吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2015年12月20日/〈光市・町歩き〉005・「光ふるさと郷土館」別館

2015-12-20 03:30:39 | 〈光市・町歩き〉

 

写真①:「光ふるさと郷土館」別館(礒部本家旧宅」)

         =山口県光市室積5丁目で、2015年12月11日午前9時55分撮影

〈光市・町歩き〉 5

 :「光ふるさと郷土館別館

  12月11日午前、山口県光市室積5丁目の「光ふるさと郷土館」本館(江戸時代末期創業の醤油屋・「磯民」=後に「磯屋」の屋号に=を営んでいた礒部家=いそべけ=を修復した町家)の見学後、「海商通り」を挟んで向かい側にある別館(「礒部本家=いそべほんけ=旧宅」)=写真①=を訪ねました。

  礒部家の本家にあたり、「磯乃屋」の屋号で廻船問屋を営み、江戸・大坂・琉球などとの交易で江戸時代から栄えた室積の豪商の旧家です。明治前期建築の妻入り寄せ棟造り本瓦葺き木造二階建てで、昔の姿をとどめており、平成11年に主屋・茶屋・釜屋の三件が国の登録有形文化財になっています。材木や米なども商い、金融業、塩田経営にも携わった大地主だけに、富豪の裕福さがうかがえる豪壮な造りです。客間には、旧大和町(現光市束荷)生まれの初代内閣総理大臣・伊藤博文の額入りの書=写真②=や、藤愚渓(とうぐうけい)が描いた山水の襖絵=写真③=などがあり、床の間や欄間の造りも手が込んでいます。

  

写真②:初代内閣総理大臣・伊藤博文の額入りの書

  

写真③:藤愚渓が描いた山水の襖絵

  仏間の横にある中庭には、礒部本家「磯屋」の船が江戸時代に琉球(現在の沖縄)方面から持ち帰ったと伝えられる樹齢数百年とされる大蘇鉄(おおそてつ)があります=写真④=。

  

写真④:中庭にある樹齢数百年とされる大蘇鉄

  明治41年(1908年)に改築された離れ座敷のお茶室=写真⑤=は、材木問屋も営んでいた礒部本家らしく、使われた木材、造作とも優れています。

 

写真⑤:明治41年に改築されたお茶室の床の間

  障子の窓ガラス=写真⑥=も風情があり、見事です。

  

写真⑥:風情がある障子の窓ガラス

  お茶室の回り廊下角に放射状に張った板一つにも、疎かにしない建築の美学を感じます=写真⑦=。

  

写真⑦:お茶室の回り廊下角の放射状の板張

  もちろん、欄間=写真⑧=もあります。

  

写真⑧:お茶室の欄間彫刻

  洋間の椅子や調度=写真⑨=も、センスがいいですね。

  

写真⑨:センスのよい洋間の椅子や調度

  洋間の出入り口は、内壁の縁取りをカーブさせ=写真⑩=、おしゃれです。

  

写真⑩:洋間らしく内壁の縁取りをカーブさせた出入り口

  建物のあちこちに傷みがみられるのは残念ですが、かつての港町室積の繁栄を偲ばせる豪壮な造りは国登録有形文化財にふさわしい素晴らしさです。廻船問屋の建物をつぶさに見学できたのは初めてでもあり、港町・室積の歴史や文化に以前にも増して愛着を感じました。


       (今回の〈光市・町歩き〉岳父の墓参旅行帰りのシリーズを終わります)

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2015年12月19日/〈光市・町歩き〉004・「光ふるさと郷土館」本館

2015-12-19 04:32:36 | 〈光市・町歩き〉

 

写真①:江戸時代末期から創業の醤油屋・旧「磯民」だった「光ふるさと郷土館」本館

         =山口県光市室積5丁目6番5号で、2015年12月11日午前9時40分撮影

〈光市・町歩き〉 4

 :「光ふるさと郷土館本館

  2011年10月31日、山口県光市束荷にある旧「伊藤博文邸」を紹介して以来の〈光市・町歩き〉シリーズの再開掲載です。15年12月11日午前、同市室積での岳父の墓参旅行帰りに立ち寄った同市室積5丁目の「光ふるさと郷土館」からリポートします。

  「光ふるさと郷土館」は、海外貿易の隆昌をきわめた足利・室町時代からの古い町並みで知られる「海商通り」に面し、本館=写真①=と別館があります。市制50周年記念と、ふるさと創生事業の一つとして整備されました。本館は、江戸時代末期から昭和30年代まで醤油屋・「磯民(いそたみ)」(後に「磯屋」の屋号に)を営んでいた礒部家(いそべけ)を修復したものです。

  明治初期に建てられた町家づくりの商家で、間口が狭く奥行きが長い「うなぎの寝床」といわれる造り。江戸時代に室積に寄港していた北前船をはじめ廻船に関する資料や醤油の醸造用具などが展示されています。

  醤油醸造の工程に欠かせないレンガ造りの「麹室」も、残されています=写真②=。

  

写真②:レンガ造りの「麹室」

  「麹室」の右手には、古めかしいレンガ造りの煙突が建っていました=写真③=。

 

写真③:「麹室」の右手に建つ煙突

  圧巻は、廻船に関する資料展示室です。まず、250石積の弁才船の大型模型=写真④=に見ごたえを感じました。

写真④:250石積の弁才船の大型模型

 実際には、室積の廻船の多くは「弁才船」より小さく、近距離の商品流通に活躍した100石積(約15トン)の「小型弁才船」や、3~4人乗りの「イサバ船」=写真⑤=、さらに小さい80石積前後の「猪牙(チョキ)船」だったという。江戸時代から明治にかけて「津屋崎塩田」の塩を運んだ〈津屋崎千軒〉の廻船・「イサバ船」は「五十集船」の漢字で書かれています。

  

写真⑤:パネルに展示されている「イサバ船」の解説

  江戸時代末期から醤油屋を営み始めた「磯民」の鬼瓦(丸に桜) =写真⑥=や、その後の「磯屋」の鬼瓦(梅の花を上から見た形を図案化した「梅鉢」)=写真⑦=も、通路わきに展示されていました。

 

写真⑥:「磯民」の鬼瓦(丸に桜)

  

写真⑦:「磯屋」の鬼瓦(梅の花を上から見た形を図案化した「梅鉢」)

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2011年10月31日/〈光市・町歩き〉003・旧「伊藤博文邸」

2011-10-31 06:20:19 | 〈光市・町歩き〉

 

  写真①:ルネサンス風の瀟洒な2階建ての洋館・旧「伊藤博文邸 

      =山口県光市束荷で、2011年10月27日午前10時45分撮影

 

〈光市・町歩き〉 3 

 :旧「伊藤博文邸」 

 

  旧「伊藤博文邸=写真①=が、山口県光市にあるとは知りませんでした。市発行の観光ガイド「海とみどりのハーモニー ひかり」によると、初代内閣総理大臣・伊藤博文は天保12年(1841年)に旧大和町(現光市束荷)で生まれ、9歳で萩に移るまでこの地で幼年時代を過ごしました。 

  光市が整備した「伊藤公記念公園」にある旧「伊藤博文邸」は、同公が基本設計したルネサンス風の瀟洒な2階建ての洋館で、県指定有形文化財です。建物が完成したのは、伊藤公が明治42年に視察先の中国・ハルピン駅で狙撃されて69歳で他界した後でした。1階には、ゆかりの品々が展示されています=写真②=。


写真②:1階に展示された伊藤公ゆかりの品
     =
旧「伊藤博文邸で、27日午10時50分撮影

 1階の階段=写真③=から2階へ上がると、洋間=写真④=と和室=写真⑤=がありました。


写真③:1階の階段
     =27日午10時45分撮影


 写真④:2階の洋間                                                  写真⑤:2階の和室
     =写真④,⑤とも27日午10時50分撮影


旧「伊藤博文邸前の「伊藤公記念公園」敷地には博文公の銅像=写真⑥=が建っています。同邸の隣には、その生涯を遺品と影像で紹介する「伊藤公資料館」もありました。

 

写真⑥:伊藤博文公の銅像

     =27日午10時45分撮影

 面白かったのは、くり抜かれた伊藤博文公の肖像の顔に自分の顔を出して昭和38年発行の「千円札」の記念撮影ができる表示板が設けてあったことです=写真⑦=。

  

写真⑦:伊藤博文公の肖像の顔に自分の顔を入れて「千円札」の記念撮影ができる表示板

     =27日午10時50分撮影

 

 「伊藤公記念公園」の奥には、6歳まで過ごした博文公の生家=写真⑧=が復元してあり、見学できました。産湯に使った井戸や、子供のころ登って遊んだ柿の木の二世などもあり、幼少時をしのべるようになっています。

 

写真⑧:6歳まで過ごした伊藤博文公の生家

     =27日午10時50分撮影

 

旧「伊藤博文邸位置図

                           (終わり)

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2011年10月30日/〈光市・町歩き〉002・「普賢寺」

2011-10-30 06:38:16 | 〈光市・町歩き〉

 

 

写真①:「普賢寺の仁王門 

=山口県光市室積8丁目で、2011年10月27日午前9時25分撮影

 

〈光市・町歩き〉 2 

 

:「普賢寺 

 

 26日夜は、温泉のある宿・「かんぽの宿光」(光市室積東ノ庄)に宿泊。翌27日朝、 平安時代中期・寛弘3年(1006年)の一条天皇のころ創建されたという臨済宗建仁寺派の名刹「普賢(禅)寺」(市室積8丁目)を訪れました。創建当時は天台宗のお寺でしたが、室町時代後期ごろに臨済宗となりました。山号は、峨嵋山(がびさん)。 

 

寛弘4年(1007年)、播州書写山円教寺の住職・性空上人(しょうくうしょうにん)が開基。本尊は、理知・慈悲をつかさどり、延命の徳を備える普賢菩薩像で、漁師が室積沖の海中から出現したと話した霊像を性空上人が安置されたといわれ、古くから「海の菩薩」(海の守護仏)として全国各地から広い信仰を集めてきたお寺という。江戸時代から明治初年の版籍訪韓までは、毛利公の祈願所で寺格の高いお手普請寺でした。開基性空上人の入寂の日をとって定めたという毎年5月14,15日の「普賢祭」には、露店市が立つ〝普賢市〟が開かれています。 


 境内入り口にある仁王門=写真①=は、江戸時代後期・寛政10年(1798年)の建立。両脇には、忿怒(ふんぬ)の形相で仏敵を払う雄大かつ怪奇な木刻の仁王像=写真②=が立ち、楼上には釈迦の命により正法を守り、衆生を導く16人の大阿羅漢・「十六羅漢像」が安置されています。


写真②:仁王門の脇に立つ木刻の仁王像
      =27日午前9時50分撮影

境内を歩き、石彫りの象=写真③=が台座に載っているのが目に留まりました。白象に騎乗するとされる普賢菩薩にちなんだ彫像でしょう。 

 

 

写真③:普賢菩薩が騎乗するとされる象の石象

=27日午前9時25分撮影

 本尊の
普賢菩薩像を安置する「普賢菩薩堂」=写真④=は大正6年に改築され、平成5年に大修理されました。


写真④:本尊の
普賢菩薩像が安置されている「普賢菩薩堂」

 

=27日午前9時25分撮影


  
普賢菩薩堂」の参拝所に立ち、頭上を見ると十二支を描いた古びた方位盤=写真⑤=がありました。色あせた感じですが、9月18日に  大川市酒見の「風浪宮」拝殿前で目にした東西南北の字の周囲に十二支の絵が描かれた古風な方位盤に似ていると思いました。

 

写真⑤:十二支を描いた古びた方位盤

     =27日午前9時30分撮影

 境内にある池では、甲羅干しする5匹の亀=写真⑥=が気持ち良さそう。

 

 

写真⑥:気持ち良さそうに甲羅干しする5匹の亀

     =27日午前9時35分撮影

池の近くに「普賢寺の山門=写真⑦=が建っています。

 

 

写真⑦:「普賢寺の山門

     =27日午前9時35分撮影

「普賢寺の山門を潜ると、どっしりとした造りの本堂=写真⑧=が見えました。

 

 

写真⑧:どっしりとした造りの「普賢寺本堂

     =27日午前9時35分撮影

本堂の南側には、山口県指定名勝「普賢寺庭園」=写真⑨=がありました。正方形の地割(455平方㍍)をもった枯山水庭園で、周囲の緑地を含めた広さは2,177平方㍍あり、大きな自然石を用いた石組の構成が特色です。暖帯性樹林が国の天然記念物に指定されている峨嵋山(標高117㍍)を背景に、前面を池に見立てて、東南部の石組の枯滝を中心にして両端に組んだ豪華、雄大な石組が、枯山水庭園出現初期の室町時代後期の作庭という。雪舟が築庭したと伝承され、枯山水庭園では県内最古となっています。

 

 

写真⑨:雪舟が築庭したと伝承されている山口県指定名勝「普賢寺庭園」

     =27日午前9時40分撮影

本堂の東側敷地には、赤門=写真⑩=が建っています。江戸時代初期の1630年代に建てられたとみられ、〝開かずの門〟ともいわれています。 鬼瓦には毛利家の家紋があり、普賢寺が江戸初期の元禄15年(1702)に再建され、毛利氏のお手普請寺でもあったなごりを残す建造物です。

 

 

写真⑩:本堂の東側敷地に建つ赤門

     =27日午前9時40分撮影

普賢寺」山門の近くの境内には、落葉高木・センダン(センダン科)の巨木(樹高21㍍)=写真⑪=がそびえており、あまりの高さに目を見張りました。

 

 

写真⑪:樹高21㍍というセンダンの巨木

     =27日午前9時45分撮影

普賢寺」位置図

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記2011年10月29日/〈光市・町歩き〉001・北前船の寄港地・室積

2011-10-29 08:40:34 | 〈光市・町歩き〉

 

写真①:瀬戸内海の港町・室積の眺め(向こう正面の「室積半島」左端が「象鼻ケ岬」) 

=山口県光市室積東ノ庄の「かんぽの宿光」5階から、2011年10月27日午前7時10分撮影

きょう10月29日から、〈光市・町歩き〉シリーズを掲載します。岳父の墓参で26日、山口県光市室積(むろづみ)にある岳父家の菩提寺「如宝寺(にょほうじ)」(臨済宗)を訪れ、散策した同市の名所・旧跡を紹介します。

 

〈光市・町歩き〉 1 

:北前船の寄港地・室積

  

 光市は山口県東南部の瀬戸内海に面し、人口5万4千人。室積は江戸時代に北前船が寄港した瀬戸内海有数の港町で、回船問屋や多くの商家が軒を連ねて栄えました温暖な気候と豊かな自然環境に恵まれ、白砂青松の室積・虹ヶ浜海岸や、象鼻ヶ岬(ぞうびがさき)など風光明媚な海岸部は瀬戸内海国立公園に指定されています。室積東ノ庄の高台にある「かんぽの宿光」(鉄筋コンクリート6階建て)の5階から見下ろした眺めは、絶景です=写真①=。室積は、もと無漏津海、室津海、または室住と言われていましたが、室は年中風がないでいて室の中にいるようだとの意味という。

室積には、海外貿易の隆昌をきわめた足利・室町時代からの古い町並みで知られる「海商通り」があり、海上交易で栄えた福津市の〈津屋崎千軒〉通りと同じように、古風な趣のある白壁格子造りの町家が並んでいます=写真②=。〈津屋崎千軒〉では、軒を連ねた町家の間の狭い通路を「スアイ」と言いますが、室積では人ひとりがすれ違うのがやっとの狭い路地のことを「アイゴ」と呼んでいます。


 写真②:足利・室町時代から海上交易で栄えた「海商通り」に並ぶ町家
     =山口県光市室積3丁目で、岳父の13回忌法事で訪れた2010年2月4日午後4時20分撮影

 潮の香りが漂う室積の町並みを歩くと、津屋崎と同じようなほっとした気持ちで胸が膨らみます。光市では、歴史的町並を保存しようと「保存地区」を選定し、対象地区の道路に面した建造物の修復(家屋)、修景(門、塀)に対し、補助を行う「光市町並保存事業」を実施しています。福津市の〈津屋崎千軒〉の町並みにも、こうした施策が望まれます。

「山口県光市室積」位置図

 

 

 

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