吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2016年4月25日/〈東京・町歩き〉020・町田フットパス視察

2016-04-25 06:27:26 | 東京・町歩き

 

写真①:「小野路宿里山交流館」の長屋門

     =東京都町田市小野路町で、2016年4月11日午後0時45分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 20 

:町田フットパス視察

  東京滞在3日目の4月11日は、東京都町田市のフットパスを視察しようと、地下鉄や京王線の電車、神奈川中央交通の路線バスを乗り継ぎ、同市小野路町の「別所」バス停で昼過ぎに下車。目の前のバス通り「鎌倉街道」を横断、「セブンイレブン町田鎌倉街道別所店」横の舗装道路を歩き、「小野路宿里山交流館」に着きました。「小野路宿里山交流館」は、町田市が江戸時代に宿場町として賑わった「小野路宿」の旅籠・「角屋(かどや)」を改修、観光拠点として整備して平成25年にオープンした施設。昭和4年ごろ建設された長屋門=写真①=は、「角屋」時代と同じ場所にあります。

  「小野路宿里山交流館」で町歩きマップをもらい、すぐ横にある「小野神社」=写真②=に参拝。境内にある「小野神社の由来」掲示文には〈小野路は鎌倉みちの宿駅として鎌倉と武蔵野の国府の置かれた府中に通づる要衝の地にある。宿の入り口にある小野神社は、小野篁(たかむら)の七代の孫小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(九七二)頃赴任し、小野路のこの地に小野篁の霊を祀ったことに由来する。小野篁は、平安時代前期の人で和漢に優れた学者で、学問の神様であり、菅原道真の先輩にあたる。篁の孫小野道風は、平安時代を代表する書家で三蹟として有名である〉と解説されています。

 小野篁を祭神とし、三蹟の小野道風ゆかりの神社に飛び込み参拝した偶然に感動し、学問の至らなさと筆跡麗しからずを恥じつつ拝殿に柏手を打ちました。

  

写真②:参道石段を上がると狛犬が見守る「小野神社」拝殿

  参拝を終え、「小野路宿里山交流館」前の鎌倉街道へ。新撰組の資料を公開している「小島記念館」=写真③=は休館日で、入館できませんでした。かつて「小島記念館」には道場があり、近藤勇や土方歳三らが稽古に励んだという。

 
写真③:新撰組の資料を公開している「小島記念館」

  さらに歩き、「小野路宿」の町並み中央にある「中宿」バス停を過ぎて、町田市が建てたフットパスの標識・「関屋の切り通し」=写真④=のある地点から右折して「布田道(ふだみち)」へ入ります。

  

写真④:「小野路宿」の町並みから「関屋の切り通し」への入り口に建つフットパスの標識

  「関屋の切り通し」のフットパス標識から狭い坂道を歩いて8分後、小道の分岐点の突き当たりにある「石久保地蔵尊」=写真⑤=の前に到着。

 

写真⑤:小道の分岐点の突き当たりにひっそりと建つ「石久保地蔵尊」の祠

 「石久保地蔵尊」の祠から、右の小道へ入ると、右側に『まちだフットパスガイドマップ1・2』を出版している町田市のNPO法人「みどりのゆび」の古びた案内標識=写真⑥=がありました。〈此道は布田道にて、幕末に近藤勇らが通いし道に御座候 是より関屋を経て二町程にて小野路宿に着き申し候〉と書かれています。

 

写真⑥:町田市のNPO法人「みどりのゆび」の古びた案内標識

 「みどりのゆび」の案内標識から右に上る山道が、〈近藤勇らが通いし道〉と思って行くと、両側が竹林の狭い道にさしかかりました=写真⑦=。

 

写真⑦:両側を竹林に囲まれた狭い道

 竹林の狭い道から「「関屋の切り通し」とやらに行きたかったのですが、途中の分かれ道に案内標識がなく、どうやら道に迷ったらしく、右へ右へと行けば、小野路宿へ戻れると決断。狭い階段の小道=写真⑧=を降りたら、「小野路宿」の町並みにたどり着けました。

 

写真⑧:竹林の狭い道から下る狭い階段の小道(手前が「小野路宿」の町並み)

 このあと、「小野路宿」の町並みからバス停のある「別所」まで来た道を引き返し、「小野路宿」散策コースにある大犬久保(おいなくぼ)の眺望ポイントを見に坂道を上りました。道の山側にある「ムクロジの大木」=写真⑨=前に到着、道の上に羽根つきのつくばねに用いる黒い実が2つ落ちており、記念に拾って持ち帰りました。福津市の「宮地嶽神社」参道石段最上部脇にあるムクロジの古木の下にも、この黒い実が落ちているか、気になりました。

 

写真⑨:散策コースの山側にある「ムクロジの大木」

 「ムクロジの大木」から百㍍ほど進み、振り返って見ると〈畑と丘陵の緑が波を打って広がる美しい眺望〉スポットのようでした=写真⑩=。

 

写真⑩:畑と丘陵の緑が波を打って広がる大犬久保の田園

 このあと、「別所」へ引きかえす途中、大犬久保の「谷戸」(やと)の景観=写真⑪=を撮影。「谷戸」は、小さな丘陵や、丘陵と丘陵の間から流れる湧水によって開かれた地域のことで、「谷戸」がいくつも折り重なって多摩丘陵の潤いのある景観を形成しています。

 

写真⑪:多摩丘陵の潤いのある景観の一つ・大犬久保の「谷戸」

                       (このシリーズを終わります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年4月23日/〈東京・町歩き〉019・喜多院

2016-04-23 04:17:14 | 東京・町歩き

 

写真①:〈川越大師〉として信仰を集める「喜多院」の本堂(慈恵堂)

     =埼玉県川越市小仙波町で、2016年4月10日午後2時25分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 19 

:喜多院

  埼玉県川越市郭町の「川越城本丸御殿」を訪れた4月10日午後、次に〈川越大師〉として信仰を集めている同市小仙波町の「喜多院」=写真①=に参拝しました。もとは平安時代の天長7年(830年)、淳和(じゅんな)天皇の勅(みことのり)により慈覚大師円仁が創建した勅願所で、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天などを祀り、無量寿寺と名付けられた天台宗の寺院です。

  鎌倉時代の元久2年(1205年)、兵火で無量寿寺の建物が炎上後、永仁4年(1296年)に伏見天皇が尊海僧正に再興させた際に慈恵大師(元三大師)をお祀りし、関東天台の中心となりました。その後、室町時代の天門6年(1537年)に兵火で炎上しましたが、江戸時代初期の慶長16年(1611年)に徳川家康公が第27世住職・天海僧正(慈眼大師=1536~1643)=写真②=の意見により酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改めたという。

 

写真②:「喜多院」境内にある天海大僧正の銅像

  寛永15年(1638年)の川越大火で、現存の山門(寛永9年建立)を除き喜多院の建物はすべて焼失。このため、3代将軍徳川家光公が、江戸城紅葉山(もみじやま=皇居)の別殿を移築して、客殿、書院などに充てました。「家光公誕生の間」や「春日局化粧の間」などが移築された客殿、書院が、国指定重要文化財として保存公開されているのはこのためです。客殿、書院へ通じる庫裏・寺務所の玄関=写真③=から入り、「家光公誕生の間」を見学しましたが、撮影禁止で写真をお見せできないのが残念です。

 
写真③:客殿、書院へ通じる庫裏・寺務所の玄関

  このほか、「慈恵堂」(埼玉県指定文化財)、釈迦・多宝如来の二仏を祀る仏塔の「多宝塔」(同)=写真④=、「鐘楼門」(国指定重要文化財)など現存の建物を数年間で再建、現在まで文化財として大切に守られているという。

 

写真④:埼玉県指定文化財の仏塔・「多宝塔」

  境内には、「五百羅漢」(川越市指定文化財)=写真⑤=も祀られています。釈迦の弟子の高僧ら悟りを開いた533尊者の石像が鎮座しており、江戸時代中期の天明2年(1782年)から江戸後期・文政8年(1825年)まで約50年間にわたって建立されました。

 

写真⑤:533尊者が鎮座する「五百羅漢」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年4月22日/〈東京・町歩き〉018・川越城本丸御殿

2016-04-22 05:20:05 | 東京・町歩き

 

写真①:巨大な唐破風風屋根と間口3間の広い開口部を誇る「川越城本丸御殿」

     =埼玉県川越市郭町で、2016年4月10日午後1時50分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 18 

:川越城本丸御殿

  4月10日午前、埼玉県川越市中央通の〝小江戸・川越〟の町並み散策後、同市幸町にある明治創業の手打ち茶そばの名店・「寿庵」でかもなん抹茶そばで軽く昼食。午後は同市郭町にある「川越城本丸御殿」=写真①=を訪れました。東日本唯一の本丸御殿遺構で県指定有形文化財です。玄関は巨大な唐破風風屋根に間口3間の広い開口部と、8寸角の太い柱が石高17万石の大名御殿にふさわしい威容を誇っています。

 川越城は室町時代の長禄元年(1457年)、扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝(もちとも)が家臣の太田道真、道灌父子らに命じて築かせ、徳川家康が江戸城に入った後は有力大名が配置されました。本丸御殿は江戸後期・嘉永元年(1848年)に造営、城主の住まいや家臣が常駐する部屋などが設けられていましたが、明治維新後に多くの建物が解体、移築され、今は玄関や、城主のお出ましまで来客が待機する36畳の「大広間」=写真②=、家老詰所などが残っているだけ。

 
写真②:欄間や襖絵の意匠が座敷を引き立たせる「大広間」

  「大広間」の隣には、15畳の「使者の間」=写真③=が配置されています。

 

写真③:15畳の「使者の間」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年4月21日/〈東京・町歩き〉017・小江戸・川越

2016-04-21 16:17:42 | 東京・町歩き

 

写真①:江戸の風情が漂う〝小江戸・川越〟の町並み

     =埼玉県川越市中央通で、2016年4月10日午前11時30分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 17 

:小江戸・川越

  4月10日、東京の娘宅から娘婿の運転する車で首都高速道路を走り、埼玉県川越市中央通の〝小江戸・川越〟の町並み=写真①=を散策しました。

  明治26年(1893年)の川越大火で、焼け残った建物が伝統的な蔵造りだったことから、蔵造り建築の店舗・「店蔵」が「江戸黒(えどぐろ)」と呼ばれる江戸の町並みを模した黒漆喰仕上げの壁で建てられたという。この「店蔵」造りの重厚な建物=写真②=30数軒が連なる町並みは、平成11年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。

 


写真②:重厚な「店蔵」が中央通に軒を連ねる国選定「重要伝統的建造物群保存地区」

  川越大火の際にも焼け残り、川越最古の蔵造りという「大沢家住宅」(重要文化財)=写真③=は寛政4年(1792年)、呉服太物を商う豪商・「近江屋」の西村半右衛門が建てた二階建てです。

 

写真③:川越最古の蔵造りの「大沢家住宅」

 明治26年(1893年)に煙草卸商・小山文造が建てた蔵造りの町家だった「蔵造り資料館」(市指定文化財)=写真④=では、蔵造りの構造や意匠を見学できます。

 

写真④:煙草卸商が明治26年に建てた蔵造りの「蔵造り資料館」

 館内の展示室には、江戸の大火と街づくりの解説パネル=写真⑤=もありました。

 

写真⑤:江戸の大火と街づくりの解説パネル

 「蔵造り資料館」近くの中央通から入った横道にあり、川越の象徴として知られる鐘楼・「時の鐘」(市指定文化財)=写真⑥=を聞こうと訪ねましたが、耐震化工事中で1日4回(6時、正午、15時、18時)を告げる鐘の音は聞けず、残念でした。江戸時代初期の寛永年間に川越藩主・酒井忠勝が建築、明治時代の川越大火の直後に再建されたといい、記念写真を撮る観光客らの人気を集めています。

 

写真⑥:川越のシンボル・「時の鐘」を撮影する人たち

 「時の鐘」から歩いて中央通に戻り、青緑色の塔屋が印象的な「埼玉りそな銀行川越支店」=写真⑦=が、目にとまりました。大正7年(1918年)に保岡勝也の設計で第八十五銀行の本店として、ネオ・ルネサンス様式で建てられ、国登録有形文化財です。

 

写真⑦:ネオ・ルネサンス様式の洋風建築の「埼玉りそな銀行川越支店」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年4月20日/〈東京・町歩き〉016・多摩動物公園昆虫園

2016-04-20 06:10:34 | 東京・町歩き

 

写真①:「多摩動物公園」の入り口

      =東京都日野市で、2016年4月9日午後2時20分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 16 

:多摩動物公園昆虫園

  東京都日野市にある「多摩動物公園」=写真①=を4月9日、初めて訪れました。東京の娘宅に遊びに行った機会に、〝海を渡る蝶〟アサギマダラ(タテハチョウ科マダラチョウ亜科)を飼育しているという「昆虫園」を見学するのが目的でした。

  「昆虫園」は、「多摩動物公園」入り口から坂道の園路を右に上った丘陵地にあり、「昆虫生態園大温室」=写真②=に蝶が放し飼いにされています。案内板には、3月に同大温室に放した蝶は1,114匹と表示されており、幼虫が食べる植物も育てているという。


写真②:蝶が放し飼いにされている「昆虫生態園大温室」

 「昆虫生態園大温室」の通路沿いにマダラチョウの仲間を写真入りで解説したパネル=写真③=が掲示され、日本全土に分布するアサギマダラと奄美大島以南に分布のリュウキュウアサギマダラが並んで紹介されていました。

 

写真③:アサギマダラとリュウキュウアサギマダラの解説パネル

 「昆虫生態園大温室」内には、日本の蝶では最大級で、沖縄本島以南に分布する白い翅に黒いまだら模様が特徴のオオゴマダラ(タテハチョウ科)=写真④=をはじめ色とりどりの蝶が飛び交い、両親と訪れた女の子が花の蜜を吸う蝶を見て歓声をあげています。

 

写真④:白い翅を開いたオオゴマダラ

 「昆虫生態園大温室」と別棟の「昆虫園本館」には、「昆虫の渡り」を解説したパネルが展示され、台湾で放たれたアサギマダラが日本で捕獲された事例が地図付きで紹介されていました=写真⑤=。

  

写真⑤:台湾で放たれ日本で捕獲されたアサギマダラを紹介したパネル

  「多摩動物公園」の話では、アサギマダラの越冬幼虫は飼育していないそうで、蛹になって羽化する過程を聞きたかっただけに残念でした。この日は時間がなく1時間余りの園内見学でしたが、土曜日の午後とあって園内では食事を楽しむ家族連れ=写真⑥=で賑わっており、今度訪れる時は家族で「昆虫生態園」以外の「アジア園」や「オーストラリア園」の鳥類と動物の観察も楽しみたいと思いました。

  

写真⑥:園内では食事を楽しむ家族連れ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2013年2月2日/〈東京・町歩き〉015・伊能忠敬記念館

2013-02-02 09:03:45 | 東京・町歩き

 

写真①:「佐原公園」内に建つ「伊能忠敬銅像」

      =千葉県香取市佐原で、2013年1月17日午前11時撮影


〈東京・町歩きスポット〉 15 

:伊能忠敬記念館

 千葉県香取市佐原の「佐原公園」にある「伊能忠敬銅像」=写真①=をカメラに収めるのも、〝北総の小江戸・佐原〟訪問の目的の一つでした。大正8年、当時の佐原町有志により測量中の姿で建てられた銅像で、作者は日本の洋風彫刻の先駆者として活躍した大熊氏広。

 日本で初めて実測による全国地図を作った伊能忠敬は、江戸後期の延享2年(1745年)、上総国小関村(九十九里町)で誕生。17歳の時、下総国佐原村にあった米の売買や酒造りを営む大きな商家・伊能家の婿養子になりました。香取市佐原の小野川のほとりに建てられている「伊能忠敬記念館」(入館料5百円)=写真②=には、49歳で隠居した忠敬が江戸に出て天文歴学を学び、55歳から10回に分けて全国を測量した足跡や測量機器、作成した地図などの資料が展示されていました。


写真②:全国を測量した足跡や作成した地図などの資料を展示している「伊能忠敬記念館」

 町並みの東西の幹線道路・香取街道を散策していると、小野川に架かる「忠敬橋」=写真③=の欄干には、恒星の高さを測る機器・「象限儀(しょうげんぎ)」のオブジェがありました。

 

写真③:恒星の高さを測る機器・「象限儀」のオブジェがある「忠敬橋」

 「伊能忠敬記念館」前の小野川にある〝水の郷さわら〟を巡る「小江戸さわら舟めぐり乗り場」では、乗船客を待つ2艘の川舟が係留されています=写真④=。

 この川舟の右手にある「伊能忠敬旧宅」(国指定史跡)は、3月まで災害復旧工事中で入場できませんでした。酒造業を営んでいた江戸時代の店舗の一部や、表門、土蔵を見られず、残念です。

 

写真④:「小江戸さわら舟めぐり乗り場」で乗船客を待つ川舟

 土産に「伊能忠敬記念館」近くの店で、北総の小江戸佐原銘菓・「伊能忠敬まんじゅう」=写真⑤=を購入。佐原にある江戸時代後期・文化4年(1807年)創業の鮮魚割烹「宮定(みやさだ)」伝統の味として、忠敬の稼業である造り酒屋にちなみ、大吟醸酒粕を使用し、上品なこしあんの酒まんじゅうという。

  

写真⑤:北総の小江戸佐原銘菓「伊能忠敬まんじゅう」の包装紙

  「伊能忠敬まんじゅう」の包装紙を開けると、白い酒まんじゅうが6個入っていました=写真⑥=。

 

写真⑥:6個の白い酒まんじゅう

  JR「佐原駅」へ戻る道の近くにあった「割烹長谷川」=写真⑦=で、昼食。佐原名物のうなぎ料理を美味しくいただきながら、忠敬ゆかりの地を訪ねた今回の東京旅行はいろいろと楽しめて良かったと感じました。

 

写真⑦:うなぎ料理が美味しい「割烹長谷川」

                       (このシリーズを終わります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2013年2月1日/〈東京・町歩き〉014・北総の小江戸・水郷佐原

2013-02-01 03:42:10 | 東京・町歩き

 

写真①:〝小江戸佐原〟の地にふさわしい風情が漂うJR「佐原駅」

     =千葉県香取市佐原で、2013年1月17日午後0時45分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 14 

:北総の小江戸・水郷佐原

 千葉県香取市佐原の町並みを訪れたのは、1月17日の朝でした。JR成田線「佐原駅」=写真①=は、〝北総の小江戸・水郷佐原〟と呼ばれる地にふさわしい風情ある造りでした。何の変哲もない福津市のJR「福間駅」も、こんな味わいが欲しいものですね。

 駅前から町並みを歩き、江戸時代初期・天和(てんな)年間(1681~83年)創業の「馬場本店酒造」の白壁や煙突が目に付きました=写真②=。酒・醤油・味噌など醸造業が盛んな土地柄らしい建物です。


写真②:天和年間創業の「馬場本店酒造」の白壁や煙突

 大河利根川の舟運の拠点で栄えた商都佐原は、市街地を流れる利根川の支流・小野川=写真③=と、町並みの東西の幹線道路・「香取街道」沿いに、江戸時代から昭和初期までの町家や土蔵、洋館などが数多く残っています。その歴史的な町並みは平成8年、国の重要伝統的建造物群保存地区に関東地区で初めて選定されています。

 

写真③:商都佐原の市街地を流れる小野川

 「香取街道」に大正3年にルネサンス建築様式で建てられた旧川崎銀行の赤レンガの建物は、その後は三菱銀行として平成元年まで使用されたあと、香取市に寄贈され、「三菱館」=写真④=として町並みのランドマークになっています。

 

写真④:町並みのランドマークになっている赤レンガの「三菱館」(左は「佐原町並み交流館」)

 軒を連ねた2階建て町家では、レコード店やぜんざい屋さんが営業中でした=写真⑤=。

 

写真⑤:軒を連ねた2階建て町家ではレコード店やぜんざい屋さんが営業中

 土蔵造りの「床屋」さん=写真⑥=も、町並みに合わせた感じです。

 

写真⑥:土蔵造りの「床屋」さん

 格子と板壁の町家で製油業を営む「油茂(あぶも)」写真⑦=で、ラー油を買いました。江戸初期創業で、2階建ての建物は明治25年(1892年)建築という。

 

写真⑦:格子と板壁の町家でラー油を販売している「油茂」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2013年1月31日/〈東京・町歩き〉013・東京スカイツリー

2013-01-31 02:29:50 | 東京・町歩き

写真①:そばに立つと見上げる大きさの「東京スカイツリー」

     =東京都墨田区押上1丁目1-2で、2013年1月16日午後4時20分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 13 

:東京スカイツリー

 1月16日の最後の観光スポット・「東京スカイツリー」(墨田区押上1丁目)=写真①=に着いたのは、午後4時すぎでした。世界一の高さ634㍍というこの自立式電波塔は、2011年11月、ギネス世界記録に「世界一高いタワー」として認定されています。そばに立つと、さすがに見上げる大きさです。

 平日のせいか待ち時間約15分で、高さ350㍍にある「展望デッキ」の当日入場券(2千円)を購入。超高速のエレベーターで急上昇しましたが、音もなくの乗り心地は快適でした。360度の眺望が楽しめる「展望デッキ」に着くと、多くの観光客がガラス越しに〝高見の見物〟をしていました=写真②=。


写真②:ガラス越しに〝高見の見物〟を楽しむ観光客


 眼下に「隅田川」やビル群が小さく見え、まさに絶景です=写真③=。残念ながら曇天で、期待していた富士山は見ることができませんでした。

 

写真③:高さ350㍍の「展望デッキ」から見下ろした「隅田川」やビル群

 耐熱強化仕上げの「ガラス床」の上に乗り、真下に広がる眺めは=写真④=スリリングです。「展望デッキ」からさらに上の「展望回廊」(高さ445㍍)の当日入場券売場もありましたが、「展望デッキ」からの眺望で十分満足できたので、さらなる高みは目指しませんでした。

 

写真④:耐熱強化仕上げの「ガラス床」の真下に広がる迫力ある眺め

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2013年1月30日/〈東京・町歩き〉012・富岡八幡宮

2013-01-30 04:06:56 | 東京・町歩き

 

写真①:応神天皇らを祀る「富岡八幡宮」本殿

     =東京都江東区富岡1丁目20-3で、2013年1月16日午後2時15分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 12 

:富岡八幡宮

 江東区富岡1丁目の「深川不不動尊」にお参りした1月16日午後、お次はすぐ隣の「富岡八幡宮」=写真①=へ。江戸時代初期の寛永4年(1627年)創建で、ご祭神は応神天皇ほか8柱です。

 石畳の参道には、「江戸最大の八幡さま(深川八幡宮)」と書かれた横断幕が掲げられていました=写真②=。


写真②:「江戸最大の八幡さま(深川八幡宮)」の横断幕が掲げられた参道


  「富岡八幡宮」は、江戸初期の貞享元年(1684年)、幕府から春と秋の2場所の勧進相撲が許され、以後約百年間も境内で本場所が開催され、江戸勧進相撲発祥の地として有名です。本殿わきの境内に明治33年、第12代横綱陣幕久五郎がを発起人にして、初代明石志賀之助から歴代横綱の四股名を石碑に刻んで顕彰する「横綱力士碑」(高さ3.5㍍、幅3㍍、重さ20㌧)が建てられています=写真③=。

 

写真③:歴代横綱を顕彰する堂々たる「横綱力士碑」

 石碑には、柏鵬時代を築いた柏戸剛、大鵬幸喜両横綱の四股名も刻まれていました=写真④=。新横綱誕生の際には、相撲協会の立ち会いで刻名式が行われ、新横綱の土俵入りが境内で奉納されるという。

 

写真④:柏戸剛、大鵬幸喜両横綱の四股名も刻まれている石碑

 最後に、正面参道の永代通り入口の「富岡八幡宮」大鳥居そばにある「伊能忠敬銅像」=写真⑤=を見ました。江戸時代後期の測量家・忠敬は深川黒江町(現門前仲町1丁目)に住み、全国各地へ測量旅行に出る際には同八幡宮に参拝し、成功を祈念していました。

 銅像は、寛政12年(1800年)の蝦夷地(北海道)測量開始から2百年が経過したのを機に、平成13年(2001年)に建立。黒御影石に刻まれた伊能日本図を後にして、忠敬が杖の先に磁石で方位を測る「杖先方位盤」を手に、力強く測量の旅へ足を踏み出す姿が彫刻されています。当時67歳だった文化9年(1812年)、忠敬が九州測量の旅で私の古里・津屋崎を訪れた際も、「富岡八幡宮」に参拝したのだなと思うと、歴史上の人物である偉大な忠敬翁が身近に感じられました。

 

写真⑤:黒御影石に刻まれた伊能日本図を後に測量の旅の第一歩を踏み出す「伊能忠敬銅像」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2013年1月29日/〈東京・町歩き〉011・深川不動尊

2013-01-29 05:25:55 | 東京・町歩き

写真①:「深川不動堂(不動尊)」の旧本堂

     =東京都江東区富岡1丁目17-13で、2013年1月16日午後1時55分撮影


〈東京・町歩きスポット〉 11 

:深川不動尊

  1月16日午後、江東区清澄3丁目の「清澄庭園」を散策後、同区富岡1丁目にある「深川不動堂」にお参りしました。千葉県にある真言宗成田山新勝寺の別院。成田まで出向かなくてもご本尊の不動明王を拝めると、江戸時代から参拝客が多いという。

 江戸町人を中心に成田山のご本尊不動明王(不動尊)を江戸で参拝したいという気運が高まった元禄16年(1703年)4月、初めて江戸でのご本尊の出張開帳(江戸出開帳)が、この深川不動堂付近で行なわれ、人気を博したのが、新勝寺別院の起りとされています。

  開創310年を期に平成23年に「旧本堂」=写真①=に替わる「新本堂」=写真②=が完成、「旧本堂」から不動尊が遷座され、「旧本堂」には日本最大級を誇る不動明王坐像「おねがい不動尊」を安置。「新本堂」の外壁は、梵字(不動明王御真言)を散りばめた「真言梵字壁」で包まれており、珍しい光景でした。


写真②:「真言梵字壁」で包まれた「新本堂」

 境内のおみくじ売り場そばに、「諸願成就 足災消除」と書かれた大きなわらじがあるのが目に付きました=写真③=。

 

写真③:「諸願成就 足災消除」と書かれた大きなわらじ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする