写真①:山口県下関市豊浦町の「川嶋神社」に奉納された「筑前勝浦濱大敷絵馬」
福津市勝浦から58Km離れた下関市湯玉の神社に絵馬奉納
「大敷網」が結ぶ大正時代の漁民交流
山口県下関市豊浦町の「豊浦地区まちづくり協議会」文化・スポーツ部会のメンバーら33人が2月13日、福津市の「津屋崎里歩きフットパス」の取り組みを学びたいと、宮司・津屋崎地区を視察された際、ガイドした「津屋崎千軒 海とまちなみの会」の会員と懇談した「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」で、大正時代に宗像郡勝浦村(昭和30年に同郡津屋崎町と合併)の「筑前勝浦濱」の漁師が、約58Km離れた豊浦町湯玉の「川嶋神社」に定置網の一種・「大敷網」による大漁のお礼に奉納した絵馬=写真①=について話が弾みました。
この絵馬は、額に「筑前勝浦濱大敷 主任藤井嘉一組」と書かれ、「大正拾年酉七月吉日」に奉納。大正10年7月に大漁がかなったお礼に寄進したと見られます。描かれた絵は「小楠公」と題されており、後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献した後、建武3年(1336年)の湊川(兵庫県神戸市)の戦いで足利尊氏の軍に敗れて自害した武将楠木正成(大楠公)の嫡男正行(まさつら=小楠公)が、正成の首級が届いてショックを受け、仏間で短刀で死のうとしているのを母が諫めている場面です。
「大敷網」の発祥地とされる豊浦地区から、この漁法がどのようにして「筑前勝浦濱」に伝えられたのでしょうか。旧津屋崎町が平成10年に発行した同町史民俗調報告書査・『津屋崎の民俗(第四集)』によると、「大敷網」は定置網の中で最大とし、〈大正末期から昭和の初期、山口県安岡(注:響灘に面した旧豊浦郡安岡町安岡浦=現下関市安岡=のことか。安岡漁港がある漁村)の船が津屋崎の海で縄大敷網を操業していた〉という。また、大謀大敷(縄大敷ともいう定置網)=写真②=は春の彼岸ごろ山口県豊浦郡角島から船で来て、渡の親子灯台の下の瀬から航路を40~50間避けて沖の方へたてた。イワシ、サバなどの回遊魚を漁獲していたとしています。
写真②:大謀敷(定置網)の図=『津屋崎の民俗』(第四集)「新町」195頁掲載=