吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2015年10月15日/〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉011・関ヶ原古戦場

2015-10-15 04:48:51 | 〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉

 

写真①:「史蹟関ヶ原古戦場決戦地」の石碑と「決戦地」の幟

     =岐阜県関ヶ原町大字関ヶ原で、2015年10月1日午前10時50分撮影

 

〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉11

 :関ヶ原古戦場

  名古屋市中区本丸の「名古屋城」見物を終え、9月29日は岐阜県内の息子宅に宿泊。小雨降る10月1日、前から行きたかった同県関ヶ原町の「史蹟関ヶ原古戦場決戦地」=写真①=を息子のマイカーに乗せてもらって訪れました。

  その前に、関ヶ原古戦場決戦地の予備知識を仕込もうと、「徳川家康最後陣跡」近くにある「関ヶ原町歴史民俗資料館」=写真②=を見学。入場料350円を支払い、入った館内では慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の地・関ヶ原で合戦を繰り広げた徳川家康率いる東軍と、豊臣方の石田三成らの西軍の陣形や合戦の流れが大型ジオラマで解説付きで楽しめたほか、「関ヶ原合戦屏風」や武具も展示され、見ごたえがありました。当時の軍馬の実物大模型にまたがり、馬上の目線の高さを実感できたり、参戦した各武将の家紋はんこを押せるコーナーも楽しめました。

  

写真②:「関ヶ原町歴史民俗資料館」入り口

     =関ヶ原町大字関ヶ原で、1日午前9時25分撮影

  「関ヶ原町歴史民俗資料館」前の駐車場には、石田三成ら関ヶ原の戦いで奮戦した武将たちを壁面に大きく描いた「レンタサイクルハウス」が建っています=写真③=。

  

写真③:関ヶ原で合戦を繰り広げた武将を壁面に描いた「レンタサイクルハウス」

  次に車で北西へ移動し、関ヶ原古戦場決戦地の観光案内所がある「関ヶ原笹尾山交流館」=写真④=を訪問。石田三成が本陣を置いた関ヶ原を一望できる「笹尾山」の麓にあります。お土産品販売コーナーに武将の家紋入りキャップが飾ってあり、黒田長政のキャップを買おうとしましたが、置いていないと言われ、残念でした。戦国武将の人気投票結果の表示コーナーでは、近江国(滋賀県)出身の石田三成がトップ、豊臣秀吉が2位とされ、関ヶ原の戦の覇者・徳川家康の人気が低いのが面白く感じました。

  

写真④:「関ヶ原笹尾山交流館」

     =関ヶ原町で、1日午前9時35分撮影

  この「関ヶ原笹尾山交流館」から歩いて坂道を下った所に、お目当ての「史蹟関ヶ原古戦場決戦地」がありました。「国史跡決戦地」の解説板=写真⑤=には〈西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました〉と記されています。

 さらに〈小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです 関ヶ原町〉と結ばれ、兵どもが夢の跡をしのぶ想いにかられました。

 

写真⑤:「国史跡決戦地」の解説板

     =関ヶ原町大字関ヶ原で、1日午前10時50分撮影

  1万4千もの大軍を待機させ、家康から鉄砲を撃ち込まれ、西軍を裏切った若干19歳の小早川秀秋、三成の盟友・大谷吉継(越前敦賀5万石)、西軍陣営に組みしながら東軍に寝返った脇坂安治など、この「関ヶ原古戦場決戦地」に身を置くと、日本の戦国時代を追体験し、日本史の流れもすっと頭に入りそうです。

 関ヶ原からの帰りに立ち寄った名神高速道路の養老サービスエリア(岐阜県養老町)で、通常サイズの5倍の大きさで人気の「メガメロンパン」=写真⑥=を620円で購入。息子宅で孫たちも含め6人で切り分けて食べましたが、残りが出て翌日に食べたほどのでっかさで、驚きました。所変われば品変わるで、旅の楽しさの一つですね

  

写真⑥:1個620円で販売の「メガメロンパン」

     =「名神高速道路」養老サービスエリアで、1日午前11時10分撮影

  これで、〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉シリーズの続編もピリオドを打ちます。

                                       (終わり)

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2015年10月14日/〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉010・「名古屋城」再訪

2015-10-14 04:16:56 | 〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉

 

写真①:秋の空にそびえる「名古屋城」天守閣

     =愛知県名古屋市中区本丸で、2015年9月29日午後3時40分撮影

 

〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉10

 :「名古屋城」再訪

  名古屋市西区則武新町3丁目の「ノリタケの森」からタクシーに乗り、同市中区本丸にある「名古屋城」=写真①=へ。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、慶長14年(1609年)、豊臣方への備えとして「名古屋城」築城を決定、同17年(1612年)に完成。以降、御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄えた名城です。2012年10月に訪れた際、修復工事中で上れなかった天守閣を観覧するのを楽しみにしていました。

  タクシーを降り、「名古屋城」敷地に入って「特別史跡名古屋城」の掲示板=写真②=の横の通路を歩いてお城へ向かいました。中国人の団体観光客が、先を歩いています。

  

写真②:「特別史跡名古屋城」の掲示板

  しばらく行くと、お土産店の前の広場に展示されている金の鯱=写真③=に出合いました。天守閣の威容を際立たせている逸物です。空想上の生き物の鯱は、水を呼ぶと言われることから火除けのまじないとされました。「名古屋城」創建時の金の鯱は、徳川家の財力を誇るべく、貼られた金の量は慶長小判で1,940枚という。

  

写真③:お土産店の前の広場に展示されている金の鯱

  お堀のそばに「剣塀」の解説板=写真④=が立っていました。「大天守と小天守を連結する櫓台は、高い土塀で囲われ、塀の軒に鋭い槍の穂先がぎっしりと並べられている。大天守への敵の進入を防ぐもので、剣塀と称されている」との解説文を読み、納得。

 

写真④:「剣塀」の解説板

  さらに先には、「天守の石垣」の解説板=写真⑤=もあります。「天守の石垣は、上部が外側にそりだすいわゆる扇勾配であり、石の重みや土の圧力がたくみに分散されるため、はらみにくく、しかも美しい」との解説文。なるほど。

  

写真⑤:「天守の石垣」の解説板

  「名古屋城」は昭和20年(1945年)、空襲で本丸のほとんどを焼失し、昭和34年(1959年)に名古屋のシンボルとして天守閣が復元されました。天守閣観覧料5百円を支払い、エレベータを使って7階の展望室に上り、窓から東側を眺望=写真⑥=。

 

写真⑥:「名古屋城」天守閣から東側の眺望

     =9月29日午後3時55分撮影

  天守閣を出て、「名古屋城」の敷地にある「本丸御殿」(平成30年完成目指して復元工事中)の第1期公開部分に靴を脱いで入りました。尾張藩主の住まいとして江戸時代初期の慶長20年(1615年)に建てられた書院造を木曽で育った桧をふんだんに使って復元した建物です。正規の謁見に用いられた広い建物の「表書院」の大広間には、鮮やかな花鳥図が描かれており、ノーフラッシュの条件で許可を得て虎の襖絵を撮影=写真⑦=。

 

写真⑦:「表書院」の大広間に描かれた虎の襖絵

      =29日午後4時15分撮影

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2015年10月13日/〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉009・ノリタケの森

2015-10-13 10:19:18 | 〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉

 

写真①:「ノリタケの森」入り口に掲示された園内案内地図

     =愛知県名古屋市西区則武新町3丁目1番36号の「ノリタケの森」で、2015年9月29日午後2時撮影

 〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉9

 :ノリタケの森

  9月29日から10月2日まで、細君と3泊4日の岐阜旅行に行ってきました。2012年10月4日からの「尾張・美濃・飛騨へ5泊6日の旅行」以来3年ぶりです。きょう13日から、〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉シリーズの続編を掲載します。

  9月29日朝、福岡市の博多駅から新幹線に乗り、愛知県名古屋市の名古屋駅に午後1時半に到着。まずは、同市西区則武新町3丁目にある「ノリタケの森」を訪れました。入園無料で、入り口に園内案内地図=写真①=が掲示されています。

  「ノリタケの森」は、陶磁器メーカー「ノリタケ」が創立100周年を記念して文化と出会い、森に憩う公園、レストラン、ミュージアムなどの複合施設として同社に隣接する工場跡地約4万平方㍍にオープン。コナラ、ケヤキなどの樹木や草花がきれいな園内に入ると、右手に「六本煙突モニュメント」が建っており、高さ45㍍あった旧工場のシンボル・大煙突を約10㍍に切って残したという煙突の一つを背にして記念撮影=写真②=。

  

写真②:園内に建つ「六本煙突モニュメント」の一つ

  敷地内にある陶磁器工場・「クラフトセンター」(4階建て)=写真③=の1~2階では、生地の製造から絵付けまでの製造工程が見学できました。

 

写真③:敷地内にある陶磁器工場・「クラフトセンター」の外観

  「クラフトセンター」3~4階は、明治時代に作られた豪華な花瓶や飾り皿、大正から昭和初期に製造された洋食器など貴重な陶磁器を展示した「ミュージアム」になっています=写真④=。

 

写真④:「クラフトセンター」1~4階の案内板

  「ウエルカムセンター」(5階建て)=写真⑤=では、「ノリタケ」発展の歴史や事業が分かるビデオや展示品が並んでいました。幕末の御用商人だった森村市左衛門が、明治9年(1876年)に貿易商社「森村組」を設立、弟の豊(とよ)とニューヨークで輸入雑貨店「森村ブラザーズ」を創業後、兄弟で日本陶器合名会社(現ノリタケカンパニー)を明治37年(1904年)に設立し、日本での本格的な洋食器製造を始めた「ノリタケ」の歩みに感服しました。

  

写真⑤:「ノリタケ」発展の歴史が分かるビデオや展示品が並ぶ「ウエルカムセンター」

  敷地中央にある「多目的ホール」には、「ノリタケの森」の歴史を紹介する影像が上映され、食器や食卓関連商品がそろう「ノリタケ」直営店、レストラン、カフェ=写真⑥=などが入居。屋外のカフェ・テーブルでお茶を飲み、休憩しました。

  

写真⑥:屋外にカフェ・テーブルもある「多目的ホール」

  「多目的ホール」の近くには、「噴水ひろば」の芝生庭が広がっています=写真⑦=。

  

写真⑦:「噴水ひろば」の芝生庭園

  芝生庭園と水路を隔てて、明治時代に建てられた「赤レンガ棟」の建物が並び、落ち着いた気持ちにしてくれます=写真⑧=。

  

写真⑧:芝生庭園と水路を隔てて並ぶ「赤レンガ棟」の建物

  最後に、陶芸、絵画、彫刻作家のアート作品を展示中の「ノリタケの森 ギャラリー」=写真⑨=を観覧しました。

 

写真⑨:「ノリタケの森 ギャラリー」

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2012年10月18日/〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉008・飛騨高山

2012-10-18 09:28:43 | 〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉

 

写真①:人力車の目線から巡る古い町並み

      =岐阜県高山市三町で、2012年10月8日午前10時45分撮影

 

〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉8

 :飛騨高山

  岐阜旅行5日目の10月8日は、高山市を訪問。細君や孫2人と一緒に人力車に乗り、同市三町の古い町並みを巡りました=写真①=。人力車に乗ったのは初めてですが、一段高い目線での町並み巡りは新鮮で、大いに楽しめました。

 三町の古い町並みは、日中の自動車の通行を控えるよう呼びかけられており、人力車や観光客が安心して散策しています=写真②=。

 

写真②:古い町並みを行く人力車や観光客

     =8日午前10時30分撮影

 町角では、土蔵造りの町家に珈琲店=写真③=が営業していました。

  

写真③:古い町並みの一角で営業している珈琲店

     =8日午前10時35分撮影

 高山市上三之町では、古い町家の屋根に明かり取り窓=写真④=が設けられているのを面白く感じました。

 

写真④:町家の屋根に設けられた明かり取り窓

     =高山市上三之町で、8日午前11時撮影

 3階建ての白壁格子の町家=写真⑤=も、残っています。

 

写真⑤:古い町並みに残る3階建ての白壁格子の町家

     =8日午前10時35分撮影

  商店の軒下に、江戸時代から伝わる「水車からくり」=写真⑥=が置かれ、人形が箱を取り上げるたびに中の品物が変わるのに観光客が見とれていました。下にある水車の力を利用して人形が動く仕掛けという。

 

写真⑥:水車の力を利用して人形が動く「水車からくり」

     =8日午前11時5分撮影

 昼食は、元旅館だったという「坂口屋」=写真⑦=で、しょう油味のスープに細く縮れた麺が特徴の飛騨中華(高山ラーメン)を味わいました。

 

写真⑦:元旅館だったという高山ラーメン店・「坂口屋」店内

     =8日午前11時20分撮影

 高山市八軒町にある国指定史跡・高山陣屋の「陣屋門」=写真⑧=は、高山城主金森氏の下屋敷の一つでしたが、金森氏が上ノ山(山形県)へ移封後、徳川幕府の直轄地として江戸から来た代官や郡代が飛騨を治める役所となりました。

  

写真⑧:徳川幕府の代官や郡代が飛騨を治め役所・「高山陣屋」入口の「陣屋門」

     =高山市八軒町で、8日午前10時5分撮影

 この朝、高山市入りして最初に訪ねたのは、「高山陣屋」前の広場で開かれていた「陣屋前朝市」=写真⑨=でした。地元農家の奥さんたちが、新鮮な野菜や果物、花などを売っています。

  

写真⑨:新鮮な野菜や果物、花などを売る店が並ぶ「朝市」

     =高山市八軒町で、8日午前9時55分撮影

  「おらんとこの味 手作り漬物 1袋300円」と書かれた表示=写真⑩=の手作り感が良く、赤かぶの漬物を買いました。

  

写真⑩:「おらんとこの味 手作り漬物 1袋300円」と書かれた表示

     =8日午前10時撮影

  「陣屋前朝市」前の道路を隔てた所に、「高札場跡」の石碑=写真⑪=が建っています。

 

写真⑪:「高札場跡」の石碑

     =8日午前10時20分撮影

 古い町並みの軒下に、青いランの花が楚々と咲いているのに魅かれます=写真⑫=。古里の福津市・〈津屋崎千軒〉の町歩きの観光客の方から「町家の軒先に、きれいな花が多いのが素敵」との感想をいただいていたのを思い浮かべました。

  

写真⑫:軒下に楚々と咲いた青いランの花

     =8日午前10時30分撮影

  「高山市政記念館」=写真⑬=は、明治28年から昭和43年まで町役場・市役所だった建物で、総檜造り。「高山市三町伝統的建造物群保存地区」内の南端にあり、一之町、二之町、三之町を見渡せる場所にあります。

  

写真⑬:明治28年から昭和43年まで町役場・市役所だった「高山市政記念館」

     =高山市神明町で、8日午前10時25分撮影

 宮川に架かる「中橋」のたもとにある小さな公園には、飛騨の匠・韓志和(からしわ)の「木鶴(もっかく)大明神像」=写真⑭=が建てられていました。そばにある解説碑文によると、彫刻の名手で、平安時代後期に自作の木鶴に乗り、唐土(中国)へ渡り、穆宗(ぼくそう)皇帝に入神の妙技を見せたといわれる伝説上の人物です。高山市政50周年にあたり、市の飛躍を象徴するものといて伝説を具象化し、同公園の記念碑としたという。

 

写真⑭:自作の木鶴に乗った飛騨の匠・韓志和の「木鶴大明神像」

    =8日午前10時20分撮影

  飛騨の匠にまつわる伝説を紹介したところで、〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉シリーズもピリオドを打ちます。

                                                                        (終わり)

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2012年10月17日/〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉007・飛騨古川

2012-10-17 04:39:20 | 〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉

 

写真①:コイが泳ぐ瀬戸川と「白壁土蔵街」

      =岐阜県飛騨市古川町壱之町で、2012年10月7日午後3時15分撮影

 

〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉7

 :飛騨古川

  10月7日午後、飛騨市古川町の歴史的な町並みを散策。戦国時代に豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨を統一、二代目可重が1589年に飛騨唯一の平城「増島城」を築き、城下町を作りました。約千匹のコイが泳ぐ瀬戸川と約5百㍍続く「白壁土蔵街」=写真①=が、町並みのシンボルです。

 瀬戸川は、約4百年前に「増島城」の濠の水を利用し、「瀬戸屋源兵衛」という人が世話人となって新田開発のため作られたことから、名付けられました。野菜も洗えるきれいな用水でしたが、日本経済の高度成長期のころ著しく汚れたため、美しい川に戻そうと1968年に住民の寄付でコイが放流されたという。色とりどりのコイが泳ぐ清流として市民に親しまれ=写真②=、農業・防火用水、流雪溝の役割も果たしています。

  

写真②:コイが泳ぐ清流として市民に親しまれている瀬戸川(右端)と路地

     =7日午後3時15分撮影

 古川には2軒の造り酒屋があり、建物はともに国の有形文化財に登録されています。このうち「渡辺酒造店」は、江戸時代中期の享保17年(1732年)に初代久右衛門が創業、明治3年(1870年)から銘酒「蓬莱(ほうらい)」造りを開始。玄関の軒先に懸けられた杉の葉を球状に束ねた「酒林(さかばやし)」=写真③=は、酒造場の看板です。毎年11月下旬、新酒の初搾りの日に新しい酒林に取り換えられます。

 

写真③:「酒林」が玄関の軒先に懸けられた「渡辺酒造店」

     =飛騨市古川町壱之町で、7日午後3時10分撮影

  「渡辺酒造店」正面玄関に、平成元年(1989年)建立の「杜氏酛摺(もとすり)り像」=写真④=があるのが目に付きました。〈杜氏殿の 心澄みゆき 魂きはる いのちの酛は 生れ初めけり〉と書かれた台座の書は 司馬遼太郎、像制作は飛騨市出身の彫刻家・中垣克久(新制作協会)。創業120年記念と、杜氏達のこれまでの労に感謝したいと、酒造りの象徴とも云うべき酛摺り(優良な酵母を集中的に育てる工程で、冷えた水を加えた米、麹を深夜、ひたすらすり潰す辛い作業)のブロンズ像を建てたという。

  

写真④:「渡辺酒造店」正面玄関に建つ「杜氏酛摺り像」

     =飛騨市古川町壱之町で、7日午後3時10分撮影

  飛騨の伝統的な家屋が軒を連ねる古川にも、袖卯建(うだつ)が上がった町家を見かけました=写真⑤=。古川の町家では、家の軒下の肘木に彫り付けてある各大工さん固有の紋様・「雲」が施されているのが特徴。昭和半ばに始まったといわれ、古川大工特有のものです。奈良時代、都の神社仏閣の造営で活躍した飛騨の大工は、その卓越した技能から〝飛騨の匠〟と称されています。「雲」が施されているのも、古川の大工の誇りを示すシンボルです。現在、この「雲」の文様、約170種類もあります。

 

写真⑤:軒下の肘木に彫り付けてある各大工さん固有の紋様・「雲」もある「卯建の上がった町家」

      =7日午後3時10分撮影

  飛騨市古川町の町並みには、すし店などが並ぶ3階建ての町家もけっこう建っていました=写真⑥=。

  

写真⑥:すし店などが並ぶ3階建ての町家

     =7日午後3時30分撮影

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2012年10月16日/〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉006・新穂高ロープウェイ

2012-10-16 06:47:50 | 〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉

 写真①:「新穂高ロープウェイ」の上り口になる「新穂高温泉駅」

       =岐阜県高山市奥飛騨温泉郷新穂高温泉で、2012年10月7日午後1時10分撮影

 

〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉6

 :新穂高ロープウェイ

  思いがけずに世界文化遺産・飛騨白川郷(岐阜県白川村)を見物できて気を良くした10月6日夜は、奥飛騨・新平湯温泉の「古宝館」に泊まり、温泉でくつろぎました。翌7日朝、中部山岳国立公園の「新穂高ロープウェイ」観光に出かけました。

  北アルプスを一望できる展望台へ通じる「新穂高ロープウェイ」は、まず第1ロープウェイ(高低差188㍍)に「新穂高温泉駅」から「鍋平高原駅」まで4分間乗ります=写真②=。

  

写真②:「新穂高温泉駅」へ下る第1ロープウェイのゴンドラ(向こう)到着を待つ観光客

     =7日午前10時25分撮影

 第1ロープウェイのゴンドラ(定員45人)のガラス越しに、急斜面の山肌を染める広葉樹の紅葉(黄葉)=写真③=が観賞できました。

 

写真③:第1ロープウェイのゴンドラのガラス越しに見る広葉樹の紅葉(黄葉)

      =7日午前11時15分撮影

  第1ロープウェイの次は、第2ロープウェイ(高低差845㍍)上り口の「しらかば平駅」まで2分歩き、同駅から日本唯一という2階建てのゴンドラ(定員121人)に乗って7分後に標高2,156㍍の「西穂高口駅」へ到着。第1、第2ロープウェイの往復乗車料は、2,800円でした。駅付近の気温は10度で、さすがに高山に来たな、と寒さを感じます。

  「西穂高口駅」でゴンドラを降り、同駅舎屋上にある展望台に立ちましたが、あいにく霧がたちこめていて、展望はできませんでした。北アルプスの峰々を描いた方位地図=写真④=を見て、霧の向こうにそびえる西穂高岳(標高2,909㍍)や槍ケ岳(同3,180㍍)などの連峰を想像しました。

 

写真④:「西穂高口駅」屋上の展望台にある北アルプスの方位地図

     =7日午後0時5分撮影

  展望台そばには遊歩道が整備されており、沿道にクマザサや水芭蕉が生えた高山の自然を歩いて楽しみました=写真⑤=。

  

写真⑤:遊歩道を散策するリュック姿の観光客たち

     =7日午前11時45分撮影

  7日夜の宿も、6日と同じく高山市奥飛騨温泉郷・新平湯温泉の旅館「古宝館」。6日の夕食=写真⑥=は、飛騨牛のとろける様な「しゃぶしゃぶ」や岩魚の塩焼きでしたが、7日の夕食は飛騨牛の朴葉ステーキでした。

 

写真⑥:飛騨牛の「しゃぶしゃぶ」の「古宝館・」夕食

     =6日午後6時30分撮影

  8日の朝食=写真⑦=には、温泉卵や朴葉味噌を焼いてご飯に付けていただきました。「古宝館」の水源は、奥飛騨の3億年前の化石の地層から湧き出るミネラル豊富な『奥飛騨・古代宝水』といい、ミネラル豊富で美肌効果が高く、『延命の水』として料理にも使い、宿泊客のお風呂上がりや朝起きた時の飲料水にペットボトルに入れて持ち帰っていただいているという。確かに美味しい水で、ボトルに入れて宿を出ました。

 

写真⑦:「古宝館」の朴葉味噌焼の朝食

     =8日午前7時30分撮影

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2012年10月15日/〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉005・世界文化遺産・飛騨白川郷

2012-10-15 06:50:06 | 〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉

 

写真①:岐阜県指定重要文化財・「明善寺庫裡」3階窓から見降ろした「飛騨白川郷」

     =岐阜県白川村荻町で、2012年10月6日午後2時30分撮影

 

〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉5

 :世界文化遺産・飛騨白川郷

  世界文化遺産・飛騨白川郷(岐阜県白川村)=写真①=を訪れたのは、10月6日午後2時すぎでした。県指定重要文化財・「明善寺庫裡」は、江戸末期に飛騨高山の棟梁大工と地方の棟梁大工らが3年がかりで完成させた5階建てで、白川郷最大の合掌造り建築。釘やカスガイを使わず、クサビとマンサクの若木、ワラナワでしめくくったうえ、茅葺きの切妻屋根は雪を落とすため60度近い急勾配なのが特徴です。

  先祖が加賀百万石前田家の御典医を勤めていた「長瀬家」の合掌造り(5階建て)=写真②=は、長瀬民之助・5代目当主が明治23年(1890年)に建築。白川郷の樹齢150~200年の桧や樹齢300~350年の栃、欅、桂などの巨木を使い、3年かけて白川郷民の〝結の心〟で完成したという。平成13年から80年ぶりに行われた大屋根の葺き替えは、NHKテレビが1年にわたって撮影、ドキュメント番組として放送されました。

 

写真②:「長瀬家」の合掌造り(5階建て)

     =6日午後2時50分撮影

 集落の独特の景観が評価されて昭和51年(1976年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、平成7年(1995年)には合掌造り集落として、富山県上平村菅沼、平村相倉(五箇山)の2集落とともにユネスコの世界文化遺産に登録された「荻町合掌造り集落」は、大勢の観光客が散策を楽しんでいます=写真③=。

 

写真③:「荻町合掌造り集落」の散策を楽しむ観光客たち

     =6日午後2時50分撮影

  白川郷「おみやげ処」=写真④=では、飛騨の民芸品やお菓子を求める観光客の姿で賑わっていました。人口約2千人の山村に、年間150万人もの観光客が詰めかける世界文化遺産村の一端です。

  

写真④:白川郷のお菓子や民芸品を売る「おみやげ処」

     =6日午後2時50分撮影

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2012年10月14日/〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉004・和紙と卯建の町・美濃市

2012-10-14 08:49:08 | 〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉

 

写真①:屋根に卯建が上がる町家が続く古風な町並み

     =岐阜県美濃市で、2012年10月6日午前10時20分撮影

 

〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉4

 :和紙と卯建の町・美濃市

  〈尾張・美濃・飛騨〉旅行3日目の10月6日は、岐阜県美濃市を訪れました。「和紙と卯建(うだつ)のまち・美濃市」を代表する「国選定重要伝統的建造物群保存地区」の卯建の上がる町並み=写真①=を散策するのが、この旅の楽しみの一つでした。

  美濃市の町並みには、家々の屋根の両端、妻に立ち上がっている卯建の残る町家が、19棟あります。6棟ある福津市・〈津屋崎千軒〉の町並みの3倍以上で、〝卯建のまち〟の本場といえるでしょう。

  美濃市の造り酒屋・「小坂家住宅」(国指定重要文化財)の母屋や酒蔵は、江戸期の築造で、屋根面がふくらんだ「むくり屋根」が珍しく、鬼瓦のない古風な飾りの卯建が立っているのが特徴=写真②=。棟にある小ぶりの煙出しも、卯建風に作られています。軒下には、割り竹を円弧状に曲げた「犬矢来(いぬやらい)」が設けられ、京都の町家を連想しました。

 

写真②:珍しい「むくり屋根」で、鬼瓦のない古風な飾りの卯建が立つ「小坂家住宅」

     =6日午前9時35分撮影

  「小坂家住宅」に入ると、江戸から続く造り酒屋の名酒=写真③=展示されており、「百春(ひゃくしゅん)」を購入。飲んだら、フルーティーで美味しい酒でした。

  

写真③:「小坂住宅」の名酒

     =6日午前9時40分撮影

 住宅内の見学もさせてもらったら、土間の台所に昔懐かしい竈=写真④=がありました。

 

写真④:「小坂住宅」に残る昔懐かしい竈

      =6日午前9時40分撮影

  次に訪ねたのは、和紙の原料商として栄えた旧「今井家住宅」・美濃史料館(入館料3百円)=写真⑤=。江戸中期の建物で、鬼瓦が小さく、シンプルな卯建や野太い格子など古風な町家です。長良川の中流域にある美濃の町は、良質の原料と清流の恩恵を受けた美濃和紙によって繁栄しました。

  

写真⑤:豪壮な和紙問屋として栄えた旧「今井家住宅」・美濃史料館

     =美濃市泉町で、6日午前9時55分撮影

 江戸末期には庄屋だったという旧「今井家住宅」の中庭には、江戸時代の文政年間に考案されたという「水琴窟」=写真⑥=が設けられており、ひしゃくで水を流すと涼やかな音があたりに響きました。

 

写真⑥:旧「今井家住宅」の中庭に設けられた「水琴窟」

     =6日午前10時撮影

  敷地奥にある「にわか蔵」には、街角を舞台に風刺劇を繰り広げる郷土芸能「美濃流し仁輪加(にわか)」の実演を人形で再現しています=写真⑦=。「博多にわか」と同じように、とんちを利かして美濃弁で世相を風刺する演芸が、本州の美濃にも残っているとは面白いですね。

 

写真⑦:人形で再現した「美濃流し仁輪加」の実演風景

     =6日午前10時15分撮影

  和紙の製造工程をミニチュアの家屋や人形で展示した「紙漉(す)く家」のコーナー=写真⑧=には、和紙の原料・楮(こうぞ)=写真⑨=もありました。

 

写真⑧:「紙漉く家」の展示コーナー        写真⑨:和紙の原料・楮

     =6日午前10時15分撮影

 「大石家住宅」の1階屋根には、「屋敷神様」を祀る木箱(防火の神棚)が置かれていました=写真⑩=。

写真⑩:「大石家住宅」1階の屋根に置かれた「屋敷神様」の木箱(防火の神棚)

     =6日午前10時20分撮影

  通りには、乗用車が格子戸の中に収められている町家=写真⑪=も見られ、統一された町並みの美観を損なわない気遣いがうかがわれ、感心しました。

  

写真⑪:格子戸の中に乗用車を収めた車庫

     =6日午前10時20分撮影

 おやおや、「十六銀行美濃支店」=写真⑫=までが町家風の建物です。

 

写真⑫:町家風イメージの「十六銀行美濃支店」

     =6日午前10時25分撮影

  町家の軒下には「馬つなぎ石」=写真⑬=も残され、馬で人や物を運んだ江戸時代から明治にかけての生活ぶりが目に浮かびました。

 

写真⑬:軒下に残る「馬つなぎ石」

     =6日午前10時35分撮影

 菓子店でお土産に買った煎餅には、卯建の町・美濃らしく、「うだつくん」の焼き印が付いています=写真⑭=

 

写真⑭:「うだつくん」の焼き印が付いた煎餅

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2012年10月13日/〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉003・奥の細道むすびの地

2012-10-13 04:43:15 | 〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉

 

写真①:芭蕉と大垣の関わりが詳しく分かる「奥の細道むすびの地記念館」

     =岐阜県大垣市船町2丁目で、2012年10月5日午後1時15分撮影

 

〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉3

 :奥の細道むすびの地

  「奥の細道」むすびの地――。俳聖松尾芭蕉が江戸時代初期の元禄2年(1689年)3月、江戸・深川から奥州・北陸の名所、旧跡を巡り、同15年(1702年)に俳諧紀行「奥の細道」を世に出したことは知っていましたが、この旅の終焉地が岐阜県垣市ということは市発行の「市街地散策マップ」を見るまで失念していました。

 私は今回の〈尾張・美濃・飛騨〉旅行で10月5日午後、大垣市船町2丁目の市立「奥の細道むすびの地記念館」=写真①=を訪問。「奥の細道」を旅路ごとに区切り、関連資料や映像を紹介する常設展示室がある「芭蕉館」を見学し、芭蕉と大垣の関わりを詳しく学べました。

 芭蕉は元禄2年9月、約5か月の「奥の細道」の旅を大垣で終え、〈蛤のふたみに別行秋そ〉と詠んで、水門川の船町港から舟で桑名へ下りました。

 旅姿の芭蕉=写真②=が初めて大垣を訪れたのは貞享元年(1684年)、「野ざらし紀行」の旅の途中。ともに京都の北村季吟の門下生だった俳友・谷木因を訪ねるためでした。その後も含め、つごう4回にわたる芭蕉の大垣訪問は、大垣十万石の城主戸田公の文教奨励もあって藩士らを中心に盛んだった大垣俳壇に新風を吹き込み、「蕉風」俳諧が美濃一円に広がり、美濃俳諧としての基礎が固まったという。

写真②:顔枠に自分の顔を入れて旅姿の芭蕉風に記念撮影できる看板

     =「奥の細道むすびの地記念館」入口で、5日午後1時15分撮影

 大垣市は、「奥の細道」むすびの地として、また中山道と東海道を結ぶ美濃路大垣宿の宿場町としての歴史・文化の蓄積を感じさせる建造物など、残したい景観を有する建造物を市景観遺産に指定、保全・管理に努めるなど、歴史的な遺産を大切に守りながら、近代的な文化の香り高いまちづくりに取り組んでいます。わが福津市も、〈津屋崎千軒〉を核にして、文化の香り高いまちづくりを目指してほしいと強く共感を覚えました。

 「奥の細道むすびの地記念館」のフロアに、袖に「芭蕉元禄の街 大垣」のキャッチコピー入りの法被をはおり、芭蕉をイメージした頭巾姿の〝大垣市マスコットキャラクター・「おがっきい」〟が乗った「おおがきたらい舟」=写真③=が置かれているのが目に付きました。関ケ原合戦の折、たらいに乗って戦火を逃れたという伝説に基づく、全国的にも珍しい「たらい舟」で、水門川の観光川下りに使われるという。福岡県の水郷・柳川の川下りの〝どんこ舟〟と違って、数人しか乗れそうにない丸い「たらい舟」もスリリングで楽しめるのではと思いました。

  

写真③:〝大垣市マスコットキャラクター〟が乗った「おおがきたらい舟」

     =「奥の細道むすびの地記念館」で、5日午後1時20分撮影

  大垣市は地下水が豊富で、おいしい水に恵まれ、〝水の都・おおがき〟と呼ばれています。深さ150㍍から水温14度の地下水が湧き出る自噴井を活用、広場を整備した「名水大手いこ井の泉」(同市郭町2丁目)=写真④=では、ボトルに水を汲み入れる市民の姿も見られました。ひしゃくで一口飲んでみると、まろやかな水でした。

  

写真④:深さ150㍍から地下水が湧き出る「名水大手いこ井の泉」

     =大垣市郭町2丁目で、5日午後2時40分撮影

  大垣市墨俣町墨俣にある豊臣秀吉出世の地・「すのまた城」=写真⑤=にも立ち寄りました。織田信長の美濃攻めに際し、木下藤吉郎が永禄9年(1566年)、一夜で築いたと伝えられる一夜城にちなみ、同市がその跡地に当時の砦のような城ではなく、城郭天守を備えた(豪華すぎる)六階建てコンクリート製の「墨俣一夜城歴史資料館」として建設、周辺は「一夜城址公園」として整備されています。

  

写真⑤:豊臣秀吉出世の地・「すのまた城」(歴史資料館)

     =大垣市墨俣町墨俣で、5日午後4時5分撮影

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2012年10月12日/〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉002・大垣城

2012-10-12 10:30:38 | 〈尾張・美濃・飛騨・町歩き〉

 

写真①:城下町大垣のシンボル・「大垣城」

      =岐阜県大垣市郭町2丁目で、2012年10月5日午後2時45分撮影

 

〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉2

 :大垣城

 

 岐阜県内の息子宅に泊まり、一夜明けた10月5日、同県大垣市郭町2丁目にある「大垣城」=写真①=を訪れました。

 室町時代の天文4年(1535年)、宮川吉左衛門尉安定が築城したとされ、水門川の流れを外堀に利用しています。江戸時代初期・慶長5年(1600年)の「関ケ原の戦い」の折、西軍石田光成の本拠地になったことで知られています。寛永12年(1635年)、摂津国尼崎から美濃国大垣に移封された戸田左門氏鉄が入城、以降11代にわたる善政が続いたという。10万石を封与された戸田氏鉄は、新田の開発や治山治水事業、文教の振興などに尽くし、藩政の基礎を築きました。

  「大垣城」(入場料百円)の天守閣には、「時の太鼓」=写真②=が設置されています。江戸時代、大垣の「時の太鼓」は、俵町柳口門外にあり、毎日城下に時刻を知らせていました。大垣の古謡に〈お天気よければ大垣様の太鼓の音の好さ〉〈明日はお天気、大垣様の時の太鼓の音の好さ〉と唄われ、領民に親しまれていたという。きょうはお天気もいいし、ならば試しに私もと、「ドド-ン」と太鼓を叩きましたら、あまりの〈音の好さ〉に気を良くし、再び「ドド-ン」と太鼓を打ち鳴らしたほどでした。

 

写真②:天守閣に設けられている「時の太鼓」

     =「大垣城」で、5日午後2時50分撮影

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