、他の酒とちゃんぽんで飲んでも悪酔いせず、寝覚めも爽やか。左党の私にとっても、いい事尽くめでした。

 その名酒づくりの秘密を探ろうと、読売新聞鹿児島支局長当時、森伊蔵酒造の代表取締役森覚志さん=写真②=を訪ね、取材しました。森さんは会社員を辞めて東京から帰郷し、家業を継いだものの、同酒造の焼酎は酒店で売れる知名度はなく、「それなら、お客さんが買いにくるような焼酎を造ろう」と一念発起した、と話しました。私はその心意気に感動し、平成6年(1994年)9月17日の読売新聞夕刊(西部本社版)コラム『ひまわり』に「こだわりの酒」という題で紹介しました。以後、「森伊蔵」ファンとなり、愛飲を続けています。

 

写真②:森伊蔵酒造の代表取締役森覚志さん(左)から注いでもらった「森伊蔵」を飲む阿藤快さん

     =1月27日放送の日本テレビ番組・『遠くへ行きたい』から

 吉村青春第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン』に収めた「森伊蔵」=写真③=の詩を読んでいただければ、よそにはない焼酎づくりにトコトンこだわった森さんと、彼にエールを贈る左党詩人の想いを酌んでいただけると思います。

 

写真③:森伊蔵酒造の1.8㍑入り「森伊蔵」

     =拙宅で、2012年1月3日撮影

 ところで、「森伊蔵」の詩篇が生まれたのは、読売新聞山口総局長時代に部下の若い記者から「酒の飲み方を仕込まれました」と言われたのが、きっかけでした。この一言が、私の詩作のミューズになったのです。私が記者に「酒の飲み方を仕込んだ」という自覚はなかったのですが、記者に指摘されて、そういえば「本物の酒を一度でも飲んでおけば、ほかの酒を飲んだ時、いい酒かどうか分かるよ。絵画でもルノワール一やピカソなど一流の物を観賞しておけば、いい絵を判別できる」と話したことを思い出しました。

 「薩摩大使」事務局の鹿児島県企画部企画調整課に2006年1月、『鵲声―津屋崎センゲン』を謹呈したところ、政策推進班担当のSさんから「森伊蔵の詩はおもしろいですね。今の焼酎ブームは、いい焼酎造りをしてきた職人の方々の努力の賜とあらためて思うことでした」との感想が寄せられました。確かに、森さんの焼酎作りにこだわりがなければ、今日の入手しにくく、破格のプレミアが付く〝幻の焼酎〟「森伊蔵」の誕生はなかったでしょう。私には、芋焼酎・「森伊蔵」のまろやかな味が口に合っているようです。

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2013年1月30日/〈東京・町歩き〉012・富岡八幡宮

2013-01-30 04:06:56 | 東京・町歩き

 

写真①:応神天皇らを祀る「富岡八幡宮」本殿

     =東京都江東区富岡1丁目20-3で、2013年1月16日午後2時15分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 12 

:富岡八幡宮

 江東区富岡1丁目の「深川不不動尊」にお参りした1月16日午後、お次はすぐ隣の「富岡八幡宮」=写真①=へ。江戸時代初期の寛永4年(1627年)創建で、ご祭神は応神天皇ほか8柱です。

 石畳の参道には、「江戸最大の八幡さま(深川八幡宮)」と書かれた横断幕が掲げられていました=写真②=。


写真②:「江戸最大の八幡さま(深川八幡宮)」の横断幕が掲げられた参道


  「富岡八幡宮」は、江戸初期の貞享元年(1684年)、幕府から春と秋の2場所の勧進相撲が許され、以後約百年間も境内で本場所が開催され、江戸勧進相撲発祥の地として有名です。本殿わきの境内に明治33年、第12代横綱陣幕久五郎がを発起人にして、初代明石志賀之助から歴代横綱の四股名を石碑に刻んで顕彰する「横綱力士碑」(高さ3.5㍍、幅3㍍、重さ20㌧)が建てられています=写真③=。

 

写真③:歴代横綱を顕彰する堂々たる「横綱力士碑」

 石碑には、柏鵬時代を築いた柏戸剛、大鵬幸喜両横綱の四股名も刻まれていました=写真④=。新横綱誕生の際には、相撲協会の立ち会いで刻名式が行われ、新横綱の土俵入りが境内で奉納されるという。

 

写真④:柏戸剛、大鵬幸喜両横綱の四股名も刻まれている石碑

 最後に、正面参道の永代通り入口の「富岡八幡宮」大鳥居そばにある「伊能忠敬銅像」=写真⑤=を見ました。江戸時代後期の測量家・忠敬は深川黒江町(現門前仲町1丁目)に住み、全国各地へ測量旅行に出る際には同八幡宮に参拝し、成功を祈念していました。

 銅像は、寛政12年(1800年)の蝦夷地(北海道)測量開始から2百年が経過したのを機に、平成13年(2001年)に建立。黒御影石に刻まれた伊能日本図を後にして、忠敬が杖の先に磁石で方位を測る「杖先方位盤」を手に、力強く測量の旅へ足を踏み出す姿が彫刻されています。当時67歳だった文化9年(1812年)、忠敬が九州測量の旅で私の古里・津屋崎を訪れた際も、「富岡八幡宮」に参拝したのだなと思うと、歴史上の人物である偉大な忠敬翁が身近に感じられました。

 

写真⑤:黒御影石に刻まれた伊能日本図を後に測量の旅の第一歩を踏み出す「伊能忠敬銅像」

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2013年1月29日/〈東京・町歩き〉011・深川不動尊

2013-01-29 05:25:55 | 東京・町歩き

写真①:「深川不動堂(不動尊)」の旧本堂

     =東京都江東区富岡1丁目17-13で、2013年1月16日午後1時55分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 11 

:深川不動尊

  1月16日午後、江東区清澄3丁目の「清澄庭園」を散策後、同区富岡1丁目にある「深川不動堂」にお参りしました。千葉県にある真言宗成田山新勝寺の別院。成田まで出向かなくてもご本尊の不動明王(不動尊)を拝めると、江戸時代から参拝客が多いという。

 江戸町人を中心に成田山のご本尊を江戸で参拝したいという気運が高まった元禄16年(1703年)4月、初めて江戸でのご本尊の出張開帳(江戸出開帳)が、この深川不動堂付近で行なわれ、人気を博したのが、新勝寺別院の起りとされています。

  開創310年を期に平成23年に「旧本堂」=写真①=に替わる「新本堂」=写真②=が完成、「旧本堂」から不動尊が遷座され、「旧本堂」には日本最大級を誇る不動明王坐像「おねがい不動尊」を安置。「新本堂」の外壁は、梵字(不動明王御真言)を散りばめた「真言梵字壁」で包まれており、珍しい光景でした。


写真②:「真言梵字壁」で包まれた「新本堂」

 境内のおみくじ売り場そばに、「諸願成就 足災消除」と書かれた大きなわらじがあるのが目に付きました=写真③=。

 

写真③:「諸願成就 足災消除」と書かれた大きなわらじ

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2013年1月29日/〈東京・町歩き〉011・深川不動尊

2013-01-29 05:25:55 | 東京・町歩き

写真①:「深川不動堂(不動尊)」の旧本堂

     =東京都江東区富岡1丁目17-13で、2013年1月16日午後1時55分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 11 

:深川不動尊

  1月16日午後、江東区清澄3丁目の「清澄庭園」を散策後、同区富岡1丁目にある「深川不動堂」にお参りしました。千葉県にある真言宗成田山新勝寺の別院。成田まで出向かなくてもご本尊の不動明王を拝めると、江戸時代から参拝客が多いという。

 江戸町人を中心に成田山のご本尊不動明王(不動尊)を江戸で参拝したいという気運が高まった元禄16年(1703年)4月、初めて江戸でのご本尊の出張開帳(江戸出開帳)が、この深川不動堂付近で行なわれ、人気を博したのが、新勝寺別院の起りとされています。

  開創310年を期に平成23年に「旧本堂」=写真①=に替わる「新本堂」=写真②=が完成、「旧本堂」から不動尊が遷座され、「旧本堂」には日本最大級を誇る不動明王坐像「おねがい不動尊」を安置。「新本堂」の外壁は、梵字(不動明王御真言)を散りばめた「真言梵字壁」で包まれており、珍しい光景でした。


写真②:「真言梵字壁」で包まれた「新本堂」

 境内のおみくじ売り場そばに、「諸願成就 足災消除」と書かれた大きなわらじがあるのが目に付きました=写真③=。

 

写真③:「諸願成就 足災消除」と書かれた大きなわらじ

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2013年1月28日/〈東京・町歩き〉010・清澄庭園

2013-01-28 05:51:59 | 東京・町歩き

 

写真①:池を中心とした回遊式庭園で東京都指定名勝の「清澄庭園」

     =東京都江東区清澄3丁目3-9で、2013年1月16日午後1時15分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 10 

:清澄庭園

 「深川江戸資料館」を終えた1月16日午後、次に訪れたのは江東区清澄3丁目にある東京都指定名勝・「清澄(きよすみ)庭園」=写真①=です。一説では、江戸時代の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられています。江戸中期の享保年間(1716~1736年)に、下総国関宿の城主久世大和守の下屋敷となり、庭園のもとが造られました。

 明治11年(1878年)、三菱財閥の岩崎弥太郎が所有して造園に着手、大泉水や築山、全国から取り寄せた奇岩奇石を配置し、池を中心とした回遊式庭園として完成させました。

 池の周りを散策していると、冬鳥で白い腹が特徴のキンクロハジロや頭が赤茶色のホシハジロ、尾が長いオナガガモなど北国から渡来したカモたちが遊泳しています=写真②=。庭園内のためか、怖がらずにそばまで寄ってくれるのが嬉しいです。

 

写真②:池を泳ぐキンクロハジロやホシハジロ、オナガガモなどの群れ


 庭園の松には、日本三名園で有名な金沢市の「兼六園」の冬景色でよく見られるように、雪害から樹木を守るため縄で枝を吊る「雪吊り」が施されていました=写真③=。


写真③:庭園の松に施された雪害防止の「雪吊り」


    
 14日の積雪がまだ残る庭の一角には、薄紫色の寒牡丹の花が藁囲いに守られて咲いており、きれいでした=写真④=。


写真④:積雪がまだ残る庭の一角に咲いた薄紫色の寒牡丹の花

 その近くには、赤や黄色の実を付けた「十両」、「百両」、「千両」の木が植栽さています=写真⑤=。そろい踏みだな、と微笑みながら、「万両」の木はどこだろうと探しましたが、カメラに収めることはできませんでした。


写真⑤:赤や黄色の実を付けた「十両」、「百両」、「千両」の木

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〈催事〉0220:ふくつ故郷スケッチ画展

2013-01-27 17:40:52 | 行楽催事

 

  

写真①:堀出太一さんが描いた「津屋崎千軒通り」のスケッチ画

    =福津市津屋崎3丁目の市まちおこしセンター「津屋崎千軒なごみ」で撮影

 「津屋崎千軒なごみ」で開催中 

堀出太一さんの「ふくつ故郷スケッチ画展」

  福津市津屋崎3丁目の市まちおこしセンター「津屋崎千軒なごみ」で、市観光協会専属絵師、堀出太一さんの「ふくつ故郷スケッチ画展」が、1月26日から始まりました。入場無料(火曜の29日は休館)で、2月3日(日)まで。

 会場には、福津市の古い町並みの「津屋崎千軒通り」=写真①=や、宮地嶽神社の神輿の御神幸を描いた「秋季大祭」=写真②=、奴さん行列を題材にした「金刀比羅神社秋季大祭」=写真③=、唐津街道の宿場跡の「畦町風景」などを柔らかなタッチで描いたスケッチ画35点が展示されています。堀出さんは、市観光協会のパンフやイベント・チラシにスケッチ画の筆を振るい、活躍中。

 

写真②:宮地嶽神社の「秋季大祭」 

写真③:「金刀比羅神社秋季大祭」

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2013年1月27日/〈東京・町歩き〉009・深川江戸資料館

2013-01-27 04:05:00 | 東京・町歩き

 

写真①:江戸深川に関する歴史・民俗を展示している「深川江戸資料館」の入口

     =東京都江東区白河1丁目3-28で、2013年1月16日午後0時30分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 9 

深川江戸資料館

  1月16日午後、江戸深川に関する歴史・民俗を展示している文化施設、「深川江戸資料館(江東区白河1丁目)」=写真①=を訪れました。地下1階、地上3階建てで、昭和61年にオープンし、公益財団法人江東区文化コミュニティ財団が指定管理者になっています。

 江戸時代後期・天保年間の深川佐賀町の町並みを実物大で再現した常設展示室が見ものです。「江戸時代へ〝タイムスリップ〟」と題し、長屋や八百屋、船宿、火の見櫓などの町並みを描いた絵=写真②=が掲示されていました。


写真②:江戸時代の長屋や八百屋などの町並みを描いた絵


 大店や白壁の土蔵、長屋などを実物大で再現した町並み=写真③=は、「情景再現、生活再現展示」方式とされ、分かりやすい展示です。


写真③:大店や白壁の土蔵、長屋などを実物大で再現した町並み


    
 長屋の住民の共同スペースには、井戸や便所、ごみ溜め、稲荷などが再現されていました=写真④=。


写真④:井戸や便所、ごみ溜め、稲荷などが再現された長屋の住民の共同スペース

 大根、人参などの野菜が店頭に並ぶ八百屋=写真⑤=の様子は、現在の町の八百屋さんとあまり変わらない印象です。


写真⑤:大根、人参などの野菜が店頭に並ぶ八百屋

 「名所江戸百景に描かれた江東」と題したパネル=写真⑥=では、歌川広重作の「深川木場」などの浮世絵について解説されており、興味深く観ました。私の所属している「津屋崎千軒 海とまちなみの会」手作りの町並み散策マップ・『津屋崎千軒そうつこう』(A2判八折り、表裏カラー)は、デザイナーの湯浅美子会員が『名所江戸百景』の色調にならってレトロなイメージでデザインし、江戸時代から栄えた〈津屋崎千軒〉の町並み地図にふさわしいとご好評をいただいています。

 

写真⑥:「名所江戸百景に描かれた江東」のパネル

 館内の見学コースの最初にある「導入展示室」には、江戸時代の小説家滝沢馬琴や実測による最初の日本地図を作製した伊能忠敬、江戸末期の思想家佐久間象山、第11代将軍・徳川家斉のもとで老中として「寛政の改革」を断行した松平定信(陸奥白河藩主で白川楽翁とも号した)など深川ゆかりの人物と深川の歴史を紹介=写真⑦=。

 

写真⑦:滝沢馬琴や伊能忠敬など深川ゆかりの人物を紹介した「導入展示室」

  そうそう、「深川江戸資料館」の隣には、東京都指定史跡の「楽翁松平定信墓」=写真⑧=の石碑が入口に建つ「霊巌寺」がありました。

  

写真⑧:「楽翁松平定信墓」の石碑が入口に建つ「霊巌寺」

    =江東区白河1-3-32で撮影

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2013年1月26日/〈東京・町歩き〉008・渋谷駅前・ハチ公広場

2013-01-26 05:15:07 | 東京・町歩き

 

写真①:JR山手線「渋谷駅」前の広場に建つ「忠犬ハチ公」の銅像

     =東京都渋谷区で、2013年1月16日午前11時20分撮影

〈東京・町歩きスポット〉 8 

:渋谷駅前・ハチ公広場

 1月16日午前、東京都渋谷区神南1丁目の「たばこと塩の博物館」を見学後、江東区白河1丁目にある「深川江戸資料館」に向かうため、渋谷区のJR山手線「渋谷駅」へ行きました。「渋谷駅」前広場の隅に建つ「忠犬ハチ公」の銅像=写真①=に久しぶりに対面。死去した飼い主の帰りを同駅前で待ち続けたという「ハチ公」を見て、懐かしさを感じました。

 読売新聞西部本社勤務時代の2004年9月17,18日夜、古代の迎賓館だった福岡市中央区・福岡城址内の「鴻臚館」跡で、本社と福岡市、NHKなどと組織した実行委員会が主催した伎楽、能・狂言などの古典芸能野外劇・『はかた楽劇 鴻臚館物語』の企画を担当した際、プロデューサーの狂言、野村万蔵家八代目当主・野村万之丞氏(急逝後、八世万蔵襲名。本名野村耕介)と企画協議のため、03年に渋谷区神南3丁目の「コースケ事務所」で同氏に会い、近くのNHK本部で番組制作局音楽・伝統芸能番組部の寺沢康世エグゼクティブ・プロデューサーと同野外劇の収録・番組放映の打ち合わせをした折、「忠犬ハチ公」銅像前に何度も立った記憶が蘇ったからです。

 その「ハチ公前広場」に、緑色の電車の前部に「5001」、「渋谷←→櫻木町」と表示された「電車モニュメント」=写真②=がありました。昭和29年に東京急行電鉄株式会社が超軽量電車5000系として製作、東横線で活躍した記念すべき第1号車両です。平成18年、渋谷区が渋谷にゆかりの電車を設置し、渋谷の歴史や伝統文化、区民の生活様式の変遷を後世に伝えたいと設置しました。

 
写真②:「ハチ公前広場」に設置されている「電車モニュメント」

 電車の中に入ると、「大正・昭和の渋谷」のモノクロ写真パネル=写真③=が展示されています。


写真③:電車の中に展示された「大正・昭和の渋谷」の写真パネル


    
 展示写真の中には、昭和32年に撮影された「忠犬ハチ公」銅像の後ろ姿のパネル=写真④=もありました。昭和9年に建てられた「忠犬ハチ公」銅像は、太平洋戦争の金属供出で同19年に撤去されましたが、同23年に駅前広場の中央に再建。平成元年に駅前広場が拡張された際に現在地に移設され、それまでの北向きから東向きに変えられたという。


写真④:昭和32年に撮影された「忠犬ハチ公」銅像の後ろ姿の写真

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2013年1月25日/〈東京・町歩き〉007・「たばこと塩の博物館」・塩

2013-01-25 05:02:56 | 東京・町歩き

写真①:重さ1.2㌧というポーランドのヴェリチカ産の岩塩
     =東京都渋谷区神南1丁目16-8の「たばこと塩の博物館」3階で、2013年1月16日午前10時45分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 7 

:「たばこと塩の博物館」・塩

  渋谷区神南1丁目の「たばこと塩の博物館」の3階は、「日本の塩・世界の塩」の展示スペースです。入口に、重さ1.2㌧というポーランドのヴェリチカ産の岩塩=写真①=が展示されています。

  日本の塩づくりの紹介コーナーには、塩田での製塩作業の様子を描いた絵=写真②=がありました。

 
写真②:塩田での製塩作業の様子を描いた絵

 日本の塩田と製塩作業に使う小屋や煙突などを再現した模型=写真③=も展示され、理解しやすく工夫されています。


写真③:日本の塩田と製塩作業に使う小屋や煙突などを再現した模型


    
 昭和元年から58年まで能登の揚浜で使われていた大きな鉄釜(直径180㌢、深さ30㌢、重さ約160㌔・㌘)=写真④=が展示されており、目をひかれました。


写真④:昭和元年から同58年まで能登の揚浜で使われていた大きな鉄釜

 明治時代前期に兵庫県赤穂地方で塩の移送に使われていた廻船を描いた「塩廻船の図」=写真⑤=は、廻船問屋が活躍していた時代をしのばせます。


写真⑤:明治時代前期に兵庫県赤穂地方で塩の移送に使われていた廻船を描いた「塩廻船の図」

 内陸に塩資源が少ない日本では、製塩地の海辺と内陸を結ぶ「塩の道」が古くから開かれ、海上の輸送路もできました。江戸時代には、日本の製塩の大産地となった瀬戸内海沿岸の讃岐、播磨など十か国で製造した「十州塩田」の塩が全国的に流通し、塩を中心とする交易路も整備されたとして、「九州の塩の道」を描いた地図のパネル=写真⑥=も展示されています。しかし、江戸時代から明治にかけて九州最大級の製塩地で栄えた我が古里・津屋崎の名は同地図には載せられておらず、残念でした。

 

写真⑥:「九州の塩の道」を示した地図のパネル

  1階エントランスホールには、瀬戸内の海水とホンダワラで作った広島県呉市の特産品・「海人の藻塩」(土器入り、1,260円)=写真⑦=も展示されていました。

  

写真⑦:1階エントランスホールに展示された「海人の藻塩」

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