写真①:「辺津宮」拝殿内に掲げられた「神勅」額
=宗像市田島の「宗像大社」で、2015年8月30日午前10時25分撮影
「辺津宮」参拝の記 ②「神勅」額と神門
宗像大社三女神は、宗像市田島の「辺津宮(へつみや」に「市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)」を祀り、「沖津宮(おきつみや)」(沖ノ島)に「田心姫神(たごりひめのかみ)」、「中津宮(なかつみや)」(大島)に「湍津姫神(たぎつひめのかみ)」が配されています。8世紀に編纂された日本最古の歴史書・『日本書紀』巻一によると、三女神は日神である天照大神の吹き出す息から生まれたとされ、筑紫の胸肩(宗像)君らが祀る神、と書かれています。
〈海北道中〉と道主貴
8月30日、「辺津宮」拝殿にお参りし、拝殿内の奥を見上げると、天照大神が出されたご命令の「神勅」を記した扁額が掲げられていました=写真①=。「神勅」は、天照大神が宗像三女神を高天原(たかまがはら)から海北道中(うみきたのみちなか=宗像から朝鮮半島に通じる古代海路)にお降しになった際に授けられたとされ、扁額には「天孫(あめみま)を助け奉(まつ)りて天孫に祭(いつ)かれよ」(歴代の天皇をお助けするとともに、歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ)との金文字が納められています。天照大神は、宗像三女神を筑紫の国に降り、「沖津宮」、「中津宮」、「辺津宮」にそれぞれ鎮座、歴代天皇のまつりごとを助け、丁重な祭祀を受けられよと命じられたという。
天皇家の祖先神である天照大神は、宗像三女神に古代に往来した朝鮮半島の百済や新羅へ通じる海路の安全を守るよう命じ、道中の守護神として、道主貴(みちぬしのむち)という尊称も与えられています。宗像大社が古代より道の神様として篤い信仰を集めていたことが、今も交通安全の神様と言われる所以でしょう。
拝殿前から振り返ると、神門の両扉を装飾した金色の菊の紋章が目に入りました=写真②=。
写真②:金色の菊の紋章で装飾された神門の両扉
=「宗像大社」「辺津宮」で、8月30日午前10時40分撮影
海神・宗像三女神を守護神とする古代宗像地方の豪族・宗像君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘、尼子娘(あまこのいらつめ)は、天武天皇の后となり、672年に起きた壬申の乱での英雄とされた後に太政大臣になった高市皇子(たけちのみこ)を産みました。したがって、宗像三女神は、ヤマト政権と緊密な関係にあった神様であり、宗像大社は社格から言っても大きな神社でした。
戦前の近代社格制度では、神社の格を祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける官社と、それ以外の各地方が運営する府県社・郷社・村社・無格社の諸社とに、大きく二分。このうち、官社を天皇・皇族や朝廷にゆかりの深い神を神祇官が祀る〈官幣社〉と、各国の一宮など国造りに貢献した神を地方官が祀る〈国弊社〉に分け、それぞれに大・中・小の格を定めました。宗像大社は、明治神宮や香椎宮などと同じ官幣大社で、社殿の装飾に菊の紋章の使用が許され、三女神すなわち宗像大神を祀る全国で6千余社を数える神社の総本宮です。ちなみに、太宰府天満宮は官幣中社、宮地嶽神社は県から奉幣を受ける県社で、宗像大社の祭神に関係の深い神を祭る〈摂社〉とされていました。