吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2015年4月25日/〈福間・町歩き〉016・堀三太郎別荘

2015-04-25 04:58:47 | 福間・町歩き

 

写真①:堂々として格調高い旧「堀三太郎別荘」の薬医門

     =福津市花見が浜1丁目5-1で、2015年4月24日撮影


〈福間・町歩きスポット〉16


:旧「堀三太郎別荘」

 福津市福間(現同市花見が浜1丁目)の国道495号線を車で通るたびに、旧「堀三太郎別荘」の堂々とした本瓦葺きの「薬医門」=写真①=に風格を感じます。貝島、麻生、伊藤、安川と並んで〝筑豊の五大炭鉱主〟と呼ばれた堀三太郎の福間別荘跡の正門です。2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた「薬医門」は、大名や藩の御典医などに建築が許された様式という。

  堀三太郎は、幕末の慶応2年(1866年)に直方市新町の醤油屋の長男として生まれ、後に堀甚四郎の養子になりました。23歳の明治22年に鞍手郡勝野村(現小竹町)で炭鉱経営を始め、各地でも炭鉱を経営。晩年は福間の別荘で過ごし、昭和33年(1958年)に92歳で亡くなりました。別荘は戦後売却され、現在は医療法人恵愛会(江見五城理事長)が経営する精神科・心療内科などの「福間病院」の正門となっています。

 福間別荘は、約9万坪の敷地に延べ5百坪の建物が大正半ばごろ建てられ、戦後は一時、建物や庭園が米軍将校のクラブに使用。「福間病院」の初代院長が敷地の三分の一、5万坪を購入、昭和30年(1955年)に日本初の精神科自由開放療法の病院として開院したという。別荘の主な建物や庭園は残され、三分の二の敷地は住宅地に変わっています。4月24日、同病院主催の認知症についての講演会を受講した際、職員の方のご案内で敷地を散策、中島が浮かぶ日本庭園=写真②=や、その西側の丘陵地に建つ瓦葺き平屋の別荘母屋玄関=写真③=、母屋に接続した銅版葺き屋根の離れ=写真④=を見ることができました。

  

写真②:中島が浮かぶ日本庭園

 

写真③:瓦葺き平屋の別荘母屋玄関

 

写真④:母屋に接続した銅版葺き屋根の離れ

  母屋の南側には、白壁の大きな土蔵=写真⑤=が建ち、その前には入母屋式2階建ての立派な倉庫=写真⑥=がありました。倉庫の窓扉は銅版製で、なぜか鬼瓦にに十の字の島津家の家紋が入っています=写真⑦=。堀三太郎と、薩摩・島津家の接点は、何だったのか、興味津々です。

  

写真⑤:母屋の南側に建つ白壁の大きな土蔵

 

写真⑥:窓扉が銅版製の入母屋式2階建て倉庫

 

写真⑦:○に十の字の島津家の家紋が入った2階建て倉庫の鬼瓦

  直方市新町1の「堀三太郎屋敷」はどっしりとした和風建築の木造平屋で、明治31年(1898年)に建てられ、広い座敷や板の間、庭園があります。昭和16年に直方市に寄贈され、今は伝統芸能の生涯学習拠点の「直方歳時館」として無料公開されています。

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2 コメント

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推論仮説 (宗 茂之)
2020-04-03 10:02:28
堀三太郎と、薩摩藩とのつながりは不明であるが
西郷隆盛への熱狂的と推定する。
炭鉱経営では、鹿児島への移住は出来ない。
隣接西郷川に、合わせ別荘を建てたと推理可能では?
つまり憧れの地に、自分の薩摩藩世界構築した。
その話に感化され、東郷平八郎に心酔軍医が同じように
東郷神社作った?
年代ともに、近い対象ロマンスではないだろうか・・・。
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宗 茂之さんへ (青春)
2020-04-04 08:21:41
コメント、ありがとうございます。
①隆盛へのオマージュ②西郷川に合わせて別荘を建てた――など三太郎の伝記や関連図書を調べると、面白い事実が出るかもしれませんね。
返信する

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