吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2008年2月28日/〈今月・来月の行楽・催事案内〉055

2008-02-28 14:07:55 | 行楽催事
〈2月の行楽・催事案内〉追加1

「不動神社」ぜんざい祭賑う
横穴式石室も〝ご開門〟
―宮地嶽神社奥之宮


写真①:春季大祭(ぜんざい祭)で〝ぜんざい〟をいただく人たち
     =福津市宮司元町の宮地嶽神社奥之宮「不動神社」で、2008年2月28日午後0時23分撮影

 福津市宮司元町の宮地嶽神社奥之宮八社の三番参拝社・「不動神社」で28日、春季大祭(ぜんざい祭)があり、陽気に誘われた多くの参拝客で賑わいました。

 春季大祭は、「ぜんざい」をお不動様にお供えし、無病息災・心願成就などの願い事を〝身代わり不動尊〟に祈念する明治時代から始まったお祭り。当時は、地域で収穫したサトウキビや、もち米等から餅や饅頭を作ってお不動様にお供えし、その砂糖を使って作ったぜんざいを参拝客に振る舞ったのが始まりという。

 お不動様へお供えした「ぜんざい」を戴き、一心に願いを込めてお祈りすれば、「善哉、善哉(よきかな、よきかな)ぜんざい、ぜんざい」と願いを聞き届けくださり、1年間は無病息災・心願成就は間違いなしと言われています。

 この日は、午前10時から午後3時まで、神社社務所前に用意されたテーブルで、小さな餅が二つ入ったぜんざいの無料接待が行われ、参拝客らは社務所前に用意されたテーブルで、笑顔でいただいていました=写真①=。


 「不動神社」は、全国第一級の長さ23㍍の横穴式石室古墳・「宮地嶽古墳」(国指定史跡)の中に不動尊が祀られており、この日は午前8時から午後3時まで石室内へ入れる〝ご開門〟もあり、石室殿で参拝する家族の姿も見られました。


写真②:横穴式石室に祀られた「不動神社」石室殿に参拝する人たち
     =28日午後0時24分撮影

 この日は風もない穏かな晴天に恵まれ、宮地嶽神社境内で遊ぶ保育園児や芝生広場で弁当を広げる家族連れも目立ちました。神社拝殿前にある二分咲きの「寒緋桜」=写真③=を携帯電話のカメラに収める若いカップルもいました。07年のぜんざい祭では満開の「寒緋桜」が楽しめましたが、今年の満開は3月になりそうです。


写真③:まだ二分咲きの「寒緋桜」
     =宮地嶽神社拝殿前で、28日午後0時38分撮影


宮地嶽神社(福岡県福津市宮司):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕JR鹿児島線福間駅下車、西鉄バス津屋崎橋行きか、神湊波止場行きで10分の「宮地岳宮前」で下車し、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約20分。駐車台数1200台。問い合わせは、宮地嶽神社(0940-52-0016)へ。
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2008年2月27日/〈日記〉213・図書館ワークショップ終了

2008-02-27 22:28:01 | 日記
「津屋崎図書館」の建設問題、微妙な局面に
――第4回ワークショップ終了

 「福津市立図書館分館整備ワークショップ」は、27日午後7時から同図書館で第4回目が行われ、全日程を終了。「津屋崎図書館」の建設イメージA,B両案について検討、3月12日にワークショップ参加委員の意見をまとめた報告書について協議することになりましたが、市側は「既存の津屋崎庁舎を(図書館に)使う計画はないのか、との意見も出た。最近になって、津屋崎庁舎の一本化について08年9月までに具体案を出したいと、トップが言っている。いったん立ち止まって再考するが、津屋崎に図書館を造る方向は変わっていないので、皆さんの意見を生かしていきたい」と説明、図書館建設問題は微妙な局面に入ったようです。
 
 池浦順文市長は07年12月の市議会で、福間、津屋崎に分かれている市庁舎の統合問題について、内部で検討会議を作り、11年度までに庁舎の一本化を目指す方針を表明。検討会議の結果をみて、市民や議会と協議したいと話しており、「津屋崎庁舎の(福間庁舎との)一本化」が図書館建設のありように大きくかかわる情勢になりました。

 「市立図書館分館整備ワークショップ」委員は、月1回程度、無報酬でワークショップに出席し、市が10年度開館を目指して作成する津屋崎図書館の基本構想案の整備計画に提言するのが役目です。これまで、市立図書館協議会委員も含めて粕屋郡宇美町立図書館や同郡久山町民図書館を視察したほか、新しいタイプの図書館について学習しました。

 市が当初示した整備計画では、津屋崎図書館は①昭和48年の建設で老朽化した津屋崎公民館を解体、跡地に平屋建て(延べ床面積約800平方㍍、蔵書約5万点)で建設②総事業費は5億円で、地域活性化のために使う③ロビーでは展示も行えるようにし、北側の新浜山児童公園はリフレッシュ、東側の『ハーモニー広場』にバスターミナルを設ける、などとしていました。
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2008年2月26日/〈日記〉212・「五十集船」の大きさは?

2008-02-26 10:33:03 | 日記
写真①:「旧渡橋といさば船」のモノクロ写真
     =〈津屋崎千軒そうつこう〉表紙に掲載

ご存じの皆様
教えて下さい
「五十集船」の大きさ

 19日掲載のブログ「〈日記209〉まちおこし」で紹介した福津市の「(仮称)まちおこしセンター建設基本計画市民検討会議」の第3回ワークショップが、3月5日に開かれるのを前に「五十集船(いさばせん)」の大きさを突き止めたいと情報を集めています。

 江戸時代、九州一の生産高を誇った津屋崎・勝浦塩田の塩や農水産物を津屋崎港から博多や若松、瀬戸内海、山陰、北陸などへ積み出し、帰り荷に荒物、金物、陶器などを持ち帰って〈津屋崎千軒〉と呼ばれるほど町並みが栄える原動力になった船だけに、観光客や市民が訪れる同センターにぜひとも復元展示したいからです。

 「五十集船」について、福津市の町興しボランティア団体「津屋崎千軒 海とまちなみの会」(略称・「海とまちなみの会」)が発行した津屋崎千軒まちなみ散策地図〈津屋崎千軒そうつこう〉(A2判、表裏カラー)では、表紙に「旧渡橋といさば船」のモノクロ写真=写真①=付きで、次のように説明しています。

 〈津屋崎を基地に西日本の浦々を回って交易していた商船が「五十集船」です。「五十集」とは「何でも積む」という意味で、船は50トン前後の小型廻船でした。明治23年に赤間―博多間で、同24年に門司―熊本間で九州鉄道が開業しても、五十集船はしばらく揺るぐことなく活躍していました。しかし、同40年代に入ると運送手段は海運から九州鉄道へとかわり、塩田の廃止もあって、港もさびれていきました。日中戦争の始まった昭和12年頃、5叟程度になっていた、五十集船は軍需景気で一時息を吹き返しましたが、現在では1叟も使われなくなりました〉

 ところが、船の長さ、幅、船底までの深さなど大きさが分かりません。旧津屋崎町が発行した『津屋崎町史』や『津屋崎の民俗』でも、写真はあっても大きさの記述はありません。

 「海とまちなみの会」では07年3月、五十集船「明社丸(みょうしゃまる)」に乗船されていた大浜秀吉さん(大正14年生、福津市津屋崎新東区)に取材し、会報季刊紙『津屋崎千軒新聞』創刊号・「春」号に「五十集船の思い出」を掲載。また、同年7月発行の同新聞「夏」号には五十集船「三社丸(さんじゃまる)」に乗っておられた大浜茂さん(大正14年生、福津市津屋崎浜の町)も招いた座談会の記事を「三社丸」のモノクロ写真=写真②=付きで載せましたが、船の寸法は分かりませんでした。設計図も残っていないそうです。


写真②:五十集船「三社丸」のモノクロ写真(左側中央の2隻の左)
     =『津屋崎千軒新聞』「夏」号に掲載

 福津市立津屋崎小学校の南校舎内にある中世の唐人町遺跡・「在自唐坊跡展示館」には、五十集船の模型のカラー写真が展示されています=写真③=。模型の縮尺が分かれば、実物の大きさが推計できるはず――と市教委教育総務課に尋ねると、福岡市立博物館に所蔵されている模型の五十集船で、同市内の大歳神社に奉納されたのを寄贈されたという。


写真③:「在自唐坊跡展示館」に展示された五十集船の模型のカラー写真
     =福津市立津屋崎小学校南校舎内で、08年2月21日撮影

 この五十集船の模型の縮尺が分かれば、原寸が推計できるのでおおよその大きさがつかめます。模型に縮尺や寄贈当時の船の図面などがないか、福津市教委教育総務課に調査結果が分かれば教えていただくようお願いしています。

 ただ、この五十集船は、津屋崎で活躍していた「明社丸」や「三社丸」のような帆船とは違うタイプのようです。どなたか、「明社丸」や「三社丸」など津屋崎港に出入りしていた五十集船の長さ、幅、船底までの深さといった大きさを記録した図面や資料をご存じなら、お教え下さい。

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2008年2月23日/〈日記〉211・「勝屋酒造」の新酒蔵出し

2008-02-23 17:06:29 | 日記
写真①:新酒蔵出し初日で賑う「勝屋酒造」入り口
     =宗像市赤間で、2008年2月23日午後1時30分撮影

 福岡県宗像市赤間にある「勝屋酒造」=写真①=に新酒蔵出し初日の23日、細君と初めて行きました。江戸時代中期の寛政2年(1790年)創業で、清酒「楢の露」の銘柄で知られる蔵元です。

 蔵元は江戸時代の「唐津街道・赤間宿」の通りにあり、生原酒の試飲コーナー=写真②=には清酒ファンの列ができる人気ぶり。


写真②:清酒ファンの列ができた生原酒の試飲コーナー
     =「勝屋酒造」で、23日午後1時32分撮影

 座敷には、大正時代初期の豪華なお雛様=写真③=も飾られ、女性客の目を引いていました。


写真③:座敷に飾られた大正時代初期の豪華なお雛様
     =「勝屋酒造」で、23日午後1時35分撮影

 新酒の販売コーナーには、原酒や大吟醸などの清酒の瓶が並び=写真④=、男性客らが次々と買い求め、活気があります。


写真④:原酒や大吟醸など新酒の瓶が並ぶ販売コーナー
     =「勝屋酒造」で、23日午後1時35分撮影

 「楢の露 しぼりたて生原酒」(900ml詰、1,200円)=写真⑤=を1本購入。硬水を使っているせいか、11日に新酒蔵開きで訪ねた宗像市武丸の造り酒屋「伊豆本店」の「亀の尾 初しぼり原酒」よりも辛口で、口に合いました。細君と酒まんじゅう(1個100円)も食べましたが、こし餡でおいしかったです。


写真⑤:900ml詰の「楢の露 しぼりたて生原酒」
     =福津市津屋崎で、23日午後3時25分撮影

 最終日の24日は、「勝屋酒造」前の通りが歩行者天国になり、近くの古民家の開放や映画の上映もあり、一段と賑いそうです。来年は、2日目の日曜日に訪れたくなりました。
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2008年2月22日〈エッセー〉010:「島津家発祥の地」は都城

2008-02-22 17:22:43 | エッセー
・連載エッセー『一木一草』

第10回:2008.2.22
 
「島津家発祥の地」は都城

 NHKテレビで放映中の大河ドラマ「篤姫」を毎週日曜の夜、楽しみに観ています。幕末から明治維新に向けて活躍した人物群像に、心躍る想いがあるからです。そのうえ、このドラマの1月20日放映分の終盤、「篤姫」ゆかりの地を紹介する「篤姫紀行」のコーナーで、「鹿児島県出水市が島津家発祥の地」と紹介され、「島津家発祥の地」論争が宮崎県側との間で巻き起こったこともあって、より一層、番組に親近感を覚えています。

 「出水市が島津家発祥の地」と紹介された放送を見て、「えっ?」と私も思いました。26歳だった昭和46年(1971年)6月、読売新聞都城通信部に駆け出し記者として赴任以来、市役所や郷土史家の皆さんから宮崎県都城市が「島津家発祥の地」と聞かされていたからです。

 なんでも、島津家初代とされる惟宗忠久(これむねただひさ)が都城にあった荘園「島津荘」の地頭となって島津と改姓したといい、この史実こそが、都城の歴史を語る市民の誇りのようでした。しかし、平成4年(92年)10月、私が鹿児島支局長になって赴任した鹿児島市では、「出水市が島津家発祥の地」との史実は寡聞にして記憶にありません。

 このため、都城出身の「そのまんま東」知事、いや東国原英夫・宮崎県知事が、都城市長らとともに、「島津家発祥の地」に対する事実誤認をどげんかせんといかん――と、NHKに「島津家発祥の地は都城」と異議を唱えたのを知った時には、「じゃっど(その通り)」と、拍手したい気持ちになったものです。

 NHKは21日、都城市に3月30日の番組冒頭で「篤姫」が養女になった近衛家と島津家の関係を紹介する際、島津の名称は都城に由来することを強調すると伝えたそうです。都城市民は、都城(みやこのじょう)を「ミヤコンジョ」と発音します。当日の番組ではどのような説明となるのか、さらに放送を見た鹿児島(地元の人は「カゴンマ」と発音)県民と、ミヤコンジョ市民がどのように受け取めるのか、今から興味津々ではあります。
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2008年2月22日/〈津屋崎の四季〉210・カササギ巣作り

2008-02-22 14:50:47 | 風物
写真①:畑で餌を探すカササギ
     =福津市的岡で、2008年2月22日午後1時49分撮影

 福津市津屋崎は22日、ぐっと暖かくなりました。このまま春の陽気が続くよう願いたいですね。

 的岡の畑では、カササギ(カラス科)が餌を探しています=写真①=。2羽の番のようです。

 よく観ると、ワラのようなものをくわえたりしています。頭から背、胸まで黒く、腹部の白色とのツートンカラーが鮮やかです=写真②。


写真②:黒と白のツートンカラーが鮮やかなカササギ
     =福津市的岡で、22日午後1時52分撮影

 畑そばの歩道に、木の枝がたくさん落ちています。見上げると、歩道わきの電柱の上部でカササギ夫妻が巣作りを始めているのが判明しました。
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2008年2月21日/〈津屋崎の四季〉209・クロツラヘラサギ2羽

2008-02-21 08:46:24 | 風物
写真①:干潟を歩く2羽のクロツラヘラサギ
     =福津市渡の「津屋崎干潟」で、2008年2月21日午前7時29分撮影

 福津市津屋崎は21日朝、冷え込みました。渡の「津屋崎干潟」では、2羽のクロツラヘラサギ(トキ科)が元気よく歩いています=写真①=。

 沖縄県豊城市の「豊崎干潟」で嘴に釣り糸が巻き付き、同県に保護されていたクロツラヘラサギは20日、健康状態が回復したとして干潟近くで放鳥されたという。干潟で越冬中の十数羽とともに、3月上旬に北帰行すると見られています。

 「津屋崎干潟」では07年は5月18日に1羽の飛来が確認されています。「豊崎干潟」より北帰行が遅いのか、福岡市の人工島に居残っていた群れの個体が飛来したのでしょうか。
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2008年2月21日/〈津屋崎まちなみ散策〉006・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉17豊村酒造

2008-02-21 02:53:17 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:明治7年に創業した「豊村酒造」
     =福津市津屋崎新町で、2008年2月3日撮影

〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 17 

:豊村酒造

 福津市津屋崎新町の「豊村酒造」=写真①=は、明治7年(1874年)に創業。江戸時代から栄え、〈津屋崎千軒〉と呼ばれた古い町並みの面影を今に伝える老舗です。

 大正時代末期には、九州一の生産量を誇った清酒醸造元で、現在も築120年の酒蔵は古く大きな梁に当時の隆盛を偲ばせます。商売繁盛の神様として知られる「宮地嶽神社」(福津市宮司元町)との関係も古く、新年には御神酒を奉納されています。

 もとは福岡県新宮町にあった造り酒屋「豊賀屋(とよがや)」の豊村喜右衛門当主の二男喜三郎(きさぶろう)氏が、流通の利便性を考え、当時、海上交易の拠点として栄えていた津屋崎に敷地3,300平方㍍の酒蔵を開いたのが始まりという。

 「九州日報」(「西日本新聞」の前身)が明治41年7月3-5日に連載した「福岡県実業家十傑記事 豊村喜三郎君 清酒醸造業(宗像郡津屋崎町)」では、〈津屋崎の豊村と云えば、県下屈指の酒造家として、其名関西に聞ゑて居る〉とし、〈喜三郎君の祖父は、当時苗字さえ許されて豊賀(とよが)平四郎と呼び、筑前四十八浦の庄屋役を勤め、記録にも其名を遺して居られる〉と紹介。

明治31年、「全国酒造家番付」で幕の内
「豊村酒造」に九州一の栄誉

 さらに、喜三郎氏の酒造りについて、同記事は〈明治二十五六年頃は、約四千石を仕込み、三十一年全国酒造家の番付が出来た時には君は幕の内に据えられた〉とし、〈当時幕の内に据ったものは、九州では外にないのだ〉と、酒造家番付で九州一だったことを賞賛。62歳当時の公職は、郵便局長や宗像銀行取締、製塩会社取締のほか、津屋崎馬車鉄道を走らせていた津屋崎軌道会社の監査役、〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門も出資した「津屋崎活洲(いけす)会社」の取締などを列挙し、〈津屋崎の今の繁盛は、君が間接直接の効も少くはあるまい〉と記事を結んでいます。

 「豊村酒造」は、大正末期には旧宗像郡津屋崎、福間両町にまたがる第二工場も設けましたが、戦争などの影響で昭和16年に同工場は閉鎖。現在は、宗像地方を中心に清酒ブランド「豊盛」=写真②=を出荷しています。


写真②:原酒「豊盛」や「大吟醸」などが並ぶ展示コーナー
     =「豊村酒造」で、08年2月14日撮影

 巨大な梁組の土間があり、白壁の長い板塀=写真③=や、そびえる煙突も望める「豊村酒造」の建物は、〈津屋崎千軒〉通りのランドマークといえるでしょう。


写真③:白壁の長い板塀
     =「豊村酒造」南側で、07年6月11日撮影

 2007年6月16日には、福津市主催のオカリナとフルートの演奏会「蔵・しっくコンサート」=写真④=が開放された玄関の土間で開かれ、多くの鑑賞客で賑いました。


写真④:開放された玄関の土間で開かれた「蔵・しっくコンサート」
     =「豊村酒造」で、07年6月16日撮影
 

「豊村酒造有限会社」(福津市津屋崎新町。℡0940-52-0001):◆交通アクセス=〔バスで〕西鉄バス「商工会津屋崎支所前」下車、徒歩5分〔電車で〕JR鹿児島線「福間駅」下車、タクシーで約10分〔車で〕九州自動車道古賀インターから国道495号線経由で約20分。

豊村酒造
       「豊村酒造」の位置図
       (ピンが立っている所)
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2008年2月20日/〈日記〉210・新住居表示

2008-02-20 18:10:55 | 日記
写真①:フェンスに案内地図付きで掲示された「福津市津屋崎二丁目1」の新住居表示
     =福津市新東区で、2008年2月20日午後3時27分撮影

 福津市新東区の拙宅住所の住居表示が20日、「福津市津屋崎二丁目」○番○号と新しくなりました。正式な新住居表示の実施日は、3月10日で、市津屋崎庁舎付近は、「津屋崎一丁目」になります。

 この日午後、市の委託を受けた業者が、拙宅前のフェンス2か所に緑色の「福津市津屋崎二丁目1」と書かれた大きな街区表示板(高さ56㌢、幅12㌢)と、地図付きの「津屋崎二丁目」の街区案内表示板(高さ18㌢、幅12㌢)=以上写真①=、小さな「津屋崎二丁目」の町名表示板(高さ、幅各6㌢)、それに「○―○」と○番○号まで入れた住居番号表示板(高さ6㌢、幅12㌢)を掲示しました。

 「簡単・便利・わかりやすい」住居表示がいよいよ始まります――と、表紙に大きく書かれた福津市からの通知文書には、「3月10日から東町1、東町2、新東区、天神町区にお住まいの皆様の住所が『簡単・便利・わかりやすい』住居表示に変わります」と説明しています。

 しかし、郵便番号は以前と変わらないものの、住居表示実施後は国民年金および厚生年金の住所変更手続きをはじめ、共済その他の年金の受給住所や運転免許証、土地・建物など登記簿記載の所有名義人の住所変更をしなければならず、『簡単・便利・わかりやすい』とはいきません。

 とくに、旧津屋崎町と福間町が平成17年(2005年)1月24日に合併して福津市が誕生して新住居表示になったうえ、またも新表示になると、手続きばかりか費用もかさみます。住所入りの氏名印や団体印を作成している場合は、また作り直さなければなりません。合併と同時に新住居表示にしてほしいものですね。

 今後、津屋崎区の大半の天神町や新町などがどのような新住居表示になるのか、注視したいところです。私の実家のある天神町は「津屋崎3丁目」ですか、それとも「津屋崎天神町3丁目」などと表示できるのでしょうか。天神様ゆかりの由緒ある地名が新住居表示に入れられるか、早晩、瀬戸際を迎えそうです。
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2008年2月19日/〈日記〉209・まちおこしセンター建設計画市民検討会議

2008-02-19 21:01:59 | 日記
写真①:「(仮称)まちおこしセンター」建設予定地を見る市民検討会議委員たち
     =福津市津屋崎天神町で、2008年2月19日午後5時13分撮影

 「毎日、楽しみに見えているのに、最近、ブログが更新されていない」――というお声が寄せられました。〝公的仕事〟が増えて忙しくなったのと、福津市津屋崎の町興し住民団体「津屋崎千軒 海とまちなみの会」のブログ更新を優先するため、随時更新に改める旨、先にお断りしていましたが、きょうは福津市の「(仮称)まちおこしセンター建設基本計画市民検討会議」の第2回ワークショップに参加したことをご報告します。

 「(仮称)まちおこしセンター建設基本計画市民検討会議」(委員19人)は、福津市が1月に買収した津屋崎天神町の「JAむなかた津屋崎支店」跡を中心とした市有地約2,800平方㍍に、木造平屋400~500平方㍍の同センターを9月から21年3月までに総工費2億円で建設するため、市民から建設計画の要望を聞くのが狙い。2月6日に市文化会館で第1回会議が開かれ、私も市民公募委員として出席しました。

 2回目のこの日のワークショップは、午後5時から区長会や津屋崎祇園山笠保存会、市商工会、津屋崎商店会、旅館組合、海水浴場組合の7団体代表委員と公募の市民委員らが、企画政策課、産業観光課、福津ブランド推進室の市関係課幹部らと建設予定地を視察=写真①=。このあと、近くの「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」でセンターの建物の部屋の配置と駐車場、イベント広場の空間設計のイメージなどを話し合いました。

 3月5日に市文化会館で開かれる次回ワークショップでは、観光拠点やイベント会場、地域コミュニティーの場など、どの役割を重視したセンターとするのか、建物配置と駐車場の関係などについて意見を調整します。

 市では、3月19日の第4回ワークショップを終了後、基本計画案の策定と管理運営案を検討、4月から8月までに設計を完成させる予定です。

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