吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2011年5月2日/〈直方・町歩き〉009・随専寺

2011-05-02 04:12:46 | 〈直方・町歩き〉

写真①:「随専寺と諸九尼・浮風比翼塚」の解説板
      =福岡県直方市山部の「随専寺」前で、2011年4月23日午後3時35分撮影

〈直方・町歩きスポット〉 9

:随専寺

 直方市山部の「雲心寺」の隣にある「随専寺(ずいせんじ)」という寺にまつわる江戸時代の俳人・諸九尼(しょきゅうに)と有井浮風(ふふう)の駆け落ち話は、同寺を訪ねるまで知りませんでした。直方市教育委員会が、直方ロータリークラブの寄贈で寺の前に建てた「随専寺と諸九尼・浮風比翼塚(ひよくづか)」の解説板=写真①=によると、有井浮風は本名有井軍治義保で直方藩士の子として生まれ、松尾芭蕉の高弟・志太野坡(しだやば)の門下に入り、病を得て俳諧師(「浮風」は俳号)となりました。諸九尼は、筑後竹野郡(現浮羽郡)中原村の庄屋の妻で、名を「なみ」(「諸九」は俳号)といいました。
 
 諸九尼は、俳句の師匠浮風と出会い、意気投合して駆け落ちして京へ上り、精力的に俳諧活動を行い、多くの門下生を育てました。江戸時代中期の宝暦12年(1762年)に浮風が61歳で没すると、諸九は剃髪し、各地を行脚して俳諧活動を行いました。安永6年(1778年)直方に戻り、山部に草庵を結んで浮風の菩提を弔い、俳諧の生活を送って天明元年(1781年)に68歳で亡くなりました。「比翼塚」は、遺徳をしのぶ弟子たちが「随専寺」裏手の墓地に建てたという。

 41歳の浮風と駆け落ちした時、なみは29歳でした。浮風の死後、剃髪して諸九尼と改名した際、〈剃り捨てて見れば芥や秋の霜〉の句を詠みました。浮風の辞世の句に、〈つれもありいまはの空のほととぎす〉が知られています。


「随専寺」位置図
 (十字の所)

 直方市古町にある「アートスペース谷尾」=写真②=は通称で、正式名は市美術館別館です。レンガ造りの洋風建築で、大正2~3年に十七銀行直方町支店として建てられ、昭和20年に福岡銀行直方南支店と改称。個人の美術館を経て市美術館別館となり、入館無料で公開されています。1階内部には、チェコ、ドイツ、フランス、中国などの彫刻や飾り瓶、日本の薩摩切子など約260点のガラス工芸品と古高取焼約90点が展示されています。館内には喫茶部もあり、ギャラリー喫茶としても居心地のいい雰囲気です。人口約5万9千人の直方市に比べ、福津市は約5万6千人と人口は同規模ながらロータリークラブはないうえ、市立美術館や伝統工芸品を展示場した小粋なギャラリー喫茶もなく、文化的団体・施設の面で見劣りしているようです。


写真②:「アートスペース谷尾」玄関
      =福岡県直方市古町で、4月23日午後1時50分撮影

 楽しかった〈直方・町歩き〉を終えての帰り、鹿児島本線に乗り継ぐため訪れたJR「折尾駅」(北九州市)=写真③=は、大正時代建築のコロニアル様式の寄棟木造2階建てで、実に風格を感じました。それに比べ、わが福津市の玄関口・JR「福間駅」の味気ないこと。木造平屋の旧駅の良さが活かされないまま壊され、近代的とはいえ無機質な、どこにでもありそうな新駅となり、がっかりしているのは私だけでしょうか。福津のアイデンティティーや文化の香りが、どこにも感じられません。          (おわり)


写真③:風格のあるJR「折尾駅」
     =北九州市八幡西区堀川町で、4月23日午後6時40分撮影
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2011年5月1日/〈直方・町歩き〉008・雲心寺

2011-04-30 09:07:31 | 〈直方・町歩き〉

写真①:臨済宗大徳寺派の名刹・「雲心寺」の山門
      =福岡県直方市山部で、2011年4月23日午後3時55分撮影

〈直方・町歩きスポット〉 8

:雲心寺

 江戸時代初期の元和9年(1623年)、福岡藩主・黒田長政公が亡くなると、四男の高政が4万石を譲り受け、直方に支藩の東蓮寺藩(後に直方藩に改名)が置かれました。藩主の館は、殿町に設けられた後、四代藩主・長清公の時代に現在の直方市体育館のある御館山(おたてやま)に移されます。長清の長男継高(つぐたか)が第五代福岡藩主黒田宣政(のぶまさ)公の養子となったため、江戸中期の享保5年(1720年)、長清公の死亡に伴い直方藩は無くなりました。

 直方市山部にある直方藩主の菩提寺・「雲心寺」=写真①=は、寛永3年(1625年)に建てられました。臨済宗大徳寺派に属し、初代藩主黒田高政公から寺領六十石を賜った名刹です。境内には、高政公(雲心院殿)や二代藩主之勝公の供養塔があり、「直方藩主の御塔所」解説板=写真②=が立てられています。二人とも江戸で亡くなったため、遺体を収めた墓は東京都の祥雲寺にあります。


写真②:境内に立てられた「直方藩主の御塔所」解説板
     =「雲心寺」で、4月23日午後3時55分撮影

 「雲心寺」の境内は、広い墓地=写真③=の周りの木々が青葉に包まれていました。


写真③:木々の青葉に包まれた墓地
     =「雲心寺」境内で、4月23日午後3時40分撮影

 直方藩主の菩提寺にふさわしく、塀の白壁は見事な龍の彫刻で装飾されていました=写真④=。


写真④:塀の白壁飾る見事な龍の彫刻
     =「雲心寺」境内で、4月23日午後3時55分撮影

 また、境内には炭鉱王・貝島太助の銅像=写真⑤=や貝島一族の墓地も設けてあります。


写真⑤:炭鉱王・貝島太助の銅像
     =「雲心寺」境内で、4月23日午後3時40分撮影


「雲心寺」位置図
 (十字の所)
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2011年4月30日/〈直方・町歩き〉007・多賀神社

2011-04-30 04:50:33 | 〈直方・町歩き〉

写真①:城下町直方の鎮守・「多賀神社」拝殿
      =福岡県直方市直方で、2011年4月23日午後3時20分撮影

〈直方・町歩きスポット〉 7

:多賀神社

 城下町直方の鎮守・「多賀神社」=写真①=は江戸時代初期の寛永13年(1636年)、東蓮寺(直方)初代藩主黒田高政公が8世紀に創建されていた「妙見神社」を再建したのち、元禄5年(1692年)に社名を変更。祭神は、イザナギノミコトとイザナミノミコト。

 小高い丘の上にある境内の一角からは、JR筑豊本線の跨線橋の下に見える「多賀神社」の鳥居と、その向こうに直方市役所ビルや同市の主峰・福智山(標高901㍍)が遠望できます=写真②=。


写真②:跨線橋の下に見える「多賀神社」の鳥居と向こうは直方市役所(右の白いビル)や福智山
     =「多賀神社」境内で、23日午後3時30分撮影


「多賀神社」位置図
  (十字の所)
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2011年4月29日/〈直方・町歩き〉006・直方市石炭記念館

2011-04-29 01:18:05 | 〈直方・町歩き〉

写真①:JR筑豊本線わきの高台にある「直方市石炭記念館」
     =福岡県直方市直方で、2011年4月23日午後3時撮影

〈直方・町歩きスポット〉 6

:直方市石炭記念館

 「直方市石炭記念館」=写真①=は、同市直方のJR筑豊本線わきの高台にあります。明治初めから昭和51年まで約百年間に約8億トンの石炭を産出、日本の産業発展を支えた近代化遺産を学べる施設です。本館は昭和46年、筑豊の炭鉱の歴史を伝えようと建設。別館は明治43年(1910年)、筑豊石炭鉱業組合の直方会議所=写真②=として建設され、市指定有形文化財です。本館の後ろには、同45年に造られた炭鉱事故時の救護隊員の訓練坑道も残されています。


写真②:本館の隣に建てられた筑豊石炭鉱業組合直方会議所
     =「直方市石炭記念館」敷地で、23日午後3時10分撮影

 本館には、救護隊の装備を展示。本館前の敷地には、貝島炭鉱が輸入したコッペル型機関車も展示されています。近くには、明治27年、貝島太助らが建立したという直方の歴史を高村光雲が刻んだ「直方碑」=写真③=もあります。


写真③:直方の歴史を高村光雲が刻んだ「直方碑」
     =「直方市石炭記念館」敷地で、23日午後3時5分撮影


「直方市石炭記念館」位置図
    (十字の所) 
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2011年4月28日/〈直方・町歩き〉005・堀三太郎屋敷跡(「直方歳時館」)

2011-04-28 04:26:34 | 〈直方・町歩き〉

写真①:石段の上にある「堀三太郎屋敷跡」(「直方歳時館」)
      =福岡県直方市新町1で、2011年4月23日午後2時25分撮影

〈直方・町歩きスポット〉 5

:堀三太郎屋敷跡(「直方歳時館」)

 23日午後2時25分ごろ、直方市新町1の「堀三太郎屋敷跡」(「直方歳時館」)の石段=写真①=を上がりながら、町歩きの疲れを両足に感じ始めました。トイレ休憩のスポットになっており、畳の部屋で足を伸ばし、炭鉱王・堀三太郎旧邸の解説ビデオを観ました。

 堀三太郎は、幕末の慶応2年(1866年)に新町の醤油屋の長男として生まれ、後に堀甚四郎の養子になりました。23歳の明治22年に鞍手郡勝野村(現小竹町)で炭鉱経営を始め、各地でも炭鉱を経営、貝島、麻生、伊藤、安川と並んで〝筑豊の五大炭鉱王〟と呼ばれるほどになったという。晩年は福岡県福津市福間(現同市花見が浜1)の別邸(戦後、売却され、精神科の「福間病院」開設)=写真②=で過ごし、昭和33年(1958年)に92歳で亡くなりました。別邸の正門は、2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた「薬医門」で、大名や藩の御典医などに建築が許された様式という。



写真②:「堀三太郎旧邸」の本瓦葺きで格調高い「薬医門」(現「福間病院」正門)
     =福津市花見が浜1で、27日撮影

 堀三太郎旧邸はどっしりとした木造平屋で、明治31年(1898年)に建造。広い座敷や板の間、庭園があります。昭和16年に寄贈された直方市が中央公民館とし、市民ら筑豊一円の3千組が結婚式場に利用。老朽化に伴い、平成9年から2か年事業で解体復元、伝統芸能の生涯学習拠点として「直方歳時館」として名称を改め、無料公開されています。

 敷地には、明治31年に建築された「なまこ壁」の土蔵=写真③=もありました。


写真③:「なまこ壁」が特徴の土蔵
     =「直方歳時館」敷地で、23日午後2時45分撮影

 和室では、子供たちが琴の演奏を習う教室も開かれています=写真④=。直方市の文化の厚みがうかがえる素敵な空間を体感しました。伝統芸能を教養や情操を育む下地に用いる土地柄は、城下町・直方の民度の高さでしょうか。


写真④:和室で開かれている子供たちが琴の演奏を習う教室
     =「直方歳時館」で、23日午後2時30分撮影


「直方歳時館」位置図
   (十字の所)
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2011年4月27日/〈直方・町歩き〉004・直方レトロ

2011-04-27 05:04:49 | 〈直方・町歩き〉

写真①:総合病院として大正時代に開業した旧「讃井医院」
      =福岡県直方市殿町で、2011年4月23日午後2時撮影

〈直方・町歩きスポット〉 4

:直方レトロ

 直方市の町歩き見学会は23日午後、殿町商店街を巡る「殿町レトロコース」入り。まず目に入ったのが、大正11年に建てられたという旧「讃井(さぬい)医院」=写真①=です。木造モルタル造りの和洋折衷建築。内科、胃腸科、歯科の総合病院だったそうで、二階のバルコニーがしゃれています。

 殿町商店街に残る町家の裏通りには、珍しい木造3階建ての倉庫=写真②=もあります。木造3階の建物は、福津市では宮地嶽神社参道にある旅館・「大阪屋」があるだけです。


写真②:珍しい木造3階建ての倉庫
     =直方市・殿町で、23日午後2時5分撮影

 「殿町レトロコース」を代表するのは、大正から昭和初期の格調高い木造2階建て町家2軒=写真③=が並ぶスポットでしょう。左が柱に巨木を用いた「前田園茶舗」、右が「石原商店」。緑青の銅板の壁がノスタルジックな雰囲気を醸し出しています。


写真③:格調高い2軒の町家(左が「前田園茶舗」、右が「石原商店」)
     =殿町商店街で、23日午後2時10分撮影

 明治34年に建てられ、現役の病院に使われている洋風建築の「江浦耳鼻咽喉科」=写真④=も、風格のあるレトロな建物です。


写真④:明治34年に建てられた「江浦耳鼻咽喉科」
     =殿町商店街で、23日午後2時10分撮影

 「直方レトロ」の幟が立つ「直方谷尾美術館」=写真⑤=は、大正6年に旧「奥野医院」として建てられ、平成2年に明治屋産業の谷尾社長が購入して「谷尾美術館」として公開。谷尾社長の他界後、直方市に寄贈され、市立美術館として絵画や陶芸の作品展などの会場に使われています。


写真⑤:「直方谷尾美術館」
     =殿町商店街で、23日午後2時15分撮影


「前田園茶舗」位置図
  (十字の所)
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2011年4月26日/〈直方・町歩き〉003・長崎街道

2011-04-26 05:07:43 | 〈直方・町歩き〉

写真①:「長崎街道と筑前六宿」の説明板
     =福岡県直方市古町で、2011年4月23日午後1時35分撮影

〈直方・町歩きスポット〉 3

:長崎街道

 23日午後の直方市の町歩き見学会は、「圓徳寺」を訪ねたあと、・古町商店街の旧「長崎街道」へ入りました。直方ロータリークラブの「長崎街道と筑前六宿」の説明板=写真①=が、立てられています。

 長崎街道=写真②=は、長崎と筑豊、小倉を結ぶ江戸時代の重要な街道。江戸を目指した参勤交代の大名や、シーボルト、オランダ人の医者ケンペルなど外国人も通っていました。筑前の国には、黒崎、木屋瀬(以上北九州市)、飯塚、内野(以上飯塚市)、山家(筑紫野市)、原田(筑紫野市)の六つの宿場町があり、「筑前六宿」と呼ばれて賑わっていたという。


写真②:旧「長崎街道」を歩く見学会参加者たち(右は「長崎街道と筑前六宿」の説明板)
     =直方市・古町商店街で、23日午後1時40分撮影

 直方市内の歴史ボランティア・直方を語る会「とおれんじ」の方たちが、「直方西構え口跡」の説明板=写真③=の設置場所など街道筋の見所ごとに詳しく説明していただきました。なかでも興味深かったのは、当初、市内の「長崎街道」は遠賀川の東岸にあったが、旧直方藩が廃藩になる際、商人町の衰退を避けるため、町の中心部を通るように路線変更し、商店街としての発展につながったということでした。


写真③:旧「長崎街道」の「直方西構え口跡」説明板前でガイド解説を聞く人たち
     =直方市・古町商店街で、23日午後1時50分撮影


「長崎街道と筑前六宿」の案内板位置図
      (十字の所)
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2011年4月25日/〈直方・町歩き〉002・圓徳寺

2011-04-25 07:11:47 | 〈直方・町歩き〉

写真①:豪壮な「圓徳寺」の山門
      =福岡県直方市古町2で、2011年4月23日午後1時25分撮影

〈直方・町歩きスポット〉 2

:圓徳寺

 「福岡と直方を繋ぐ町歩き」(「博多津にぎわい復興計画研究会」主催)は、23日午後1時すぎ、直方市山部のJR直方駅を振り出しに見学会がスタート。市内の歴史ボランティア・直方を語る会「とおれんじ」の方たちの案内で、まず同市古町2の「圓(円)徳寺」=写真①=に着きました。

 「圓徳寺」は、浄土真宗本願寺派のお寺。明治41年の本堂=写真②=建立の際には、炭鉱王・貝島太助兄弟が多額の寄進をしています。屋根を飾る鬼瓦は大きく、見事です。


写真②:「圓徳寺」の本堂

 境内には、貝島炭鉱の遭難者招魂碑=写真③=も建てられています。


写真③:境内に建てられている貝島炭鉱遭難者招魂碑


「圓徳寺」位置図
 (十字の所)
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2011年4月24日/〈直方・町歩き〉001・直方駅

2011-04-24 15:27:07 | 〈直方・町歩き〉

写真①:明治43年の建築から今年で百年を迎えたJR筑豊本線直方駅
      =福岡県直方市山部で、2011年4月23日午後0時50分撮影

 きょう4月24日から、福岡県直方市の〈直方・町歩きスポット〉シリーズを掲載します。23日、同市内で行われた「福岡と直方を繋ぐ町歩き」(「博多津にぎわい復興計画研究会」主催)に参加し、旧長崎街道やレトロな町並みを「津屋崎千軒 海とまちなみの会」の仲間と歩いたリポートです。

〈直方・町歩きスポット〉 1

:直方駅

 福津市の鹿児島本線福間駅から23日午前11時46分発の快速電車に乗り、北九州市の折尾駅で2両編成の普通電車に乗り換えて直方市山部(やまべ)の筑豊本線直方駅=写真①=に着いたのは、午後0時38分でした。

 この直方駅(寄棟木造平屋)は、二代目駅舎として明治43年(1910年)に新築。筑豊の石炭輸送の重要拠点として、機関区や操車場が置かれた枢要駅にふさわしく、駅舎玄関中央に設けられた車寄せの柱=写真②=は、ギリシャ・ローマ時代のエンタシスを思わせるエレガントなデザインです。建物を解説していただいた土田充義・鹿児島大名誉教授(建築史)などによると、西洋建築は柱を美しく見せるように建てられており、この車寄せの柱は1本でも支えられるところを3本1対としてネオバロック風の格調高いデザインになっているという。大竹亮・国交省国土技術政策総合研究所住宅研究部長も「古い県庁や市役所の建物には車寄せがあるのに、今はない。直方駅では、車寄せの立派な空間を通って駅に入るわけで、うらやましい」と話されていました。


写真②:九州の明治時代駅舎に見られない車寄せの3本柱
     =JR直方駅で、23日午後1時10分撮影

 「博多津にぎわい復興計画研究会」の井澤洋一会長によると、直方駅舎は九州最古で、日本最古級の駅舎でもあり、明治22年に造られた初代博多駅舎を明治42年の博多駅改築の際に移築したとも言われています。直方駅舎の遺存状態が良く、建設時期や構造、デザイン性から国重要文化財クラスの価値があるという。しかし、直方市の直方駅周辺の整備事業に伴い取り壊される計画で、南隣に建築中の新駅舎=写真③=が29日開業の予定。このため、解体前に学術調査についての同意要望書をJR九州の唐池恒二社長に提出の予定。

 直方駅舎は、今も平成筑豊鉄道や筑豊電鉄の走る筑豊交通の要の駅です。歴史的、建築学的に貴重な同駅舎が保存活用されずに姿を消すのは惜しまれます。このため、直方市がシャッタ-街化した中心商店街の活性化策として進めているレトロタウン構想や、直方の文化遺産活用に活かせるよう望む市民の声が増えているという。


写真③:29日に開業する新JR直方駅舎
     =直方駅で、23日午後1時20分撮影



JR「直方駅」位置図
  (十字の所)
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