吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

〈催事〉0504:第114回有田陶器市

2017-04-30 12:14:05 | 行楽催事

 

写真①:〝掘り出し物〟を求めてメーンストリートを行き交う買物客

     =佐賀県有田町の「香蘭社」前で、2017年4月29日午前9時10分撮影

 「第114回有田陶器市」賑わっています

  ゴールデンウイーク初日の4月29日、初夏を思わせる陽気のもと、佐賀県有田町で「第114回有田陶器市」(5月5日まで)が開幕。早朝、〝掘り出し物〟を求めて二年ぶりに細君と陶器市会場へ。沿道の新緑がまぶしいメーンストリートは、買物客で賑わっていました=写真①=。

  有田町は、江戸時代から海上交易の港町で栄え、〈津屋崎千軒〉と称された福津市津屋崎の町並みと同じように、〈有田千軒〉と呼ばれる町並みが谷あいに形づくられました。このうち有田内山地区の町並み=写真②=は平成3年(1991年)、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定。江戸時代に設けられた上の番所(泉山)から、下の番所(岩谷川内)まで約2㌔にわたり、江戸・明治・大正・昭和の各時代を代表する町家が並んでいます。

  

写真②:白壁の町家が並ぶ国の「重伝建」に選定された町並み

     =有田町有田内山地区で、29日午前8時50分撮影

  有田町幸平にある「有田異人館」=写真③=は、有田の豪商・田代助作が明治9年(1876年)に陶磁器を買い付けに来た外国商人の宿泊・接待施設として建てた和洋折衷の木造2階建て建築物(佐賀県指定重要文化財)です。緑色の柱や家紋を入れた和紙を張った天井など、外観室内とも建築当時の姿を復原、保存修理する町教委の工事が終わり、平成29年4月から一般公開。有田内山の歴史的な遺産・景観などを町内外に発信、まちづくりの拠点的な施設「町並みセンター」として活用されています。螺旋階段を上がった2階の洋室は、ステンドグラス=写真④=や天井からつり下げられたシャンデリア=写真⑤=が、おしゃれな雰囲気を演出しています。

  

写真③:緑色の柱や白い漆喰壁など建築当時の姿に復原、保存修理された「有田異人館」

=有田町幸平1-2で、午前10時10分撮影

写真④:「有田異人館」2階のおしゃれな雰囲気を醸すステンドグラス

  

写真⑤:家紋入りの和紙を張った天井からつり下げられたシャンデリア

  「有田異人館」2階の窓ガラス越しに、道路向かいにある「深川製磁」が見えます=写真⑥=。

写真⑥:「有田異人館」2階の窓ガラス越しに見える「深川製磁」(左側の建物)

 

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〈催事〉0503:「津屋崎千軒よっちゃん祭」2日目

2017-04-23 05:59:42 | 行楽催事

  

写真①:「豊村酒造」母屋での開会式で祝辞を述べる原崎智仁新市長(右端)

     =福津市津屋崎4丁目で、2017年4月22日午前10時撮影

 〈津屋崎千軒よっちゃん祭〉きょう23日16時まで開催です

オカリナ、吹奏楽演奏やフラダンス披露も

 4月22日開幕した福津市の「津屋崎千軒よっちゃん祭」(実行委員会主催)は午前10時、〈津屋崎千軒〉のランドマーク・「豊村酒造」で開会式が行われました。

  来賓の原崎智仁新市長=写真①右端=が「よっちゃん祭が20回目を迎え、一大イベントとなったことを大変うれしく思っています。皆様方の津屋崎への愛着と熱意に敬意を表しますとともに、感謝を申し上げます」と祝辞を述べました。近くにある私が所属する「津屋崎千軒 海とまちなみの会」のボランティアガイド観光拠点事務所・「貝寄せ館」にも午後2時前、視察にお越しいただきました。お忙しいなか、ありがとうございます。

  津屋崎3丁目の福津市まちおこしセンター「津屋崎千軒なごみ」・イベント広場の特設ステージでは、バンド演奏=写真②=やダンスなどが披露されました。〈津屋崎千軒通り〉には焼きイモ、パン、雑貨、植物販売の出店が並び、買物の行楽客で賑わっていました。

写真②:特設ステージでのバンド演奏をイベント広場で楽しむ人たち

         =福津市津屋崎3丁目の「津屋崎千軒なごみ」で、22日午前11時15分撮影

  〈よっちゃん祭〉2日目の23日は、午前10時から午後4時まで。「豊村酒造」母屋前では、正午から「藍の家オカリナサークル」のオカリナ演奏があり、津屋崎漁港そばの「お魚センターうみがめ」駐車場特設ステージでは午前11時からフラダンスや吹奏楽演奏などが繰り広げられます。

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〈催事〉0502: 津屋崎千軒よっちゃん祭

2017-04-22 06:05:00 | 行楽催事

 

写真①:大勢の家族客や観光町歩きの人でにぎわうイベント広場

     =福津市津屋崎3丁目の「福津市まちおこしセンター」で、2016年4月23日午前10時50分撮影

 〈津屋崎千軒よっちゃん祭〉きょう22日開幕、23日まで開催です

  福津市津屋崎の恒例イベント・〈津屋崎千軒よっちゃん祭〉=写真①は2016年撮影=は、きょう4月22日開幕。午前10時から午後5時まで〈津屋崎千軒通り〉の「豊村酒造」では、清酒「豊盛」の試飲即売や酒饅頭販売、「津屋崎今昔写真展」、落語、日舞、琴演奏などが披露されるほか、「津屋崎千軒民俗館『藍の家』」では藍染作品や津屋崎の民具展示、草餅販売などが行われます。

  海岸通りの「玉乃井」では、第12回津屋崎現代美術展(入場無料。5月5日まで)、「福津市まちおこしセンター」では津屋崎中学校吹奏楽部の演奏や地元野菜の直売も。

  〈よっちゃん祭〉2日目の23日は、午前10時から午後4時まで。

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〈催事〉0501: 「リフレッシュパーク豊浦」で〝海を渡る蝶〟学習

2017-04-16 05:30:35 | 行楽催事

 

写真①:菜の花が満開の花公園・「リフレッシュパーク豊浦」

     =山口県下関市豊浦町川棚で、2017年4月2日午後1時50分撮影

4月2日、下関市豊浦町観光ツアーに参加して
菜の花が満開の花公園「リフレッシュパーク豊浦」で〝海を渡る蝶〟学ぶ

  私が所属する福津市の町興しボランティア団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」主催の観光バスツアーで4月2日、山口県下関市豊浦町の港町・室津と、「川嶋神社」を訪問。「川棚温泉」で昼食、温泉を楽しんだあと、見学地の最後に同町川棚の花公園・「リフレッシュパーク豊浦」=写真①=を訪れました。

  「リフレッシュパーク豊浦」は、四季折々の花を楽しめる花公園です。入園料は、大人2百円。園内のバタフライガーデンでは、ヨモギやクローバー、アザミなど蝶の幼虫の食草や、蝶の成虫の蜜源になる花などを植栽しています。日本列島を春秋に縦断して旅する〝海を渡る蝶〟・アサギマダラ(タテハチョウ科)が5月には園内の枯れたスナビキソウ(砂引草。ムラサキ科)で休息して北上、10月には〝秋の七草〟のフジバカマ(キク科)の植栽園に石川県白山市や富士山麓から飛来し南下します。園内で産卵した蝶を幼虫から育て、羽化した後に自然に放すまでの宿屋「蝶小屋」=写真②=では、アサギマダラの幼虫や蛹が育っています。

 

写真②:園内で産卵した蝶を幼虫から育て、羽化した後に自然に放すまでの宿屋「蝶小屋」

  「リフレッシュパーク豊浦」には、バスで午後1時30分着。豊嶋耕治所長と同園に渡来するアサギマダラのマーキングを続けている福村拓己・「長州アサギマダラの会」代表(山陽小野田市)の案内で、「蝶小屋」前へ。アサギマダラの食草で産卵の場所にも使われるつる性の植物・キジョラン(鬼女蘭。ガガイモ科)の鉢植えが「蝶小屋」の外に置いてあります=写真③=。キジョランは晩秋、葉が縦に裂け、白く長い冠毛を持った種子が風に乗って飛ぶ姿を鬼女が髪を振り乱した様子に見立てたのが鬼女蘭の名の由来という。

  

写真③:「蝶小屋」前のキジョランの鉢植え

  「キジョラン」の葉の裏に緑色のアサギマダラの幼虫=写真④=が止まっていました。福津市内でも2016年3月7日、「津屋崎千軒 海とまちなみの会」の女性会員がアサギマダラの春の渡来地・「津屋崎浜」から約8Km南東の同市本木の山中でキジョランの葉の裏にいる越冬中の幼虫10数匹を発見していますが、この「蝶小屋」前の葉裏の幼虫はこれまで見た個体のうち最も大きく、蛹になる日が近そうでした。

  

写真④:「キジョラン」の葉の裏に止まったアサギマダラの幼虫

  「蝶小屋」前の「キジョラン」では、ぶら下がっているアサギマダラの蛹=写真⑤=も観ることができました。緑色の体で、「海とまちなみの会」では福津市本木のキジョランの葉ではまだ確認した例がなく、貴重な観察体験になりました。

 

写真⑤:「キジョラン」からぶら下がったアサギマダラの蛹

   秋の渡りで南下する途中の10月に飛来するアサギマダラが、花の蜜を吸うフジバカマの植栽園=写真⑥=は「蝶小屋」近くにあります。

 

写真⑥:フジバカマの植栽園で苗の育て方を説明する福村拓己・「長州アサギマダラの会」代表(左から2人目)と豊嶋耕治所長(右端)

  フジバカマの植栽園の近くには、春の渡りで北上する途中の5月に飛来するアサギマダラが花の蜜を吸う海浜植物・スナビキソウの育苗園=写真⑦=もありました。

 

写真⑦:春の渡りのアサギマダラが花の蜜を吸うスナビキソウの育苗園

  「豊浦地区まちづくり協議会」の2月13日の福津市・「津屋崎里歩きフットパス」(『絶景の道100選』認定)視察団の〈津屋崎千軒〉訪問のお礼を兼ね、初めて開催した「豊浦町観光バスツアー」は、港町・室津の町家に残る鏝絵巡りのフットパスや、同町宇賀の「川嶋神社」奉納の絵馬見学「川棚温泉」での昼食と温泉を楽しみ、花公園「リフレッシュパーク豊浦」での〝海を渡る蝶〟の学習まで、魅力満載でした。ツアーを受け入れ、おもてなしいただきました同まちづくり協議会、「室津地区活性化推進協議会」、「リフレッシュパーク豊浦」など関係各位の皆様に、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

  (4月4日から「室津の鏝絵」巡り、「川嶋神社の絵馬」探訪、「リフレッシュパーク豊浦」で〝海を渡る蝶〟学習の3回シリーズで掲載した「豊浦町観光バスツアー」のレポートをきょう16日で終わります)

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〈催事〉0500:「川嶋神社の絵馬」探訪⑤

2017-04-15 06:57:33 | 行楽催事

 

写真①:鰯網乗組員から大正9年に奉納された「児雷也」の絵馬

      =山口県下関市豊浦町宇賀字川島の「川嶋神社」拝殿で、2017年4月2日午前10時50分撮影

「川嶋神社の絵馬」探訪⑤

「児雷也」ほかの絵馬も見学

  下関市豊浦町宇賀字川島の「川嶋神社」拝殿に奉納されている絵馬には、ほかにも見るべきものがありました。豊浦町の鰯網乗組員が大正9年に奉納した「児雷也」を描いた絵馬=写真①=も、その一つです。

  「児雷也」とは、江戸時代の読本・草双紙・歌舞伎などに現れる怪盗で、蝦蟇(がま)の妖術を使って神出鬼没の活躍をします。中国宋代の説話にある襲った家に「我来也(われきたるなり)」と書き残す我来也(がらいや)という盗賊を翻案、江戸時代に読本の主人公「自来也(児雷也)」とされ、人気を博しました。

  「児雷也」といえば、漫画家赤塚不二夫のヒット作『天才バカボン』に登場する「レレレのおじさん」の漫画に影響を与えたギャグ漫画家・杉浦茂(1908―2000年)が、月刊誌『少年」に昭和31年に連載した『少年自雷也』があります。『猿飛佐助』、『ドロンちび丸』などの作品とともに人気を呼び、私も小学生時代は杉浦マンガのファンで、丸顔の主人公が広げた手のうち中指と薬指を曲げるポーズ(アメリカ手話の「I Love You」の形)や、シュールでナンセンスな味わいのマンガを夢中で読んでいました。

  「川嶋神社」拝殿には、「児雷也」の絵馬のほかにも、豊臣秀吉家臣で「賤ケ岳七本槍」の武将・片桐且元を描いた絵馬、三十六歌仙絵馬などの絵馬も奉納されています。見ごたえのある絵馬が多く、見学の時間がもっとあればと思ったほどでした。奉納されている絵馬のガイドをしていただいた野村幹夫・「宇賀地区自治会連合会」会長をはじめ、歓迎していただいた「豊浦地区まちづくり協議会」、「川嶋神社」の皆様に、心からお礼を申し上げます。

                                 (終わり)

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〈催事〉0499:「川嶋神社の絵馬」探訪④

2017-04-14 04:41:01 | 行楽催事

 

写真①:筑前地之嶋の漁民から奉納された「大敷絵馬」

     =山口県下関市豊浦町宇賀字川島の「川嶋神社」拝殿で、2017年4月2日午前10時50分撮影

 「川嶋神社の絵馬」探訪④

筑前地之嶋の漁民から奉納された「大敷絵馬」を見学

  豊浦町ツアーに参加した私たちは4月2日、「筑前地之嶋」(福岡県宗像市地島)の漁師が、山口県下関市豊浦町宇賀字川島の「川嶋神社」に豊浦町が発祥の地とされる「大敷網」(定置網の一種)漁法で大漁を得たお礼として、大正時代に奉納した絵馬=写真①=を見学しました。

  絵馬の額には「筑前地之嶋大敷 沼井磯市」、「大正六丁巳年七月吉祥日 大漁叶」と書かれています。描かれた絵に題名はなく、左手に馬上で槍を突き出した豊臣秀吉家臣で「賤ケ岳七本槍」の加藤清正、福島市松(正則)の両戦国武将、その右手に新納(にいろ)武蔵、伊集院忠棟の島津氏の武将が馬上で迎え討っている構図です。上部には総大将の秀吉と金色の千成り瓢箪の背後に鎧武者の群れと林立する幟旗が描かれています。新納武蔵(武蔵守忠元)は、戦国時代の薩摩国島津家に仕えた「島津四勇将」の一人で武勇は鬼神のごとしと評された通称「鬼武蔵」で、伊集院忠棟は島津義久に仕えた筆頭家老。秀吉の九州平定での島津攻めの場面と思われます。

  戦の年月、場所は絵馬に書かれていません。多々見茂平・元宇賀村長編『宇賀郷土読本』では、〈天正十五年の薩摩との戦いであろう。また、秀吉が出馬していることから九州平定の最後の総仕上げと思われる〉としています。秀吉は天正15年(1587年)、薩摩国出水(鹿児島県出水市)に侵攻していますが、絵馬に描かれた戦場は出水でしょうか。

  確かに言えるのは、この絵馬は左端に描かれた加藤清正の新納忠元との戦いの逸話とされるシーンをテーマにしているようです。出水に侵攻した秀吉軍の猛将・清正は、島津家随一の武勇の「鬼武蔵」・忠元と一騎打ちとなった際、騎上から武器の棍棒を落として馬もろとも倒れた忠元を見て、勇猛で知将として聞こえた忠元をこのまま討つのはしのびないとして、「馬を乗り換え、再び戦おうぞ」と引き返したという。

  忠元は、和歌や連歌を嗜む文化人で礼節を弁えた魅力的な武将です。島津藩の士風教育のため、武道を嗜み、礼儀作法を乱さず、虚言を言わず、仲間同士は合点が行くまで話し合うなどの「二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)」を著したことでも知られています。後に同藩の伝統となった「嘘を言うな」、「負けるな」、「弱いものいじめをするな」などと先輩が後輩に教え、学ぶ青少年教育システム・「郷中教育」の元となったと評価されています。

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〈催事〉0498:「川嶋神社の絵馬」探訪③

2017-04-13 04:54:33 | 行楽催事

 

写真①:長崎県・五島の漁民から奉納された武田信玄(左)と上杉謙信の一騎討ちの「川中島の戦い」の絵馬

     =山口県下関市豊浦町宇賀字川島の「川嶋神社」拝殿で、2017年4月2日午前10時50分撮影

 「川嶋神社の絵馬」探訪③

「大敷網」の発明と伝搬

  山口県豊浦町湯玉浦が発祥地とされる「大敷網」(定置網の一種)は、だれが考案したのでしょうか。多々見茂平・元宇賀村長編『宇賀郷土読本』によると、「湯玉式大敷網」は、湯玉の漁師山本(新屋)惣左衛門が江戸時代初期の明歴2年(1656年)、回遊している魚の群れを見て一挙に捕まえたいと、建網(刺し網)を工夫して魚群の誘導路を持つ魚敷網を発明したのが由来とされています。敷網の考案は、当時としては画期的なもので、現在の大型定置網の元祖という。

  明歴2年から2年後の萬治元年(1658年)、惣左衛門の子、勘兵衛が小舟で航行中、暴風雨に遭い、長崎県・五島の玉之浦(現五島市玉之浦町)に漂着。角平という男に救出され、帰郷後の萬治3年(1660年)に角平を頼って五島を再訪、玉之浦の黒瀬に敷網を設け、「湯玉式大敷網」が九州に伝わるきっかけとなりました。角平は長崎県・平戸に移って三か所に敷網漁場を開き、「五島式」と呼ばれるシビ(マグロ)大型定置網の発達が勘兵衛の敷網が元で起こったのです。「川嶋神社」拝殿には、五島の漁民が大正元年に奉納した「川中島の戦い」の絵馬=写真①=や、平戸生月(長崎県平戸生月町)の漁民が奉納の大敷網漁の絵馬=写真②=が掲げられており、大正時代から大敷網を通じての豊浦町との漁民交流がうかがえます。

 

写真②:長崎県・平戸生月の漁民から奉納された大敷網漁の絵馬

  勘兵衛は寛文6年(1666年)、惣左衛門の他界に伴い湯玉に帰郷、敷網の浮子を桐材から竹材に改良したりして大敷網を完成し、地曳網の開発にも成功。勘兵衛の子、安兵衛も漁法の改善に努め、藩主毛利公のお召しを受けましたが、病に倒れます。このため弟の新内屋喜右衛門と大敷網世話人中庭屋潮五郎が幕府の命で江戸に赴き、元禄17年(1704年)に相州(神奈川県)浦賀に大敷網を敷設して、漁法を東国に伝えました。

  惣左衛門とその後に続く漁師仲間たちは、長崎県の五島や対馬=写真③=、島根県、鹿児島県・屋久島まで行って大敷網を敷設して漁法を普及させたという。大敷網は魚の通り道に網を張る定置網で、魚が入りやすいが、逃げやすい面もあるのが難点で、しだいに大謀網が使用されるようになっていきます。

 

写真③:長崎県・対馬の漁民から「川嶋神社」へ明治39年に奉納された大敷網漁の絵馬

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〈催事〉0497:「川嶋神社の絵馬」探訪②

2017-04-12 03:41:01 | 行楽催事

 

写真①:筑前勝浦濱の漁民から「大敷網」漁による豊漁お礼で奉納された「小楠公の絵馬」

     =山口県下関市豊浦町宇賀字川島の「川嶋神社」拝殿で、2017年4月2日午前10時50分撮影

 「川嶋神社の絵馬」探訪②

筑前勝浦濱の漁民から奉納された「大敷絵馬」を見学

   山口県下関市豊浦町宇賀字川島の「川嶋神社」拝殿で、奉納されている多くの絵馬についてガイドしていただいたのは、野村幹夫・「宇賀地区自治会連合会」会長です。宇賀地区は、昭和30年に旧豊浦郡豊西村、黒井村、川棚村、宇賀村が合併して発足した豊浦町の北部にある漁村。豊浦町は平成17年、下関市に合併しています。

  私たちが最も見学したかった旧宗像郡勝浦村(昭和30年に南に接した同郡津屋崎町に合併)にある筑前勝浦濱(現福津市勝浦)の漁民が、約60Km離れた「川嶋神社」へ大正時代に奉納した絵馬=写真①=は、拝殿の間の左手に掲げられていました。

  この絵馬は、額に「筑前勝浦濱大敷 主任藤井嘉一組」と書かれ、「大正拾年酉七月吉日」に奉納。豊浦町湯玉浦が発祥地とされる「大敷網」(定置網の一種)漁により大漁がかなったお礼に、大正10年7月に寄進したと見られます。描かれた絵は「小楠公」と題されており、後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献した後、建武3年(1336年)の湊川(兵庫県神戸市)の戦いで足利尊氏の軍に敗れて自害した武将楠木正成(大楠公)の嫡男正行(まさつら=小楠公)が、正成の首級が届いてショックを受け、仏間で右手に短刀を持って死のうとしているのを母が諫めている場面です。正行は母の真情に感激して自死を思いとどまり、その後、幾度も勤皇のために戦って散華しましたが、朝廷への忠誠心と母への孝行心を全うしたことが知られています。

  「大敷網」漁法が、どのようにして「筑前勝浦濱」に伝えられたのでしょうか。旧津屋崎町が平成10年に発行した同町史民俗調報告書査・『津屋崎の民俗(第四集)』によると、定置網の中で最大の「落し網」(「大敷網」ともいう)=写真②=を張る津屋崎の網漁では、ブリ、イワシ、トビウオ、アジ、サバ、サワラ、マイワシを捕獲。二隻で操業し、一隻に七、八人乗って朝方1回操業、都合によっては夕方も行っていました。〈大正末期から昭和の初期、山口県安岡(注:響灘に面した旧豊浦郡安岡町安岡浦=現下関市安岡=のことか。安岡漁港がある漁村)の船が津屋崎の海で縄大敷網を操業していた〉という。

 

写真②:落し網(大敷網)の図=『津屋崎の民俗』(第四集)「北の二」105頁掲載=

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〈催事〉0496:「川嶋神社の絵馬」探訪①

2017-04-11 03:28:38 | 行楽催事

 

写真①:海上守護の神として地元漁民の崇敬が篤い「川嶋神社」
      =山口県下関市豊浦町宇賀字川島で、2017年4月2日午前10時50分撮影

 4月2日、下関市豊浦町観光ツアーに参加して
「川嶋神社の絵馬」探訪①

  私が所属する福津市の町興しボランティア団体・「津屋崎千軒 海とまちなみの会」主催の観光バスツアーで4月2日、山口県下関市豊浦町の響灘に面した港町・室津を訪問。「豊浦地区まちづくり協議会」の方たちのガイドで「室津の鏝絵」巡りフットパスを楽しんだあと、同町宇賀字川島の「川嶋神社」=写真①=で奉納されている多くの絵馬を見学しました。豊浦町湯玉浦が発祥地とされる「大敷網」(定置網の一種)漁が約60Km離れた福津市津屋崎にも導入され、大正時代に筑前勝浦濱(現福津市勝浦)の漁民が、「川嶋神社」に豊漁お礼の絵馬を奉納したことも確認できました。きょう11日から「川嶋神社の絵馬」探訪の模様をリポートします。

 「川嶋神社」参拝

  午前10時50分、バスで「川嶋神社」に到着。神社の祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、菊理媛命(くくりひめのみこと)、神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)、応神天皇の5柱。創建年代は不詳ですが、『川嶋神社由来古老伝』によると昔、神霊が舟で川嶋の浜に着かれ、ここに宮殿の礎を敷くよう神のお告げがあり御鎮座になったという。

  「川嶋神社」は、海上守護の神として、地元漁民の崇敬が篤く、拝殿には江戸時代末期の文久4年(1864年)正月に筑前博多鰯町の萬問屋大島屋七兵衛が奉納した鶴と松を描いた絵馬が掲げられています=写真②=。また、同神社の参道の石畳は対州石が敷き詰めてあることから、九州・対州(対馬)との交易が海路で行われていたことがうかがえます。

  

写真②: 文久4年正月に筑前博多鰯町の萬問屋大島屋七兵衛が奉納した絵馬

     =「川嶋神社」拝殿で、4月2日午前10時50分撮影

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〈催事〉0495:「室津の鏝絵」巡りリポート⑦

2017-04-10 03:12:36 | 行楽催事

 

写真①:「室津漁港」(右)と室津のシンボル・「甲山」(向こう)
      =山口県下関市豊浦町室津下で、2017年4月2日午前10時25分撮影

「室津の鏝絵」巡りリポート⑦

室津のシンボル・「甲山」

 海風を遮る「甲山(こうやま)」=写真①=のおかげで、「室津漁港」は、一年中凪です――と、樽本勝一・「室津地区活性化推進協議会」会長は、「室津の鏝絵」巡りガイドの途中の海岸で、「室津漁港」の西側にある「甲山(標高約117㍍)」を見ながら話されました。福津市・〈津屋崎千軒〉の繁栄を支えた交易港・「津屋崎漁港」も入海を隔てた西側対岸の大峰山(標高114㍍)により、玄界灘からの強い西風から守られ、天然の良港となっています。「津屋崎塩田」と同じように、室津の海辺にもかつては塩田があったといい、津屋崎と室津には共通点が多いようです。

  明治時代からの町家の白壁や蔵に鏝絵が残っているのも、似ています。「室津」の中村千秋さん宅から「室津公民館」横に移設された龍の鏝絵といい、〈津屋崎千軒〉の町家で一番目を引く明治20年(1887年)に建てられた「豊村酒造」主屋(居蔵造り2階建て)正面に吊るされた杉玉の両脇の漆喰壁に残る龍の鏝絵=写真②=も、かつて室津、〈津屋崎千軒〉双方の町家とも大火で壊滅的な被害を受けたゆえに、水を司る神様で雨を呼ぶという龍に「火伏せ」や火事除けの祈願を託して描かれたものでしょう。

  

写真②:「豊村酒造」主屋正面に吊るされた杉玉の両脇の漆喰壁に残る龍の鏝絵

      =福津市津屋崎4丁目で、2008年12月14日撮影

  鏝絵は、静岡県生まれの左官職人・伊豆の長八(ちょうはち。本名入江長八)が、幕末に江戸に上って学んだ狩野派の日本画を生かして考案し、芸術品にまで高め、各地に広まったといわれています。鏝絵の残る町並みといえば、大分県内に全国で最も多い約1,000点の鏝絵が残り、うち同県宇佐市安心院(あじむ)町が市指定史跡・「重松家別邸」(重松公子さん宅)母屋3階戸袋に描かれた「龍」の鏝絵=写真③=をはじめ、明治初期ごろから最近までの鏝絵約100点があるので有名。ほかに、石州左官の作品が多く残る島根県や、長八の古里・静岡県、高知県、富山県、長野県などに多くあることが知られています。安心院の鏝絵は、大分県内の左官職人が長八に鏝絵を学んで帰り、県内の左官職人に伝えたからとされています。

 

写真③:宇佐市指定史跡・「重松家別邸」母屋3階戸袋に鮮やかに描かれた「龍」の鏝絵

     =大分県宇佐市安心院町折敷田で、2012年5月11日撮影

  「安心院」と〈津屋崎千軒〉の町並みは交易の繋がりは薄く、出稼ぎで全国へ散らばっていった多くの石州左官の仲間が〈津屋崎千軒〉の町家の鏝絵制作にかかわったのかもしれません。特に豊浦町が発祥地とされる「大敷網」(定置網の一種)漁が約60Km離れた福津市津屋崎=写真④=にも導入され、大正時代に筑前勝浦濱(現福津市勝浦)の漁民が、豊浦町湯玉の「川嶋神社」に豊漁お礼の絵馬を奉納したことが、2日の「豊浦町観光ツアー」でも確認されたこともあり、漁民同士の交流情報から石州左官が〈津屋崎千軒〉で鏝絵を制作した可能性はあながち否定できないのではないでしょうか。

  

写真④:福津市津屋崎―下関市豊浦町約60Kmの位置図

  「豊浦地区まちづくり協議会」は2016年6月26日、室津の鏝絵と町並みを散策し、室津のシンボル・甲山に登るコースの「豊浦フットパスin室津」を開催(共催・「室津地区活性化推進協議会」)。「豊浦地区まちづくり協議会」の33人は、2017年はさらに充実したフットパスを開催したいと、2月13日に福津市の『絶景の道100選』認定・「津屋崎里歩きフットパス」と〈津屋崎千軒〉の「鏝絵と卯建の残る町並み」を視察されました。津屋崎に訪問いただいたお返しを兼ねて豊浦を訪ねた2日のツアーでは、同まちづくり協議会、同活性化推進協議会の皆様から手厚いおもてなしをいただき、ありがとうございました。お陰様でツアーを楽しみ、多くのことを学びことができ、心からお礼を申し上げます。

                                  (終わり)

 

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