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吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2015年4月15日/〈大阪・町歩き〉013・枚方の町家と真宗大谷派寺院

2015-04-15 04:37:11 | 大阪・町歩き

写真①:卯建のある2階建て町家

     =大阪府枚方市蔵之谷で、2015年4月1日撮影

 〈大阪・町歩きスポット〉 13

 :枚方の町家と真宗大谷派寺院

 

枚方寺内町の賑わいを今に伝える

卯建のある町家や真宗大谷派寺院を見ました

  大阪府大阪市阿倍野区の「晴明通」の散策を楽しんだ3月31日は、枚方市の義母宅に宿泊。翌4月1日朝、近所の路地を散策しました。

 枚方市蔵之谷の路地で、装飾と防火を兼ねて建てた「卯建」のある2階建て町家に気付きました=写真①=。そういえば、2011年に訪れた同市堤町に残る「枚方宿」を代表する江戸時代の町家・「鍵屋」(元「三十石船」の船宿・料亭)の妻壁にも、同じ「卯建」が建っていましたね。

  戦国時代には、この蔵之谷地区と、上町、下町という三つの町は、枚方寺内町と言われ、その核として真宗寺院・「順興寺」(兵火で焼失後、再興されて「願生坊=がんしょうぼう」と改称)が建てられています。寺内町には、紺屋や味噌屋、油屋などの商家が建ち並んでいたそうですから、福津市の〈津屋崎千軒〉のような賑わう町並みだったのでしょう。この「卯建」のある2階建て町家のすぐ近くに、「真宗大谷派香雲台願生坊」の山門=写真②=がありました。

 

写真②:「真宗大谷派香雲台願生坊」の山門

     =枚方市枚方元町6―61で、4月1日撮影

                                           (今回の〈大阪・町歩き〉シリーズを終わります)

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2015年4月10日/〈大阪・町歩き〉012・「晴明通」

2015-04-10 09:23:50 | 大阪・町歩き

 

写真①:天王寺駅前から乗った「浜寺駅前」行きの「阪堺線」チンチン電車

     =大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋3で、2015年3月31日午後3時15分撮影

 〈大阪・町歩きスポット〉 12

 :「晴明通」

 チンチン電車に乗って「晴明通」を散策

銅版張りの重厚な町家を見ました

  大阪府大阪市阿倍野区の「ハルカス300展望台」から360度の眺望を楽しんだ3月31日午後、同市から堺市とを結ぶ阪堺電気軌道の「阪堺線」・「天王寺駅前」から「浜寺駅前」行きのチンチン電車=写真①=に乗りました。

 「阿倍野」、「松虫」の次にある「東天下茶屋」停留場で下車。踏切そばの線路脇に、〈電車の踏切を渡って最初の四辻を右へ一00M〉と書かれた「安倍晴明神社参道」の案内板=写真②=が立てられていました。陰陽道の祖・安倍晴明の生誕地とされる阿倍野区阿倍野元町にある同神社までは行かず、大阪市立「晴明丘小学校」へ向かいます。

 

写真②:「阪堺線」踏切そばに立てられた「安倍晴明神社参道」の案内板

 「晴明丘小学校」は、今回の大阪旅行を共にした細君が1年生から5年生まで通学した母校です。「東天下茶屋」停留場から同小へ「晴明通」を歩いて行く途中に、2階の壁の一部に銅版を張った重厚な町家が建っていました=写真③=。福津市津屋崎3丁目にある昭和の町家・「占部かきばい屋」2階の銅版張り雨戸を思い浮かべ、こんな銅版張りもあるのか、と感心。

 

写真③:2階の壁の一部に銅版を張った重厚な町家

  この町家は、石灯籠が建つ中庭や敷地裏手に蔵も見受けられます。黒塀には、「晴明通」の表示板=写真④=が取り付けてありました。安倍晴明の生誕地とされる阿倍野区にちなむ、住所表記でしょうか。平安時代からの歴史を感じます。

  

写真④:町家の黒塀に取り付けられた「晴明通」の表示板

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2015年4月9日/〈大阪・町歩き〉011・「あべのハルカス」

2015-04-09 08:44:28 | 大阪・町歩き

 

写真①:「ハルカス300展望台」から北側の眺望(中央は「天王寺公園」。右端の道路は谷町筋)

     =大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-43で、2015年3月31日午後1時40分撮影

 

〈大阪・町歩きスポット〉 11

 :「あべのハルカス」

  きょう4月9日から、〈大阪・町歩きスポット〉シリーズ掲載を再開します。3月31日、大阪市阿倍野区阿倍野筋の「あべのハルカス」を初めて訪問したのを機に、あちこち散策したスポットを紹介します。

 高さ300㍍の日本一ビルからの眺望圧巻

「あべのハルカス」初訪問で楽しめました

  「あべのハルカス」は近鉄不動産株式会社が建設した地下5階、地上60階の鉄骨鉄筋コンクリート造の超高層ビル(述べ床面積約306,000平方㍍)で、高さはビルでは日本一の300㍍。鉄道7路線が利用できるターミナル駅に直結、近鉄百貨店やオフィス、「大阪マリオット都ホテル」、「あべのハルカス美術館」(16階)、「ハルカス300展望台」(60階)が入居する〝立体都市〟として、2014年3月7日に全面開業しました。

 「ハルカス300展望台」の「天上回廊」は、東西南北に360度に足元から天井までガラス張りの屋内回廊。地上300㍍から見降ろした光景は、圧巻です=写真①=。

  地上58階の「天空庭園」は、上空まで吹き抜け構造の屋外広場=写真②=で、お茶や食事を楽しめるカフェもあります。

 

写真②:上空まで吹き抜け構造の屋外広場・「天空庭園」

  屋外広場の端で腰かけて景色を眺め、くつろぐ観光客の姿も=写真③=。

 

写真③:屋外広場の端で腰かけて景色を眺める観光客

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2011年9月9日/〈大阪・町歩き〉010・「大阪ステーションシティ」

2011-09-09 04:04:52 | 大阪・町歩き

 

 

写真①:新装なったJR大阪駅のコンコース 

    =大阪府大阪市北区梅田3で、2011年8月20日午前9時45分撮影 

 

〈大阪・町歩きスポット〉 10  

 

:「大阪ステーションシティ」 

 8月18日にスタートした京都―大阪への小旅行の最後の20日、新装なった大阪市北区梅田3にあるJR大阪駅=写真①=の「大阪ステーションシティ」を初めて訪問。福岡市でも、「阪急百貨店東急ハンズなどが新駅ビルに入居したJR博多シティ」が、九州新幹線開業前の3月3日に開業して売り上げが好調なだけに、興味深く見物しました。

「大阪ステーションシティ」は5月4日、大阪の新たなランドマークとして「大阪駅が〝まち〟になる」をキャッチコピーにオープン。総事業費2,100億円で、駅北側の「ノースゲートビルディング」(地下2階、地上28階)と、駅南側の「サウスゲートビルディング(地下4階、地上27階)の2棟を建設。大阪駅構内を含む総延床面積は、約53万平方㍍もあります。

「ノースゲートビルディングに入居している「JR大阪三越伊勢丹」前のアトリウム広場には、NTTドコモが、携帯端末向け高速通信サービス「Xi(クロッシィ)」をPRするため、高さ8メートルの巨大な「鉄人28号」を公開するイベントを開催していました=写真②=。中に空気が入った特殊な布製のバルーン鉄人でしたが、ちょっと驚かされました。

 

写真②:「JR大阪三越伊勢丹」前の広場に立つ巨大な「鉄人28号」(向こうは、2013年春完成を目指し建設中の「うめきた(大阪駅北地区)」先行開発区域プロジェクト施設・「グランフロント大阪」のビル)

=「大阪ステーションシティ」で、8月20日午前9時55分撮影

「ノースゲートビルディング」には、西側地下2階―地上10階にキーテナントの「JR大阪三越伊勢丹」が、東側地下1階―地上10階に約2百店が入居した専門店ビルの「ルクア」がそれぞれ出店。10階に設けられたレストランゾーンは、「JR大阪三越伊勢丹」と「ルクア」が事実上一体化し、西日本最大の広さという。11階には、松竹、TOHOシネマズ、東映グループのティ・ジョイの大手3社が共同運営するシネコン「大阪ステーションシティシネマ」が入っており、12スクリーン、約2千5百席と西日本最大級。

 

JR大阪三越伊勢丹」入り口には、午前10時の開店待ちの買い物客の列ができていました=写真③=。開店以来の売り上げ高は、同百貨店より専門店の「ルクア」が予想以上の健闘ぶりという。

 

写真③:開店待ちの買い物客の列ができた「JR大阪三越伊勢丹」入り口

「大阪ステーションシティ」で、8月20日午前9時56分撮影

 

JR大阪三越伊勢丹」前の広場は、多くの乗降客や買い物客らが行き来して、にぎわっています=写真④=。

 

写真④:多くの人が行き交う「JR大阪三越伊勢丹」前の広場

「大阪ステーションシティ」で、8月20日午前9時58分撮影

JR大阪三越伊勢丹」10階からは、眺望が楽しめました=写真⑤=。「ノースゲートビルディング」は、「ヨドバシカメラマルティメディア梅田」と向き合う形。これまで商業施設は少なく「駅裏」だった場所ですが、今後は再開発で発展しそう。

「大阪ステーションシティ」は、JR博多シティ」のスケールを大きくした印象でしたが、JR博多シティ」東急ハンズ」が入居した魅力や、新幹線駅がある交通の便など九州の中核駅としての今後の発展が期待できそうです。

 

写真⑤:「JR大阪三越伊勢丹」10階からの眺望

「大阪ステーションシティ」で、8月20日午前11時10分撮影

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2011年9月8日/〈大阪・町歩き〉009・「守口宿」

2011-09-08 01:34:55 | 大阪・町歩き

 

 

 

写真①:「歴史の道東海道 江戸←→守口宿←→大阪」の案内表示 

    =大阪府守口市河原町10の「守口ロイヤルパインズホテル」で、2011年8月20日午前9時15分撮影 

 

〈大阪・町歩きスポット〉 9 

 

:「守口宿」

 

 8月19日は、大阪府枚方市から京阪電車に乗って守口市駅で降り、同駅前の同市河原町にある「守口ロイヤルパインズホテル」に宿泊。翌20日朝、ホテルを出る際、玄関口に「2005東海道シンポジウム大阪守口宿大会実行委員会」が設置した「歴史の道東海道 江戸←→守口宿←→大阪」の案内表示=写真①=があるのに気付きました。「東海道」の各宿場の歴史愛好仲間が年に一回集まり、この歴史の道を介して知恵や情報を共有してまちづくりにつなげていこうと場所を変えて催されている「東海道シンポジウム」の開催記念のようです。

 

案内表示には「ここは東海道57次 57番目の『守口宿』歴史の地です」の見出しも付いています。東海道は53次と思っていましたが、昔は京都の3条大橋よりつなげて、伏見、淀、枚方、守口、大阪の京橋までを「京街道」、後に江戸幕府が「東海道」に加えて57次と公称したといわれており、「守口宿」は57番目の宿というわけです。

 

「守口ロイヤルパインズホテル」=写真②=に、こんな歴史の案内表示があるとは、思ってもみませんでした。19日、隣の宿駅・「枚方宿」の「鍵屋資料館」を観覧したご縁でしょうか。

 

写真②:「守口ロイヤルパインズホテル」

 「歴史の道東海道 江戸←→守口宿←→大阪」の案内表示のそばには、「東海道57次 宿場町イラストマップ」=写真③=も掲示されていました。この「京街道」は、豊臣秀吉が淀川左岸に築いた堤防・「文禄堤」上の道を「東海道」の延長部として整備し、伏見・淀・枚方・守口の4宿を置いています。「守口ロイヤルパインズホテル」近くには、「文禄堤跡」も残っており、今度機会があれば訪ねたいものです。

 

写真③:東海道57次 宿場町イラストマップ」

=「守口ロイヤルパインズホテル」で、8月20日撮影 

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2011年9月7日/〈大阪・町歩き〉008・「枚方宿」の②

2011-09-07 06:26:05 | 大阪・町歩き

 

 写真①:歌川広重が『京都名所之内 淀川』で描いた名所画・「三十石船とくらわんか舟」(枚方市立「枚方宿鍵屋資料館」パンフレットから) 

 

〈大阪・町歩きスポット〉 8  

 

:「枚方宿」②・「三十石船」と「くらわんか舟」 

 

 江戸時代、枚方は徳川御三家の紀州公も宿泊した街道の宿場町でした。江戸幕府は、豊臣秀吉が淀川左岸に築いた堤防(文禄堤)上の道を「東海道」の延長部として整備し、伏見・淀・枚方・守口の4宿を置き、一般には京街道・大坂街道などと呼ばれています。

枚方宿は、街道に沿って流れる淀川の川港でもありました。枚方市立「枚方宿鍵屋資料館」には、歌川広重・画「三十石船とくらわんか舟」=写真①=や、「くらわんか舟」の実寸摸型が展示されていました。大阪から京都・伏見まで人や荷をのせて淀川を行き来する旅客船の「三十石船」と、その乗客に「酒くらわんか 餅くらわんか」と、「乱暴な言葉で酒や餅、ごんぼ汁などの軽食を売りつけた煮売茶船・「くらわんか舟」は、淀川の名物でした。淀川の水難救助や水上警護、幕府・朝廷の公用を務める役船としての役割も持ち、売り子の面白おかしいやり取りは、下り伏見―大坂間でも約6時間を要した長い船旅に退屈した旅人から、大変親しまれたという。

福津市東古小路の「波折神社」拝殿には、この「三十石船」と、その手前に寄り添う小さな「くらわんか舟」を描いた奉納絵馬・「三十石船図」(天保10年奉納 絵師氏名不記載)=写真②=が掲示されています。2008年に『津屋崎の絵馬』を発行した旧「津屋崎郷土史会」の方から、「くらわんか舟」を描いた絵馬は淀川一帯の神社にも奉納されていないと聞いていたので、興味深く広重の画を観ました

 

  

写真②:波折神社に奉納されている絵馬・「三十石船図」=吉村青春著『津屋崎学』(Obunest刊)から

 枚方市立「枚方宿鍵屋資料館」からは、北西を流れる淀川に架かる「枚方大橋」が見えます=写真③=。明治時代になると、淀川には和船の「三十石船」に替わって蒸気船が就航しますが、明治43年の京阪電車開通で運輸は次第に鉄道に移っていきました。 

 

 

写真③:枚方市立「枚方宿鍵屋資料館」から見える淀川に架かる「枚方大橋」

      =枚方市堤町10で、2011年8月19日午後2時30分撮影

 

 「枚方宿鍵屋資料館」には、楠葉村(現枚方市)から備前嶋町(現大阪市中央区京橋)までの京街道を描いた江戸後期・享和3年(1803年)作の「京街道図巻」(複製)も展示されていました。

 

 

写真④:枚方市立「枚方宿鍵屋資料館」と淀川の位置図(NPO法人枚方文化観光協会の「枚方宿マップ」から)

 

                                                          (「枚方宿」終わり)

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2011年9月6日/〈大阪・町歩き〉0007・「枚方宿」の①

2011-09-06 04:13:37 | 大阪・町歩き

 

 写真①:枚方市が設置した「歴史街道枚方宿」の案内板 

      =大阪府枚方市伊加賀東町3の京阪「枚方公園駅」西側で、2011年8月19日撮影

 

〈大阪・町歩きスポット〉 7  

 

:「枚方宿」①・東海道(京街道) 

 8月19日の京都・町歩きを終えて、細君の実家がある大阪府枚方(ひらかた)市の京阪「枚方公園駅」に着きました。駅の西側に枚方市が設置した「歴史街道枚方宿」の案内板=写真①=があるのに気付き、同市堤町の「枚方宿」を代表する町家「鍵屋(かぎや)」市指定文化財)=写真②=を訪ねました。

 

写真②:「枚方宿」を代表する町家・「鍵屋」主屋の外観

      =枚方市堤町10で、8月19日午後2時20分撮影

 

 「鍵屋」は、安土・桃山時代の天正年間(1573-1592年)創業と伝えられ、江戸時代に大阪―伏見間に就航した客船「三十石船(さんじっこくぶね。米30石相当の積載能力を有する和船)」の船宿として、明治―平成は料亭として栄えました。「淀川三十石船唄」には「鍵屋浦には碇は要らぬ三味や太鼓で船止める」と謡われ、淀川筋では名所でした。料亭になった昭和時代は、「鍵屋」で結婚式をすると羨望の的になり、常連客には著名人も多く、森繁久弥や桂米朝も訪れていたという。

 

その繁盛ぶりを裏付けるように、「鍵屋」主屋の妻壁には、福岡県福津市の〈津屋崎千軒〉と同じように、交易で賑わった商家が妻壁に装飾と防火を兼ねて建てた「卯建」=写真③=が建っています。

  

 写真③:「三十石船」の船宿・「鍵屋」主屋の妻壁に建つ「卯建」

      =8月19日午後2時40分撮影

 

 現在の「鍵屋」の主屋は、江戸時代後期の文化8年(1811年)建築とされ、東海道(京街道)の宿場町だった「枚方宿」で街道と淀川が最も接近する堤町にあります。表玄関を街道に開き、裏口は淀川に接しており、船の乗降に最適な構造でした。枚方市が枚方宿の面影を留める貴重な建物として解体修理し、江戸時代の姿に復元しました。

主屋の卯建の白壁には、「鍵屋」の実印である「鍵」の図柄描かれています=写真④=

 

写真④:「鍵屋」主屋の卯建に描かれた「鍵」の図柄

      =8月19日午後2時40分撮影

 

 主屋脇にある枚方市立「枚方宿鍵屋資料館」の入り口=写真⑤=には、観光客が訪れています。平成13年7月、老舗料亭「鍵屋」が市立の歴史資料館に生まれ変わり、今年で10周年を迎えました。

 

写真⑤:枚方市立「枚方宿鍵屋資料館」の入り口

      =8月19日午後2時20分撮影

 

枚方市立「枚方宿鍵屋資料館」の入り口から正面に別棟(昭和3年建築)が建っており、その東棟=写真⑥=に入館者受付がありました。入館料は大人2百円、小中学生百円です。

 

写真⑥:枚方市立「枚方宿鍵屋資料館」別棟東棟の玄関

      =8月19日午後2時40分撮影

 

別棟西棟では、「鍵屋」の歴史や、「枚方宿」と街道、淀川の舟運などをミニチュア模型や映像を駆使して展示・説明する資料室を順路表示に従って巡れるようになっています。「鍵屋」主屋内部は、京街道に面した東棟の中央に表口から船着き場へ向かう裏口へ通り抜けられる長い土間「トオリニワ」=写真⑦=があるのが特徴。この主屋内部は、撮影禁止になっており、長い土間に沿って設けられている「ヒロシキ」(乗客の休憩所や船の待合所として使用された広い板縁)や客間などを写真で紹介できないのが残念です。

 

 

 写真⑦:「鍵屋」主屋内部の「トオリニワ」(NPO法人枚方文化観光協会「ひらかた くらわんこ新聞第8号」から)

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2010年7月2日/〈大阪・町歩き〉0006・「四天王寺」の⑥

2010-07-02 11:05:44 | 大阪・町歩き

写真①:馬頭観音と地蔵菩薩が祀られている「亀井堂」
     =大阪市天王寺区四天王寺1の「四天王寺」で、2010年6月3日正午撮影

〈大阪・町歩きスポット〉 1 

:「四天王寺」の⑥ 亀井堂・石舞台・六時堂

 「太子殿」の「猫の門」前から北へ歩くと、「亀井堂」=写真①=に着きました。馬頭観音と地蔵菩薩が祀られ、聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されています。亀井堂の霊水は金堂の地下から湧き出る水で、 回向(供養)を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うといわれているという。

 「亀井堂」から西へ歩くと、亀の池の上に架かっている石橋に組まれた舞台の「石舞台」=写真②=がありました。毎年4月22日(本来は、陰暦2月22日)に聖徳太子を偲んで行われる「聖霊会(しょうりょうえ)舞楽大法要」では、舞台上で古来から伝承された舞楽(重要無形民俗文化財指定)が舞われます。

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写真②:「聖霊会舞楽大法要」で舞楽が舞われる「石舞台」
     =「四天王寺」で、6月3日午後0時5分撮影

 実は、「四天王寺」訪問の目的は、〈「貝寄せの浜」と呼ばれた津屋崎の浜〉とのつながりを確認することでした。福津市津屋崎の浜=写真③=は、冬から春先に玄界灘からの西風で多くの貝が吹き寄せられることから、「貝寄せの浜」と呼ばれています。かひよせ(貝寄風・貝寄)は俳句の春の季語で、陰暦2月22日に「四天王寺」の聖霊会の前後に吹く西風のこと。舞台に立てる供養の造花を、この風で難波の浜に吹き寄せられた貝殻で作ったことによるとされています。

  貝寄風に乗りて帰郷の船迅し 中村草田男

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写真③:「貝寄せの浜」と呼ばれている津屋崎の浜
      =福津市津屋崎丁目で、2007年6月4日午前6時25分撮影
 
 「石舞台」の北に「六時堂」=写真④=が見えました。薬師如来、四天王などが祀られており、 聖霊会などの大法要をはじめ、回向、 納骨などが行われるお堂。昼夜6回 、諸礼讃(仏法僧礼讃の諸行事)をすることから六時礼讃堂とも呼ばれています。
 
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写真④:薬師如来や四天王などが祀られている「六時堂」
     =「四天王寺」で、6月3日午後0時5分撮影

 初めて参拝した「四天王寺」でしたが、飛鳥時代からの歴史につづられた遺跡、逸話は多く、その一部を観覧できただけでした。〈津屋崎千軒〉にも残る庚申信仰に絡み、「四天王寺」が日本最初の庚申尊出現の地として「庚申堂」も建てられいますし、なにより「聖霊会舞楽大法要」の折に再訪したいと思いました。  (終わり)

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2010年7月1日/〈大阪・町歩き〉0005・「四天王寺」の⑤

2010-07-01 04:57:08 | 大阪・町歩き

写真①:聖徳太子をお祀りしているお堂・「太子殿」(左端が「奥殿」)
     =大阪市天王寺区四天王寺1で、2010年6月3日正午撮影

〈大阪・町歩きスポット〉 1 

:「四天王寺」の⑤ 太子殿

 “日本仏教最初の大寺”四天王寺を建立した聖徳太子をお祀りしているお堂・「太子殿」(天王寺のご廟)=写真①=は、中心伽藍の東側にありました。

 正式名は「聖霊院(しょうりょういん)」。太子二歳像や四天王を祀る「前殿」と、その奥に太子四十九歳像(1月22日のみ公開の秘仏)を祀る「奥殿」が配置されています。毎年2月22日の「太子二歳まいり」ではお太子様の知恵にあやかりたいと、2歳前後の子供連れの家族で賑わうほか、毎月22日の太子忌法要、 六観音法要や、毎年10月22日の経供養には信者奉納の写経も供養され、太子信仰の中心となっている建物です。

 この「太子殿」の「奥殿」裏手にある「経堂」の西側に「猫の門」=写真②=という変わった名前の門がありました。経堂に納められた「維摩経」、「法華経」などの経文を鼠から守るという猫の彫り物があるからといい、社殿に鼠一匹通さないように猫を配したとの説がある日光東照宮の「眠り猫」と似た話ですね。

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写真②:「太子殿」の「経堂」西側に建つ「猫の門」
     =「四天王寺」で、6月3日正午撮影

 「太子殿」近くには、「太子井戸屋形」=写真③=があります。井戸を覆った屋形に
花や魚などが彫られていますが、由来の説明表示は見当たりませんでした。

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写真③:「太子殿」近くにある「太子井戸屋形」
     =「四天王寺」で、6月3日正午撮影

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2010年6月29日/〈大阪・町歩き〉004・「四天王寺」の④

2010-06-29 10:30:10 | 大阪・町歩き
写真①:守護神・金剛力士 (仁王像)が祀られている「仁王門」
     =大阪市天王寺区四天王寺1で、2010年6月3日午前11時55分撮影

〈大阪・町歩きスポット〉 1 

:「四天王寺」の④ 仁王門

 「仁王門」=写真①=は、四天王寺の中心伽藍(建物)の南にあります。本来の呼称は中門(ちゅうもん)ですが、脇の間に伽藍の守護神である金剛力士 (仁王像)が祀られていることから「仁王門」が通称 となっています。

 その伽藍配置は、中門から北へ五重塔、金堂、講堂が一直線に並び、それを回廊が囲む「四天王寺式伽藍配置」 といわれる形式で、日本では最も古い建築様式の一つ。6~7世紀の中国・朝鮮の様式を伝えています。

 五重塔=写真②=は、高さ39.5㍍。聖徳太子が創建の際、六道利救の悲願を込めて、塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髻髪(きっぱつ)六毛を納められたことから、「六道利救の塔」の別称があるという。

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写真②:「仁王門」(手前)の北側に見える五重塔
     =「四天王寺」で、6月3日午前11時50分撮影

 五重塔の北にある「金堂」が本堂です。本尊の救世観音(聖徳太子のご本地仏)が祀られ、 四方を四天王(世界の東西南北を守護する仏。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天のこと)がお守りしています。
 
 この「金堂」が、聖徳太子が推古元年(593年)に建立した「四天王寺」の核となる建物なのですね。中心伽藍から東へ歩き、「東大門」前に出ると、「四天王寺境内案内図」の掲示板=写真③=がありました。

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写真③:「東大門」前にある四天王寺境内案内図の掲示板
     =「四天王寺」で、6月3日午前11時55分撮影
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