写真①:晩秋の「稲荷神社」境内を彩る鮮やかな紅葉
=福津市宮司元町の「宮地嶽神社」・奥之院で、2011年11月30日午前8時30分撮影
「稲荷神社」境内の紅葉見ごろ
――「宮地嶽神社」・奥之院
11月も、きょう30日まで。福津市宮司元町の「宮地嶽神社」・奥之院境内では、晩秋を惜しむかのように紅葉が見ごろです。
中でも奥之宮八社の一つで、商売繁盛、五穀豊穣のご利益があるとされる「稲荷神社」境内では、鮮やかな紅葉が風雅な彩を添えています=写真①=。
写真①:晩秋の「稲荷神社」境内を彩る鮮やかな紅葉
=福津市宮司元町の「宮地嶽神社」・奥之院で、2011年11月30日午前8時30分撮影
「稲荷神社」境内の紅葉見ごろ
――「宮地嶽神社」・奥之院
11月も、きょう30日まで。福津市宮司元町の「宮地嶽神社」・奥之院境内では、晩秋を惜しむかのように紅葉が見ごろです。
中でも奥之宮八社の一つで、商売繁盛、五穀豊穣のご利益があるとされる「稲荷神社」境内では、鮮やかな紅葉が風雅な彩を添えています=写真①=。
写真①:架け替え工事が始まった「天神橋」(「新川」上流から写す。右は廃業した割烹旅館・旧「魚正」)
=福津市津屋崎天神町で、2011年11月28日午後3時10分撮影
津屋崎・「天神橋」の架け替え工事始まる
3月まで「新川」に架かる往還は通行禁止に
――福津市天神町
福津市津屋崎天神町の往還の「新川」に架かる「天神橋」の架け替え工事が、11月28日から本格的に始まりました=写真①=。
「天神橋」は旧津屋崎町時代の昭和28年(1953年)5月28日、改修工事が完成。私が8歳の津屋崎小学校3年生の時です。8月の誕生日で9歳になる3か月前でした。「天神橋」の「新川」下流の町道「津屋崎海岸線」に「新天橋」が完成したのが、同39年(1964年)です。「津屋崎海岸線」は都市計画道路として整備され、同42年(1967年)に県道渡―津屋崎線(通称・海岸道路)に昇格しました。
「天神橋」の架け替え工事は、平成24年(2012年)3月下旬まで行われます。それまで同橋の往還は通行禁止で、「新川」下流の海岸道路(県道渡―津屋崎線)の「新天橋」を迂回しなければなりません=写真②=。
写真②:通りぬけできなくなった「天神橋」(向こう。右は廃業した旧「魚正」)
=福津市津屋崎天神町で、28日午後2時20分撮影
改修前の旧「天神橋」で私がカメラに収まった写真が、子供時代のアルバムに貼ってあります=写真③=。改修工事が完成した昭和28年より前で、私が津屋崎町宮司の「聖愛幼稚園」園児時代の夏に撮影したようです。左手に花火を持った私の左に次姉艶子が、右に長姉冨美子(7月他界)が浴衣姿で写っています。橋の上で涼みながら、花火遊びを楽しんだひとこまを、だれかが撮ってくれたようです。
写真③:旧「天神橋」で次姉艶子(左端)と長姉冨美子に挟まれて写った私
=私の子供時代のアルバムから
さて、架け替えられる新しい「天神橋」は、どんな形に生まれかわるのでしょうか。デザインが、気になります。
写真①:「みあけ史跡公園 鹿部田渕遺跡」(向こうの建物は「鹿部保育所」)
=古賀市美明2丁目で、2011年11月27日午前11時5分撮影
〈古賀・町歩きスポット〉 4
:「みあけ史跡公園」
古賀市美明(みあけ)2丁目の「みあけ史跡公園」=写真①=は、JR「ししぶ駅」近くの市立「鹿部(ししぶ)保育所」そばにあります。古代・大和朝廷の直轄地を管理する「ミヤケ」の可能性がある「鹿部田渕遺跡」を公園化したものです。
平成11年(1999年)、古賀市鹿部土地区画整理事業による発掘調査の結果、「鹿部田渕遺跡」からは、6世紀中頃から7世紀初め頃まで使われた大型の建物群=写真②=が見つかり、注目されました。平成14年には、東の区画溝も確認され、東西を溝で区画した空間の内部に倉庫や作業などに使われた大型の建物4棟をL字状に配置されていることが判明。一般的な古代集落とは大きく異なっており、奈良時代の地方官衙(かんが=役所)と似た特徴を持つ公的な性格の施設と推定されています。
写真②:「鹿部田渕遺跡」の大型の建物4棟を図示した「みあけ史跡公園案内」
=「みあけ史跡公園」で、27日撮影
奈良時代の歴史書・『日本書紀』の〈磐井(いわい)の乱〉の記述には、継体天皇22年(528年)に北部九州の有力者・筑紫君磐井(つくしのきみいわい)が大和朝廷に敗れ、磐井の子の葛子(くずこ)が〈糟谷屯倉(かすやみやけ)〉を献上したとあります。葛子は、筑紫君の本拠地である八女地方ではなく、玄界灘に面した糟谷を「ミヤケ」として献上したのは、大和朝廷が東アジアとの外交を統一するため、筑紫君の海上交通の拠点(港)を献上させたためと考えられています。「鹿部田渕遺跡」の大型建物群は、玄界灘沿岸の糟谷地域に存在した〈糟谷屯倉〉と同時期の遺跡であることから、その候補地に挙げられています。
「鹿部田渕遺跡」からは、弥生土器や土師器、須惠器、赤焼土器、白磁、青磁など弥生時代から中世(16世紀)までの土器が、数多く見つかっています=写真③=。このほか、石製の舟、勾玉などの祭祀具、装飾品の玉類、漁業用のおもり、農業で使う石包丁、石斧などの石製品、中世の銅銭なども出土しています。
写真③:「鹿部田渕遺跡」から見つかった土器や須惠器などの解説表示・「出土品のはなし」
=「みあけ史跡公園」で、27日撮影
東の区画溝が見つかった「鹿部田渕遺跡」の駐車場そばには、「鹿部田渕遺跡想像復元図」のイラスト画=写真④=が掲示されていました。
写真④:古代の様子を分りやすく描いたイラスト画「鹿部田渕遺跡想像復元図」
=「みあけ史跡公園」で、27日撮影
イラスト画は全部で8つあり、「古賀を空から見たら」と題した作品=写真⑤=は、「鹿部田渕遺跡」が位置する丘陵地の北を流れる花鶴川や、玄界灘に浮かぶ相島(福岡県新宮町)、筑前大島と沖ノ島(以上宗像市)、志賀島(福岡市)も描かれ、古代・筑紫へのロマンをかきたてられます。
写真⑤:「古賀を空から見たら」のイラスト画
=「みあけ史跡公園」で、27日撮影
古賀市・「みあけ史跡公園」位置図
写真①:今季最多の4羽が渡来した冬鳥のクロツラヘラサギ
=福津市渡の「津屋崎干潟」で、2011年11月27日午前7時55分撮影
福津市渡の「津屋崎干潟」で11月27日朝、環境省レッドリスト(日本の絶滅のおそれのある野生生物のリスト)で「絶滅危惧ⅠA類」に指定されている冬鳥・クロツラヘラサギ(トキ科)が今季最多の4羽渡来している姿を撮影しました=写真①=。
福岡県指定鳥獣保護区の「津屋崎干潟」では10月30日朝、今冬初めて1羽が渡来した姿を撮影。11月15日朝には2羽に増え、26日朝には3羽の渡来を確認していました。10年、09年のシーズンとも1月までに計7羽が渡来しており、まだ飛来数が期待できそう。
この朝、姿を見せた4羽は、干潟中央の浅瀬で黒くて長いヘラ状の嘴を左右に振って水中の小魚を探していました。
写真①:彦六稲荷大明神を祀る「彦六神社」
=福津市渡の「東郷神社」境内で、2011年11月22日撮影
〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 51
:「彦六神社」
「彦六神社」=写真①=は、福津市渡の大峰山(標高114㍍)中腹にある「東郷神社」境内に鎮座。 彦六稲荷大明神を祀っており、「東郷神社」境内から通じる参道には赤い鳥居が立ち並んでいます。
石祠=写真②=で、漁師と商売の神様とされ、大漁、商売繁盛、五穀豊穣のご利益があるといわれ、2月初午の例祭日には「お膳座り」があります。毎月1日には、渡地区民や地元漁協関係者の参拝客が訪れているという。
写真②:漁師と商売の神様でキツネの石像もある石祠
=「彦六神社」で、11月22日撮影
「彦六神社」位置図
写真①:山号「萬松山」の揮毫石碑に刻まれた「伯爵柳原義光」の6文字
=福津市津屋崎天神町の「新泉岳寺」で、2011年11月26日撮影
児玉恒次郎氏が伊藤伝右衛門を介して依頼か
山号・「萬松山」石碑の柳原義光伯爵揮毫
――福津市津屋崎・「新泉岳寺」
福津市津屋崎天神町の「新泉岳寺」境内で見つかった柳原白蓮の兄、柳原義光(やなぎわら・よしみつ)伯爵の揮毫石碑=写真①=について、同寺を建てた地元実業家の児玉恒次郎氏との関連を物語る史料は今のところ見当たりません。
柳原義光伯爵は明治9年(1876年)、伯爵柳原前光(さきみつ)の長男として生まれ、昭和21年(1946年)に他界。妹の才媛歌人・柳原白蓮(本名子=あきこ=)が愛人と駆け落ちしたあと、貴族院議員を引責辞職しています。
児玉氏は明治40年(1907年)、〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門らと津屋崎の渡半島に「活洲場(いけすば)」を開設。伝右衛門が同44年(1911年)に白蓮と再婚したことから、伝右衛門を介して柳原義光伯爵との接点ができ、「新泉岳寺」の山号「萬松山」石碑=写真②=の揮毫を依頼できたのではないでしょうか。児玉氏が大正2年(1913年)、数え48歳で「新泉岳寺」を建てた当時、柳原伯爵は37歳でした。
写真②:境内に建つ「伯爵柳原義光」揮毫の山号「萬松山」の石碑
=「新泉岳寺」で、25日撮影
児玉氏は、津屋崎で明治の老舗旅館「不老館」を経営し、伝右衛門夫人が宿泊していたという話も伝わっています。「活洲場」開設をはじめ旧津屋崎町の観光開発に貢献し、明治36年(1903年)に浪曲師桃中軒雲右衛門の義士伝『神埼与五郎東下り』を博多で興業、大入りの好評を博し、同40年(1907年)には東京での義士伝興行でも1か月の大入りを続け、東京高輪の「泉岳寺」から特別に許可を得て、寺号と四十七義士の墓砂を分霊として持ち帰って「新泉岳寺」を建設しました。
柳原義光伯爵の揮毫石碑が、なぜ「新泉岳寺」にあるのか。児玉氏の人物像についても、興味がわいてきました。探究を続けます。
〈お詫び〉11月24日付〈日記〉440の速報記事では「新泉岳寺」に伯爵柳原前光の揮毫石碑発見――と誤記していました。光の関係で「義」の草書体を「前」と見誤っており、近くから写真を撮り、「義」の字と確認しました。これに伴い、同〈日記〉440と翌25日付〈日記〉441・「不老館」と児玉恒次郎の速報記事の関係個所も訂正しました。
写真①:伊藤伝右衛門夫人が泊まったという明治の老舗旅館「不老館」
=吉村青春著『津屋崎学』から
児玉恒次郎氏が経営していた明治の老舗旅館「不老館」
「伊藤伝右衛門夫人が宿泊」の〝証言〟裏付けか
津屋崎・「新泉岳寺」で発見の柳原義光伯爵揮毫石碑から推論
福津市津屋崎の町興し団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が主催した第3期ボランティアガイド養成講座8日目の現地研修で24日、同市天神町の「新泉岳寺」境内に柳原白蓮の兄、伯爵柳原義光の揮毫石碑が発見されたのを機に、同寺を大正2年(1913年)に建てた地元実業家の児玉恒次郎氏が、津屋崎で明治の老舗旅館「不老館」=写真①=を経営していたことを思い出しました。これで、「不老館」に〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門夫人が宿泊していたという話も信憑性が裏付けられた気がします。
伝右衛門夫人が宿泊していたという〝証言者〟は、私が所属している「海とまちなみの会」の最長老ガイド・津崎米夫さん(大正13年1月生まれの87歳、福津市津屋崎在住)。津崎さんは津屋崎東舟津の海辺の「玉乃井旅館」東側にあった明治の老舗旅館・「不老館」=写真②=に伝右衛門夫人が泊まったと、子供のころ人づてに聞いています。明治43年(1910年)に45歳で亡くなったハル夫人だったのか、翌44年再婚した才媛歌人の白蓮(びゃくれん。本名柳原子=あきこ=。伯爵柳原前光の次女)夫人なのかは不明。「不老館」の建物も、今は残されていません。
写真②:筑前津屋崎町(潮湯御宿)不老館=昭和初期の写真(吉村青春著『津屋崎学』から=津崎米夫氏提供)
児玉恒次郎氏が旧津屋崎町の観光開発に貢献した業績として、伝右衛門らと渡半島突端の蛭子元(えびすもと)での「活洲場(いけすば)」開設のほか、潮湯御宿「不老館」の経営が知られています。
「新泉岳寺」境内に「楠樹 還暦祝賀記念 児玉恒次郎」と刻まれた石碑=写真③=が建っています。側面に「大正十五年 九月二十二日 誕生日植之」と刻まれています。数え年61歳の還暦記念とありますから、同寺を建てた大正2年(1913年)は数え48歳だったことになります。伝右衛門は、大正2年は54歳で、翌3年には大正鉱業株式会社を設立して社長に就任していますから、児玉氏にとっては兄貴格の実業家だったのかもしれません。
写真③:境内に建つ「楠樹 還暦祝賀記念 児玉恒次郎」と刻まれた石碑
=「新泉岳寺」で、2011年11月24日撮影
写真①:「萬松山」と刻まれた伯爵柳原義光(左下に刻印)の揮毫石碑
=福津市津屋崎天神町の「新泉岳寺」境内で、2011年11月24日午後3時25分撮影
ガイド養成講座の現地研修で発見
境内に伯爵柳原義光の揮毫石碑が建っていました!
―福津市津屋崎の「新泉岳寺」
私が所属している福津市津屋崎の町興し団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」が主催している第3期ボランティアガイド養成講座8日目の現地研修で、24日午後訪れた同市天神町の「新泉岳寺」境内に柳原白蓮の兄、伯爵柳原義光の揮毫石碑=写真①=があるのを研修参加者らが発見しました。
「新泉岳寺」は、地元実業家の児玉恒次郎氏が、浪曲師・桃中軒雲右衛門の赤穂義士を扱った浪曲に感動し、大正2年(1913年)に墓地の一角の約280坪に建てた赤穂浪士(四十七士)の墓です。東京都港区高輪の「泉岳寺」から許可を得て、寺号と義士47人の墓砂を分霊としてもらい受けてカメの中に砂を入れ、「萬(万)松山新泉岳寺」として祀っています。児玉氏は明治40年(1907年)、津屋崎の渡半島に〝筑豊の炭鉱王〟・伊藤伝右衛門らと「活洲場(いけすば)」を開設するなど町の観光開発を手がけました。大正時代にあった寺のお堂は、戦前になくなっています。
伊藤伝右衛門は明治44年(1911年)、伯爵柳原前光の次女で〝筑紫の女王〟と称された才媛歌人の柳原白蓮(本名子=あきこ=)と再婚。白蓮は、大正10年10月、恋人の東京帝大生宮崎龍介のもとへ出奔しています。「新泉岳寺」が建立された大正2年当時、児玉恒次郎氏は「活洲場」開設で親交があったと見られる伝右衛門を通じて伯爵柳原前光の長男義光氏に、「新泉岳寺」の山号・「萬松山」の揮毫を依頼して石碑=写真②=に刻んだとも思われます。石碑の左下に「伯爵柳原義光」の刻印が、はっきり読み取れます。
写真②:左下に伯爵柳原義光の刻印がある揮毫石碑
=「新泉岳寺」境内で、24日午後3時25分撮影
面白いことに、児玉氏は九州日報(西日本新聞の前身)の社長兼主筆・福本日南作の『義士銘々伝』を語る浪曲師に登用した桃中軒雲右衛門が、浪花節で自伝を語り歩いていた弟子で熊本県生まれの宮崎滔天(とうてん)の紹介で九州日報に売り込み、明治36年(1903年)に義士伝『神埼与五郎東下り』を博多で興業、大入りの好評を博したことです。後に日本で孫文を支援し、〈辛亥革命〉を支えた革命家となった滔天。その長男の龍介と白蓮が逃避行する前から、児玉氏は雲右衛門を通じて滔天とも懇意な関係だったと見られます。
いずれにせよ、この「新泉岳寺」境内に白蓮の兄柳原伯爵の揮毫を刻印したと見られる石碑が建っているとは、ビッグニュースです。建立の経緯を追究する必要を感じます。
写真①:農道わきのガードレールに止まったハクセキレイ
=福津市塩浜で、2011年11月23日午前9時20分撮影
きょう23日は、二十四節気の一つの「小雪(しょうせつ)」。暦の上では、寒さはまだ深まらず、大雪に見舞われるのにも早い時季ですが、福津市津屋崎では朝から冷たい雨が降っています。
塩浜の農道わきのガードレールに止まったハクセキレイ(セキレイ科)=写真①=も、寒そうに見えます。そのおなかは、雪のように白いですね。
写真①:水面上に白い帯のように広がった水蒸気
=福津市渡の「津屋崎干潟」で、2011年11月22日午前6時59分撮影
福津市津屋崎は11月22日早朝、ぐんと冷え込みました。
渡の「津屋崎干潟」では、朝日が上ると水面から水蒸気が立ち上り、横に白い帯を広げたような光景が楽しめました=写真①=。