吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2008年12月31日/〈日記〉313・・08年「結びの夕陽」

2008-12-31 18:33:49 | 日記
写真①:寒風の下、年越しそばを食べ、焚き火で暖を取りながら日没を待つ人たち
     =福津市福祉会館「潮湯の里 夕陽館」裏の砂浜で、2008年12月31日午後4時50分撮影

 12月31日午後4時から、福津市の津屋崎海水浴場とそばの市福祉会館「潮湯の里 夕陽館」で、年越しそばを食べながら大晦日に沈む太陽を見送るイベント、「結びの夕陽」が催されました。

 1997年から始まり、2007年までは福津市職員の有志グループが、市民ボランティアと「夕陽館」などの協力で主催していましたが、08年は「津屋崎地域郷づくり推進協議会」と「夕陽館」が主催。家族連れの市民ら約150人が参加しました。

 参加者は、「夕陽館」裏に用意された炊き出しの釜でゆでた年越しそばを百円の参加費を払っていただき、砂浜で寒風の下、そばを食べたり、焚き火で暖を取りながら日没を待ちました=写真①=。

 午後5時10分からは、津屋崎少年少女合唱団が「夕陽館」のデッキで合唱する歌に耳を傾けながら、水平線にしだいに近づく夕陽を見送ろうとしましたが、あいにく雲間から姿を見せないまま。5時20分の日没時刻にカウントダウンをして、暮れ行く08年に名残を惜しみました=写真②=。


写真②:日没時刻にカウントダウンをして08年に名残を惜しむ人たち
     =津屋崎海水浴場で、31日午後5時20分撮影

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2008年12月31日/〈津屋崎まちなみ散策〉031・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉42

2008-12-31 06:53:52 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:「花田邸」2階西端に建つ卯建
     =福津市津屋崎横町で、2008年12月14日午前8時14分撮影


〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 42
:卯建巡り(6) 花田邸

 福津市津屋崎新町にある「花田武士邸」(木造瓦葺き2階建て)は、平成15年(2003年)建築。杜氏だった祖父勝太郎氏が明治35年(1902年)に建築した元の家(木造瓦葺き2階建て)を、2階の東西にあった卯建(うだつ)とともに復元し、母屋1階南側にあった玄関は東側に変えられています。

 2階西に建つ卯建=写真①=と東の卯建=写真②=とも、白壁に黒い縁取りのあるデザインが特徴です。


写真②:「花田邸」2階東端に建つ卯建
     =福津市津屋崎新町で、12月14日午前8時14分撮影

花田邸
         「花田邸」位置図
       (ピンが立っている所)
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2008年12月30日/〈津屋崎まちなみ散策〉030・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉41

2008-12-30 03:14:08 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」正面2階南の袖に建つ卯建
     =福津市津屋崎横町で、2008年12月29日午前7時53分撮影


〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 41

:卯建巡り(5) 「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」

 福津市津屋崎横町にある「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」は、元藍染め紺屋(こうや)だった上妻家から旧「上妻邸」(木造瓦葺き2階建て156平方㍍)を旧津屋崎町が寄贈され、敷地281平方㍍も同町と福間町が合併して誕生した福津市が寄贈されたものです。

 卯建(うだつ)は、西向きの玄関のある母屋2階南=写真①=と北の両袖にトタン壁で建てられています。江戸時代創業の紺屋の防火壁の機能がうかがえます。

 「上妻邸」は明治34年(1901年)、5代目上妻善兵衛さんが建築。建物が解体されることを知って、平成5年(1993年)に結成された旧「津屋崎町街並み保存協議会」の保存運動で、同6年に旧津屋崎町が上妻家から寄贈された建物を保存・管理し、同協議会が運営することになり、愛称が公募で「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」と付けられました。現在は、「藍の家保存会」が運営しています。

 『藍の家』は平成19年12月、福津市で初めて国の登録有形文化財になりました。「明治参拾四年八月廿七日上棟 建立五代目上妻善兵衛 大工頭梁吉田徳蔵左官占部喜平」の棟札が残り、虫食い防止のため材木を数年塩水に浸けた「塩木(しおぎ)」の梁を使い、1階正面の格子、土壁、三和土(たたき)の広い土間など江戸時代から栄えた〈津屋崎千軒〉の町家建築の姿を良く残す建物です=写真②=。


写真②:「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」正面2階北の袖に建つ卯建
     =福津市津屋崎横町で、12月29日午前7時53分撮影

津屋崎千軒・藍の家
「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」位置図
       (ピンが立っている所)
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2008年12月29日/〈津屋崎まちなみ散策〉029・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉40

2008-12-29 05:00:12 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:「永島市蔵邸」母屋2階の妻壁西側に建つ卯建
     =福津市津屋崎東古小路で、2008年12月14日午前8時03分撮影


〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 40 

:卯建巡り(4) 永島市蔵邸

 津屋崎東古小路にある「永島市蔵邸」(木造瓦葺き2階建て)母屋の卯建(うだつ)は、西向きの玄関のある母屋2階妻壁の西側に建てられています=写真①=。

 元「八波歯科」があった建物で、明治時代の建築と見られます=写真②=。風格のある町家です。


写真②:2階の妻壁西側(写真右端)に卯建がある「永島市蔵邸」母屋
     =福津市津屋崎東古小路で、12月14日午前8時03分撮影

永島市蔵邸
       「永島市蔵邸」位置図
       (ピンが立っている所)
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2008年12月28日/〈津屋崎まちなみ散策〉028・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉39

2008-12-28 10:00:24 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:「鷹取邸」母屋2階の妻壁東側に建つ卯建
     =福津市津屋崎裏町で、2008年12月14日午前7時55分撮影


〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 39 

:卯建巡り(3) 鷹取邸

 福津市津屋崎裏町の〈しおさい通り〉東側に面した「鷹取邸」(木造瓦葺き2階建て)母屋の卯建(うだつ)は、北向きの玄関のある2階妻壁の東側=写真①=に建てられています。

 元坑木屋だった「鷹取邸」は、大正時代に建築。玄関のある2階妻壁の西側にも白壁の卯建があったと思われますが、西側に倉庫を建て増して母屋と接続=写真②=した際、撤去されたのでしょうか。


写真②:母屋2階の妻壁西側(写真右側)には卯建が見られない「鷹取邸」
     =福津市津屋崎裏町で、12月14日午前7時56分撮影

鷹取邸
        「鷹取邸」位置図
       (ピンが立っている所)
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2008年12月27日/〈津屋崎まちなみ散策〉027・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉38

2008-12-27 04:39:32 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:「麦野邸」母屋の妻壁東側に建つ卯建
     =福津市津屋崎沖町で、2008年12月14日午前8時07分撮影


〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 38 

:卯建巡り(2) 麦野邸

 津屋崎門前の〈しおさい通り〉東側に面した「麦野邸」(木造瓦葺き2階建て)母屋の卯建(うだつ)は、北向きの玄関のある妻壁の東側=写真①=と、西側=写真②=に対になった大きさで建てられています。


写真②:「麦野邸」母屋の妻壁西側に建つ卯建
     =福津市津屋崎沖町で、12月14日午前8時07分撮影

 「麦野邸」は、明治時代に「教安寺」東隣の〈しおさい通り〉西側に建てられていたのを、昭和になって同通りが開通した際、同通り東側に移転されました。現在、所有者の麦野裕(ゆたか)さんは千葉県在住で、貸し家になっています。

 裕さんは「祖父(麦野時雄・第12代津屋崎町長)から相続した家で、築百年を越えた土蔵造り。材木は、星ケ丘団地にあった山から切り出し、海に浸けたもの」と説明されており、「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」(旧上妻家)の梁と同じように、虫がつきにくく、腐食から護るため海水に数年間浸けた材木の「塩木(しおぎ)」が建築材に使われています。

 麦野津屋崎町長は、昭和22年(1947年)から同町が勝浦村と合併して新津屋崎町になった同30年(1955年)まで在任、同26年(1951年)の西鉄宮地岳線津屋崎延長や、同30年(1955年)の福岡県立水産高校誘致、同31年(1956年)の津屋崎の玄海国定公園指定に貢献されました。

麦野邸
        「麦野邸」位置図
       (ピンが立っている所)
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2008年12月26日/〈津屋崎まちなみ散策〉026・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉37

2008-12-26 07:30:34 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:「麻生邸」の母屋東側に建つ卯建
     =福津市津屋崎沖町で、2008年12月14日午前8時撮影


〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 37 

:卯建巡り(1) 麻生邸

 卯建(うだつ)のある町家は、〈津屋崎千軒〉の町並みに7軒もあります。私が08年6月、「海とまちなみの会」の『津屋崎千軒そうつこう』ガイドで、〈津屋崎千軒〉の観光案内をした女性客から「卯建のある町家をぜひ見たい」とリクエストされ、案内して喜ばれたのが沖町の「麻生邸」(木造瓦葺き2階建て)母屋東側に建つ卯建=写真①=でした。

 卯建は、仕事などで成果が出せない人を「卯建が上がらない人」と言う語源になったとされるほど、裕福な家でないと建てられませんでした。民家の妻に屋根より一段高く設けた小屋根つきの土壁で、家の格を示し、装飾と防火を兼ねています。「鏝絵」と同じように残っている町並みは全国的にも多くありません。

 「麻生邸」母屋の卯建は、母屋の西側にも建っていますが、東側のよりは小振りです=写真②=。津屋崎の町並みの歴史に詳しい・津崎米夫さん(84)によると、教師をされていた麻生氏の夫人の話では古賀市の瓦職人が屋根瓦を葺き替えた際、あと5年で明治を迎える年号(1863年の文久3年か)の瓦が見つかったという。教師の前の代は雑貨屋をしていたといい、母屋は江戸末から明治以降に建てられたと見られます。


写真②:「麻生邸」母屋の西側に建つ小振りの卯建
     =福津市津屋崎沖町で、12月14日午前8時01分撮影

 卯建の町家が江戸時代から伝わる〈津屋崎千軒〉の町並みは、古くから栄えた港町の歴史文化の厚みと、家主の注文に張り切って卯建を建てたであろう左官職人の技術がうかがわれます。

麻生邸
        「麻生邸」位置図
       (ピンが立っている所)
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2008年12月25日/〈津屋崎まちなみ散策〉025・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉36

2008-12-25 12:43:47 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:2階南側軒下妻壁の西端にある白い菊の花の鏝絵
   =福津市津屋崎沖町の旧「永島伴作邸」で、2008年12月16日午前9時09分撮影


〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 36 

:鏝絵巡り(3) 菊

 鏝絵の題材に菊が選ばれているのは、津屋崎横町の旧「永島伴作邸」(木造瓦葺き2階建て)です。2階南側軒下妻壁の西端=写真①=と同東端に白い菊の花の漆喰彫刻があります。

 1階南側瓦屋根上の妻壁西端付近には、菊の葉の鏝絵=写真②=が浮き彫りされています。菊の葉の鏝絵は、2階北側瓦屋根の中央部付近にもあり、明治以降か大正時代に建てられたと見られるこの商家に彩りを添えています。


写真②: 1階南側瓦屋根上の妻壁西端付近に浮き彫りされている菊の葉の鏝絵
     =旧「永島伴作邸」で、12月16日午前9時08分撮影

 津屋崎の町並みの〝生き字引〟・津崎米夫さん(84)によると、旧「永島伴作邸」南側=写真③=の2階窓はトタンで塞がれていますが、以前は格子窓でした。永島家は昔、文具屋や魚屋を営まれていましたが、今は貸し家になっています。


写真③:旧「永島伴作邸」南側の全景
     =12月16日午前9時07分撮影

 〈津屋崎千軒〉の鏝絵は、津屋崎沖町の「藤井睦雄邸」(木造瓦2階建て)の1階屋根東西にも小さな彫刻が確認されており、「豊村酒造」の『龍』、「伊藤邸」の『恵比須と大黒』、旧「永島伴作邸」の『菊』と合わせて4軒の町家に残されていることになります。

 全国の鏝絵の数は約3千点ともいわれ、うち約1千点あるとされる大分県では安心院(現宇佐市安心院町)が約百点ある全国一の密集地といわれています。大分県内に鏝絵が多いのは、日出町の青柳鯉市が左官職人・伊豆の長八(本名・入江長八。1815-1889)に鏝絵を学んで帰郷、県内の左官に伝えたことが大きく、安心院は西の日田市や玖珠町、北の中津市、東の別府市を結ぶ交通の要路で、裕福な家が多かったことから数々の鏝絵作品を生んだとみられます。
    
 鏝絵は、江戸から昭和初期にかけて造られた町家の左官技術、庶民の気風を伝えており、貴重な建築文化、文化遺産といえるでしょう。しかし、漆喰塗り込め壁の新築家屋は少なくなり、損傷や老朽化した町家の解体などでの消失も目立っています。

旧永島伴作邸
        旧「永島伴作邸」位置図
         (ピンが立っている所)
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2008年12月24日/〈津屋崎まちなみ散策〉024・〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉35

2008-12-24 13:50:45 | 津屋崎まちなみ散策
写真①:元麹屋の「伊藤邸」1階屋根西側に建つ卯建の上にある大黒
     =福津市津屋崎沖町で、2008年12月16日午前9時14分撮影


〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 35 
 
:鏝絵巡り(2) 大黒と恵比須
 
 漆喰彫刻ともいわれる鏝絵の題材は、福を招く七福神の大黒(天)や恵比須、龍などが多い。龍は、中国では鳳(ほう)・亀(き)・麟(りん)とともに四瑞(しずい)として尊ばれており、津屋崎の造り酒屋・「豊村酒造」の白壁を飾る鏝絵も龍です。

 七福神を題材にした鏝絵は、福津市津屋崎沖町にもあります。明治時代は麹屋だった「伊藤邸」(木造瓦葺き2階建て)1階屋根の東西に建つ卯建(うだつ)の上にある大黒=写真①=と恵比須=写真②=です。大黒は財福と開運出世の神で、頭に大黒頭巾を被り、右手に小槌、左手に大きな袋を持って肩に背負っている姿がおなじみですが、この鏝絵は顔だけに簡略化されています。恵比須は商売繁盛の神で、烏帽子を被り、右手に釣竿、左手に大きな鯛を持つ姿で知られていますが、この鏝絵も顔だけのうえ、右端の一部が欠けています。


写真②:「伊藤邸」1階屋根東側に建つ卯建の上にある恵比須
     =12月14日午前8時07分撮影

 卯建は、民家の両妻に屋根より一段高く設けた小屋根つきの土壁。また、これにつけた袖壁をもいい、家の格を示し、装飾と防火を兼ねています。「伊藤邸」を正面から見ても、1階屋根東西に建つ卯建の上にある大黒と恵比須は小さくて、気付きにくいでしょう=写真③=。


写真③:「伊藤邸」1階屋根東西に建つ卯建の上にある大黒と恵比須
     =12月20日午後2時撮影

 鏝絵は、裕福な商家や網元が、母屋や土蔵を改築する際、富の象徴として外壁を漆喰装飾し、江戸時代中期から盛んになったといわれています。静岡県松崎町の左官職人・伊豆の長八(本名・入江長八。1815-1889)が、19歳の時に伊豆国松崎村から幕末の江戸に上って学んだ狩野派の日本画を活かした漆喰鏝絵を考案、名工の芸術品にまで高めました。長八は、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会に鏝絵を出展し、受賞。松崎町では、「伊豆の長八美術館」に作品約50点を収蔵展示し、長八美術館特別展(全国漆喰鏝絵コンクール作品展)も開催しています。

伊藤邸
        「伊藤邸」位置図
       (ピンが立っている所)
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2008年12月23日/〈日記〉312・・豊後高田市の「昭和の町」を訪ねて

2008-12-23 23:20:43 | 日記
写真①:商店街に建てられた豊後高田「昭和の町」の案内板
     =大分県豊後高田市で、2008年12月23日午後0時05分撮影

 
 大分県豊後高田市の「昭和の町」=写真①=を23日、細君と訪ねました。福岡県福津市の拙宅からマイカーで、九州自動車道と国道10号線を経由し、3時間のドライブ旅行でした。

 豊後高田市の商店街は、江戸時代から明治、大正、昭和30年代まで国東半島一の賑わう町でしたが、高度経済成長を境に寂びれました。昭和30年代の賑わいを蘇らせようと、平成13年から「昭和の町」のまちづくりをしています。

 旧大分合同銀行の建物(木造瓦葺き2階)にある「昭和の町展示館」=写真②=では、『昭和の映画ポスター展』が開催されていました。


写真②:旧大分合同銀行の建物にある「昭和の町展示館」
     =23日午後0時21分撮影

 私が子供のころに福岡市中洲の映画館で観たアメリカの西部劇映画・「駅馬車」の主演男優、ジョン・ウェイン=写真③=や、時代劇映画・「忠臣蔵」で大石内蔵助を演じた片岡知恵蔵=写真④=を大きく載せたポスターなどが展示されており、懐かしい映画の名場面が脳裏に蘇りました。


写真③:ジョン・ウェイン主役の西部劇映画・「駅馬車」のポスター
     =23日午後0時19分撮影


写真④:片岡知恵蔵が大石内蔵助を演じた時代劇映画・「忠臣蔵」のポスター
     =23日午後0時16分撮影

 商店街の店のうち、下りたままのシャッター=写真⑤=には、「昭和30年代の駅通り商店街」歳末風景=写真⑥=などセピア色の大きな写真が掲示されています。


写真⑤:セピア色の大きな写真がシャッターに掲示された店舗
      =23日午後0時04分撮影


写真⑥:「昭和30年代の駅通り商店街」歳末風景
     =23日午後0時04分撮影

 このシャッターが下りたままの店の右隣の「まごころうどん」店には、〝昭和の歌姫〟・美空ひばりのポスターが、高く掲げられていました=写真⑦=。


写真⑦:美空ひばりのポスターが掲げられた「まごころうどん]店
     =23日午後0時04分撮影

 商店街には、コッペパンをはじめ「昭和の学校給食」を食べさせる店も並んでいます=写真⑧=。


写真⑧:コッペパンを食べさせる店の「昭和の学校給食」メニュー看板
     =23日午後0時02分撮影

 明治から昭和にかけて大分県きっての大金持ちといわれた〝野村財閥〟が、昭和10年前後に建てた旧高田農業倉庫を展示場施設にした「昭和ロマン蔵」の軒下では、50歳代の男性が演じる紙芝居屋さんも営業中=写真⑨=。私が小学生時代には、水飴を五円で買うと観られた紙芝居の『黄金バット』を、この日は水飴代百円を払って楽しむことができました。『黄金バット』は、私の吉村青春第一詩集『鵲声―津屋崎センゲン』の詩篇・「紙芝居」にも掲載した子供心を捉えた〝正義の味方〟のヒーローでした。


写真⑨:水飴を百円で買って食べながら紙芝居の「黄金バット」を観るお客さんたち
     =23日午前10時53分撮影

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