吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2011年7月31日/〈田川・町歩き〉003・炭坑節発祥の地

2011-07-31 09:37:34 | 田川・町歩き

 

写真①:平成16年に建てられた「炭坑節発祥の地」の記念碑 

   =福岡県田川市伊田の「石炭記念公園」で、2011年7月29日撮影 

 

 田川・町歩きスポット〉 3 

 

炭坑節発祥の地 

 

福岡県田川市は、「炭坑節のふるさと」を全国にアピールしています。市内伊田の「田川市石炭・歴史博物館」がある「石炭記念公園」には平成16年、麻生渡・県知事(当時)の揮毫による「炭坑節発祥の地」の記念碑=写真①=が建てられています。明治43年、伊田尋常高等小学校の教員だった小野芳香(よしか)が、「伊田場打選炭唄」の一部を改曲して節を付け、「炭坑節」として世に出しました。筑豊・川崎町出身の芸者歌手赤坂小梅が戦後、日本コロムビアからレコードを出して大流行、NHKの紅白歌合戦でも歌い、全国区の民謡となりました。 

 

「月が出た出た 月が出た」でおなじみの歌詞を刻んだ「炭坑節之碑」=写真②=も、「石炭記念公園」にあります。地元の有志が、昭和42年に田川市中央町1の市役所敷地に建てていた詩碑を移設したものです。

 

 

 

写真②:「石炭記念公園」に移設された「炭坑節之碑」 

 

「田川市石炭・歴史博物館」1階の玄関ロビーには、炭坑節の踊りの振り付けを描いたイラストが掲示されていました=写真③=。

 

 

写真③:炭坑節の踊りの振り付けを描いたイラスト

     =「田川市石炭・歴史博物館」1階の玄関ロビーで撮影

 

日本の代表的民謡・「炭坑節」の歌詞で「あんまり煙突が高いので、さぞやお月さんけむたかろう」と歌われた煙突が、「石炭記念公園」にそびえています。明治41年(1908年)に築造された旧三井田川鉱業所伊田竪坑の第一・第二煙突(通称・二本煙突)=写真④=。国登録文化財で、経済産業省認定近代化産業遺産です。伊田竪坑の開設時に、捲揚機と付属設備の動力に使われた蒸気機関の排煙用に築造された丸形の大煙突(高さ45.4㍍)で、耐火煉瓦製。現存する明治期のものとしては国内最大級という。筑豊の石炭産業に竪坑時代を画した伊田竪坑の一部で、筑豊炭田のシンボルです。

 

 

 

写真④:筑豊炭田のシンボル・〝二本煙突〟

     =「石炭記念公園」で撮影

 

 

旧三井田川鉱業所伊田竪坑の櫓(国登録文化財、経済産業省認定近代化産業遺産)=写真⑤=も、「石炭記念公園」にあります。地下深部の石炭を採掘する竪坑の捲揚機で、イギリス製のバックステイ形。高さ28.4㍍の鉄骨造りです。明治43年(1910年)に完成しました。筑豊に残る唯一の竪坑関係遺跡です。

 

 

 

写真⑤:旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓

     =「石炭記念公園」で撮影

 

 「田川市石炭・歴史博物館」裏の屋外展示場には、筑豊地区で石炭などを運ぶ国産貨物列車牽引用に使われていた蒸気機関車(9600形、愛称キューロク)も展示されています=写真⑥=

 

 

 

写真⑥:「田川市石炭・歴史博物館」の屋外に展示されたSL

 

「田川市石炭・歴史博物館」2階のバルコニーで、田川市伊田町()亀屋延永の「羊羹黒ダイヤ」 =写真⑦=が販売されており、お土産に購入。しっかりした甘味が舌先に残り、美味しい羊羹でした。“ 黒いダイヤ”とは石炭のことで、筑豊地区が石炭産業華やかりし、昭和25年から販売されているロングセラーの逸品という。

 

 

写真⑦:()亀屋延永の「羊羹 黒ダイヤ」(黒色の菓子)

 

明治33年に旧三井田川鉱業所が設立され、炭鉱=写真⑧=のまちとして大きく発展した田川。大正6年には全国の出炭量2,290万㌧のうち筑豊炭田が約50%の1,148万㌧を産出しましたが、昭和30年代には石炭産業にかげりが見え始め、戦後の復興期まで日本経済を支えた石炭はエネルギー革命で石油にその座を奪われ、同鉱業所も昭和39年に閉山しました。

 

 

写真⑧:「石炭記念公園」に立つ「炭坑夫之像」

 

現在の田川市の人口は、約5万1千人。「田川市石炭・歴史博物館」に所蔵されている「山本作兵衛炭坑記録画」(福岡県有形民俗文化財指定の墨画306点、水彩画278点)が、ユネスコの世界記憶遺産に登録が決まり、歴史・炭坑観光で浮揚のビッグ・チャンスを迎えたといえるでしょう。お土産品や、お食事処、観光スポット、ガイドの紹介など案内情報の整備・充実が求められます。   (おわり)

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2011年7月30日/〈田川・町歩き〉002・山本作兵衛66歳からの偉業

2011-07-30 09:29:48 | 田川・町歩き

 

 

写真①:田川市石炭・歴史博物館が発行した『炭鉱の語り部 山本作兵衛の世界』の裏表紙 

 

 〈田川・町歩きスポット〉 2 

 

山本作兵衛66歳からの偉業

 

 

福岡県飯塚市出身の絵師山本作兵衛は、明治25年(1892年)生まれ。昭和59年(1984年)に92歳で死去。日本で初めて国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の「世界記憶遺産」に登録されることになった彼の描いた筑豊炭田の記録画など697点は、主として66歳から71歳までの6年間に精力的な作業で残されました。

 

田川市伊田の「田川市石炭・歴史博物館」が、開館25周年記念の特別企画で平成20年に発行した『炭鉱(ヤマ)の語り部 山本作兵衛の世界』(144㌻)=写真①=には、作兵衛の卓越した記憶と絵心が凝集・結晶された筑豊炭田の記録画が収録されています。

 

作兵衛は、14歳から筑豊各地の炭鉱で働き、明治末から戦後にかけての炭鉱労働者の生活の様子を千点以上の水彩画に描写。炭鉱労働に従事した本人が描いた感動を与える絵画は例がない、と高い評価を受け、「世界記憶遺産」への登録が決まりました。「田川市石炭・歴史博物館」=写真②=には、作兵衛の記録画をひと目見ようという観覧者が増えています。

 

 

 

写真②:「田川市石炭・歴史博物館」1階の展示室入り口

  =田川市伊田で、2011年7月29日撮影

 

作兵衛の記録画には、「ガス爆発」や「ヤマの水害」など死と隣り合わせの災害に遭いかねない坑内で、はいつくばって石炭を掘る「寝掘り」などの様子が、精細に描かれています。炭鉱夫(婦)らの過酷な労働と多くの犠牲の上で、産業エネルギーとしての石炭が大量に発掘されて日本の近代化が支えられ、伊藤伝右衛門ら〝筑豊の炭鉱王〟ら炭鉱主の富も蓄えられたことがうかがえました。それにしても、坑内の作業を終えて男女混浴の共同風呂で、炭塵と汗まみれの体を洗う労働者たちの環境の劣悪なこと。労働者の搾取により、資本家の富が蓄積されていく過程が、膝の上に重い砂袋を載せてのリンチや日本刀を抜き合ってのヤマの男のけんかの場面などリアルな絵と添え書きの文で理解できます。

 

「田川市石炭・歴史博物館」の裏手の敷地にある「産業ふれあい館」(復元炭鉱住宅)=写真③=では、明治・大正・昭和期の炭住の間取りを再現してあります=写真④=。

 

 

写真③:「産業ふれあい館」(復元炭鉱住宅)

      =「田川市石炭・歴史博物館」裏手の敷地で撮影

 

 私が小学生だった昭和20年代には、夏になると筑豊の炭鉱会社員たちが大型の貸切バスを何十台も連ねて津屋崎の海水浴場に来ていました。津屋崎海岸や渡半島には、筑豊の炭鉱会社の海の家や炭鉱主の別荘があり、伊藤伝右衛門が曽根の鼻の海辺に築いた『活洲場跡』や伝右衛門のお抱え運転手の家もあったことから、筑豊の炭鉱と作兵衛の筑豊炭田の記録画には親近感を覚えました。

 

 

写真④:明治・大正・昭和期の間取りを再現した炭住の部屋

      =「産業ふれあい館」(復元炭鉱住宅)で撮影

 

 明治・大正・昭和の筑豊炭田に約50年間、坑夫として生きた作兵衛が、66歳にして初めて絵筆を握り、筑豊炭田の記録画を残そうとしたのは、子や孫に「ヤマの生活やヤマの作業や人情を書き残しておこうと思い立った」からでした。私が61歳で吉村青春第一詩集・『鵲声――津屋崎センゲン――』(A6判、175㌻。新風社文庫)を出版、66歳で津屋崎の郷土史と自然のガイド本・『津屋崎学』(B5判カラー、314㌻。イースト株式会社および欧文印刷株式会社)を発行したのも、行政合併で津屋崎町の名がなくなり、古き良き時代の古里・津屋崎町の風物や人情を書物に書き残し、子や孫に津屋崎の素晴らしさを知って誇りにしてほしいとの想いがあったからです。

 

 遺族の方の話によると、作兵衛は絵を描く時は人を寄せ付けないほどの気迫で、声を掛けるのもはばかれたといい、1枚も書き損じた作品を見たことがないという。本当に想いが実現するかどうかは、その感じ方が十分かどうかにかかっていると思います。辺境の地で、世界に通じる偉業を成し遂げた作兵衛の作品の所蔵地・田川を、今後も訪れたくなりそうです。

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「田川市石炭・歴史博物館」位置図

 

 

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2011年7月29日/〈田川・町歩き〉001・世界記憶遺産・山本作兵衛の世界

2011-07-29 21:27:25 | 田川・町歩き


写真①:田川市石炭・歴史博物館が発行した『炭鉱の語り部 山本作兵衛の世界』の表紙


 きょう7月29日から、福岡県田川市の〈田川方・町歩きスポット〉シリーズを掲載します。29日、同市伊田の「田川市石炭・歴史博物館」を初めて訪れ、筑豊炭田の記録画=写真①=など697点が日本で初めてユネスコの「世界記憶遺産」に登録されることになった同県飯塚市出身の絵師山本作兵衛(1892~1984年)のコレクションを観賞、いま注目の「山本作兵衛の世界」の一端を紹介します。

〈田川・町歩きスポット〉 1

:世界記憶遺産・山本作兵衛の世界

 福津市津屋崎の拙宅からマイカーで約1時間20分、JR日田彦山線田川伊田駅の近くに「田川市石炭・歴史博物館」=写真②=はありました。


写真②:「田川市石炭・歴史博物館」の玄関
     =田川市伊田で、2011年7月29日午後0時5分撮影

 「田川市石炭・歴史博物館」正面のガラス窓中央には、「日本初 山本作兵衛氏 炭鉱記録画・記録文書 ユネスコ『世界記憶遺産』 田川市・福岡県立大学」と書いた懸垂幕が掲示されています=写真③=。


写真③:「日本初 山本作兵衛氏 炭鉱記録画・記録文書 ユネスコ『世界記憶遺産』 田川市・福岡県立大学」と書かれた懸垂幕
     =「田川市石炭・歴史博物館」正面で撮影

 玄関から「田川市石炭・歴史博物館」1階に入ると、入場券売り場の左側に「祝世界遺産登録 ユネスコ(世界記憶遺産) ~山本作兵衛コレクション~ 田川市・福岡県立大学」と書かれた立看板=写真④=が掲示されていました。


写真④:「祝世界遺産登録 ユネスコ(世界記憶遺産) ~山本作兵衛コレクション~ 田川市 福岡県立大学」と書かれた立看板
     =「田川市石炭・歴史博物館」1階で撮影

 窓口で観覧料210円を支払って大人の入場券を求め、2階に設けられた山本作兵衛炭鉱記録画の展示会場=写真⑤=へ入場しました。実物の記録画4点や複写写真パネルを含む計約40点の作品が展示されています。残念ながら会場内は撮影禁止のため写真を紹介できないので、田川市石炭・歴史博物館が発行した『炭鉱の語り部 山本作兵衛の世界』を同館で買いました。平日にもかかわらず、多くの観覧者が地底で命を賭して働く炭鉱労働者の姿を生々しく描いた作兵衛の水彩画や墨絵を食い入るように観ていました。


写真⑤:山本作兵衛炭鉱記録画の展示会場入り口
     =「田川市石炭・歴史博物館」2階で撮影


「田川市石炭・歴史博物館」(田川市伊田2734番地1。℡0947-44-5745):開館時間は、午前9時30分~午後5時30分(入館は午後5時まで)。休館日は、月曜日(毎月第3日曜日の翌日を除く)及び第3日曜日。国民の祝日及び休日の翌日(翌日が日曜日または休館日にあたるときはその翌々日)。年末年始(12月29日―1月3日)。観覧料は大人210円、高校生100円、小・中学生50円◆交通アクセス=〔電車で〕 JR日田彦山線「田川伊田駅」下車、徒歩10分。

「田川市石炭・歴史博物館」位置図

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2011年7月27日/〈津屋崎の四季〉802・カイツブリの家族

2011-07-27 08:24:59 | 風物

写真①:水面を元気に泳ぐカイツブリ
     =福津市的岡の「新堤池」で、2011年7月27日午前5時45分撮影

 連日、〝真夏日〟が続く福岡地方ですが、27日朝の福津市津屋崎は風が涼しく、しのぎやすい天気です。

 久しぶりに早朝の散歩で立ち寄った的岡の「新堤池」で、1羽のカイツブリ(カイツブリ科)が水中から顔を出して泳ぎ出しました=写真①=。

 この1羽の近くに、潜水していた仲間が次々と現れ、集まっています=写真②=。全部で6羽になりました。どうやらファミリーのようです。


写真②:群れになって泳ぐカイツブリたち
     =「新堤池」で、27日午前5時45分撮影
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〈催事〉0145:あす大森洋子教授の講演会

2011-07-23 09:43:34 | 行楽催事

写真①:大森洋子教授の講演会のチラシ

あす24日午後1時30分からカメリア2階で「ふるさと塾」開塾

大森洋子・久留米工業大教授が講演
「〈津屋崎千軒〉の町並みの印象と保全策」の演題で

 「海とまちなみの会」主催の「〈津屋崎千軒〉ふるさと塾」は、あす7月24日(日)午後1時30分から3時まで、福津市文化会館2階・視聴覚室で開塾記念の第1回講演会が行われます。講師は、大森洋子・久留米工業大学建築・設備工学科教授=写真①=で、「〈津屋崎千軒〉の町並みの印象と保全策」と題して講演していただきます。講演会場の開場は、同1時で、受講は無料。参加定員60人で、申し込み先着順で同会事務局・吉村がメールyosi3019@sage.ocn.ne.jpで受け付けています。

 大森教授は、1958年福岡県八女市黒木町生まれで、熊本大学工学部建築学科卒、九州芸工大大学院芸術工学研究科博士前期課程修了。博士(芸術工学)、一級建築士で、研究分野は都市計画、歴史的環境保全、ツーリズム(観光活動)。文化庁文化財文化会第二専門調査会委員、福岡県や久留米市等の都市計画や都市景観の審議会委員、久留米市草野、日田市豆田町、朝倉市秋月、八女市福島等の町並み保存審議会委員。福岡市のアクロス福岡文化誌編纂委員会が発行したアクロス福岡文化誌5『福岡の町並み』(海鳥社刊)の「総説」「筑後吉井」「北川内」「宇島」「町並みを活かしたまちづくり」「町並みを知るための建築用語」を執筆されています。『福岡の町並み』には、〈津屋崎千軒〉の町並みも紹介され、明治7年創業の豊村酒造や、同34年建築の「津屋崎千軒民俗館・『藍の家』」(国登録有形文化財)などの写真も掲載。

 「〈津屋崎千軒〉ふるさと塾」は、「海とまちなみの会」の平成23年度の新規事業で、津屋崎の歴史、文化、自然、習俗、景観、祭り、民話、建築遺産、観光などを講師に学び、登録塾生も時には講師として自らの体験や蘊蓄を教え合い、交流します。福津市内外から参加を募り、受講は無料。津屋崎の宝の発掘と郷土の素晴らしさの認識を深め、津屋崎ファンとの交流人口を増やし、町興し、地域づくりの〝人財〟も育てるのが狙いです。受講者を「ふるさと塾」塾生として登録、次回以降の講演会案内やイベントなどの開催通知を行います。
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2011年7月23日/〈日記〉432:長姉葬儀お礼

2011-07-23 09:09:00 | 日記

写真①:葬儀会場でほほ笑む吉村冨美子の遺影
     =福津市宮司1の「野ぎく会館西斎場」で、2011年7月22日撮影

 7月20日に他界した長姉吉村冨美子の通夜を21日、葬儀=写真①=と初七日の法要を22日に福津市宮司1の「野ぎく会館西斎場」で、しめやかに執り行いました。23日は、喪主をつとめた長兄達也宅(同市津屋崎3)で、仏壇の前に遺影、遺骨を安置し、49日法要の段取りを決めました。

 通夜、葬儀では、お忙しいなか、生前の冨美子と親しく交流いただいた友人、知人の方をはじめ地域の多くの方々にご弔問、ご参列いただくとともに、ご弔電も頂戴し、本当にありがとうございました。天界の冨美子も、喜んでいることと思います。

 母親代わりの長姉を失った現実を、葬儀、火葬を経てひしひしと身に感じておりますが、拙宅近くの樹上で今朝方から激しく鳴き始めたクマゼミのように元気を出して生きていきたい、と思っています。冨美子がお世話になった皆様に、心から感謝申し上げます。  吉村勝利
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2011年7月23日/〈津屋崎の四季〉801・「大暑」の朝霧

2011-07-23 07:12:06 | 風物


写真①:旧「旭製塩」跡地から西方の渡の入海(「津屋崎干潟」)まで伸びた〝霧の帯〟
     =福津市竪川で、2011年7月23日午前5時8分撮影

 23日早朝、〝霧の帯〟が福津市竪川の旧「旭製塩」跡地から西方の渡の入海(「津屋崎干潟」)まで伸びている=写真①=珍しい光景に出合いました。

 このところ台風の影響で涼しかった津屋崎でしたが、朝霧が出たから天気が良くなり、午後には真夏日が復活しそうな気配です。そういえば、きょうは二十四節気の一つの「大暑」。一年で最も暑さが厳しい時期に当たります。

 朝霧は、対馬見山(標高243㍍)から宮地岳(標高182㍍)まで津屋崎の里山のすそにも棚引いていました=写真②=。一幅の墨絵のようです。

     
写真②:対馬見山(左端)から宮地岳(右端)まで津屋崎の里山のすそに棚引く朝霧
     =福津市竪川で、23日午前5時15分撮影

 須多田の対馬見山は、霧の中でおぼろに見えました=写真③=。


写真③:霧の中でおぼろに見える対馬見山
     =福津市竪川で、23日午前5時13分撮影
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2011年7月20日/〈日記〉431・長姉逝く

2011-07-20 23:13:09 | 日記

写真①:元気だったころの吉村冨美子

 脳梗塞のため福津市・北九州津屋崎病院に入院中の長姉吉村冨美子(よしむら・ふみこ)=写真①=が、きょう7月20日午後4時14分、肺炎で他界しました。大正14年(1925年)12月12日生まれの85歳でした。

 4人きょうだいの総領で、末っ子の私より19歳も年上です。私が12歳の時に母タキが57歳で亡くなったため、旧津屋崎農協に勤めていた長姉は嫁にも行かず、私の大学進学の学費を支援してくれるなど母親代わりの存在でした。

 福津市宮司1の「野ぎく会館西斎場」で、私の長兄達也が喪主をつとめ、21日午後7時から通夜、22日午前11時から告別式を執り行います。生前、長姉がお世話になりました津屋崎農協の方々をはじめ、お友達や地域の皆様、ありがとうございました。心より感謝申し上げます。  吉村 勝利

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2011年7月18日/〈日記〉430・津屋崎浜に防砂柵

2011-07-18 14:05:53 | 日記

写真①:津屋崎浜に建てられた竹製の防砂柵
     =福津市津屋崎3丁目で、2011年7月17日午前9時40分撮影

 福津市津屋崎3丁目の津屋崎浜に、竹製の防砂柵=写真①=が設けられているのに7月16日、気付きました。

 現場は、天神町を流れる新川の西岸で、旧「魚正」旅館前の「海岸道路」の南側にある市無料駐車場から砂浜に降りた所。16、17両日とも、朝から魚釣りに訪れる太公望らのマイカーなどが駐車場を埋めていました。

 玄界灘の海風が巻き上げる砂が、この駐車場付近に舞い落ちるのを防ごうと、防砂柵=写真②=を設置したのでしょう。昭和42年(1967年)にアスファルト舗装の県道「海岸道路」が建設されるまでは、波打ち際から白い砂浜が陸地に向かって広々と続いていました。干潮時の砂浜で、日が暮れるまで野球に興じた小学生時代の広かった津屋崎浜を懐かしく思い出します。


写真②:無料駐車場(右側)の南側の砂浜に設置された防砂柵
     =7月17日午前9時40分撮影
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2011年7月17日/〈日記〉429・「津屋崎千軒ガイドライン」策定へ

2011-07-17 04:34:59 | 日記

写真①:「福津市沿岸部地区高度地区計画書(原案)概要版」

福津市が「沿岸部高度地区指定に関する説明会」開催
高さ制限の地区設定決定の次は
景観設定の「津屋崎千軒ガイドライン」策定へ

 福津市都市整備部都市計画課から「福津市沿岸部高度地区指定に関する説明会」開催についての案内書が郵送されてきたので、市立図書館研修室で7月16日午後に開かれた同説明会に出席してきました。席上、市が近く「津屋崎千軒ガイドライン」策定作業に着手する計画であることが明らかになりました。

 この説明会は、市都市計画課が平成21年度までに開いた「街並みワークショップ」や千世帯の調査で高さ制限のあり方について聞いた市民の意見を参考に、市沿岸部高度地区指定の高さについての原案をまとめ、同ワークショップに参加した私たちに出席の案内をして開催。会場で配付された「市沿岸部地区高度地区計画書(原案)概要版」=写真①=によると、高度地区設定の目的は津屋崎浜から宮地浜を経て福間海岸へ至る沿岸部で、土地利用規制の基本制度である用途地域の建築物の高さを抑える「高度地区」を指定し、良好な住環境の保全と街並み景観の創出を目指しています。

 「高度地区」は都市計画法に基づく地域指定で、定められた「建築物の高さの最高限度」に違反した場合は建築確認の審査で是正措置命令ができます。このうち「津屋崎都市計画(津屋崎地域、宮地地域)」では、江戸時代からの歴史を感じさせられる建物が並ぶ津屋崎千軒がある津屋崎地域は、歴史的街並みを生かしたまちづくりや低層住宅が主体となっている地域の現状を考慮した規制内容としています。宮地嶽神社と宮地浜に伸びる参道、その周辺が低層住宅地となっている宮地地域は、海まで続く参道の見通しの確保や歴史的雰囲気を損なわないまちづくりを考慮した規制内容とする、としています。

 具体的には、高さの最高限度を12㍍(共同住宅にすると3~4階程度に相当)に規制。ただし、商業地域及び商業施設などが集積する福間地域に隣接した一部の地域は同15㍍(共同住宅にすると4~5階程度に相当)とします。また、高さの最高制限を適用しない建築物について、公共公益上の観点からやむを得ない建築物及び市の観光振興に寄与する施設で、市街地環境の維持に支障のないものは、市長の特例許可で適用の除外とする、としています。

 「高度地区指定範囲と高さ設定(原案)」の地図=写真②=によると、高度地区設定区域は約320㌶。津屋崎地域のうち、津屋崎海水浴場の海の家がある地域が指定範囲に入っていない理由については、用途地域に指定されていない地域のため、自然公園法により高さの最高限度を13㍍に規制されているという。


写真②:「高度地区指定範囲と高さ設定(原案)」の地図

 市は市沿岸部高度地区指定の高さについての原案を9月中旬から2週間縦覧し、市都市計画審議会と知事の同意が得られれば、年明けに告示決定したい計画。佐々精二・市都市計画課長は「まず、高さ制限の設定を行い、次が景観の設定を計画しており、津屋崎千軒のガイドラインについては住民参加のワークショップを行い、今年度から来年度までの2年間で作成したい」と話していました。

 福津市が策定した市景観マスタープラン(2008-2017年)の「景観まちづくりの基本方針」では、住民の協力のもと「景観の自主的ルールづくり」を津屋崎千軒などで先導的に行うとしています。津屋崎千軒のガイドライン作りは、「福津らしい景観」についての市民の合意形成と、それを守るためのルール作りへの第一歩を踏み出すことになります。
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