吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

〈催事〉0405:鳥取駅前のモニュメント

2015-10-29 02:48:51 | 行楽催事

 

写真①:JR山陰本線「鳥取駅」南口の外観
     =鳥取市で、2015年10月24日午前11時30分撮影

  「全国フットパスの集い2015in鳥取西いなば」(実行委員会主催、日本フットパス協会共催)に参加するため、10月24、25両日、鳥取市のJR山陰本線鳥取駅=写真①=を乗降しました。路線バスへの乗り継ぎや時間待ちの合い間に駅前のモニュメントを訪ねました。

  「鳥取駅」南口タクシー乗り場横の「駅南モニュメント広場」にあるのが、大黒様と白うさぎのブロンズ像(入江甲作)=写真②=。昭和60年(1985年)の駅南広場整備の際、シンボルとして大黒様が白兎を助ける「因幡の白兎」の話にちなみ設置され、「手づくり郷土(ふるさと)賞」を受賞。

  

写真②:大黒様と白うさぎのブロンズ像

 大黒様のブロンズ像に近づくと、鳥取市生まれの作曲家岡野貞一作曲の小学唱歌「ふるさと」のメロディーが流れてきました。そばに設置されている「日本のふるさとメロディーの箱」が音源です=写真③=。岡野は「春が来た」、「春の小川」、「おぼろ月夜」、「桃太郎」などの童謡作曲や、文部省唱歌の編纂委員としても知られています。

 

写真③:「日本のふるさとメロディーの箱」(向こうは大黒様と白うさぎのブロンズ像)

 童謡「大こくさま」の作曲者田村虎蔵は、鳥取県岩美町出身です。「きんたろう」や「はなさかじじい」などの童謡も作曲。「大こくさま」のメロディーも流す「日本のふるさとメロディーの箱」の上部には、岡野と田村の略歴も刻まれています=写真④=。

 

写真④:「日本のふるさとメロディーの箱」の上部に刻まれた作曲家岡野貞一と田村虎蔵の略歴

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〈催事〉0404:鳥取市鹿野町でフットパスウオーク

2015-10-28 12:47:23 | 行楽催事

 

写真①:フットパスウオーク開会式に集まった参加者
     =鳥取市鹿野町農業者トレーニングセンターで、2015年10月25日午前8時30分撮影

 鳥取市の「鹿野城下町と里山コース」9Km

フットパスウオークを3時間楽しみました

  「全国フットパスの集い2015in鳥取西いなば」(実行委員会主催、日本フットパス協会共催)初日の10月24日は、鳥取市鹿野町(しかのちょう)の国民宿舎「山紫苑」に宿泊、温泉で疲れを癒しました。翌25日午前8時30分、鹿野町農業者トレーニングセンターで開かれたフットパスウオークの開会式=写真①=に全国から集まった約230人とともに参加、「気高(けたか)生姜ぽかぽかコース(7.3Km)、「鹿野城下町と里山コース」(9Km)、「青谷(あおや)しおかぜコース」(6.3Km)の3コースに分かれてウオークに出発。

 私は古里の福津市・〈津屋崎千軒〉と同じ古い町並みと「津屋崎里歩きフットパス」(歩程6.8Km、所要2時間半)の魅力の一つ・里山と同じような美しい景観も味わいたいと、「鹿野城下町と里山コース」を希望し、ボランティアガイドさんの先導で午前8時40分にスタートしました。

 〈鹿野往来〉を散策

  〈鹿野往来〉と呼ばれる鹿野町の町並みは安土桃山時代の天正9年(1581年)、鹿野城主となった亀井茲矩(これのり)が城下町として整備。石畳の通りに面して京風千本格子を備えた町家=写真②=が建ち、通りの両脇には清水が流れる水路が残っており、町の紋章を石の各柱に刻んだ「足下行燈」の薄明かりが夜には足下を照らすなど、落ち着いたたたずまいで、気品のある町並みです。

 

写真②:京風千本格子を備えた町家・「石屋出店」。軒下には水路と「足下行燈」が見える

  しばらく行くと、「幸盛寺(こうせいじ)」がありました。亀井茲矩が、義父で悲業の死を遂げた出雲の戦国大名・尼子氏の家臣で尼子十勇士の筆頭武将・山中鹿助(しかのすけ)幸盛の菩提を弔うため建てた寺です。境内の大イチョウ(高さ34㍍、樹齢4百年)の下に、「山中幸盛公之墓」の墓標が建てられています=写真③=。毛利元就に主君尼子義久が滅ぼされた後、尼子家再興の信念を貫いた英雄鹿助の「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話のフレーズが石碑に刻まれていました。

  

写真③:「幸盛寺」境内に建つ「山中幸盛公之墓」の墓標

  「幸盛寺」の次に、城下町から外れて「地蔵小路」の細い路地を抜けると、コスモス畑の中に敷かれた簀子の道を歩く「コスモスロード」へ出ました=写真④=。

 

写真④:コスモスロードを歩くフットパスウオーカー

  このあと、鹿野城下町の通りに戻る入り口に「庚申堂」=写真⑤=がありました。〈津屋崎千軒〉に残る庚申塔と同じ庚申信仰が根付いた町と分かり、親近感を持ちました。60日毎に巡ってくる庚申の晩は、人体に棲む三尸虫(さんしのむし)が眠っている間に天帝にその人の悪行を告げて寿命を縮めるため、徹夜でお堂にこもって過ごす信仰。この「庚申堂」では、今もお堂にこもる風習があるという。

  

写真⑤:庚申信仰を今に伝える「庚申堂」

  午前9時すぎ、1回目の休憩と接待の場所に到着=写真⑥=。出発から30分後、約60人のウオーカーがのどのかわきを感じるころ、お茶とお菓子が地元の婦人たちから提供され、一息つけました。このあとゴールまで計4か所の休憩場所で同様の接待があり、疲れた心身が元気づけられ、おもてなしの心を嬉しく思いました。

写真⑥:お茶とお菓子のお接待で一息つくウオーカーたち

 続いて、河内川に架かる橋を渡り、田園地帯を行くコースに入りました=写真⑦=。特産の生姜が植えられた畑も目に付きます。

写真⑦:田園地帯を行くフットパスコース

  清冷な水が湧き出る「布勢(ふせ)の清水」(環境省選定「平成の名水100選」)の休憩所では、この清水で沸かしたコーヒーが振る舞われました。午前11時すぎ、「四季薫る町鹿野 川柳街道」の掲示板が建てられている場所に着き、そばに川柳を書いた木杭も並んでいるのに気付きました=写真⑧=。鹿野町民が川柳大会2部門で日本一になり、「川柳のまち鹿野」誕生を機に、鹿野小学校前の道路に優秀作の句を木杭や石に記して設置し、「川柳街道」としてPR。

  

写真⑧:「四季薫る町鹿野 川柳街道」の掲示板

  午前11時20分すぎ、「鹿野城跡公園」に到着。「鹿野城」は現在、天守閣などの建物はなく、石垣や堀が残っています=写真⑨=。出発地点の鹿野町農業者トレーニングセンターにゴールインしたのは、午前11時40分。スタートから3時間、万歩計は17,141歩を記録していました。

  

写真⑨:「鹿野城」のお堀に架かる橋を渡るフットパスウオーカーたち

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〈催事〉0403:全国フットパスの集い

2015-10-27 14:35:26 | 行楽催事

 

写真①:活動事例を発表する神谷由紀子・「NPO法人みどりのゆび」事務局長

      =鳥取市鹿野町の市立鹿野小学校プレイルームで、2015年10月24日午後7時10分撮影

 鳥取市鹿野町で開催

「全国フットパスの集い2015in鳥取西いなば」に行ってきました

  「全国フットパスの集い2015in鳥取西いなば」(実行委員会主催、日本フットパス協会共催)が10月24,25両日、鳥取市鹿野町で開催され、同協会に団体加盟している町興しボランティア団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」会員の私も福津市の自宅から新幹線、JR山陽本線、路線バスなどを乗り継ぎ、7時間がかりで私費参加してきました。

日本フットパス協会平成27年度総会にも出席

「津屋崎里歩きフットパス」の『絶景の道100選』認定を報告

  まず24日、鳥取市鹿野町の国民宿舎「山紫苑」で開かれた日本フットパス協会平成27年度総会に出席。役員選任議案で、鳥取市と秋田県由利本荘市、福岡県中間市の市長ら6人を理事に新任した後、平成28年度総会を由利本荘市で、同29年度総会を中間市でそれぞれ開催することを決定しました。意見交換会で、私は「津屋崎里歩きフットパス」(歩程6.8Km、所要2時間半)が『絶景の道100選』に全国のフットパスで初めて認定されたことを報告しました。

  このあと、鳥取市立鹿野小学校プレイルームで開かれた「全国フットパスの集い2015in鳥取西いなば」のフォーラムに参加。椎川忍・一般財団法人地域活性化センター理事長の「地方創生の課題とフトパスから学ぶこと」と題した基調講演や、日本フットパス協会理事の神谷(かみや)由紀子・NPO法人みどりのゆび(東京都町田市)事務局長ら3人の活動事例発表を聞きました。

 「フットパスを続けていけば、まちづくりができあがる」

  著書『フットパスによるまちづくりー地域の小道を楽しみながら歩くー』(水曜社)で知られる神谷事務局長は「地方創生など地域のまちづくりが、従来の工業化や企業を中心とした考え方から、椎川理事長が提唱されるような優しい豊かな社会づくりに代わってきた。フットパスの目的は、まちづくりの方向をこのような流れにすること。名所旧跡や体験、テーマをつなぐ観光は、多くの人を一度に呼び込めるが、一過性で移住する人は出てこない。(観光客が移動や買物で使うお金など)資源は、大企業やチェーン店など地元以外の所に行ってしまいがち。原風景や地元の生活をつなぐフットパスは、一回に呼び込む人数は少ないが、持続的でリピーターや移住者を呼び、資源が地元に落ち、地元が生き生きしてまちづくりが起きる」と熱っぽく語りかけました=写真①=。

  午後6時からは、国民宿舎「山紫苑」で開かれた交流会に出席。コーヒーのチェーン店・スターバックスが全国唯一の空白県となった2013年当時、「鳥取にはスタバはないけど、日本一のスナバ(鳥取砂丘)はある」のユーモアあふれるコメントのフレーズで有名になった平井伸治・鳥取県知事が歓迎の挨拶に立ち=写真②=、「鳥取県は蟹取県に改名しました。ズワイガニ漁が解禁になる11月6日まで滞在いただければ、カニ料理を味わっていただけますカニカニ」と両手をかざしてカニのハサミのマークを作って締めくくり、満場の拍手を浴びました。

  

写真②:ユーモアたっぷり歓迎の挨拶をする平井伸治・鳥取県知事

  このあと、ホタテガイ漁の際に歌われたという鳥取県民謡「貝殻節」の踊り=写真③=が披露され、会場は和やかな雰囲気に。平井知事らと名刺交換し、全国各地から参加したフットパス・ウオーカーと懇談しました。

  

写真③:披露された鳥取県民謡「貝殻節」の踊り

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〈催事〉0402:「内野宿」探訪

2015-10-26 17:26:19 | 行楽催事

 

写真①:旧旅籠屋・「肥前屋」の「内野展示館」

     =飯塚市内野の「内野宿」で、2015年10月22日午後1時35分撮影

 

長崎街道・筑前六宿の一つ

「内野宿」(飯塚市)を探訪

 

 旧長崎街道の〝筑前六宿(むしゅく)〟の一つで、飯塚市内野にある「内野宿」を10月22日午後、細君と訪ねました。

 長崎街道は、江戸時代の肥前長崎と豊前小倉間57里(約228㌔)を25宿で結ぶ道で、参勤交代の諸大名やオランダ商館員などが往来。「内野宿」は、長崎寄りの「原田宿」、「山家宿」の次に位置し、さらに東の小倉に向かう「飯塚宿」、「木屋瀬宿」、「黒崎宿」とともに筑前の六宿の一つで、西構口(「山家宿」側)から東構口(「飯塚宿」側)まで約6百㍍あります。

 国道200号線から長崎街道に入り、旧旅籠屋・「肥前屋」の「内野展示館」=写真①=に入館。「内野宿」の歴史をまとめた飯塚市制作のビデオを見ると、慶長17年(1612年)に黒田武士で知られる毛利但馬(母里但馬)が福岡藩の命で代官として建設に着手。但馬が大隈城主となった後、内野太郎左衛門が後任をつとめたことが分かりました。

  「内野展示館」の隣には、両替商だった「小倉屋(こくらや)」=写真②=が建っています。江戸後期・文政元年(1818年)建築という風格ある町家です。

  

写真②:江戸後期建築の風格ある「小倉屋」の町家

  「内野展示館」の斜め前にある旧「長崎屋」(下茶屋)=写真③=は、参勤交代の大名に同行する重臣の宿舎「脇本陣」でした。平成16年、「内野宿」を訪れる人たちの休憩処として開放されています。

 

写真③:参勤交代の大名に同行する重臣の宿舎「脇本陣」だった旧「長崎屋」(下茶屋)

  大名の宿舎に充てられた本陣(御茶屋)は、「内野宿」の長崎街道中央付近から逆T字に入った道沿いにありましたが、今は残っていません。

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2015年10月23日/〈日記〉567・「絶景の道100選」認定証

2015-10-23 13:35:53 | 日記

 

写真①:「津屋崎千軒 海とまちなみの会」に届いた『絶景の道100選』認定証

     =福津市の本会事務局で、2015年10月23日午前11時撮影

 

 「津屋崎里歩きフットパス」の『絶景の道100選』認定証届

アウトドアツーリズムとして活性化推進へ期待

  「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が開設した「津屋崎里歩きフットパス」を候補として応募していた「絶景の道100選」について、「新日本歩く道紀行100選選考委員会」(名誉顧問・石原信雄一般財団法人地方自治研究機構会長、事務局東京)から10月23日、同フットパスの道を選考の結果、『絶景の道100選』に認定したとの認定証=写真①=が本会事務局に届きました。福岡県内ではただ1か所の『絶景の道100選』認定で、全国の「フットパス」でも認定されたのは初めてだけに、私たち会員仲間では喜んでおります。

 認定証は、津屋崎千軒 海とまちなみの会殿あてで、「新日本歩く道紀行100選シリーズ 歩いておきたい道遺産1000」の文字と杖を手に歩く人のイラスト入りの統一ロゴマークが印刷されたA4用紙に「津屋崎里歩きフットパス」=写真②=新日本歩く道紀行100選、絶景の道に認定いたします、と明記。その下に「平成27年9月30日 新日本歩く道紀行100選選考委員会」と記入したうえ、同委員会の石原名誉顧問と下光輝一選考委員長(公益財団法人健康・体力づくり事業財団理事長)の名前と公印が印刷されています。

 

写真②:「津屋崎里歩きフットパス」マップ

  認定証に同封された「新日本歩く道紀行100選選考委員会」の文書では、「選考委員会による厳選な審査の結果、審査をクリアされたことをご報告申し上げ、認定証をご送付申し上げます」とし、今後は選考委員会から運営委員会へ移行し、100選シリーズをアウトドアツーリズムとして活性化させていきたく存じます、としています。

 ツーリズムウオークの企画、運営を推進

地域の観光と物産販売、歩く人の健康促進へ

 運営委員会では、今後のアウトドアツーリズムの推進のため、①地域の観光促進②地域における商工物産の販売促進③歩く人の健康促進の三つのテーマで、健康参画企業である日本旅行、アクティブウオーク&スポーツ、アイケイの3社を中心に、ツーリズムウオークの企画、運営を推進。「アウトドアツーリズム倶楽部」として会員制『歩きんぐくらぶ』を運営、5年間で30万人の会員獲得を目指し、日本旅行を窓口にシーズン毎のツーリズムウオークや、フットパスの企画を広く一般公募し、WEBサイト『歩きんぐくらぶ』で地域の物産品や商品を案内、購入できるシステムを構築、「Welcome walkers Station」を構築して歩数や踏破認定数をカウントするとともに、年間とトータルの踏破ポイントを算定してポイントインセンティブを提供するシステムを構築するという。

 「津屋崎里歩きフットパス」は、「海とまちなみの会」が、福津市制施行10周年記念事業として平成26年度市住みよいまちづくり推進企画活動補助金を受け、市都市計画課と共働で同年7月に開設した市内初のフットパスです。夕陽が沈む方向と時刻、水平線の島々が描かれたパノラマ風景が分かる「夕陽風景時計」(考案設計者・緒方義幸会員)を設置した同市宮地浜の同時計前を発着点として、浜山の松原を経て「宮地嶽神社」を回遊(歩程6.8km、所要時間2時間30分)、四季折々の景色の移ろいを楽しめます。

 

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〈催事〉0401:御遷座記念祭

2015-10-20 06:17:28 | 行楽催事

 

写真①:「御遷座記念祭」のポスター

      =福津市宮司元町の「宮地嶽神社」で撮影

御遷座記念祭で「つくし神舞」奉納披露

22日、「宮地嶽神社」拝殿前

  10月22日(木)午後1時から、福津市宮司元町の「宮地嶽神社」で、「御遷座記念祭」=写真①=が開催されます。ご祭神の神功皇后が御遷座されためでたい日で、祭典のあと拝殿前特設舞台では雅やかな装束姿の神職や敬神婦人会の人たちが、「つくし神舞(かんまい)」を奉納披露します。観覧無料。

  「つくし神舞」は、〝幻の宮廷舞〟とされる「筑紫舞(つくしまい)」を伝承しているという古代舞踊。「筑紫舞」は、傀儡子(くぐつ)という芸能者集団により伝えられた九州発祥の伝統芸能。平安時代の勅撰史書『続日本紀 巻第十一』にも、雅楽寮で伝習する定員が20人と記述されています。能や舞楽、人形浄瑠璃などの源流ともいわれ、8世紀には筑紫地方の風俗舞として舞われていました。榊(さかき)、玉串、絹垣(きぬがき=絹の布)などを持ち、独自の手振りで舞う躍動的な舞です。1200年の時を経て受け継がれ、その伝承者が宮地嶽の岩屋(不動洞窟)で舞い伝えていたとのことから、「宮地嶽神社」で再興、「つくし神舞」として伝承されています。

 筑紫舞は、昭和初期まで伝承され、戦後に途絶えましたが、神戸市出身の西山村光寿斉(こうじゅさい)さんが復活させ、筑紫舞宗家として1984年に福岡市東区に転居。毎年7月か8月に同市中央区の福岡県立大濠公園能楽堂で公演を行っています。筑紫舞の特徴は、回転しながらの跳躍などの所作にあり、2001年のフランス公演では〝日本のフラメンコ〟と好評を得ました。

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〈催事〉0400:最高に盛りあがった「夕陽を観る会」

2015-10-19 08:21:15 | 行楽催事

 

写真①:「宮地嶽神社」から参道沖の玄界灘に浮かぶ「相島」(福岡県新宮町)背後に沈む夕陽
     =福津市宮司元町の「宮地嶽神社」参道石段最上部で、2015年10月18日午後5時38分撮影

約5百人の観賞客で「宮地嶽神社」境内賑わう
『絶景の道100選』選定記念参道沖の玄界灘に沈む夕陽を観る会 

  「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が10月18日、『絶景の道100選』選定記念の福津市・「宮地嶽神社」から参道沖の玄界灘に沈む夕陽を観る会を開催。私も会員ボランティアガイドの一人として、福岡、北九州、飯塚、春日、古賀、福津6市からの公募定員30人を上回る参加者38人を迎え、「宮地嶽神社」境内のフットパス・ウオークのあと、参道から玄界灘に沈むこの日と2月23日ごろの年に二度だけしか見られない夕陽の絶景=写真①=を楽しんでいただきました。参道石段と境内は約5百人の観賞客で埋まり、これまで最高の賑わいぶり。

 「夕陽を観る会」は参加無料で、午後3時30分に福津市宮司3丁目の旅館「大阪屋」に集合。「海とまちなみの会」のボランティアガイドの案内で、同3時45分に同旅館を出発、「宮地嶽神社」参道を歩いて81段の石段最上部へ。境内のフットパス・コースを約1時間散策、同5時に石段最上部に戻りました。この後、1.4㌔・㍍先の海まで真っすぐ伸びる参道を黄金色に照らしながら「相島」(福岡県新宮町)背後の玄界灘に沈む夕陽の絶景を同5時41分の日没まで観賞し、石段と参道上の境内を埋め尽くす観賞客からは歓声や拍手がわきあがるほど雰囲気は最高潮に。

 「夕陽の祭 香灯明祈願祭」も人気

神職が「つくし神舞」2曲を奉納披露

  午後6時からは、約3千本の竹灯が灯された境内の拝殿前で「夕陽の祭 香灯明(かおりとうみょう)祈願祭」も行われました。大勢の参拝客が見守る中、特設舞台で〝香り姫〟の巫女が焚いたお香を、神職が御祭神の神功皇后に奉げる祭典=写真②=のあと、神職らが〝幻の宮廷舞〟とされる古代舞・筑紫舞を伝承しているという「つくし神舞」2曲を奉納披露しました。

  

写真①:特設舞台で〝香り姫〟の巫女がお香を焚く「夕陽の祭 香灯明祈願祭」

     =「宮地嶽神社」拝殿前境内で、18日午後6時20分撮影

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〈催事〉0399:香灯明祈願祭

2015-10-16 09:32:25 | 行楽催事

  

写真①:「夕陽の祭 香灯明祈願祭」の看板

      =福津市宮司元町の「宮地嶽神社」で撮影

   

夕陽の祭 香灯明祈願祭

18日、「宮地嶽神社」で

 

  10月18日(日)夕、福津市宮司元町の「宮地嶽神社」で、「夕陽の祭 香灯明(かおりとうみょう)祈願祭」=写真①=が開催されます。

  午後6時から境内に約3千本の竹灯が灯され、社殿の御祭神の神功皇后にお香が奉げられます。信者の願い事を書いて祈願する竹灯は、初穂料1灯千円。拝殿前の特設舞台では、神官らが舞う古代舞の「つくし神舞」2曲も奉納披露されます。観覧無料。

  この日は、夕陽が参道を黄金色に照らしながら「相島」(福岡県新宮町)背後の玄界灘に沈む絶景が、2月中旬とともに年に二度だけ楽しめるため、夕方は大勢の観賞客が参道上の石段に集まります。

  私が所属する「津屋崎千軒 海とまちなみの会」では、「津屋崎里歩きフットパス」が9月30日に『絶景の道100選』に選定されたのを記念し、「宮地嶽神社」から参道沖の玄界灘に沈む夕陽を観る会2015を開催、参加者44人(公募定員満員御礼)が、18日午後3時45分ごろから同市宮司3丁目の旅館「大阪屋」前からボランティアガイドの案内で境内の「フットパス・コース」を1時間歩き、同5時から参道石段最上部から夕陽を観賞します。

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2015年10月15日/〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉011・関ヶ原古戦場

2015-10-15 04:48:51 | 〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉

 

写真①:「史蹟関ヶ原古戦場決戦地」の石碑と「決戦地」の幟

     =岐阜県関ヶ原町大字関ヶ原で、2015年10月1日午前10時50分撮影

 

〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉11

 :関ヶ原古戦場

  名古屋市中区本丸の「名古屋城」見物を終え、9月29日は岐阜県内の息子宅に宿泊。小雨降る10月1日、前から行きたかった同県関ヶ原町の「史蹟関ヶ原古戦場決戦地」=写真①=を息子のマイカーに乗せてもらって訪れました。

  その前に、関ヶ原古戦場決戦地の予備知識を仕込もうと、「徳川家康最後陣跡」近くにある「関ヶ原町歴史民俗資料館」=写真②=を見学。入場料350円を支払い、入った館内では慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の地・関ヶ原で合戦を繰り広げた徳川家康率いる東軍と、豊臣方の石田三成らの西軍の陣形や合戦の流れが大型ジオラマで解説付きで楽しめたほか、「関ヶ原合戦屏風」や武具も展示され、見ごたえがありました。当時の軍馬の実物大模型にまたがり、馬上の目線の高さを実感できたり、参戦した各武将の家紋はんこを押せるコーナーも楽しめました。

  

写真②:「関ヶ原町歴史民俗資料館」入り口

     =関ヶ原町大字関ヶ原で、1日午前9時25分撮影

  「関ヶ原町歴史民俗資料館」前の駐車場には、石田三成ら関ヶ原の戦いで奮戦した武将たちを壁面に大きく描いた「レンタサイクルハウス」が建っています=写真③=。

  

写真③:関ヶ原で合戦を繰り広げた武将を壁面に描いた「レンタサイクルハウス」

  次に車で北西へ移動し、関ヶ原古戦場決戦地の観光案内所がある「関ヶ原笹尾山交流館」=写真④=を訪問。石田三成が本陣を置いた関ヶ原を一望できる「笹尾山」の麓にあります。お土産品販売コーナーに武将の家紋入りキャップが飾ってあり、黒田長政のキャップを買おうとしましたが、置いていないと言われ、残念でした。戦国武将の人気投票結果の表示コーナーでは、近江国(滋賀県)出身の石田三成がトップ、豊臣秀吉が2位とされ、関ヶ原の戦の覇者・徳川家康の人気が低いのが面白く感じました。

  

写真④:「関ヶ原笹尾山交流館」

     =関ヶ原町で、1日午前9時35分撮影

  この「関ヶ原笹尾山交流館」から歩いて坂道を下った所に、お目当ての「史蹟関ヶ原古戦場決戦地」がありました。「国史跡決戦地」の解説板=写真⑤=には〈西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました〉と記されています。

 さらに〈小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです 関ヶ原町〉と結ばれ、兵どもが夢の跡をしのぶ想いにかられました。

 

写真⑤:「国史跡決戦地」の解説板

     =関ヶ原町大字関ヶ原で、1日午前10時50分撮影

  1万4千もの大軍を待機させ、家康から鉄砲を撃ち込まれ、西軍を裏切った若干19歳の小早川秀秋、三成の盟友・大谷吉継(越前敦賀5万石)、西軍陣営に組みしながら東軍に寝返った脇坂安治など、この「関ヶ原古戦場決戦地」に身を置くと、日本の戦国時代を追体験し、日本史の流れもすっと頭に入りそうです。

 関ヶ原からの帰りに立ち寄った名神高速道路の養老サービスエリア(岐阜県養老町)で、通常サイズの5倍の大きさで人気の「メガメロンパン」=写真⑥=を620円で購入。息子宅で孫たちも含め6人で切り分けて食べましたが、残りが出て翌日に食べたほどのでっかさで、驚きました。所変われば品変わるで、旅の楽しさの一つですね

  

写真⑥:1個620円で販売の「メガメロンパン」

     =「名神高速道路」養老サービスエリアで、1日午前11時10分撮影

  これで、〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉シリーズの続編もピリオドを打ちます。

                                       (終わり)

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2015年10月14日/〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉010・「名古屋城」再訪

2015-10-14 04:16:56 | 〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉

 

写真①:秋の空にそびえる「名古屋城」天守閣

     =愛知県名古屋市中区本丸で、2015年9月29日午後3時40分撮影

 

〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉10

 :「名古屋城」再訪

  名古屋市西区則武新町3丁目の「ノリタケの森」からタクシーに乗り、同市中区本丸にある「名古屋城」=写真①=へ。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、慶長14年(1609年)、豊臣方への備えとして「名古屋城」築城を決定、同17年(1612年)に完成。以降、御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄えた名城です。2012年10月に訪れた際、修復工事中で上れなかった天守閣を観覧するのを楽しみにしていました。

  タクシーを降り、「名古屋城」敷地に入って「特別史跡名古屋城」の掲示板=写真②=の横の通路を歩いてお城へ向かいました。中国人の団体観光客が、先を歩いています。

  

写真②:「特別史跡名古屋城」の掲示板

  しばらく行くと、お土産店の前の広場に展示されている金の鯱=写真③=に出合いました。天守閣の威容を際立たせている逸物です。空想上の生き物の鯱は、水を呼ぶと言われることから火除けのまじないとされました。「名古屋城」創建時の金の鯱は、徳川家の財力を誇るべく、貼られた金の量は慶長小判で1,940枚という。

  

写真③:お土産店の前の広場に展示されている金の鯱

  お堀のそばに「剣塀」の解説板=写真④=が立っていました。「大天守と小天守を連結する櫓台は、高い土塀で囲われ、塀の軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと並べられている。大天守への敵の進入を防ぐもので、剣塀と称されている」との解説文を読み、納得。

 

写真④:「剣塀」の解説板

  さらに先には、「天守の石垣」の解説板=写真⑤=もあります。「天守の石垣は、上部が外側にそりだすいわゆる扇勾配であり、石の重みや土の圧力がたくみに分散されるため、はらみにくく、しかも美しい」との解説文。なるほど。

  

写真⑤:「天守の石垣」の解説板

  「名古屋城」は昭和20年(1945年)、空襲で本丸のほとんどを焼失し、昭和34年(1959年)に名古屋のシンボルとして天守閣が復元されました。天守閣観覧料5百円を支払い、エレベータを使って7階の展望室に上り、窓から東側を眺望=写真⑥=。

 

写真⑥:「名古屋城」天守閣から東側の眺望

     =9月29日午後3時55分撮影

  天守閣を出て、「名古屋城」の敷地にある「本丸御殿」(平成30年完成目指して復元工事中)の第1期公開部分に靴を脱いで入りました。尾張藩主の住まいとして江戸時代初期の慶長20年(1615年)に建てられた書院造を木曽で育った桧をふんだんに使って復元した建物です。正規の謁見に用いられた広い建物の「表書院」の大広間には、鮮やかな花鳥図が描かれており、ノーフラッシュの条件で許可を得て虎の襖絵を撮影=写真⑦=。

 

写真⑦:「表書院」の大広間に描かれた虎の襖絵

      =29日午後4時15分撮影

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