吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

〈催事〉0583:大石理玖の生誕地・豊岡

2019-12-08 09:05:03 | 行楽催事

 

写真①:大石理玖生誕地そばに建つ「大石陸女生誕之地」の石碑

    =兵庫県豊岡市京町で、2019年10月25日撮影

但馬が生んだ歴史上最も著名な女性

豊岡市に建つ大石内蔵助の妻・理玖生誕地の石碑

 10月26日、兵庫県豊岡市で開かれた「全国フットパスの集い2019in但馬」(実行委員会主催、「日本フットパス協会」共催)に参加、前日の25日に町歩きを楽しんだ折、忠臣蔵の主役、赤穂・浅野家5万石の城代家老大石内蔵助良雄(よしたか)の妻理玖(りく)の故郷が豊岡と知り、理玖の遺徳を偲ぶ町興しイベントも行われていることが分かりました。赤穂浪士討ち入りの12月14日を前に、生誕地の石碑を訪ねた様子を紹介します。

 観光ガイドマップを手に市街地を歩くと、豊岡市京町にある旧豊岡県庁入口近くの市道わきに「大石陸女生誕之地」の石碑=写真①=が建っていました。そばにある解説板=写真②=や元禄15年豊岡城下絵図掲示板=写真③=などによると、理玖は寛文9年(1669年)、豊岡・京極藩の家老石束毎公(いしづかつねとも)の長女として生まれました。石束家の家系図では「理玖」と書かれていますが、表記については「りく」「リク」「陸」など諸説があります。石碑には「陸」と刻まれています。理玖が良雄に嫁いだのは、元禄元年(1688年)の長男主税(ちから)の誕生から考えて、その前年か前々年あたり、18,解説板では)19歳と見られており、良雄が29歳前後の時という。

 

写真②:「大石陸女生誕之地」石碑そばにある解説板

 

写真③:元禄15年豊岡城下絵図掲示板

  元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で吉良上野介に切りつける刀傷事件を起こし、切腹に処せられます。吉良邸に討ち入った良雄ら四十七士は元禄15年(1702年)12月15日未明、本懐を遂げます。良雄と主税は切腹しますが、理玖の次男は出家して僧籍に入り、三男大三郎(後に代三郎と改名)は広島・浅野家へ家老職並みの千五百石での仕官が叶い、理玖も広島で暮らし、元文元年(1736年)に68歳で他界しました。明治末期に林斎という画家が描いた理玖の肖像=写真④=が、豊岡市にある大石家の菩提寺・正福寺に所蔵されています。優しく貞淑で、元禄武士の妻として良雄を支え、運命を切り拓く強い意志を併せ持った理玖は、但馬が生んだ歴史上最も著名な女性となり、良妻賢母の代表のように評されることが多いとか。

写真④:明治末期に林斎という画家が描いた理玖の肖像(豊岡市・正福寺蔵)

 赤穂浪士を陰で支えた理玖の遺徳を偲び、豊岡市では「大石りくを語り継ぐ実行委員会」が毎年10月に「大石りくまつり」を開催。今年は日曜日の27日、「大石りく生誕350年と京極家351年」の講演会で、イラストレーターで播州赤穂観光大使、ミスター忠臣蔵のもりいくすおさんが、豊岡コミュニティセンターで「勝手な夫とシングルマザー~大石りくという生き方~」の演題で講演したほか、まちあるき「大石りくゆかりの地を訪ねて」が、もりいさんと但馬ウオーキングクラブの人たちにより開催されました。

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